第3章 3

考えてみてほしい。時計もなく、市庁舎の鐘の音もなく、頭上で輝く太陽の角度だけが時間の経過を示す中、自分に敵意を持った他人を背中に、延々変わらない景色を眺めつつ、道なき獣道を登る――なんと素晴らしい試練だろう! 少なくとも、グリーシャはこれに比類する刑罰を思い浮かぶほど挑戦的な想像力は持ち合わせていなかった。


とはいえ、何事にも終わりはある。既に日は陰り、西の空が赤く染まり始めている現在、二人とも息が上がり、行軍速度は朝の半分に満たない。森の中で野宿におあつらえ向きの空間を見つけるや否や、グリーシャはぴたりと足を止めた。


「……今日はここらで休憩だな」


 『マリア』に向けていったのか、独り言のつもりだったのか、自分でもはっきりしない。歩き詰めだったため、足の疲労は相当なものだ。立ち止まったことで、余計にそれが感じられる。


「意気地がないのね、野蛮人は」


 後ろをついてきていた『マリア』が、歩みを止めたグリーシャに言う。だが、その表情はいくらか安心しているようでもあった。


 肩から荷物を下ろし、近くの倒木に腰を掛ける。『マリア』はそこからきっかり三メートル離れて地面に座った。


 それきり、無言。昨晩と同じ、嫌な重圧が空気の粘性を増加させる。耐えられたのはほんの数分で、グリーシャはすぐに立ち上がった。


「……薪を調達しに言ってくる。あんたも適当に探してくれ」


 グリーシャは森の奥へ歩きながら、深くため息をついた。今日彼女が発した言葉の数はせいぜい十。元々は敵同士なのだから一定のわだかまりは仕方あるまいが、それにしても異常だ。よほどルーシが憎いか、それともグリーシャが気に入らないか、あるいは両方か。


まったく、これなら軍基地の宿舎に居るほうがよっぽど良い。厳しかったし、不満もあったが、それなりに楽しかった。そういえば、トーシャや部隊の人たちは大丈夫だろうか。皆無事に帰りついていればいいが――。


 そのようなことを考えながら、一抱えほど薪を拾った。荷物を置いてある空き地に戻る。『マリア』はいない。言われた通り、薪拾いにでも行ったのだろう。


グリーシャは適当な場所で薪を組み上げる。空は朱色を通り越して真っ赤に染まり、気の早いフクロウがホウ、と鳴いた。


 しばらく『マリア』を待つが、なかなか帰ってこない。いったいどこまで行ったのだろうか。迷っているのかもしれない。探しに行くか、いやいっそこのままうっちゃってしまうか、などと考え、ふと鞄の口が開いているのに目が行った。はて、と思いひっくり返してみると、『マリア』の軍服一式がなくなっている。


「……逃げた?」


 いや、でも地図は自分の手元にある。道案内なしでこの森を抜けようなどと、流石に無謀だ。不吉な予想を打ち消そうとズボンのポケットに手を入れ――ない。地図が入っていない。


 さあ、と血の気が引いていく。まさか、先程まで間違いなく手元にあったはずなのに……いや、まて。最後に出した後、自分は地図をどこにしまったのだったか。うっかり鞄の中に突っ込んだりしなかったか? あるいはどこかで自分が落とし、彼女が拾った? どちらも十分あり得る話だ。


いずれにせよ、まずいことになった。自分は人質と帰り道をいっぺんに失った!


(い、いや、落ち着け! まだそんなに遠くには行っていないはずだ!)


 混乱する思考を必死になだめる。とにかく彼女を探さなければならないが、闇雲にうろついても見つかる可能性は低い。もう日はとっぷりと暮れているし、下手に動けば遭難の可能性すらある。


逸る気持ちを抑えながら手がかりを求めてあたりを見回すと、目の端にブーツの足跡を見つけた。森のほうへ伸びている。大きさから見て、『マリア』のものに間違いない。


「こっちか!」


 数分ほどでグリーシャは足跡の列の最先端へ達した。割合に大きな泉のほとりで、野宿場所からはそれほど遠くない。周囲の緑と、澄んで青々とした湖面の対比が美しかったが、グリーシャはそれを楽しむどころではなかった。


 無計画に畔を歩き回る。入り組んだ形の泉は、あちこちに伸びる木の枝のせいで死角が多く、なかなか姿が見えない。もしかしたらここで足跡を消して、すでに遠くへ行ってしまったかも知れない。そうなったらもうお手上げだ――。


と、グリーシャは木陰になにか黒い塊がこんもりと盛り上がっているのを認めた。近づいて見れば、『マリア』の軍服である。


何故こんなところに、と物色すると、軍服だけでなく今日彼女が着ていた服も出てきた。その下には小さな丁字型の白い布きれ。女性用の下着だった。思わずまじまじと凝視してしまう。どういうことだろうか。彼女の着られる服は全てこの場所にあるのだから、これじゃあ彼女は今素っ裸でないか。


「Wahen sind du, Sir Hentjoun?」


 嫌にはっきりとしたトラキア語。振り向くと、タオルを体に巻いた『マリア』が湖のほとりからグリーシャのことを無表情に睨んでいた。


「……え?」

「何をしているのか、って聞いたの。別に答えなくてもいいわ。予想はつくから」


 目まぐるしい事態の展開に、グリーシャは混乱した。『マリア』が身につけているのは、決して厚手とはいえないタオル一枚のみ。湿ったそれは彼女の体のラインを艶めかしく浮き上がらせる。濡れた髪が頬に張り付き、そこから雫が垂れるさまはいかにも扇情的だ。


「いや、違うんだ、これはその」

「違う? 何がどう違うのかしら、興味あるわね。まず手の中にあるものついて説明して頂戴」


 言われて、自分が右手でしっかりと下着を握りしめている事を思い出す。


「あ、いや、これは……そ、それより、お前こそ、こんな所でなにやってるんだよ」

「見ての通り、水浴び。せめて休む前に汚れを落とすくらいは許されるべきだと思うけれど」


 その回答は全く明確で正しい、故に反論の隙もない。結局数秒の時間稼ぎにもならず、再び攻勢に回る彼女。グリーシャは頭を抱えたい気分になる。


「で、私の質問には答えてくれないのね」


 蔑みの視線は、場合によっては敵意よりも受け止めがたい。グリーシャはその事実を、まさにこの瞬間知った。


「待て、落ち着いてくれ。お前が状況をどう解釈しているかは知らないが、誤解だ。姿が見えなかったから、どこをほっつき歩いているのかと探しに出て、そしたら偶然これが目に入って」

「目に入って、手に取って、握りしめたと」

「ごめんなさい」


 謝罪は自分の非を認めることになる。それは理解していても、ほかにこの場を切り抜ける方法が思いつかなかった。男子の本能を怨む。


「そう――いいわ。私も不用意だったし」

「だからごめんなさいって……え?」

「許すって言っているの」 


予想外にあっさりとした結末に、やや拍子抜けする。


「どいて。着替えたいから」


あくまでも事務的な対応。彼女が平然としていることは喜ばしい。喜ばしいが、一方で自分が男性として意識されていないような対応は面白くない。こちらは彼女のシルエットを頭から追い出そうと必死なのに。


「なに? 邪魔なんだけれど」


 棒立ちのグリーシャに眉をしかめる『マリア』。グリーシャは苛々しながら目をそむけ、言う。


「言われなくても退くさ。ナイチチを覗いたっておもしろくもなんともない」

「――なんですって?」


 刻一刻と移り変わる状況を敏感に感じ取る能力は、竜騎兵に必須である。その点、この時のグリーシャは不合格であったと言わざるを得ない。彼は気付くべきだったのだ、それ以上口を開いてはいけないと。


「おまえみたいなペッタンコの裸は御免だって言ったんだ」


売り言葉に買い言葉。グリーシャにしてみればそれ以上の意味はなかったが、それを受け取った『マリア』の表情がすっと変わる。その変化は笑顔に取れないこともないが、狼が犬歯を剥き出しにして威嚇する時もやはり見た目は笑顔に見えるという。

ここでやっとグリーシャは多少の違和感を覚えたものの、一度喧嘩腰になってしまった手前、そう簡単に矛を収める事は出来ない。


「はん、気にしてたのか、ナイチチ。まあ十七でそれはちょっと厳しいものがあるな、確かに」

「また、言った」


 深く静かな声音。こめかみにうっすらと浮かび上がった血管。それらが如実に彼女の内心を表している。グリーシャは事態が急速に悪い方向へと進んでいくのを感じとったが、既に遅きに失していた。


「最悪。ほんっとうに、最悪」

「……あれ?」


 あまりの迫力に、グリーシャは思わず一歩引く。彼女は一歩前に出る。

「私だってね、努力はしてるのよ」


「努力、って」

「でもね、どうしようもないのよ。色々試したけど、このまんまなのよ」

「そ、そりゃお気の毒」


 火に油。鬼の形相から、鬼も裸足で逃げ出す形相へと変化する。


「私がこの世で一番嫌いなもの、教えてあげましょうか」

「いや別に」

「三つあるの。一つ目はルーシ人。もう一つは胸の大小をとやかく言う人。最後は、その両方」

「ず、随分具体的だな」

「因みにね、そういう人と出会った時にどうするかも決めてるの。今はとっても気分が良いから、特別に教えてあげる」

「いやあ、謹んで遠慮し」

「Du jhoine idionuis!」 


怒りで顔を真っ赤にした『マリア』が、グリーシャの鳩尾に拳を突き刺した。すさまじい衝撃。肺が瞬間的に機能を停止し、酸素不足で意識が飛びかける。それを必死につなぎとめようと片膝をつき、その拍子にシャツの胸ポケットからぽとりと地図が落ちた。


そうか、道理でズボンのポケットを探しても見つからなかったわけだ。グリーシャがひぃひぃと息を整えながらそんな事を頭の端っこで考えている間に、『マリア』は着替えを済ませ、肩をいからせその場を去った。

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