第3章 2
しばらくは険しい獣道が続いていく。グリーシャは地図とコンパスを照らし合わせながら、鬱蒼と茂る木の間をゆっくりと歩いて行った。時折後ろを見ると、彼女は常に三メートルの間隔を保ってついてくる。その視線は周囲の雑木林に向けられていて、グリーシャのことなどまるで道端の石のように気にしていないというそぶりだ。
「おまえ、名前は?」
特に意図があったわけではなく、無言のままでは気が滅入るというだけの理由で、そう聞く。
「こういうときは自分から名乗るべきじゃないかしら」
バーバルも投げやりに返す。まあ、無視されなかっただけマシだろう。
「俺はグリゴリー・イワノヴィチ・セミョーノフ。グリーシャでいい。そっちは?」
「私は――」
彼女はそこでふと言葉を飲み込んだ。
「野蛮人には教えない」
「はあ?」
グリーシャは歩みを止めて振り返った。彼女は足元に視線を落としたまま、こちらとの間合いを計るように立ち止っている。
「……はいはい、わかりましたよ。それならあんたの名前は『マリア・イヴァーノヴナ・イワノヴァ』だ」
呆れ半分で両手を上げ、ルーシで氏名不詳の女性を指す際に使われる名前を口にする。『マリア』は一瞬驚いたようにこちらを見たが、グリーシャは気に留めず再び足を動かし始める。
「さて、呼び名も付いた所で『マリア様』にもう一つ質問。随分達者なルーシ語だが、いったい何処で習ったんだ?」
これは最初から気になっていた事だ。彼女のルーシ語は発音もしっかりしているし、語彙も完璧である。ちょっとかじっただけならこうはいかない。
「……別に」
彼女の返答はそっけないが、構わず訊き続ける。
「バーバルの学校ってのはそんな気合入れて語学やってるのか?」
「さあね」
「どれくらい勉強したんだ?」
「ご想像にお任せするわ」
「つーかお前年幾つ?」
「百万歳」
「当ててやるよ。そうだな、十五歳ってとこか」
「じゃあそれでいいわよ」
「それなら俺のほうが年上だ。やーいちびっこー」
「……十七歳よ」
「へえ。それじゃあ同い年だな」
「どうでもいいわ」
「兄弟とかはいるのか?」
「教えない」
「あ、そうだ。もしかしてお前の身近にルーシ人がいるんじゃないか?」
「なんでそんなこと聞くの」
「お前のルーシ語が上手い理由。ルーシとトラキア、今でこそ戦争ばっかりしてるけど、大昔はひとつの国だったんだろ? ひょっとしたらその線かな、と思ってさ」
「……黙って」
「お、図星? ひょっとしたら……」
「黙りなさい!」
その瞬間、彼女はそれまでになく激しい口調でグリーシャの言葉を遮った。驚いて『マリア』の顔を見ると、彼女は無表情の下に明らかな負の感情を漲らせ、それ以上この話題に触れることは許さない、とばかりにこちらを威嚇している。
「……わ、わーったよ、黙るよ」
これまでとは質の違うむき出しの敵意に戸惑いながらも、質問をひっこめる。何が気にいらなかったのだろうか。まったく扱いにくいお姫様だ。
とにかく、早い所森を抜けてしまおう。自然と速まるグリーシャの歩みに少し遅れて、『マリア』の足音の間隔も短くなっていく。一瞬調子がずれたのは、つまづきでもしたのだろう。
「……最悪」
彼女が発したその言葉には、先ほどの底冷えするような感覚は残っていなかった。
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