第3章 4

ああ、なんということだ。状況はさらに悪化してしまった。広場で倒木に座りながら、グリーシャは唸った。正面の『マリア』は無言、ただひたすらに無言で薪を見つめている。


 ただでさえ最悪に近かった関係は、まさしく最悪に陥った。事務的な会話すらままならず、何かの拍子に目でも合おうものなら、すかさず舌打ち。グリーシャの周囲五メートルには絶対に近づかず、その領域を一歩でも破れば彼女は三歩遠ざかる。「悪かったって」と話しかければ、「黙って」の一言。


 今現在、時刻は深夜、恐らく一時過ぎ。月が高々と空に浮かび、星が瞬く。虫たちがここぞとばかりにやかましく音楽を奏でているが、グリーシャ達の周りだけはまるで暗闇に音が吸い取られているかのように静かだ。


正面の『マリア』はなんども瞼を閉じかけるが、そのたび必死に頭をふり、キッとグリーシャを睨みつけ、意地を張るように眠らない。こちらはこちらで、今目をつむってしまえばもう現状を改善することは不可能ではないかという観念にとらわれ、精神が睡眠を拒否していた。


「……なあ『マリア様』。俺が悪かったからさ。もう少し、こう、友好的にさ」

「黙れ」

「別にナイチチだっていいと思うぞ。世の中にはそういう需要も――」


 すべて言いきる前に、彼女のすさまじい眼光がグリーシャを貫いた。余計なひと言だったようだ。グリーシャが咳払いをすると、『マリア』はフンと鼻を鳴らして俯く。


(こういう空気は苦手なんだよな……)


木の枝で薪をひっかきながら、グリーシャは頭を抱えたい気分だった。現実は小説のようにいかない。英雄譚どころか、これじゃ珍道中だ。改善しようと何か話しかけるたび、かえって相手への印象が悪くなっている。


じゃあ話しかけなければいい? しかし、旅の道連れが終始無言なのは気が滅入るだろう。いや、道連れにも色々あるし、そもそもバーバルは仲間ではないじゃないか? それを言うなら……。


いつのまにか頭の中で問答が始まり、あっという間にグリーシャの思考は「自分たち」に占拠される。


彼女はこちらと交わる事を望んでいない。だったら何をしようと無意味じゃないか。まさしくその通りだが、沈黙は苦手だ。だからといって一方的に喋るのでは片手落ちだろう。無言よりはいくらかマシと言えるよ。それだけか? 適当な理由を付けているが、本音を言うと彼女が気になっているんじゃないかな、グリーシャ!


「そんなわけないだろ」


思わず口に出てしまう。あんな爆弾みたいなお姫様を。


 グリーシャは、多少なりとも妙な事を考えてしまった自分を戒めるために、相変わらずこちらを仏頂面で睨みつけているであろう『マリア』に目を向けた。が。


「……すぅ」


 寝ていた。いや、多少の意識はあるかもしれないが、こっくりこっくりと舟を漕ぐ姿からは、もはちやこちらに反応する余裕は見えない。


 グリーシャもだいぶ瞼が重くなってきた。日中は歩きっぱなしで、疲労は極限に近い。もはや薄れゆく意識を繋ぎとめる必要性もなく、思考に靄がかかってくる。


目の端では、『マリア』が意識と無意識の境を彷徨っている。頭が動くたびに、金色の髪がさらりと流れ、その隙間から顔が覗いた。あどけない表情は無防備極まりなく、危うさすら感じる。グリーシャはぼうっとその姿を眺め続ける。


――みてみろ、かわいい寝顔じゃないか。


再び頭の中で自分が言う。グリーシャは慌てて「ひっこんでろ」とつぶやいた。もういい、俺も寝よう。腰掛けていた倒木を降り、寝ころんで空を見上げる。


満天の星。ついこの間は、竜の背中から同じ星空を見ていた。たかだか数千メートルしか違わないのに、ここからの景色はずいぶん狭く感じる。


さあ、と風がそよぎ、心地よく頬をなでる。ここ数十時間はいろいろな事がありすぎて、ゆっくり考える事も出来なかった。だから、こんな夜、眠りに落ちる前は、ぼうっと思索にふけりたくなる。柄にもないな、と思いながら、色々な考えが頭をよぎっていった。


「……小さいな、人間って」


 普段なら絶対に縁の無いだろう、歯の浮くような言葉が、自然と口をついて出てくる。誰に向けたわけでもない、完全な独り言。


「魚みたいに水にも潜れない。木のように何百年だって生きられない。今だって、竜なら半日もかからない道を抜けるために四苦八苦だ」


 揺らめく炎は、輪郭をぼやけさせる。眠気は、心のタガを外す。だからだろう。とりとめのない思考が口から洩れるのも、不思議と止める気にならなかった。


「その小さい人間が、せせっこましい土地を取り合って殺し合いだ。考えてみると阿呆臭いな」


 隊長のサーベルが刺し貫いた若いバーバル。彼の最期の顔が思い浮かぶ。理解できない異国の言葉で、彼はなんと言い残したかったのだろうか。


「不思議だな。こんなこと、今まで考えたこと無かったのに」

「……なんで」


 ふと、思考に『マリア』の声が割り込む。


「なんで、私を助けたの?」


グリーシャはごく自然に、それに応えた。


「別に。なんとなくさ」

「何となく?」

「……そうしなきゃいけないって、思ったから。ま、スグに後悔したけどな」


 ひとり自嘲気味に笑う。『マリア』からの返答はない。あるいは、先ほどの言葉も夜の悪魔が幻聴を聞かせたのだろうか? 


視界がぼやける。パチパチと薪のばぜる不規則なリズムが、グリーシャを無意識へと誘う。 


「貴方も、同じ事を言うのね」


夢とも現ともつかない一瞬、誰かがそんな事を言った。訊き返す前に、グリーシャの瞼が落ちる。それきり、すべてが闇の中へ消えていく。

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