第5章 5

 騎兵学校は軍人を育てる学校であったので、その課程の半分は体力づくりに費やされていた。銃剣術や野戦訓練、蛸壺掘りに筋力鍛錬。中でもグリーシャが嫌いだったのは長距離走で、滝のように汗をかき、体にべったりとシャツが張り付くのを忌々しく思ったものだ。部隊に配属されてからは実践的な訓練が多くなって、長距離走をすることはなくなり、グリーシャはそれを何よりも喜んだのだが。


「糞っ! なんで今更こんなことを!」


 記憶の扉が開きかけ、息も切れ切れに悪態をつく。


練兵場は田舎道へと成り代わったが、やっている事は変わりなかった。いや、むしろ今度のほうが状況は悪い。いつまでたってもゴールが見えない上に、立ち止まったときのペナルティは教官のシゴキでなく刑務所の臭い飯だ――待てよ、これはやっぱり臭い飯のほうがマシだろうか?


「あ、あそこに、隠れま、しょう!」


 グリーシャと同じく息を切らしたミミが、小さな馬小屋を指差した。グリーシャは大して考えもせずにその中へと飛び込む。栗毛の馬が一頭、胡散臭げに闖入者たちを見つめてきた。


「ごめんなさい。貴方のお部屋、ちょっとだけ貸して頂戴?」


 ミミの言葉に、馬は「お好きにどうぞ」とばかり、長い尻尾を一振りする。グリーシャはぺたりと座り込んで、乱れた息を整えるのに精一杯であった。


「……ま、撒いたか?」


 なんとか首だけ動かし、窓から外をのぞく。警官たちの姿は見えない。


「……わからないわ。暫くここに隠れていましょう」


 グリーシャは大賛成である。吹き出る汗を袖でぬぐい、擬態のために藁をざっとかぶった。やや獣臭いが、ふかふかとした感触が心地よい。隣を見ると、ミミも頭に藁くずの塊を乗せている。


「こりゃあいいベッドだ。隊舎のよりずっと上等だな」

「あら、奇遇ね、私もおんなじこと考えてた」

「ただ見た目は悪いな。ミミの頭、まるで箒だ」

「……本当の紳士っていうのはね、気づいてもそういう事を言わないの」

「残念、俺はしがない農家の長男さ。紳士なら他をあたれ」

「身分は関係ないわ。心意義よ」


 口を尖らせるミミ。グリーシャは小さく笑う。おかしみのある、暖かい空気。これまで数日、ふとした瞬間に漂っていたこの感覚を、グリーシャは久々に味わった気がした。


「そういえば」


 グリーシャがふと、口を開く。ミミは髪の毛に絡まった藁をせっせと払い落としていたが、その手を止めてこちらを向く。


「俺達、喧嘩してるんだよな」


 ミミは一瞬だけ動きを止め、グリーシャの言葉を吟味するように目を細める。それから三秒と少しあとに彼女が浮かべた表情を、グリーシャはどこかで見たことがある気がしたが、後にそれを思い出した時は笑いが止まらなかった。


つまり、人と会う予定をすっかり忘れていたトーシャが、グリーシャと談話室でぼうっとすごしていた時にひょんな切欠でそれを思い出し、時計を見たらとっくに待ち合わせ時間を過ぎていて「やっちまった……」と呟いた瞬間にそっくりだったのだ。


「そ、そうよ! 私達は喧嘩してるの! だから話しかけないで頂戴!」


バネ仕掛けで動く人形みたいにグリーシャから顔を背けるミミ。その様子といったら、本人は真面目なのだろうが、傍から見るとこれほど愉快な見世物は無い。


「なんだ、忘れてたのか」

「そんなわけ無いじゃない! 今だって凄く怒ってるんだから!」


分かりやすい焦り方にグリーシャは笑みを浮かべ、ふと、ミミの口調が以前より心なしか幼くなっていることに気づく。態度が人間関係の尺度となるのなら、二人の距離は、今が一番近いのかもしれない。


「あっ、貴方も貴方よ! まるで普段どおりだから、思わずこっちも普通に答えちゃったじゃない!」

「お前が一方的に吹っかけた喧嘩だろ」

「それは……だって」


 彼女は口ごもる。そもそも、彼女は何故グリーシャに対して怒りを表したのか。切欠は未だにわからない。だがいずれにせよ、もはや腹も立たなかった。今はただ、彼女のよく変化する表情を眺めていたい。


「ちょっと。何笑ってるのよ」

「いーや、別に?」

「……もう」


それきり二人とも口を閉じる。喧嘩をしている最中のきまり悪さは、今やない。汗と共にわだかまりも流れていった、などと薄っぺらい四行詩のような事を言うつもりは無いが、あの徒競走もあながち無駄ではなかったようである。


「……おなかが減ったわ」


 ミミがぼそりとつぶやき、グリーシャは今度こそ声を上げて笑った。


「し、仕方ないでしょう!? こんなおいしそうなパンを目の前にしてるんですもの!」


 そういう彼女の手には、しっかりとパン入りの籠が握られていた。宣言どおり、手放さなかったようだ。


「ミミはつくづく食い意地が張ってるな。最初の夜もそうだった。乾パンを物欲しそうに眺めてた時の表情、傑作だったよ」

「うるさい。あんな酷い味のもの、食べるんじゃなかったわ」

「物ほしそうに見てたのは否定しないんだな」

「うるさい!」


 他愛のない会話が心地よい。どうやらグリーシャは、自分が思っている以上にミミといることを楽しんでいたようだ。もちろん、それを口に出したりはしないけど。


「……そういえば、あの時も小屋の中だったな」


 あの奇妙な出会いから数えて、五日と少し。既に数年前の出来事であるように思える。


「ええ、そうね。密室に二人きり、素っ裸で迫ってくる貴方の姿、傑作だったわ」

「あ、あれは不可抗力だ!」

「さあ、どうかしら」

「そんな事言うなら、お前だって――」


それから少しの間、甘噛するように冗談の応酬を続ける。会話が途切れた後も、彼女が喧嘩の話を持ち出す様子は無い。グリーシャもあえて蒸し返す理由がない。それなら、ここで打ち切りだろう。始まりが唐突なら、終わりもこんなものだ。


今、グリーシャはごく自然に二人一緒の旅路を想像できる。だから、この仲直りも素直にうれしい。


 隣を見る。ミミは目を薄く閉じ、藁のベッドに身を任せていた。黄昏時の朱色が窓から光線となって入り込み、その輪郭を宗教画のように照らし出している。彼女が何を考えているか、自分にはわからない。この旅を二人で行くことに、少しでも楽しみを感じてくれたのなら。グリーシャはそう願わずにいられなかった。


「……静かね」

「ああ」

「不思議だわ。竜の背中から落っこちて、野蛮人に助けられて、なし崩しに貧乏旅行みたいな事になって、挙句に警察官とおいかけっこして。そういうのが、全部嘘みたい」

「いっそ一晩ここで過すか?」

「ふふ。楽しそうだけど、明日の朝が心配。きっと酷いにおいがするもの」

「違いない」 


意味を持たない、ただ相手の存在を確かめるためにする会話。願わくは、こんな会話を、これから先も。旅の終わりは近づいていくというのに、こんな幻想を抱いてしまう自分は、我侭なのだろうか?


「ねぇ」


思考の隙間に、ミミの柔らかい声が入り込む。


「一つ、聞きたい事があるの」


彼女は目を閉じたまま、ゆっくり、ゆっくり、かみ締めるように告げる。その口元には微笑みが浮かんでいるよう見えたけれど、光の加減のせいかもしれない。


「――どうして、私を助けたの?」


 うっすらと残る、あの夜の記憶。まどろみの中で聞いた、彼女の問いかけ。グリーシャは我知らずにうなだれ、ふう、とため息をついた。別に、答えるのが嫌なわけではない。多分そうすることが、誠実な答えを用意するためには必要だったのだろう。


「そうしたいと、思ったから」


一言だけの、単純な返事。同じ質問に、代わり映えしない答えを返す。グリーシャの気持ちを素直に伝えるためには、これが一番正しいのだと思う。


「そう」


ミミは目を閉じたまま、静かに息をしている。すうすうと規則正しいリズムが、小屋の中を満たしていく。


もう、話は終わったのだろうか。グリーシャは静寂を壊したくなくて、ただ彼女の吐息に耳を傾ける。


「貴方は――」

「ん?」

「――貴方は野蛮人だけど」


ミミの発した言葉は、大気に溶け込むよう、優しく滑らかで。だからグリーシャもは、彼女が歌っているように思えた。


「きっと、一緒にいてもいい野蛮人なのね」


その笑顔と、彼女の言葉が、グリーシャの心の芯に響く。陽は既に落ち、空は濃い蒼へと染まっていく。ここが、夕と夜との境目だ。


「なぁ、ミミ」


その後に何を続けようとしたのか。自分でも良くわからないままに口を開く。ミミがぴくりと肩を震わせる。


――もしあと数秒、諸々のタイミングがずれていたら、以降の展開は極めて興味深いものになっていただろう。幸いにも、そうはならなかったが。


「……ちょっと、グリーシャ。あれ」

「俺さ……て、え?」

「警官よ。こっちに来る」


あわてて外を覗くと、先ほどの警官二人が馬に跨り道を闊歩していた。付近の家屋を騎上から覗き込みつつ、着実にこちらへと近づいてきている。


「定時の警邏、じゃないわよね」

「……不味いな。どうにかしてここを出ないと」

「どうにかして? 出口から飛び出せばすぐ御用だわ……あっ!」


ミミが悲鳴を上げ、頭を下げる。どうした、と聞くまでもなく、焦った様子のミミを見れば事情は直感的に理解出来た。


「今、警官と目が合った!」


ミミの悲痛な叫びとほぼ同時、慌しく馬から下りる音がした。ブーツがザクザクと砂を蹴り上げ、どんどんこちらに近づいてくる。


猶予は十数秒。このまま隠れきれるわけが無い。であれば、残された選択肢は強行突破のみだ。是非も無し、やるしかないぞ、と自分を奮い立たせる。傍らではミミも唇をかみ締め、覚悟を決めた様子だ。


無言で頷きあう。さあいくぞ、三、二、一。扉に飛び掛る直前、馬がブヒヒン、と間抜けに嘶く。おかげでがくんと気勢を削がれた。


「もう!」


 ミミが悪態をつく。グリーシャは気を取り直して立ち上がり……扉ではなく、馬の背中へと躍り上がった。


「ちょ、ちょっとグリーシャ!? 遊んでいる場合じゃないのよ!」

「違うよ、こいつで逃げるんだ!」

「はぁ!?」 


生身で外に出たところで、馬が相手では直ぐに追いつかれる。ならばこちらも馬で対抗だ。とっさの閃きは、危機にあって脊髄反射的に実行されていた。


「急げ、時間が無い!」


 ミミは一瞬だけ逡巡したが、勢いに飲まれるかたちでグリーシャの後ろにまたがる。腰に回された腕が温かく、状況に場違いの奇妙な幸福感に包まれた。畜生め、なんでこんなに良い香りがするのだろう。


「他人の馬に私が座るなんてめったに無いのよ! ありがたく思いなさい!」


ミミの喚き声で現実に引き戻される。おちおち青春に浸ることも出来ないようだ。


さて、馬はどう見ても競走に適した品種でないが、やってくれるだろうか。若干不安に思いつつ、おそるおそるブーツの踵でガチャリとわき腹を突く。その途端、「合点承知」とばかりに嘶き一声、馬は後ろ立ちになり扉を蹴破った。丁度小屋に突入しようとしていた警官が、突然の出来事に目を白黒させる。彼らを尻目に馬蹄の音を小気味よく響かせ、グリーシャ達は一路小道をひた走る。目指すは村の出口だ。


「やっほう! こいつは気持ち良いな!」


 夜風が顔を撫ぜ、実に爽快。月明かりで視界もよい。思わず声をあげるグリーシャだが、後ろにいるミミの場合、そうはいかないようだ。


「ちょっと、お尻が痛いわ!」


 一人用の鞍に無理やり二人が跨っているので、かなり窮屈である。申し訳ないが、ミミには我慢してもらうしかない。今は警官を振り切るのが先決だ。


「後ろを見てくれ! 奴らは来てるか!?」

「人使いの荒い野蛮人ね! 来てるわ! 六時方向、二騎、距離百、同高度、近づく!」


 わざわざ高度まで報告してしまうのは竜騎兵の性か。なんにせよ、馬の能力差はいかんともし難く、早くも距離を詰められている。このままでは分が悪い。


「更に接近! 距離七十、いや六十!」

「まてぇ!」


 ミミの報告と、警官の叫び声。


「ねえ、もっと速く走れないの!?」

「俺じゃなくて馬に言え! こちとら手綱を放さないようにするのが精一杯だ!」

「無責任なんだから……ほら、頑張って! もし追いつかれたらスープにしちゃうわよ!」


 本当に馬へ文句をつけるミミであった。茶色い毛並みの尻を叩いているらしく、ぺちんぺちんと音がする。鞭などないので、平手だろう。手荒い激励のおかげか、やや速度が上がる。依然として能力差はあるけれども、多少時間は稼げそうだ。


「よーし良い子ね! 後でごほうびをあげる!」


 そう言いつつも尻を叩くのを止めないミミ。馬の表情に恍惚としたものが混じっている気がしないでもない。非常に特殊な性癖の持ち主なのかも知らん。


「村の出口だ! 警官殿、こっから先はあんたらの管轄じゃあないぞ!」


 見覚えのある看板が飛び出てきたのを見て言うが、彼らは追跡の手を緩めず、もう手の届きそうな位置にいる。


「仕事熱心ですこと! 最悪!」


 善良な市民ならするべきでない悪態をつくミミ。日夜安全を維持するために苦労しているだろう彼らは、その台詞が聞こえたのかどうか、憤怒の形相で手を伸ばす。


「さあ追いついたぞこの馬泥棒め! 御用だ!」

「おとなしく喧嘩だけで済ませておけば良かったものを!」


彼らの読み上げる罪状に、不法入国や戦時国際法違反が含まれていないことを知ったグリーシャは、この期に及んで自分が勘違いをしていたと気づく。やはり仕事熱心な警官は悪だ。


「敵騎散開、四時方向一騎、八時方向一騎、零距離同航! 騎馬戦用意!」


 勇ましいばかりの指令が背中から飛ぶが、こちらが出来ることといったら唾を吐きつけるくらいだ。サーベル持ちの警官とは装備が違いすぎる。おまけに挟み撃ちで、回避も出来ない。


「お嬢さん、今ならまだ罪は軽いぞ! 止まりなさい!」

「お断りだわ! 貴方達こそ村に戻って、夫婦喧嘩を止めないといけないんじゃなくて!?」

「それならエフゲーニィがどっさり引っかき傷を拵えて手打になった! ありゃ暫く痕が残るな! ほら、止まれ! 止まらんと実力行使させてもらうぞ!」

「きゃあ! ちょっと止めてどこ触ってるのよ変態!」

「ええいこのおてんば娘が!」


 警官とミミが後ろで攻防を繰り広げている。手助けしたいところだが、こちらも前方を塞ごうとするもう一騎相手に進路をめぐって神経戦だ。二対一ではどうしようもなく、旗色が悪い。


「ようし捕まえたぞ!」


 後ろで叫び声が聞こえる。ちらと振り返ると、警官がミミの金髪の一端をしっかりと握り締めていた。万事休すか。グリーシャは絶望的な気分になる。しかしミミは警官をキッとにらみつけ、大きく息を吸い込むと、グリーシャが思わず顔を顰めるほどの大声で叫んだ。警官は驚いて手を離す。


「Das hentste! 髪は淑女の命よ、扱いに気をつけて頂戴!」

「くそっ、淑女はそんなふうに叫ぶもんじゃないぞ、はしたない!」

「お古い頭の持ち主ですこと! 当世の女は自立がとりえになるのよ!」

「それならエフゲーニィのカアちゃんも淑女って事になるな!」

「光栄だわ! 彼女と比べて貰える女性なんて、そうそういないだろうから!」

「違いねぇ!」


意外に息があっているらしい二人であった。状況が違えば、あの警官とはいい友人になれたかもしれない。


なんにせよ、ミミの「口撃」が奏功したらしく、警官二人は僅かに距離をとった。一息つけるが、直ぐにまた包囲が再開されるだろう。道幅は徐々に狭くなり、あたりの木々が密度を濃くしていく。国道を外れ、小道に誘導されてしまったようだ。


「ねぇ、どうするの!? このままじゃジリ貧よ!」


 ミミが言う。起死回生の一案は無いものか、と考えること数秒、グリーシャは木々の隙間にそれを見た。行けるか? と自問する。いや、行くしかない。警官達はあきらめるそぶりを見せないし、ミミはそろそろグリーシャの尻を叩きはじめかねない勢いだ。


「ミミ、よく聞け!」

「何!?」

「飛ぶぞ!」

「ああ、それは素晴らしい名案ね! ところで教えてほしいんだけど、この馬の何処から羽根が生えてくるのかしら!?」

「茶化すな、真面目な話さ!」

「貴方が変な話をするからよ! で、どうする訳!?」

「この小道に沿って崖が見えた、高さはざっと二メートルって所だ!」

「まさか……そこを飛び降りるって!?」

「そういう事!」

「出来るの!?」

「知らん!」

「知らん!?」


 ミミが素っ頓狂な声を上げるが、他に解決策は見出せない。グリーシャは手綱を引っ張り、馬を崖のほうへと向けた。木々が生い茂る中を駆け抜けるのはただでさえ神経を使う上、少しでも気を緩めれば予期せず崖にまっさかさまである。慎重に機会を見極めなければならない。


「ホントにやるの!? ねえちょっと、考え直しても良いんじゃないかしら!」


 ミミが後ろでばたばたと騒いでいる。


「この程度で怖気づいてるのか! 意外に度胸の無い奴だな!」

「……っ! 誰に向かって言っているのかしら! いいじゃない、やって頂戴!」

「その意気だ!」


ちなみに言いだしっぺのグリーシャは相当ビビッているのだが、勿論今更後には引けない。ええいままよと崖の淵に馬を持っていく。さっきは適当に高さ二メートルと言ったが、眼下に広がる裂け目はその倍以上ありそうだ。思わず速度を緩めそうになるけれども、そんな事をしたら即座に警官達が飛び掛ってくるだろう。


「いち、に、さんで飛ぶぞ! 口は閉じてろ、舌を噛む! わかったな!」

「わからいでか!」


 興奮しているのか、妙に早口のミミ。もちろん自分も似たようなものだ。分泌過多の脳内麻薬で頭のてっぺんがひりひりする。


「ところでミミ!」


 熱に浮かされるように口走る。目前に迫った崖の恐怖から逃れるため、とにかく何か喋っていたかった。


「なあに!?」

「今のうちに言っておきたいことがあるんだが!」

「ちょっと、そういうの止めてくれないかしら! 不吉よ!」


 跳躍まであと十歩。


「さっき、お前、言ったよな!」

「何を!」


 九、八、七。


「俺のこと、一緒にいて良い野蛮人だ、って!」

「あっ……あれは、別に深い意味は無いのよ!?」


 六、五、四。


「わかってるさ、けどな!」

「けど!?」


 三、二、一。


「凄く、嬉しかったぞ!」

「っ――」


 ゼロ。重力から解き放たれる。その瞬間、グリーシャは雄たけびを上げ、ミミは息を呑んだ。


永遠にも思える一瞬の後、どすんと腰に衝撃が走る。着陸。勢い余って数歩進み、止まる。直ちに状態を確認、ざっと見たところでは人馬共に異常ないようだ。


 崖の上では警官達が「信じられない」といった表情でこちらを見下ろしている。グリーシャはニヤリと笑って彼らを一瞥し、余裕綽々の体で馬を進める。背中から滴る冷や汗には気づかれていない筈だ。


 何事か言い合って崖を離れる警官達。ひとまず危機は去ったと見て良いだろう。案外何とかなるものである。


「大成功。良かったな」

「……みっつ、数えるんじゃ、なかったかしら?」

「悪い、忘れてた」

「でしょうね……」


 ミミの声音はひどく弱弱しい。よほど恐ろしかったのだろうか。悪いことをした、と振り向く。彼女はうつむき、表情は前髪の陰になって見えないが、顔面蒼白、といった様子でもなかった。むしろ血色は良く、ほのかに赤みがかっていないでもない。見られていることに気づいたミミは、ぷいと顔を背ける。グリーシャの胴に回されている彼女の腕が、居心地悪そうにもぞもぞと動いた。


「……最悪。なんなのよ、さっきの」

「さっきの?」

「そ、その……だから、嬉しかった、って」


 瞬間、自分の雄叫びがどんな意味を持っていたか、強烈に意識する。不安に駆られて口走っただけとはいえ、思い返すと恥ずかしい事この上ない。


「べ、別に深い意味は」

「ないんでしょう? わかってる、わかってるわよ……」


 それきり、お互い無言のまま、殊更にくっつこうとも、無理に離れようともせず、馬の背に体を預けていた。形容しがたい空気が、沈黙の中で肥大していく。堪らなくなったグリーシャは、半ば強引にミミの腕を解くと、馬を飛び降りた。


「こいつは目立つな! どこか途中で乗り捨てたほうがよさそうだ!」


 言った本人も呆れるほどにわざとらしい小芝居である。ミミは一瞬きょとんとしたが、すぐに苦笑する。一応は乗ってくれたようだ。


「……そうね、まずはこの場所を離れましょう。方向はわかる?」

「ええと、多分大丈夫だ。まっすぐに進んでいけばいい。国道に出るのは止めておこう、警官が張っているかもしれないし」

「了解。じゃあ行きましょうか」


 そう言いつつ、ミミは馬から下りない。跨っての男座りから、長椅子に座るような横鞍もどきの姿勢になり、楽しそうにグリーシャを見下ろす。今度はこちらが苦笑する番だった。


「なんだ、俺は従者役か」

「また二人乗りでもいいわよ? 抱きついてあげるわ」


 残念ながらグリーシャには、もう一度馬の背によじ登るだけの気力も、あの背中の感触に耐えられる自信も無い。おとなしく一礼すると、馬の世話係に徹してお姫様に付き添うのだった。


余談だが、あの状況下でもミミはパンの籠を守り抜いていた。これで暫くの間、食料には難儀せず済みそうである。

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