第5章 3

人だかりを掻き分け、滅法にあたりを歩き回る。いつの間にか市場を抜け、さびしい路地に出ていた。その歩みは蹌踉としていたが、何かに突き動かされるよう足を動かし続ける。精神的な疲労のせいで、うまくものが考えられない。当てもなく革靴を石畳に叩きつけているうち、いつのまにか「郵便事務所」と看板の出ている建物の前にいた。


殆ど無意識に中へ入る。事務員が二人いた。仕事終わりの一杯を先延ばしにしかねない存在を認め、そっくり誂えたような小役人面が露骨に歪む。それに気づかないフリをし、バッグから抜いておいた無地の便箋と紙を机に置く。何をするのだ、グリーシャ? そう自問するが、腕は備え付けられているペンの先をインク壷に浸していた。

 

書くべきことはいくらでもある。現在の状況。これからの予定。支援の要請。可能ならば、次に拠る町の私書箱宛に返信をするよう求める。自動機械のように、ペンを持つ手が動く。


 書き終えた便箋を封筒に入れる。あて先を司令部ではなく自宅にしておく程度の知恵は、霧にまぎれた思考の中でも残っていた。封筒を小脇に挟み、カウンターに持ち込もうとする――が、最後の一瞬、体と精神がつながり、急激に脳が働き始めた。自分が今やろうとしている事、その先に何があるか、計算が始まる。


(……ふん、どうでもいいさ!)


 彼女がさっき言ったとおり、自分達はただ利害が一致しただけの、赤の他人。どころか敵同士だ。本国に戻った後であいつがどうなろうと、知ったこっちゃない。バーバルと仲良しこよしなど、所詮幻想なのだ。こちらが少しばかり調子に乗って、友人のように思って接していた時も、彼女は最初からずっと、グリーシャの事を哀れな野蛮人と、そう思っていたのだろう。


悲しいというより腹が立った。舌先三寸にまんまと騙された「野蛮人」を、あいつは存分に笑っていたのだ。そんな女の事など、気にするものか。旅の終わりに待ち受ける絶望に、一体どんな顔をするか、今から楽しみだ。


 のろのろと対面机に向かい、事務員の前に立つ。封筒を手渡し、「国際郵便で」と言う。事務員は面倒くさそうに封筒を預かり、宛先を見て不機嫌さを倍増させた。


「紛争当事国への郵便は検閲されますが、よろしいですね?」

「……えっ?」


 馬鹿のように聞き返すグリーシャに、事務員はカウンター横に張られているポスターを指差す。『教暦一二二二年より、以下の国をあて先とする国際郵便には検閲が行われることになりました』とあり、そのリストの中にはしっかりとルーシも含まれていた。


「ああー……」


 頭を抱える。手紙の中身は完全に平文だ。暗号化しようにも、乱数表なんて大それたものは持っていない。検閲を布告するポスターにはでかでかと「ベルン逓信省からのお知らせ」とある。つまり、ベルンからルーシへの郵便は、どこで出そうとすべて同じに検閲されるわけだ。これらの事実が意味するところは一つ、グリーシャの企みは企みのままに終わったのである。


「で、どうするんですか?」

「へ?」

「ですから、出すのか出さないのか、どっちなんですか」 


 事務員の訝しげな視線。それが自分の立場を追い込む動作だとわかっていても、思わず目をそらしてしまう。


「出、しません」

「……そうですか? 差し支えなければ理由をお聞かせ願いませんか」


 先ほどまで終業直前の来訪者に嫌な顔をしていたというのに、この事務員はにわかに業務遂行の意欲を見せ始めた。表情が審問官のそれに変化する。やめてくれ、公務員なら公務員らしく椅子を暖めていてくれよ。


「お答えできませんか?」

「いえ、その。家族宛の私的な手紙です。あまり他人に見せたい中身ではないので……」

「……左様ですか。身分証明書を提示していただいたうえで保証金をお支払いになれば、検閲せずにお手紙をお送りすることも可能ですけれど。ただ、時間はかかりますよ」

「いや、結構です。失礼しました」


 事務員が何か言うのを待たず、さっと背を向けて足早に郵便局を出る。扉が閉じる直前、事務員が他の事務員に「おい、今の奴……」と話しかけているのが聞こえた。


「最悪だ……」


 ミミお得意の悪態が、口をついて出る。検閲が行われている可能性など、ちょっと考えれば思い当たるものじゃないか。その程度の事柄にも頭が回っていなかったのか、自分は! おかげで書いた手紙が無駄になるどころか、無用な疑いを抱かれる羽目になった。そしてなにより最悪なのは。


(――これで本当に、ミミと旅する理由もなくなったわけだ)


彼女に人質としての価値がなくなった以上、二人でいる意味も消滅する。腹立ち紛れにミミへ告げた、「金を持ち逃げして消えてくれたほうが助かる」という一言が、まさしく真実になってしまったのである。神様は意地悪だ。そもそも無理のあった計画に、今更気がついたところで手遅れだというのに!


(くそっ。どうすればいいんだ)


意味のない自問でも、せずにはいられない。あっという間に全ての計画がおじゃんになった。当然、代替案などない。となると、今現在考えうる可能性の中でもっとも合理的なのは、手元の資金を持ったまま、一人でこの町を離れること。最小の手間で祖国に帰れる。


(そうするべきなんだろうけど、な)


 実行するのは簡単だ。このまま道をまっすぐ進めば、町を出られる。が、なかなか踏ん切りがつかない。思い切りの悪い性格は損をする、というのはまさしくその通りだろう。いったいこれからどうすればよいのか。思考の迷宮を進むことに慣れていないグリーシャは、多くの同類がたどり着く最終的な結論――結論を出さないという結論――にたどり着くことすら出来ない。市場への道をわざと遠回りに戻っていくあいだ、考えも徒に迷走させるのであった。

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