第6章 2

メッテルニヒを首尾よく脱出してから数日、二人の関係は――少なくとも表面では――普段とかわらず、だから小さな農家を見つけた時に、井戸の水でも分けてもらおうとグリーシャが提案し、ミミが賛成した段階では、特段の異変を見つけることはできなかった。


応対したのはハンナ・クライフという村娘で、年のころはグリーシャたちと殆ど変わらないようだった。気の良く、また若い人間との交流に飢えていた彼女は、二人が野宿続きなのを知り、自分の家で一泊していかないかと申し出てくれた。渡りに船の提案にグリーシャ達は当然快諾し、その夜は久々に屋根のついた場所で寝られる保障を得た。


気の早い諸氏は、ここで「彼女が悪党の類であり、身包み剥がされて捨て置かれた」と慧眼ぶって予測するかもしれない。だがもちろん、そのように捻りもなく安易な不幸が降りかかる訳もなかった。神様の意地がどれだけ悪いかについては、今更説明するまでもなく巷間に膾炙している訳だが、今回もその嫌味な性格が遺憾なく発揮されたという事である。


彼女はこの集落で生まれた生粋のベルン人で、すこぶる気安い態度で接してきた。同じ農民の出で、書籍演芸の類など、興味の幅が見事に一致していたという事もあり、グリーシャはすぐに彼女を殊域同嗜と心得た。「グリーシャ君って面白いね!」「いやいや、ハンナこそ楽しい奴じゃないか」といった具合である。


奇妙に思えるかもしれないが、この時こそが、禍の芽の萌え出でた瞬間であった。あるいは、それに気づけないグリーシャの環境変化に対する鈍感さこそ、彼が糾える縄に巻き込まれる所以かも知れない。決定的な事態が表出した時でさえ、彼はまだ楽観的に過ぎた。


しかし、この不明は責められるべきだろうか? それとも寧ろ、彼が背負わされている避けがたい不運に比べれば些事に過ぎぬと哀れむべきだろうか? その判断をするにあたっての一助として、下記にいくつか例を供しよう。


* 


適当な場所に腰を落ち着け、三人が親睦を深めている時の出来事。先述のとおり、ハンナはとても人懐こく、口数も多い。名前からわかる通りトラキア系らしいが、大多数のベルン人と同様、ルーシ語も問題なく操る。金髪をなびかせ、人好きのする笑顔が眩しい。


そういうわけでグリーシャは自然、彼女と話す時間が長くなるのだが、一方ミミは妙にそっけない。別段ハンナが無視している訳ではなく、むしろ頻繁に話が振られるのであるが、彼女は二言三言、淡白に回答するだけなのである。


畢竟、話題は長く続かず、またハンナとグリーシャの二人でやりとりをする。そうすると、ミミはあからさまな不満顔になる。グリーシャにはその理由がさっぱりわからないが、暫く観察しているうちに推測したところでは、どうやら彼女そっちのけで会話が盛り上がる事に不満を覚えているらしい。


これは奇妙なことである。不参加を決め込んだのは彼女自身なのだ。その上、グリーシャが恐る恐る話題を振っても、やはり無愛想で適当な返事しか戻ってこない。


ひと段落着いたときに、グリーシャはハンナに聞こえないよう、ミミに態度の底意を聞いた。すると彼女は、敵意と言わないまでも悪意は含んだ笑顔で言うのだ。


「別に。ただ、わっかりやすぅく緩んだ誰かさんの顔が、とっても、とぉぉぉっても、面白いなぁと思っただけよ」


* 


また、井戸の水を汲みに行く事となった時。ハンナが皮袋を抱え、せっかく男手があるのだからとグリーシャも親切心から同行することとした。


往路でハンナとの無駄話が盛り上がり、帰路が若干早足になった。そのおかげで、というべきか、ハンナの肩に自分の肩が何度もぶつかり、グリーシャはなんとも気恥ずかしい思いをした。


無事満杯の皮袋を持ち帰り、水筒に水を分けながらグリーシャがその事を謝罪すると、ハンナは笑って「いやぁ、意外に逞しい体してるんだね! ドキドキしちゃったよ!」と言い放った。おかげで今度はグリーシャのほうが動悸を激しくさせる羽目となった。


もちろん周囲に気を配る余裕などなく、丁度その時ミミが近くにいた事は殆ど気付いていなかった。また、仮に気付いたとしても別段驚いたりはしなかったろう。


特記事項と言えばそれだけで、基本的にどうという事もない一場面である。従って、それから暫くの間、ミミが彼にずっと射るような視線を向けていた理由を考えても、まったく思い当たる節が無かった。グリーシャは首を傾げ、それとなくミミに話を向けたのだが、彼女は犬歯をむき出しにした笑顔で言うのだ。


「別どうもしないわよ。強いて言うなら、誰かさんが助平心丸出しでお手伝いに行ったのが、もう大変滑稽で笑えたけれど。ええ、ええ、それはそれは大爆笑だったわ、本当に!」


* 


極めつけは、食事の準備をしている時である。世話になる身としては、ハンナが労を取っているのに、ただ眺めている訳にもいかない。グリーシャはハンナの近くに行き、彼女の指示に従って種々の手伝いをする事となった。


大きなタライを持ち運んだり、肉を捌くのを手伝ったりといった単純作業は軍人であるから慣れっこだったのだが、それが油断に繋がったのかもしれない。足元に鍋が転がっているのに気付かず、蹴躓いてしまった。


あわてて体勢を立て直そうとするも時既に遅く、近くにいたハンナを巻き込む形で倒れこんだ。強かに頭を打ちつけて目に火花が散ったので、一瞬後にのし掛かってきた物体が何であるか、判断するのに暫く時間がかかった。


奇妙に柔らかいそれがハンナの体で、自分が彼女と体の大部分を密着させているのだと気付いたときは、流石に焦った。ハンナが「やーグリーシャ君が下敷きになってくれたおかげで助かったよー。大丈夫? どっか怪我してない?」と彼を気遣っても、しばし忘我の境地から抜け出せず、やっと我に返った時には、曰く言い難い態度のミミが既にグリーシャの目前まで歩み寄って来ていたので、それを避けることも出来なかった。


彼女の顔からはついに笑顔がなくなり、はっきりと不機嫌さが現れていた。グリーシャは不穏な物を感じ、咄嗟にいい訳が口を付いて出たのであるが、これも不味かった。曰く、先ほどのは不幸な事故であり、自身にやましいところは一切無いので、女性の尊厳に対する著しい侵害行為を想像して憤っているのであれば、それはまったく的違いであるごめんなさい。


ミミは一通り黙って聞き、グリーシャの口が閉じるのを確認し、静かに問いかけてきた。


「……で、ご感想は?」

「いやあ、柔らかかっ」


た、と言い切る前に、すぱぁん、と、それはよく通る破裂音があたり一面に響き渡った。


「最悪」


麗らかな午後の日差しを遮る様に、極北の氷点下を纏った視線がグリーシャを覆う。じんじんと痛む左頬を押さえながら、彼は天を仰いだ。

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