第5章 4

この議論が抱く不幸はいくつかある。


第一に、毎日市場へ買い出しに行く必要がない身分のミミには、物価は変動するものであるという基本的価値観を共有する機会がなかった。


第二に、複雑な経済学的計算式に最近の様々な要因を加味した帰結として、ベルン国内で急激なインフレイションが発生している事を、ミミは知らなかった。


第三に、今のミミにとって、グリーシャの話題は最も触れられたくないものであった。


そして最後に、今更確認するまでも無いが、ミミは短気であった。


「最悪! 貴方、値段を誤魔化しただけじゃ飽き足らず、個人的な話にも踏み込むなんて!ていうかあの野蛮人が私の彼氏だなんて、貴方の目は節穴!?」

「あーあーヒステリーを起こしやがった。勘弁してくれ、払えないなら売らないよ!」

「ヒステリー! ヒステリーですって!? 不当な扱いに抗議しているだけじゃない! 断固として謝罪を要求するわ!」

「なんで謝らなきゃいけねぇんだよ! さあ帰った帰った! てめえなんざ客じゃねぇ!」

「もっ……Shaise! Du IDOUTEN!!」

「んだとコラこの金髪! ルーシ語で喋れやこのドサンピン!」

「馬鹿野郎って言ったのよこの馬鹿野郎!」

「あんだってぇ!? 俺が馬鹿ならてめぇは豚だこのアマ!」

「……なんなんだよ、一体」 


重い足取りで市場に戻って来たグリーシャが、怒鳴り声を上げて店主と喧嘩しているミミを見つけて発した一言は、まさに心底からの感想だった。


一体ミミとどう向き合えばいいのか、これから自分はどうするべきなのか。こちとらそういった悩みに苛なまれて食欲も失せているというのに、彼女はパンの値段について熱く言い争っていらっしゃる。


見物人に混じって喧嘩を眺め、なにかいろいろな事がどうでもよくなってくる。グリーシャはそれを諦めと感じていたが、彼がもう少し客観的に己を見る能力を身に着けていたら、どちらかといえば自己憐憫に近いその感情を制御する事もできたろう。だが若干十七の、まだ少年と言っていい彼にとって、今の最善は空虚な心に従いその場限りの行動をすることであった。もういい。すべてが面倒だ。一人で町を出よう――。


殆ど決心しかけた時、ふと肩が叩かれる。誰かと思えば、町の入り口であった老人だ。


「おお、彼氏さん。ちょうど良かった、あそこにいるのはあんたの連れ合いだろう。今こそ男を見せる時だぞ」


 言うが早いが、グリーシャを引っ張り、人垣の中へと連れて行く。


「お二人とも待て、待ちなさい。彼氏を連れてきたぞ!」


 暢気な声に、その場にいた全員の注目が集まった。視線の束に絡めとられたグリーシャは、それらが自分の首をキリキリ締め付けている様を幻視する。


「さあ、さあ、彼氏さん! 一言!」

(一言、といわれても!)


落ち着かない雰囲気の中、ああ、とかええ、とか、意味のないうめき声を何度か漏らした後、辛うじて「……なにがあったんですか?」とだけ言う。


「貴方には関係ない。今すぐ私の前から消えて頂戴」


 とミミ。ぷいとそっぽを向き、けんもほろろの対応だ。一方店主は先ほどグリーシャがミミと喧嘩しているのを見ていたので、「敵の敵は味方」とばかり、彼を救世主とみなしたようだ。共感の苦笑いでグリーシャに話しかける。


「やぁ彼氏さん。いやね、そこの彼女がウチの売値に文句をつけるもんだからよ。あんたからも何かいってやってくれ」

「だから彼氏じゃないっていってるでしょぉ!」


 かぶせるようなタイミングでミミが主張し、店主が文句を言い返す。そしてまた二人はグリーシャそっちのけで言い争いをはじめてしまった。


「あんたも大変だな、彼氏さん」


 野次馬の一人がグリーシャを慰める。それがまた彼の胸の奥底にしみいるのだった。一体自分は何をしているのだ。なぜ衆人環視の中で間男のように縮こまっていなければならないのだ。哀れみかけられているのは誰のせいだ。なんでこんな事になった。この不幸の原因は。あらゆる疑問が浮かんでは消え、それらが集合してひとつの像を結んでいく。おてんばで、移り気で、わけのわからない、甲高い声で罵詈雑言を吐き散らしているこの小さな女、ミミ。こいつがすべての元凶であるとここ数日の経験に基づき、完全に帰納的な論理の組み立てから結論付けるのに、それほど時間はかからなかった。


ミミはグリーシャに不幸を運ぶ、という命題が完全に真だと判定された今、さらに思索の翼を広げて飛び立ち、『ではなぜ彼女はいちいちグリーシャに不幸をもたらすのか』、というしばしば彼を悩ませた問いについて考える事は、もはや重要ではなかった。なぜならグリーシャは、彼女の空間的存在がグリーシャへともたらす負の効用を理解するのと同時に、彼女の正体を、しかしこちらはすこぶる演繹的、あるいは数学的帰納的アプローチで悟ったからだ。


電撃的にグリーシャの頭へ登場した理論は、直ちに脳内で検算され、正しいと判断された。きわめて複雑な論理的過程を経て、もっとも高度な法律文よりもさらに慎重な単語の扱いがされるべき結論を、平易に換言する事は非常な危険を伴うが、あえてそれをしてしまうと、つまりはこういうことになる。


この女、面倒くせぇ。


幸いな事に、グリーシャはこういう手合いをよく知っている。彼女と同じく、グリーシャに全ての面倒を押し付ける存在。たとえばセミョーノフ家の弟や妹。癇癪を起こしたときのあいつらとまったく同じだ。それに気づけたのは僥倖であった。狼ならば逃げるか避けるか諦めるかしかないが、妹なら対処方法は知っている。


 かくして全ての疑問は氷解し、彼は全能となった。神がグリーシャにするべきことを啓示したのだ(これはとても珍しいことだ。なにしろ、神様といったらこの世の不幸を高みから見物し、指をさして大笑いするような奴と相場が決まっているから)。

 

今のグリーシャはその右手を一振りするだけで岩をも砕き、その左手を差し伸べるだけで百の浮浪者を王侯貴族へと召し上げるだろう。彼の一言は律法を超越し、彼の視線は全てを黄金に変える。であるならば当然、ミミを黙らせることなど造作もない事であるので、彼はそれをすべく行動した。


 要するに、彼はキレたのであった。


「だーかーら! パンのキモは生地の柔らかさなの! それをよりによって歯ごたえ重視なんて、貴方の態度は全てのパン職人と釜に対する冒涜ふぐぇ」


 さあ、これで良い。グリーシャはその神の能力を持った両手で――いつも末の妹に対してやっているように――ミミの両頬をぐいと挟み、その顔を自らの正面に向けさせた。


「な……!?」


 突然、文字通り目と鼻の先にグリーシャの顔が現れ、ミミは口をパクパクさせる。グリーシャはたっぷり十秒、アルカイク美術的な笑みを浮かべながら彼女の瞳を凝視した後、おもむろに片方の手のひらを頬からはずす。


「ちょっ……やめっ、かおっ、ちかいっ」


 ミミは混乱し、バタバタと暴れるが、想定の範囲内である。頤をくいと持ち上げ、親指で唇をぎゅうと押し付け、一言優しく「黙りなさい」と告げた。茹蛸のように肌を赤く染めたミミは、ただその異常な近距離を逃れるために出来うる限りの激しさで顔を上下させる。彼女の前髪がばさばさと額を刺激するのを感じながら、グリーシャはその返答に満足して手を離した。野次馬達は急激な展開に一瞬ぽかんとするが、やがてそれが『彼氏』の手腕によるものだと理解し、やんやの大喝采をグリーシャへ送る。


 鷹揚にあたりを見回していたグリーシャは、ミミの全身の肌が赤を通り越してアーク灯のように真っ白に発光しているのを見て、一気に正気を取り戻した。


(……俺はいったいなにをした!?)


 ぐわんぐわんと脳が揺れる。ミミが「あっあなたっなんてことしてっしてくれたのよぉっ」と奇妙な抑揚で何かを伝えようとしているのだけ、妙に良く耳へ届く。


 周りの野次馬どもは見世物の見事な結末にすっかり興奮し、雑貨屋の店主も毒気を抜かれて大笑いしている。グリーシャを最初に輪の中へ引き込んだ例の老人が、彼の肩を抱いて、


「だから言ったろう?『愛してる』でいいんだよ」


 と一言。なんだかわからないが恐ろしいほどの説得力だった。


「さあ、二人の健全な若者達に祝福を!」


誰かが言い出し、たちまちミミとグリーシャを取り囲む。時として集団心理は予想もしない流れを生み出すが、今がその好例であった。彼ら村人にとって、楽しく幸せな事は全て祝うべき事であり、馬鹿騒ぎをするための口実なのである。事情を良くわかっていない連中もわからないなりに輪へと入り込み、数分経ったころには、華燭の典を上げかねない勢いとなっていた。


こうなると、もはや当事者は置き去りである。次々と寄ってくる村人の迫力に気圧されたグリーシャは、藁をもつかむ思いでミミの肩をゆすった。相変わらずあたりを煌々と照らしている彼女だが、現時点では唯一の味方である。


「お、おいミミ、正気になれ。なんか妙な事になってるぞ」

「やめてっ話しかけないでっけっけだもの――」

「ほら、正気に戻れ」


 ぺちん、と軽く頬を叩く。


「あたっ……」

「周りを見てみろ」

「ちょっ、痛いじゃない、何てことするのよ!」

「いいから、ほら」


 彼女の頭をがっしと掴み、無理やり辺りを視界に入れさせる。ミミは正面から左右九十度を埋め尽くす人の群れを眺め、その中心にいるのが自分だ理解するに至り、正常な反応を取り戻した。


「……何これ。何が始まっているの? お祭り? な、なんだか怖いわよ……!」


 おびえる小動物のような仕草でグリーシャにすがるが、混乱の度合いでは二人とも似たようなもので、お互い輪の中心で立ち尽くすしかない。


「と、とにかく隙を見て逃げ出そう。このままだと広場で夜を明かすことになる」

「わ、わかった。でもパンは手放さないわよ」

「おいねーちゃん、あんたべっぴんの癖に喧嘩が達者だな! 彼氏さん、そのねーちゃんに免じて今回は六デナルで売ってやるよ!」


 喧嘩の当事者だった雑貨屋がニコニコしながらミミに話しかけてきた。熱しやすいが冷めやすい性格なのだろう。グリーシャはとりあえず手元から六デナルを取り出し、おずおずと渡す。


「まいど! さあ飲め、これは俺の奢りだ!」


ずいと突き出されたドドメ色の壜に二人がどう反応するべきか迷っていると、突然広場の喧騒がさっと静まった。


「こ、今度はなんだ。俺はもう色々と降参だぞ」

「き、気が合うわね、私もよ」


怯え気味に村人達の視線を追うと、その先に、二人の中年男性がいた。


「あー、ちょっと君たちね。聞きたいことがあるんだけれども」


 ややくたびれた紺色のコートに革ベルト。ところどころに傷のある鉄兜。腰に下げたサーベル。型遅れの軍服じみたいでたちと、丁寧ながらもどこか高圧的な態度を見れば、彼らの職業を間違うはずもない。警察官だ。


 グリーシャは、領土を侵犯している他国軍人という自分達の立場と彼らを結びつけ、さらに先ほど郵便局員が見せた視線を加味し、その目的について強い不審を抱いた。焦る気持ちで隣を見ると、ミミも彼らを警戒しているようである。


「ああ、君たちかい。通報があった連中は」


 警官の一人が視線をグリーシャに向ける。


「えっと、あの、その」

「まあこっちも仕事なんでね。とりあえず話だけ聞かせてくれないかな」


一歩一歩、着実に近づいてくる警官。足を踏み出すごとにサーベルのガチャンと鳴り、グリーシャとミミの敵意を肥大させる。


「はい。まず君。名前と年齢、出身地。それに身分証ね」


 警官の一人が手のひらをグリーシャに向けてみせる。何一つ答えられないし、身分証などあるわけがない。せめて気後れはしないよう、たっぷりと反感の篭った視線だけ提示する。


「……困るねぇ。別に君たちをどうこうしようってわけじゃないんだ。必要な手続きなんだよ。もし答えてくれないなら駐在所で一晩明かすことになっちゃうけど、いいのかい?」


 面倒くさそうに頬を掻き、改めて質問に対する答えを促す警官。応じようとしないグリーシャとミミ。そのまま数秒、お互い動きもなく視線を交わす。


この事故における責任の所在をあえて問うなら、グリーシャとミミが早とちりをした所にあると言える。警官は「市場で喧嘩があった」との通報を受けて出動したに過ぎず、むしろメッテルニヒのような片田舎において、その任務に対する忠実さは特筆に価するものであった。


だが公平を期すために警官側の問題点を指摘するとすれば、その場にいた人々の興奮を邪魔してしまった事だ。昨今の自由主義的な風潮から、ただでさえ「公権力、即ち悪」と直接に変換されてしまう市民である。その上「健全な若者達」であるところのグリーシャとミミをおびえさせ、祝福の時間を妨害したのであるから、これはもう、みな断然反警察官であった。


「おいこら駐在さんよ。この若いもんを疑っているって言うのかい」

「いや、そうじゃなくてね、こちらとしても職務なもんで」

「職務、職務。偉ぶって散歩すれば仕事になる連中が、こんな時だけ警官面か」

「そういわれても、警邏は立派な業務だから」

「そういやウチに入った泥棒、未だに捕まってないじゃない」

「泥棒って、あんたの息子がへそくりちょろまかした上に花瓶割っただけじゃないか」

「ウチの息子がそんなことするわけないじゃないの」

「えぇー」

「それを言うなら、納屋の修理もまだ終わってないぞ」

「厩の掃除も頼んでおいたのに、相変わらず糞だらけだ」

「あのね、それは私達の仕事じゃないって何度」

「俺の店の売り上げが落ちてるのもあんたのせいだろ」

「最近肩がやたらこるのもあんたのせいね」

「いや、そんな事僕に言わないでよ」

「最近天気が良くて気分がいいのもお前のせいだ」

「お前のせいで酒が飲めるぞ」

「ねぇ、君らわかってやってるでしょ」

「家の娘が何処の馬の骨ともわからん奴に掻っ攫われた。お前のせいで」

「ウチの亭主が浮気してるのもあんたのせいよ、間違いないわ」

「まてオリガ、なぜそれを!?」

「やっぱり! 今度という今度は許さないよエブゲーニィ!」

「ああもう本当に僕らの管轄になりそうな話は止めてくれよ……」


 いつの間にか二人そっちのけで日ごろの不満を暴露する場になっている。グリーシャは警官の境遇に深く同情しつつ、彼らがもみくちゃにされているのをこれ幸いと、ミミの手をとる。


「今のうちに逃げるぞ」

「わ、わかった」


抜き足差し足でなんとか輪を抜け出す直前、ミミが躓き、小さく「あっ」と悲鳴を上げた。警官二人がこちらを向き、今まさに遁走せんとする二人を見つける。


「走るぞ!」

「ちょっ……きゃぁ!」

「あ、こら、君たち!」


逃げるものを追うという行為は、高度に社会的な動物である人間さえ抗えない根源的欲求である。そこに職務上の必要性が加わったことで、二人の警官はほぼ同時にミミとグリーシャの追跡を決断した。が、駆け出す前に肩を掴まれる。


「待ちやがれ警官ども! 話は終わっちゃいねぇぞ!」

「ああ、今はそれどころじゃないんだって!」

「ええいだまらっしゃい、観念しやがれ!」

「それはこっちのセリフだよエブゲーニィ!」

「げ! ま、まてオリガ! 話せばわかる……」

「問答無用ぉ!」

「いいぞオリガ、やっちまえ!」

「エブゲーニィもとうとう年貢の納め時だな!」

「俺にも一発殴らせろ、こいつ前に弟の嫁に色目使いやがった!」

「おおよしアガフォン、ガツンとかませ!」

「何ですって! エブゲーニィ、あんたは本当に!」

「おい誤解だオリガ! 誰があんなビア樽に色目使うか!」

「俺の嫁さんの悪口言うなぁ!」

「おおっとイワンが電撃参戦だ、しかしエブゲーニィも負けてはいないぞ、強烈なカウンターだ! さあ次は誰が行く!?」

「じゃあ俺が!」

「俺も!」


そんなわけで、背後で騒ぐ村人達の興味は、いつの間にか痴話げんかへと移っていく。つくづく警官二人に同情を禁じえないグリーシャであった。

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