行間 1
すやすやと眠りこける野蛮人を、私は静かに見つめた。
茶色い髪の毛に黒い目。肌の色は浅黒く、田舎くさい目鼻立ち。典型的なルーシ人。憎むべき相手が目の前にいるのに。どうも調子が狂う。
最初からそうだった。山小屋で目を覚まして、目に入ったのが男の半裸。淑女の嗜みをうっかり忘れ、思わず暴力的行為に走ったとて、一体誰が責められよう?
不幸なことに、混乱状態にあった私は、間抜け面で通じない説得をするこの男に、同じ言葉で返してしまった。一生の不覚だ。
久しぶりのルーシ語なので錆び付いていると思ったが、案外スラスラと口から出てきた。一旦喉から出してしまえば、もう止まらなかった。野蛮人の驚き顔を見るのが痛快ですらあった。
一通り警告の言葉をぶつけはしたが、野蛮人の事だ、お構いなしに襲ってくるのだろうと思っていた。望むところだ、返り討ちにしてやる。身構える私の予想に反して、野蛮人は「協力してここから脱出しよう」と提案してきた。どころか、「私を助けた」とのたまったのだ。
野蛮人が誰かを助けるなど、あり得ない。私はもちろん信用しなかった。トラキアの誇りを守るために反抗もした――結局、野蛮人の口車と見せかけの善意に乗せられてしまったが。転ばせて手を差し伸べるなど、よくよく卑怯な手を考えつくものだ!
小屋の中で憎き存在を横目にしながら、私は考え方を変えることにした。これはいい機会かもしれない。目の前に無防備な野蛮人がいる。隙を見て後ろから襲うくらい、赤子の手を捻るようなものだろう。この機会を逃す道理は無い。野蛮人を、とびきり残酷に引き裂いてやるのだ。
それから暫くは、床に転がった文鎮を投げつけようか、イスをふりあげようかなどと考えていた。悲鳴を上げる野蛮人を想像するのは小気味よかったが……いざ実行の段になると、なかなか踏ん切りがつかない。ぐだぐだと躊躇っている内に日も暮れてしまい、私はひとまず計画を延期することにした。急いては事を仕損じる。明日仕切り直せばいいだけだ。
その夜、野蛮人から非常食を手渡された。硬いブロックを齧った一瞬、冷い雨と、温かい背中の感触が思い浮かび――そのおぼろげな記憶が何故か野蛮人と結びついてしまったのは、あの時の私が相当弱っていたからに違いない。野蛮人が隣に居るのにもかかわらず、不用意に眠ってしまったのが何よりの証左だ。
翌日、森の中を黙々と進む間も、野蛮人は私の意識を乱した。何より嫌だったのが、まるで友人のように馴れ馴れしく話しかけてくる事だ。こちらとの会話を望んでいる風ですらあった。ルーシ人の友? 考えただけで身の毛がよだつ。
とにかく、この男は軽薄で、意識が足りない。私たちは敵同士だというのに。
悪気はないのだろう。ただ野蛮人として育ったが故に、礼儀と衿持を知らない。生まれながらに下根の質なのだから、相手をする必要はない。私は望まれる対応を忠実に実行しながら、なお拭いがたい違和感を覚えていた。
そして極めつけは、先ほどの台詞。私の問いかけに、奴はなんと答えた?
違う、あまりに違う。私の中のルーシは黒く、汚らわしいのに。
「……最悪」
今日一日、この懐かしい単語がルーシ語でよく漏れる。『彼女』もしばしばこの言葉を口にしていた。尤も『彼女』は私と違って、いつも楽しそうだったが。
『彼女』との思い出は、黄金の日々と地獄の光景が入り混じり、身体に浮かぶ黒い腫瘍として私を苛んでいた。太陽のような彼女の頬笑み。歪んだ母の顔。父の言葉。私の誓い。
わかっている。この野蛮人を屠ることは、私にとっての贖罪となり得るのだ。既に多くの機会を逸している。この次はいつになるかわからない。だから、さあ今こそ。
今日一日で何度聞いたかわからない心の声。私はそれに従い、傍らにあった石を持ち上げ、野蛮人に狙いを付けて――結局、それを取り落とした。
(臆病者……)
自分を叱りつけ、腹立ち紛れに砂を掴んで野蛮人へ投げつける。パラリと顔に砂がかかり、嫌そうに寝返りを打った野蛮人は「もう炒り豆は嫌だ……」と訳のわからない寝言を漏らした。
私は頬杖をついてそれを眺める。これが憎むべき存在だと思うと、拍子抜けだ。
毒気を抜かれてしまい、ふわあ、と欠伸が出た。まあいい、時間はまだたっぷりある。ゆっくり機会を伺おう。それまでは観察期間。近代戦のかなめは情報だというから、これは必要な手続きだと思えばいい。なるほど、そう考えると随分気が楽になる。
高揚感に包まれながら、私はいつの間にか心地よい眠りに落ちていた。
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