第4章 1

翌日、昼。太陽は軌道の頂点を超え、徐々に西の地平線へ進路を向けている。数時間ほど歩いても、あたりの風景は判を押したように変わらない。同じ所をぐるぐる回っているのかと錯覚してしまう。額に滲んだ汗を拭い、弱気になりかける心に鞭を打って、足に力を込める。


「まだ出られないの?」


 『マリア』が聞く。グリーシャは振り向きもせずに「ああ」とだけ言う。このやり取りも何度繰り返したかわからない。最初は数文節に分けていた返答も、今ではなげやりな単語だけとなっている。


「……最悪」


 また彼女の「最悪」だ。ルーシ語は文法も発音も完璧なくせに、語彙は少ない奴である。


「……本当に最悪。なんでこんな事に」


 ボソリと言う『マリア』。おそらくグリーシャに聞かせるつもりはなかったのだろうが、耳に入ったので皮肉交じりに答えておく。


「俺の記憶が確かなら、どこぞの『マリア様』のわき見運転が原因だな」


 どんな答えが返ってくるかと思ったが、予想に反して『マリア』は怪訝な顔をするだけだった。


「何言ってるの? 私が竜をどう扱おうと、貴方には関係ない話じゃない」

「大ありだ。おかげで爺さんからもらった大切な相棒を亡くした」

「それはお気の毒。だけど、竜騎兵が戦場で竜をやられたところで、相手に文句を言うのはお門違いよ。それに、私も貴方の間抜けなお仲間に自分の竜をやられたわ」


そっけなく言う『マリア』。表面上はただの物騒な世間話だが、どうもかみ合っていない。グリーシャは違和感の原因を考え、どうやら戦場の空で間抜けな交通事故を起こした相手が誰だか気づいてないのかもしれないと思いあたった。


なるほど、彼女にしてみれば目が覚めたら見知らぬルーシの軍人と小屋の中二人きりだったのだから、それを衝突の相手と結び付けられないのも無理からぬ事だ。


「なによ。言いたいことがあるならはっきりいって。私、回りくどいのは嫌いなの」


別に今更隠すことでもないので、グリーシャは自分を指差し、「あの時お前と衝突したの、俺」と言い、ついでに「おまえ、すごい悲鳴あげてたな」と付け足す。


「……あっ」


やっと気付いたらしい。『マリア』は目を見開き、今までも決して友好的とは言えなかった態度をさらに五割増しで硬化させる。


「貴方だったの、あの時の馬鹿竜騎兵!」

「馬鹿は余計だよ」

「最悪、ほんっとに最悪……今まで黙って私のことをからかってたのね」

 

黙っていたわけではなく、ただあえて言う事もないだろうと思っていただけであるが、それを口に出したところで火に油を注ぐだけだろう。なにしろ『マリア』は相当頭に来ているらしく(まったく濡れ衣もいいところだ!)、手が真っ赤になるほどに握り拳を結んで、人が殺せそうなくらい鋭い眼光を投げつけている。


「この下手くそ、愚図、ノロマ。何が助けてやったよ、全部貴方のせいじゃない。ルーシもタカが知れてるわね、こんなド阿呆でも竜騎兵になれるなんて。さすがは野蛮人だわ、すっとこどっこいの大馬鹿野郎……!」


 声こそ荒げないが、恨み骨髄といった様子。なかなかどうして罵声の種類も豊富である。だが口喧嘩ならこちらとて負けていない。


「仕方ないだろ。あの時は竜が怪我をしていて、ろくに言うことを聞いてくれなかったんだ。責任はむしろお前にあるんだぞ」

「なにそれ、どういう意味」

「自分の胸に聞いてみるんだな、迷子めが」


 グリーシャがそういった瞬間、『マリア』は顔をかっと赤くした。やはりそうだったのか。


「やーいやーい。ろくに航法も出来ないくせによく空を飛べるもんだなこのへたくそー」


 仕返しとばかりにはやし立ててやる。『マリア』は反論できないらしく、髪の毛を逆立て、銀狼のごとき双瞳をさらに吊り上げる。まだまだ経験が足りんな、出直してきたまえ。ヒステリー寸前の『マリア』を見下ろしながら勝利の味を噛みしめるが、残念ながらそれは早計だった。


「――最悪」


 『マリア』は唐突にそういうと、すうと息を吸い、かっと目を見開き、


「あれ見て」


 と遠くを指差した。有無を言わせない語調に、グリーシャは思わず彼女の示す方向へ振り向く。が、はるか遠くにかすんだ山脈があるだけで、特に変わったところは見受けられない。なにもないぞ、と視線を戻す直前、みぞおちに強烈な衝撃が走った。

声にならない声が漏れる。視線の先には、見事なパンチを放った小さく細い『マリア』の腕。いったいどこにこんな力を秘めていたのか。


「げほっ……ちょっ……おまえっ……」

「様は無いわね」


『マリア』は勝ち誇ったようにふんぞり返り、グリーシャの眉間に人差し指を突き付ける。


「さあ、これ以上痛めつけられたくなかったら地図を頂戴。私も鬼じゃないから、貴方が後ろをついてくるくらいは許してあげるわ」


 今の一撃で、二匹しかいない群れの序列が決まった事になっているらしい。が、グリーシャとしてはそのような横暴が許容できるはずもなかった。


「ふっ……ふざけんなよ……今のっはっ、ふ、不意打ち……ちょっと、油断しただけだ!」

「知ったことじゃないわね」

「休戦中の攻撃は重大な国際犯罪だ……!」

「なによ、やる気? なら私も思う存分やらせてもらうわよ」

「はっ、望むところだ……ルーシっ子の実力を見せてやる!」


 息を整え、肩にかけていたバッグを投げ捨てる。なにやら趣旨が変わってしまったが、二人とも山道を歩きづめでどこかおかしくなっていたらしく、違和感なしにこの展開を受け入れた。


にらみ合っていたのは一瞬で、すぐに『マリア』が飛びかかってきた。グリーシャもどっしり構えて迎え撃つ。


『マリア』がグリーシャの腕に噛みつき、グリーシャはお返しとばかりに彼女の髪の毛を引っ張る。抱き合うようにゴロゴロと地面を転がり、『マリア』の片腕をがっちりと固めたと思いきや、彼女の指がグリーシャの咥内に突っ込まれて鋭くひっかきまわされ、たまらず手を離す。


お互いがマウントポジションを取り合い、相手の体力を奪い合う。グリーシャは顔を狙わず――断じて言うが、これは決して手加減などではなく、本能的に存在する打ち破りがたい抵抗故である。もはや金狼と化した彼女を相手に手加減などすれば、たちまちボロ切れにされてしまうだろうから――宿舎で鍛えた技を武器に関節を極めようとする。だが瞬発力に勝る『マリア』は器用に避け、一撃必殺の鋭いパンチやキックを繰り出す。


 お互いの誇りをかけた決闘は、数分か、あるいは数十分続いたのち、『マリア』が一瞬の隙を突いて放った見事な右フックによって終わりを告げた。脳天を揺さぶられ、膝から崩れ落ちたグリーシャに、『マリア』はニードロップで無情な追い討ちをかける。勝負あった。


「ふん、ざまないわね」


 およそお嬢様らしくないセリフを言い、高らかに勝利を宣言する。グリーシャはよほどパンチがきれいに決まったようで、未だに天地が動転していた。


「くそっ、まだ終わっちゃ……」


 そのセリフは、こちらの頭をがっしと掴んだ彼女の手で遮られた。徐々に握力が強められ、そのたびに無表情で「まだやるつもり?」と尋ねる彼女に、グリーシャはついに屈する。


「まっ、参った、参りましたからとりあえずその手を離しいてててててぇ!」

「離してほしかったら地図をよこしなさい」


 それはだめだ。これが彼女の手に渡ってしまえばすべてがおじゃんになる。グリーシャはとっさに地図をパンツの中に突っ込んで『マリア』を睨んだ。


「ほ、ほしけりゃどうぞご自由に、『マリア様』」

「っ……最悪。この変態」


 ほほを染めながら、しぶしぶ手を離す。流石にこの小さな群れのリーダー――いや、ボスと言ったほうがしっくりくる――も男の股間に手を突っ込むほど大胆ではないらしい。グリーシャは肩をすくめ、服の泥を落とす。


徐々に冷静になり、こんなくだらないことで体力を消耗してしまった事がばかばかしく思えてくる。それは『マリア』も同じらしく、急に無言になると、きまりの悪さを紛らわすように体を眺めまわし、服の袖をまくった。


「……切り傷」


 グリーシャに告げるとも、独り言ともつかない言葉。彼女を見ると、確かにその白い腕の上をうっすらと紅い筋が走っている。放っておいても問題ない程度だが、『マリア』はまるでグリーシャのせいで数万の兵士に死が訪れつつあるかのようにこちらを睨んだ。


「包帯。持ってきて」

「それくらい自分で……」


『マリア』はみなまで聞かず、獲物を狙う動物のごとき目をさらに細め、無言の圧力でボスの威厳を見せつけた。グリーシャは仕方なく、先ほど鞄を投げ捨てた方へと歩いていく。


まったく、とんでもないのを拾ってしまったものだ。これじゃいつ寝首をかかれるかわかったもんじゃないぞ。よんどころない現状にため息をつきながら、食料入れも兼用している黄色い緊急用医療セットの袋を探す。が、なかなか見つからない。おかしいなと鞄の底の方を覗きこんでいると、突然「にゃあ」という気の抜けた鳴き声が耳に入った。


顔をあげると、目の前にでっぷりと太った野良猫がいた。黒と白が奇妙なバランスで混合された毛色の、何とも貫禄のある奴である。その眼前には件の黄色い袋。野良猫は器用に袋のひもを解き、今まさに乾パンの袋に手、いや前足をつけようとしているところだった。


 猫とグリーシャの目が合い、しばらく硬直する。その均衡を破ったのは、『マリア』の「ねえまだ……なに、そのぶさいくな猫」という言葉。偶然か必然か、「ぶさいく」の部分で猫がいきなり毛を逆立て、巨体に見合わぬしなやかさでグリーシャにとびかかる。


「うわあ!」


 鋭い爪を一閃、猫はグリーシャの顔に赤い装飾を何本か書き込み、返す刀で『マリア』を切りつけようと前足を振りかざす。だが『マリア』は電光石火のごとく身をひるがえし、その刃をかわす。猫の前足はむなしく宙を漂い、それを見た『マリア』は反撃態勢を取ろうと姿勢を低くする。形勢不利と見た猫は退転、一目散に森へと逃げ込んでいった。その口には次の町へ辿り着くまでの、文字通り生命線である乾パンが入った袋。グリーシャはとっさに叫んだ。


「追っかけるぞ!」

「なんでよ」

「食料も一緒に持ってったんだよあいつ!」

「……!」


 猫に勝るとも劣らない身のこなしで森に駆け込んでいく『マリア』を、グリーシャも必死に追う。彼女も先ほどの(至極無意味な)喧嘩のために体力を消耗しているはずだが、まるでたっぷりと睡眠をとって万端の準備を整えたかのような勢いだ。あるいは「食糧」が彼女の力を底上げしているのかもしれない。食い意地の張った奴だ。確かに燃費は悪そうだが。

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