第5章 2
屋台を冷やかすこと数刻、気がつけば既に日が傾き始めていた。
「ああ、市がこんなに楽しい所なんて知らなかったわ」
まるでサーカスを初めて見た子供が言うような感想を述べるミミ。まだまだ広場は混雑しているが、いい加減楽しんでいるばかりもいけないだろう。
「そろそろ終わりだ。必要なものを買って、あとは宿だな」
「これだから野蛮人は。もう少し余韻を楽しんでちょうだいな」
「お前がはしゃぎ過ぎなんだよ。ほら、あっちだ」
そんな言葉を交わしながら、目星をつけておいた食料品の屋台に向かう。店の入り口にある平台の上で焼きたてのパンが素晴らしい香りを漂わせており、店内に足を進めれば様々な種類の食べ物が所狭しに陳列されていた。
「やった! これであの忌々しい保存食から解放されるわ」
ミミは籠をひっつかむように手に取り、手当たり次第に詰めていく。店はよろず屋というのがぴったりな雑多さで、食料品の他にも民芸品、家庭用品、便箋などの文房具も――便箋?
「……っあ!」
「なに、どうしたのよ」
「いやなんでもないきにするな」
「? 変な野蛮人ね」
深く追及せず、品定めを再開するミミ。毀れ落ちそうなほどパンや乾ものをカゴに詰め、ほくほく顔だ。こいつ、見かけの割に胃袋が大きいのかもしれない。平素なら食費に頭を抱えなければいけないが、今はその胃袋に感謝である。仮にグリーシャの「あっ」を追及された所で、『「トラキア人を誘拐するから迎えに来い」と本国に手紙を送らなければいけないのを思いだした』、とは答えられるはずもない。
そもそも、グリーシャは彼女を人質に取って本国への土産とするという目的があり、だからこそ旅路を共にしているのである。協力してベルンを脱出する云々は、表向きの題目に過ぎない。そして、真の意図を達成するため、のんべんだらりと市を散策している暇は、実のところまったくないのだ。
ミミをルーシに連れて行く為には、本国への連絡が絶対条件だ。旅の真の終着点、ルーシとトラキアが交戦している最前線は、仮初めの目的地から殆ど離れていないから、そこまではミミに疑問を抱かせることなく到着できるとしても、そこから先はグリーシャの能力の外にある。本国の増援で彼女を『確保』しないことにはどうしようもない。
ベルンからルーシへ手紙を届けるのにどれだけ時間がかかるかはわからないが、本国側の準備期間を考えれば、ここ数日が勝負所と考えるべきだろう。どころか、ベルンの郵便局が『お役所』の万国共通項に当てはまるのならば――グリーシャはそうでない組織を寡聞にして知らないが――今日がタイムリミットと考えても良いくらいである。
幸い、まだ日は沈みきっておらず、多少の時間は残っていた。便箋と鉛筆は元からカバンに入っているし、適当にタイミングを見て準備を進めさえすれば、後は全てが上手くいくだろう。国境の町まで歩き、ミミがルーシの軍隊にとらえられ、そして自分は意気揚々と祖国へ凱旋する。投げかけられる英雄としての賞賛。溢れんばかりに積み上げられた褒章。それこそ、グリーシャが待ち望んでいた未来だ。
いける。すべては、あと少しだけの行動で実現できる。グリーシャはこれから訪れる栄光を存分に思い描き――そして、躊躇いを覚えた。
躊躇い? どうしてだろう。今や自分は約束された未来に手をかけて、すべてを手にする目前なのだ。恐れることは何もない。そう自分に言い聞かせ、心に宿った小さな抵抗を排除しようと試みる。だが表層にある意志とは別に、原始的な想念が胸中の沼から気泡のごとく浮かび上がってきて、グリーシャに耳打ちをする。忘れるな、グリーシャ。他の全てと引き換えに、お前は失う事となるのだ――ミミを。
それが頭に浮かび、グリーシャは心臓が大きく脈打つのをはっきりと聞いた。彼の戸惑いを見抜いたかのよう、囁きもまた音量を上げていく。
考えても見ろ。裏切りを知ったミミは、その口から軽蔑の溜息を漏らすだろう。彼女の青い瞳が親しみを示すことはもはやなく、冷たい憎しみだけが注がれる。冗談を言う代わりに呪いの言葉を吐きつけられ、彼女はグリーシャを一生涯、敵として恨み続けるに違いない。それらすべてもまた、ほぼ確実に訪れる未来だ。グリーシャよ、それでいいのか?
問いかけられた瞬間、いよいよ彼の胸中は真っ黒な不快感で満たされていき、グリーシャは慌ててかぶりを振る。いけない。いけない。悪い流れだ。冷静になれ、グリーシャ。そんな一時の気の迷いで、将来を捨て去るな。選ぶべき道ははっきりしているだろう。
だが、そういった自制の言葉は、ずっと明瞭な別の声によってかき消される。すなわち――くだらない大衆小説に感化された英雄譚など捨て、残りの旅路をミミと隠し事なく過ごし、最期に国境で別れの挨拶を告げよう。祖国に帰還してからも口をつぐみ、記憶の棚に一つだけエピソードを増やし、それですべてを終わりにしよう。
思いつきのような結論は、最初からずっと用意されていたようにグリーシャを包み込んでいって、あっという間に当初の目的を溶かし、おぼろげにしていく。
待て、どうする気だ……引き留める声は小さく、もはや自分がどこを目指しているのかもよくわからなくなり、羅針盤を失った船のような気持ちになる。いつのまにか誘惑は聞こえなくなっていて、代わりに何故かミミの声が心を満たしていく。グリーシャ、グリーシャ……
「……ねぇ、グリーシャってば」
その言葉で、思考の奔流が収まる。傍を見ると、ミミが不機嫌そうな表情でグリーシャの服の裾を引っ張っていた。考えに没頭し過ぎて、ミミをそっちのけにしていたようである。彼女は苦笑いを浮かべ、からかう様に「貴方、ものすごく挙動不審だったわ」と言う。
「何かいかがわしい事でも考えていたのかしら。最悪ね」
「ば、バカ。そんな訳あるか」
「ふぅん。まあ良いけれど」
その笑顔がいかにも無邪気で、グリーシャをさらに一つの結論へと近づけさせていく。
「……なぁ、ミミ」
「ん? なに、グリーシャ」
「……あ、いや、ええと」
待て。自分は何を言おうとしていたのか。すぐ目の前まで迫っていた回答をすんでのところで押しとどめたグリーシャは、一つ深呼吸をする。
よし、今この問題について考えるのは止めよう。自分はとても混乱しており、結論を出せる状態にない。一晩休んで、それから改めて結論を出したところで、遅くはない筈だ。先延ばしにそう言い訳の札を下げ、咳払いをする。
「ちょっと、グリーシャ。話しかけたっきり黙り込むのはあんまりじゃないの」
「おう。そのー……あ、ああ。そうだ。二手にわかれないか」
次の言葉を何も考えていなかったグリーシャは、ミミの催促に、ほとんど思いつきで提案する。
「二手に? なんで」
「せっかく頭数があるのに、一緒に廻っちゃ意味がないだろう。もうこの時間だ。店によっちゃあ窓口を閉めるところだって出てくるだろうし」
言ってから、意外に悪くない提案をしたのかもしれない、と思う。実際のところ、夕日は先ほどから刻々と色を増し、いい加減に宿を探すにも余裕のある時間ではなくなっている。一方で、ミミは棚にずらりと陳列されているパンに目を輝かせ、押しても引いても動きそうにない。二手に分かれる、というのは現実的で効率の良い手段だ。
「まあ、そう言われればそうかもしれないけれど」
「よし。決まりだ。それじゃあ、俺が宿を探してくるか、それとも籠いっぱいに詰めたパンを手放してミミが行くか?」
「冗談はよして。もう一籠を一杯にするまで、私は梃子でもここを動かないわよ」
「だと思ったよ。じゃあ、俺は宿を探してくる」
「わかった。私はここらのお店を覗いているから」
「つまみ食いはするなよ」
「保証は出来ないわね」
「期待もしてないよ。ほいこれ」
そう言って、軍資金が入っているバッグから札束を半分抜き取る。それを自分のポケットに入れ、残ったバッグはミミに手渡した。
「一時間もあれば十分だろう、集合場所は……」
そこでグリーシャは言葉を切った。手の中のバッグをミミが不思議そうに見つめている。
「なんだ、『マリア様』の小遣いにゃ足りないか?」
皮肉めいた言葉は的外れだったらしく、呆れたように肩をすくめられる。グリーシャが首を傾げると、彼女は率直に疑問をぶつけて来た。
「貴方、いいの?」
「何が」
「これ」
「どれ?」
「お金」
「それが?」
「……いよいよ間抜けね。私がこれを持ち逃げしたら、とか考えないのかしら」
「あ」
「馬鹿」
反論できない。ミミに指摘されるその瞬間まで、まったくその可能性を失念していた。だが体面上、彼女の意見を認める事が出来ずに口を開く。
「い、いいんだよ。お前は金。俺は地図。これをお互い担保にするだけの話さ」
「この市場、探せば地図も売ってるわよ」
「そっ……それは」
「ばーか」
――ここまでは、特に問題なかった。グリーシャは恥ずかしげに頭をかき、ミミは冗談で済ませられる程度に軽蔑の視線を振りかける。ここ数日、何度か繰り返されたやり取り。適当にはぐらかし、笑い話になって終わるはずの会話。
だが注意深く見れば、一方の側にわずかな、苛立ちと表現していい変化があったことに気づき得ただろう。それはおそらく本人も自覚していない程度の、わずかなほころび。だからグリーシャが、後から考えれば不用意な一言を深く考えずに放ったとて、責めることはできない。
「いいだろ、お前の事を信頼しているんだよ」
その時のミミが手榴弾だとすれば、グリーシャの一言こそが信管を作動させた。手から離れて相手に投げつけられ激発するまでの七、八秒、ミミの表情がたどった奇妙な変化をあえて言語化するならば、次のようになる。
『浮かんでいた笑みが要塞のベトンのように遅々として固まっていき』、『劣化でヒビが入るかの如く小さな衝撃が現れ』、『嫌悪と苛立ちと後悔とが多分に含まれた何かが漏水宜しく溢れ出し』、『僅かな隙を見つけ進入した敵兵を見つけた兵士のような表情で固まった』。
「なんてこと――最悪だわ」
こめかみを押さえ、俯くミミ。青ざめ、今にも倒れこみそうな様子である。グリーシャは心配になり、とっさに手を貸そうとしたが、彼女は一歩引いてそれを拒んだ。
「どうした、いきなり大人しくなったじゃないか」
ミミは答えない。ただ、唇が白くなるほどの強さで口を引き結んでいる。
「おい、本当に大丈夫か? 気分が悪いなら早めに引き上げたほうが」
「……黙って」
「そういうわけにもいかない。熱はなさそうだけどな」
体温を測ろうと、彼女の首筋に手を伸ばす。しかしミミは体をよじり、再びグリーシャの手を逃れる。
「触らないで。話しかけないで。近づかないで。こっちにこないで……!」
「きっと野宿ばかりで体が弱ったんだ。とにかく宿を取って休もう」
「うるさい!」
気分が悪い人間が出せるとはとても思えない程に大きな声で言う。いや、事実、彼女の体調はすこぶる良かったのだ。問題は別のところにあり、グリーシャまだそれに気づかない。
「最悪。最悪。最悪」
ミミはゆっくりと息を吐く。その目つきはいっそ鋭い、とさえ言えた。
「どうした。お前変だぞ?」
「そう――そうね。確かに私は変だったわ」
どうも、彼女の言う「変」とグリーシャのそれとはかなり隔たりがあるようだ。だがまあ、様子を見た限り、体調が悪いわけでないらしい。ならば、グリーシャにこれ以上話を広げるつもりはなかった。今はミミの奇妙な態度を問いただすよりも優先するべきことがある。せっかく人里にたどり着いて、結局野宿では泣くに泣けない。
「よくわからない奴だな。まあいいけど。それより、そろそろ店じまいの時間が近いぞ。急がないと籠一杯が夢と消えるんじゃないか?」
軽い冗談で場を仕切り直そうとするが、ミミは機嫌を直すのでなく、むしろ苛立ちをより一層強く表し、痺れを切らしたように言う。
「自覚もないのね。本当に最悪。いえ、最悪なのは私ね。ああ、失敗だった。失敗だった!」
「なにがだよ」
不明瞭な怒りに、グリーシャも思わず声を荒げてしまう。ミミはこちらと視線を合わせず、吐き捨てるように言った。
「この際ハッキリさせておくけれどね、私たちは敵同士なの。慣れ合おうとは思わないで」
「……はぁ?」
「信頼? ちゃんちゃらおかしいわ。少し優しくされたからって、調子に乗らないで」
「な」
なにをいまさら。そう言うつもりで口を開いて、二言目を喋らず閉じる。
「貴方と一緒に行動してるのは、そっちのほうが都合がいいから。国境近くの町に着いたら、すぐにでも別れるつもりの、それだけの間柄よ。忘れないで頂戴」
もちろん、その言葉に、別段感ずる所は無い。全くもって正しく、異論は無い。彼女の言う通り、二人は敵同士。一時利害が一致しているだけの、吹けば飛ぶような関係。
だからグリーシャは、いっそ国境へ向かわず二人で呑気に旅をしようかとかそんな夢想じみた考えは絶対にしていないし、もしそれが出来たとするなら、そしてあのネズミたちのように幸せな終わりを迎える事が出来たらとても楽しいだろうなどとは露ほども思っていない。彼女と市をひやかしている間、自分がどれほど楽しんでいたかなどまるっきり覚えていないし、当然、彼女の『敵同士』だの『それだけの間柄』だのという一言が思いのほかショックだったとも、別にまったくこれっぽっちも思わない。
「もっと気をつけるべきだったのよ、ミミ。あいつは野蛮人なんだから」
聞こえよがしの独白。語気の強さは、明確な拒絶だった。
「ああ――」
だからグリーシャは、こう答える。
「――持ち逃げするならすればいいし、お前が居なくなった所で、別に困らない。むしろ荷物が少なくなって助かるよ。期待していたくらいだ」
思いのほか刺々しい台詞になってしまったのは、今更わかりきった事を再確認する彼女が、何故か気に入らなかったからだ。それ以上の意味はない。断じて。
「どうした、行かないのかよ? そのバッグを肩にかけて、町を出て行くんだろ」
不愉快さを隠さず告げる。ミミはグリーシャを睨み付けたまま動かない。もはや自分に言い訳をする余裕もなかった。体の中に湧き上がった後ろ向きの感情を、直接ぶつける。
「ほら、早く行け。野蛮人とは一緒に居たくないんだろ!」
完全に八当たりだ。どうだ、これで望み通りになった、と投げやりに思う。
「いつまでそこで突っ立てるつもりだ? なら俺が行く。お前はそこで固まってるか、もしくはその金と一緒にどこへでも行けよ」
そう言い捨て、一歩踏み出す。ミミの顔は見ない。そこに浮かんでいるだろう嘲りの表情を見るのが癪だったし、それを見て多少なりとも悲しくなるかもしれない自分がもっと癪だった。
「……別に、本当に持ち逃げしようなんて思ってないわよ」
ミミの呟きは、騒がしい広場にあってなお、彼の耳へと鮮明に届いた。足を止めて振り向くと、ミミは予想に反して苛立しげに両こぶしを握り締め、こちらを睨み付けている。
「貴方の危機感の無さを指摘してあげただけ。この程度でムキになるなんて、やっぱり野蛮人は理性が足りないのね」
その言葉でグリーシャの苛立ちが増幅される。一体彼女は何が言いたいのだ。喧嘩を売ってきたのはそっちだろう。だからこっちは買っただけなのに。
「ああそうかい。それじゃ次からはもっと『理性的』になるよう気をつけるよ。雨に打たれた哀れなバーバルを犬のえさにする程度にはな!」
悪意たっぷりの皮肉をぶつけられたミミは、眉を強くしかめて言う。
「なによ。一人より二人だって言ったのはそっちでしょう? 自分の言葉も忘れたの!?」
彼女は激昂し、わずかに涙を湛えていた。それを見て暗い嗜虐がむくむくと頭をもたげる。もういい。バーバルと仲良くなんて考えが間違っていたのだ。この場で言いたいことをぶちまけてやろう。そう決心した途端、今まであった胸のつかえがスッと取れた気がした。
「俺の言う二人って言うのは人間同士の話だ。バーバルのお荷物は別勘定だよ!」
「さっきからお荷物お荷物って、貴方も似たようなものじゃない!」
「あのな、そもそも俺が助けなきゃ、お前は今頃どうなっていたかわからないんだぞ! なのにその態度は何だよ!」
「それとこれとは話が別よ! 第一、貴方馴れ馴れしすぎるの! 最初に会った時だって!」
「お前が後先なしに騒ぎ出すから話がややこしくなったんだろ!」
「じゃあ水浴びを覗いたのは!? せっかく許してあげたのに、言うに事欠いて!」
「ぺチャパイにぺチャパイって言って何が悪い!」
「あー! また言ったわね!? 言ったわね!? ぺチャパイって言ったわね!?」
「ああ言ったさ! 何度でもいってやるさ! ぺチャパイ貧乳ナイチチ!!」
「っっっ!!!! もう頭にきた! 消えろ、この野蛮人!」
「おめえら、店の前で喧嘩はやめてくれねぇか!」
のっぴきならない雰囲気に、店の店主が登場する。気が付くと周りには人垣が出来、無責任に二人を煽りたてていた。恥ずかしいやら胸糞悪いやら、酷く顔が熱い。
「……宿を探してくる。じゃあな」
とにかくこの場を離れたいと思ったグリーシャは、とっさに口を開く。ミミは答えず、グリーシャも言葉を促さない。
彼は逃げるようにその場を後にした。十七年間の人生で最悪の「じゃあな」である。口げんかはうっぷんのはけ口として非常に優秀であったが、今後の気まずさを思うと差し引きゼロどころか持ち出し超過であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます