第4章 2

猫、『マリア』、グリーシャの順で隊列となって森の中を駆け回り早数十分。猫は枝から枝へと見事に渡り、グリーシャたちはそれを眼で追うのが精一杯である。だがこちらが疲れて歩みを止めると、猫も立ち止まって挑発するように振り返るので、一定以上に距離が開かない。


どうも遊ばれているようだ。いくら『マリア』が運動神経に優れているとはいえ、人と純粋な獣には圧倒的な差があるし、何より森は奴らの庭である。とっくに見失っているのが本当なのだ。一度そう思ってみると、猫の姿は憎たらしいほどに余裕綽々で、口には気のせいか「ふふん」といった笑みが浮かんでいるような気さえした。

「あの猫、性格、悪いわ」


 『マリア』が足を止め、肩で息をしながら汗を拭う。グリーシャも同感であった。

膝に手をつき、たまった疲れを一気に吐き出すようにぜえぜえと口をあける。木の上では猫がこれ見よがしに袋をいじくっていた。このままじゃ埒が明かない。


「どーしたもんか……」


 ぽろりと漏らすグリーシャ。『マリア』はあごに手を当てなにやら思案顔だ。状況を打開するための策でも練っているのだろうか。


「……貴方、囮になって」


『マリア』が唐突にそう言った。グリーシャは聞こえなかったふりをして歩みを再会する。が、すかさず『マリア』が足を伸ばし、それに引っ掛けられたグリーシャは、顔から地面に接吻してしまう。


「うわお……おまっ」

「指揮官は私ってさっき決めたでしょう。勝手に動かないで」

「そういうのは口で言え。つーか、囮ならお前がやればいいだろ。トラキアじゃ偉い奴が先頭に立つんじゃなかったか?」

「厭よ。第一、野蛮人の貴方にできる事なんてそれくらいでしょ」


 まるで神が定めた真理だとばかりに言う。グリーシャはため息をつくしかなかった。


「で、どうするの。私の言うことが聞けないのかしら」


 腰に手を当てて言う。傍目には弟を諭す姉のようだが、顔は優位にいる人間が弱者をいびる時のそれだ。グリーシャはため息をつき、「へいへい。なんなりと、われらが指揮官殿!」と言って皮肉たっぷりの敬礼をする。


 『マリア』はそれを全く無視してグリーシャの耳に手を当てる。猫相手にごにょごにょと耳打ちとはまたシュールな光景である。


彼女が告げた作戦は次の通り。グリーシャが猫を挑発し、その間に後ろへ回り込んだ彼女が猫をとっ捕まえる。うまくいくとは思えないが、彼は子供の遊びに付き合っているつもりで頷いた。


「じゃあ、よろしく」


 彼女は猫がよそ見をしている隙に近くの茂みへ身を隠し、グリーシャは一人ぽつねんと取り残される。気難し屋でわがままな御姫様め。あんなのの従者にさせられてしまってはロクなことがない。こういう不満が積み重なって反乱や革命が起きるのだろう。グリーシャもささやかな抵抗として何もせずに突っ立っていたが、茂みから小石が飛んできてプレッシャーがかけられ、仕方なくやけくそ気味に声を荒げた。


曰く「弱虫」、「しょせん家畜」、「野生のくせに丸まる太っている怠け者」、「毛並みが悪い」、「その乾パンはまずい」、「人間様を舐めやがって」、「性根がひんまがっている」、「お前より性格悪いのは『マリア』くらいだ」、「あの女め、お高くとまりやがって。お前もそう思うだろう?」(ここらへんで大きな石が飛んできた)、等などひとしきり悪口を吐き出す。が、猫はそれらを風場牛といった感じで受け流し、顔を洗ってあくびをしていた。


状況が一変したのはグリーシャが「ぶさいく!」と叫んだ瞬間だった。それまで余裕綽々だった猫は急に毛を逆立たせ、我を忘れて飛びかかってきた。「ぶさいく」という言葉に何かトラウマでもあるだろうか。   


とにかくグリーシャは一瞬のことで対応できず、あっという間に顔の筋が二列となった。だがマリアはこのチャンスを逃すまいと、次撃を準備していた猫に流星光底のごとく飛びかかる。


不意打ちされた猫は驚いて近くの木に飛び移った。マリアはそれを追いかけてジャンプし、見事に枝にとりつく。ちょうど辺りの木の密度が低くなっている場所で、猫は逃げ場がない。飛び降りようにもグリーシャが下に待ち受けている。


「さんざん面倒かけてくれたわね。その袋を寄こしなさい」


 低い声で言う『マリア』。蛇に睨まれた蛙、いや狼に睨まれた猫。小さな獣は一歩ずつ後ずさり、逃げ道の無くなるに至って、ついに袋を取り落とした。


「あっ……!」


 『マリア』は咄嗟に手を伸ばし、それを確保しようとする。なんとか指の端に紐が引っ掛かったが、途端、メキメキと音をたてて枝の根元にひびが入る。危ういバランスが一気に崩れた。


「きゃあぁ!」


 『マリア』が悲鳴を上げる。猫はあわてて飛び降りる。グリーシャは咄嗟に下へ陣取り、彼女を受けとめようとかまえた。ゆっくりと、だが確実に枝の根元は力学的な限界点へ近づく。


「あっ、あっ、あっあ、どうしよ、あっ」


 ついぞ聞いたことのないような可愛らしい声だが、今そんな事を気にしている余裕はない。とにかく、彼女を受け止めなければ。


「――あッ、いやッ、もうだめっ、落ちるっ!」


『マリア』を見上げるグリーシャは、必死に落下地点を予想し、そこに陣取ろうと不器用なステップを取る。まず彼女の手からの黄色い袋が滑り落ち、彼の頭に直撃した。その痛みを感じる間もなく、今度は『マリア』の体が降ってくる。グリーシャは必死に手を伸ばす。一瞬の後、大きな質量が、強い衝撃を伴って彼の上に圧し掛かった。一瞬柔らかい何かに触れたような気もするが、意識して考えないようにする。

 全身を襲う痛みに、グリーシャはしばし息をするのを忘れた。目から知らず涙がこぼれおちる。視界の端を猫が一目散に去っていった。


「Shaize…ああもう、痛い……」


 『マリア』は頭をさすっている。グリーシャは彼女の尻の下敷きとなり、体が動かせない。


「とりあえず退いてくれ……」


 抗議の声に、『マリア』はきょとんと下を向く。グリーシャが座布団と化している事に気づくと、慌てて立ち上がった。それきり背を向け、謝罪の一つもない。まあ、ともかく今は命が無事だったことに感謝しよう。


近くに転がっていた袋を拾い、中身を確認する。何個か割れているのもあるが、ほとんどの乾パンは無事だ。ついでに包帯その他も残っている。


「……どう?」


 『マリア』がおずおずと袋を覗き込む。


「大丈夫だ、これなら次の町までは……」


 グリーシャはそこで顔を上げ、瞬間、言葉に詰まった。『マリア』が予想外に近くにいたのだ。金色の艶やかな髪がさらりと揺れる。彼女はグリーシャの手にある乾パンを見つめていて、その伏し目がちな姿勢が、驚くほど長く反り上がった睫毛をいっそう際立たせる。


途切れた言葉を促すためか、彼女が顔を上げた。視線が交錯する。双方の距離はわずか数十センチほど。顎を突き出すだけで唇が触れてしまいかねない。グリーシャは胸の鼓動が異様に高まるのを感じ、四肢を釘で打ちつけられたかのように動けなくなる。


『マリア』は、木偶の坊と化したグリーシャを無表情で見つめていた。と、ゆっくり彼女の腕があがる。視界の端に映るそれが妙に艶めかしく、グリーシャは息が止まりそうになる。彼女の顎筋のあたりを、汗が一滴たらりと流れる。


すらりと長い指が妖しげに動き、グリーシャの顔をぐいとつついた。瞬間、鋭い痛みが走る。猫に引っかかれた傷を触られたらしい。グリーシャが眉をしかめると、『マリア』はぽつりと言った。


「変な顔」


そして僅かに――本当に僅かに、口の端が持ち上がった。笑ったのだ。


「あ……」


 間抜けな声が口から洩れる。彼女の変化はじっくり見ないと分からないほどだったが、グリーシャの鼓動を破裂寸前まで加速させるには十分だった。吃驚するほど青い目、しみ一つない白い肌、瑞々しいピンク色の唇、すっと通った顎の線、それらすべてが口元のちょっとした変化だけで、この世のものとは思えないほど美しく映る。


「……何? 間抜け面して」


 頬笑みはすぐに消え、彼女は再び訝しげに眼を細めた。グリーシャは未だ夢からさめやらず、頭はぼうっとしている。ぼやけた視界の中で、口が開いたのは自分の意思というよりほとんど自動的だった。


「――笑うと、かわいいんだな」


 言った瞬間、今度は彼女がキョトンとする。グリーシャは、唐突に自分がしでかしたことの意味に気づき、血が一気に顔へ上った。


「あ、いや、別にそういう意味じゃなくて! いつもの仏頂面に比べたらましって事で、褒めたわけじゃ!」


 必死に言い訳するグリーシャを、『マリア』は口をあけて見、髪をかき上げそっぽを向く。


「馬鹿じゃないの」


 表情は陰になって見えない。声音は相変わらず平坦で、変化を見出すことはできなかった。


 そのまま気まずい沈黙が落ちる。グリーシャは耐えきれなくなって立ち上がった。早足で荷物置き場へと戻る。道中、頭の中をぐるぐると纏まらない思考が駆け巡る。なんであんなことを言ってしまったんだ。ナンパ男じゃあるまいし……。


「ねえ」


 声が聞こえてどきりとしたが、なんとか平静を装い振り返る。彼の背後、二メートルの間隔を置いた場所に『マリア』が立っていた。


「なんだよ」

「名前」

「は?」


 『マリア』の口から出た単語が何を意味するのか分からず、聞き返す。彼女は余所を見ながら、世間話をするよう、今度は少し長い言葉を告げた。


「貴方、なんていう名前?」


 『マリア』はは、自分の名前を聞いているのだ。そう理解して、グリーシャは思わず笑ってしまった。なぜだかわからないが、名前を聞く彼女というのがひどく滑稽に思えたのだ。


「笑わないで頂戴――で、教えてくれないの?」

「前に言ったじゃないか」

「そうだったかしら。覚えてないわ」


「じゃあ今度は覚えてくれ。グリゴリー・イワノヴィチ・セミョーノフ。グリーシャでいい」


 『マリア』はやはり世間話の口調で「そう」とだけ言った。それきり口を開かず黙々と歩き、グリーシャを追い抜いていったので、話は終わりと思い、彼も彼女の後ろについていく。


「……マリア・クリスティーネ・フォン・プファルツ=ノイブルグ」


 独り言のように淡々と告げられた呪文は、しかしグリーシャに向けられていたらしい。彼女は、返答を待つように歩みを止める。こちらが首をかしげると、もう一度同じ調子で言った。


「私の名前。マリア・クリスティーネ・フォン・プファルツ=ノイブルグ」


 彼女が自らの名を告げたことが信じられなく、驚くべき偶然の一致に気づくのが若干遅れた。なるほど、結局彼女は『マリア』様だったわけだ。そう聞くと不思議に彼女の名前は『マリア』以外あり得ないような気がしてくる。


「長いな。舌噛みそうだ」 


胸中に広がっている、暖かいスープを飲んだ時のような、なんともいえぬ心地よさを悟られぬよう、憎まれ口をたたく。


「一々フルネームを呼ぶ人なんてほとんどいないわよ」

「じゃあ『マリア』で?」

「貴方にそう呼ばれると馬鹿にされている気分だわ」

「クリスティーネ」

「気持ち悪い」

「フォン・プファルツ・ノイブルグ嬢」

「アホじゃないの?」


 それなら結局「お前」しかないじゃないか。グリーシャが眉をしかめると、彼女がぽつりと告げる。


「――ミミ。私のあだ名。まだこっちのほうがマシよ」


相変わらず険のある口調だが、不思議と不快には思わなかった。


「それなら噛まずに済みそうだ。よろしく頼む、ミミ」

「調子にのらないで、セミョーノフさん」

「やめろよ、学校の先生みたいだ。グリーシャで良いといったろ?」


 相変わらず表情の乏しい彼女は、眉をちょっとすぼめただけだが、グリーシャはその裏にわずかなためらいがあるのを感じ取った。とらえ方によっては「恥ずかしがっている」ように見えないこともない。この少女、案外内気なのか知らん。


「ほら、試しにグリーシャって言ってみろよ」


面白がって促すが、彼女はそれを無視し、面倒臭そうに歩き始める。「じゃあ俺もフォン・プファルツ・ノイブルグ嬢って呼ぶからな」と言うと、しかめっ面で振り返った。


グリーシャは期待を込めたまなざしを送るが、彼女はまるでそのあだ名が禁忌であるかのように、口を開きかけてはつぐみ、グリーシャの視線を避けるように背を向ける。そのせいで顔は見えなくなったが、所在なさげに掌を握ったり開いたりしているのが、彼女の心境を表していた。たかだかあだ名を呼ぶのにそんな決心がいるのかと思いつつ、そろそろ許してやったほうがいいかと声をかける直前、彼女は意を決したようにふう、と息を吐いた。


「……グリーシャ」


かすれた声で言った瞬間、彼女の耳の端が紅潮したのを、グリーシャは確かに見て取った。そこまで恥ずかしがることもあるまいに、と思うが、今までのようにピシャリと拒絶するのではなく、わずかに親しみが混じっていたその声音はなんとも心地よく、同時にやたらとこっ恥ずかしい。


「ま、まあ。ちょっとぎこちないけど、一応合格点だな」

 照れ隠しの一言に、ミミは顔を赤くしたまま、渋い表情を浮かべる。

「……意地が悪いわね、野蛮人は。お礼を言う気もなくなるわ」

「礼? なんの礼だよ」

「何って……さっき、私を、その、助けて、くれたじゃない」


ミミが何を指して「さっき」と言っているのか少し考え、落ちてくる彼女を受け止めようとした事ではないかと思い当たる。


「なんだ、あんなの。大して役に立ってもないし、気にするなよ」

「でも、やっぱり、その、ありがと……」


モゴモゴと言いよどみ、最後のほうは殆ど聞き取れなかったが、それでも彼女は確かに「ありがとう」と言った。その律儀さがおかしくて、グリーシャは笑みが毀れるのを抑えられない。


「わ、笑わないで頂戴! もういい、今の取り消し!」

「へいへい、俺はなんにも聞いてませんよー」


そそくさと歩みを進めるミミに、グリーシャはニヤニヤしながらついていく。それきり二人とも二の句は告げず、また無言の時間が始まったが、少なくともグリーシャは今までのように気づまりだとは感じなかった。


          ***


あの猫が縁結びの精霊だとは思わないが、この後、二人の関係は短時間で急速に改善に向かい、結果、その晩に薪を囲み、相変わらず滋養以外のすべてを無視した乾パンを齧る頃には、友人の失敗談とか、自慢話とか、隊の愚痴とか、適当な話題で驚くほど盛り上がった。冗談を言い合って笑い転げるとは、一晩前に誰が想像できただろう。太陽が彼方の稜線に沈み、お互いの輪郭が宵闇に溶けてもまだ会話は途切れず、いつ寝入ったかすら覚えていなかった。


先入観無しに彼女と話していると、意外に表情豊かであったし、それが楽しかった。よく笑い、怒る。彼女のくるくると変わる表情を楽しみながら、こういうのが続くなら、珍道中も悪くはないなと思うのだった。


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