行間 2

その言葉を聞く瞬間まで、忘れていた。馬鹿のようにはしゃいで、ヘラヘラと笑っていた。けれども、それでは駄目だったのだ。


いくら共に旅路を行き、時間を共有しようとも、真似事は真似事で終わらせておくべきだった。覚えておかなければならなかったのだ。あの男は、野蛮人なのだと。


信頼。純粋で、正しくあるべきもの。家族の間だって、そう易々と口にはしない。まして野蛮人から聞くことなど、絶対にあってはならない。なのに、あの男は、言い放った。さも当然であるように、一遍の悪意もなく。


だから、私はああ言った。他にどうせよというのだろう? 間違いは気づいた時点で是正されるべきで、あの瞬間は拒絶こそが最善の回答だったのだ。


野蛮人の反応は十分に満足できるものであった。「持ち逃げするならすればいい」だの、「お前がいなくても困らない」だの、「むしろいなくなるのを期待していた」だのは、いかにも野蛮人らしい、粗野な言い回しだった。


繰り返すが、あの場で私のとった対応は満点の出来と言っていい。問題の原因がこれまでの自分に帰するとはいえ、私は私の忠誠に対する挑戦に勝利したのであって、あの男の暴言は名誉の喝采に他ならない。


だから私は、喜ぶべきなのに――なぜ今、こんなにも苛立っているのだろう。何の問題があるというのだ。状況は正常な運行を取り戻しつつある。私はこれ以上ルーシの野蛮人と馴れ合う必要もなく、意気揚々とトラキアへ帰還すればよいだけなのに。


「最悪っ……」


ふと口を付いて出た悪態が、答えの代わりとなって私にまとわりつく。


わかっている、わかっているのだ。『忠誠に対する挑戦』? 『名誉の喝采』? ……自分への言い訳。要するに、野蛮人の『信頼』を、どう受け取ったかの問題だ。

言葉にすれば、どうという事はない。ただ野蛮人からバッグを渡され、私の忠告に『信頼』で答えられた。それで私は、こう思った訳である。「ああ、グリーシャは、私を敵と見ていない」。


これだけで終われば、どんなにか良かったろう。しかし私は覚えている。その後に何が続いたか――「良かった」と。


認めたくなかった。自身の恥ずべき裏切りを。けれども、どんなに言い訳をしようが、あの時抱いた感情は消せない。それならば、拒絶するしかなかった。躊躇う事などできなかった。直ぐにでも打ち消さなければ、なにか恐ろしい事が起こる気がしたのだ。


腹が立つ。腹が立つ。腹が立つ。パンを持つ手が、急速に重量を増す。ついさっきまで、私の心はとても軽やかだったのに(なぜ軽やかだったのかはあえて考えなかった。余計に頭が痛くなるだけだ)。


「そこに突っ立たれたままでも困るんだがね、お穣ちゃん。かごの中身を買うのか、買わないのか、はっきりしてくれ」


 店主の言葉で、自分が店の入り口を塞いでいることに気づく。何人かの客が迷惑そうにミミを睨んでいた。


「……会計して頂戴」


かごを投げやりに会計台へと置く。値段を計算している店主を横目に、手元の札束を見た。士官学校で学んだこの国の物価を思い出す。自分一人で一ヶ月は食いはぐれないだろう。必要ならば黙って懐にこれを突っ込み、奴から離れていけばいい。そんなこと、今更言うまでもないことだ。なのに、広場から離れていく野蛮人を、ご親切に引き止めてまで忠告した理由が、どうしても思い出せない。


情報を引き出すために行動を共にする? 馬鹿馬鹿しい。間諜気取りで野蛮人と付き合ったこの数日、一体どんな情報が手に入ったというのだ。覚えていることといえば、奴が長男で下に弟が二人と妹が二人いるとか、誕生日が十二月十二日で、去年は砂糖がたっぷり入ったケーキをたらふく食べたとか、トーシャという友人が竜騎兵の同期にいて、お調子者だが結構いい奴なのだとか、学校の同じ組に可愛い女の子がいて、男はみんな彼女に惚れていただとか(その男の中にグリーシャが含まれているかを問い質したのだが、奴はのらりくらりと交わし、ついに答えなかった。おそらく肯定だろう。軍務に徹するべき竜騎兵が色恋沙汰に現を抜かすとは! 私は其の事と、やつの韜晦趣味に対して、非常に腹が立った。いや、正確に言うと不快感の原因は不明だったのだが、冷静に考えてそれ以外に理由などあるはずもない)、徹頭徹尾どうでもいい事ばかりではないか。そんなもの、国に帰って報告したところで、酒の肴にされるだけだ。


自分は、奴に出会って裏切り者になってしまったのだと、自省の念に駆られながら思う。


幼い頃からサロンの息苦しい会話しか知らなかったし、竜騎兵になってからはそれも無くなった(歯の浮くような文句で口説いてくる男達は変わらずいたが、無視しても咎められないのが夜会には無い軍の美点だ)。とにかく、楽しいおしゃべりなど、久しくなかった。


それが、ここ数日はどうだ。分別の付いていない幼子のように笑い転げていた。グリーシャの馬鹿話。私の冗談。他愛の無いやり取りでどれほど楽しんだろう。たぶん、こんな経験は十七年の人生で二度目だ。一度目は、『彼女』といた時。


あの野蛮人と無駄話をする時の感覚は、遠い過去に『彼女』とルーシの言葉で語り明かし、視線を交わらせたときと、同じ。懐かしくも、新鮮な温かみ。だから、私もついくだらない事ではしゃいで、道理を取り違えてしまう。これはそのツケという事だろう、結局。


「あいよ。全部で十二デナリアと八アウル」


私がぐるぐると思考のスープをかき混ぜている間に、店主は会計を終えたらしい。手のひらをこちらに向ける。


「十二? ちょっと、高いわよ」


 傍らのパンの山を見る。量は多いがごく一般的な質のものだし、そこまでの価格になるとは思えない。


「馬鹿いっちゃいけねぇや。ウチは市場でも一等良心的な価格で通ってるんだぜ」

「嘘をおっしゃい。私の見たところ、どうしたって六は超えないわよ」

「六だって! 今時そんな値段でこの量のパンが買える店があったら見てみたいね」

「なによ、私が不慣れだからって足元を見ないで頂戴」

「そっちこそ、彼氏と喧嘩したからって、八つ当たりはいけねぇや」

「なっ……」


 その一言は、彼女が堪忍袋の緒を引きちぎるのに、十分すぎるきっかけを与えたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る