第3章 1

朝の陽ざしが瞼を刺し、グリーシャは目を開いた。眼前の光景に見覚えがなく、一瞬戸惑う。


霧のかかった思考のまま、無意識に体を撫でる。下着の裾に押し込んでいた地図が手に触れ、これまでの出来事を思い出した。ああそうだ、自分は今、ベルンの森の小屋にいる。


あたりを見回す。バーバルは毛布にくるまったまま床の上で寝息を立てていた。いつの間にか雨は止んでいたらしく、窓の外で小鳥が軽やかに歌っている。朝の七時前といったところだろうか。燦々とした日差しが見る間に部屋の影を追いやっていく。この分だと、昼ごろにはずいぶん暑くなる筈だ。


あくびを噛み殺しながら、これから自分がするべきことを考える。主として食料の問題から、あまりこの小屋に長居はできない。またいつ雨が降り出さないとも限らないし、遅くとも午後までには出発したいものである。


バーバルはまだ目を覚まさない。昨日の出来事を思い起こせば、この狼のような少女を無理やり叩き起こすのは蜂の巣に手を突っ込むようなものだ。自然に覚醒するのを待つほかにない。


初秋の柔らかい日差しは眠気を誘う。手持無沙汰な事もあり、再び瞼が重くなり始めた。体だけでも動かしておこうと、グリーシャは荷物をまとめにかかる。


食料などの入った袋を肩にかけ、箪笥の中から見つけたバッグに生乾きの軍服を押し込む。やはり昨日箪笥を漁って見つけた粗末な皮ズボンと厚手のシャツを着る。これから数日、場合によっては数週間を過ごすための旅装としてはやや頼りないが、ありもので我慢するしかない。


準備が終わり、ひと息つく。バーバルは眠りこけたままだ。小さく丸まり、体を静かに上下させている。無防備な姿は妙に扇情的だが、それを眺めて一日を無駄にするわけにもいかない。グリーシャは覚悟を決め、その肩に手を伸ばす。


と、手が触れるか触れないかの所で、彼女が寝返りを打った。驚いて手を止める。毛布が微妙にはだけ、白い太ももが露わになった。


「……ん」


甘えるような声が、バーバルの口から洩れる。それを聞いたグリーシャの鼓動が、突然大きくなった。彼の全身を奇妙な痺れが襲い、それを抑えつけようとすればするほど、彼女の肢体がとてつもなく鮮やかなモノに思えてしまう。穏やかな風にそよぐ麦穂のような髪。東の国の白磁もかくやと言わんばかりに滑らかな肌。その横顔は古代の女神を象った彫刻のよう。


奇妙な感情を必死で押し込め、グリーシャはあくまで平静を装い、彼女の肩に手を乗せる。


「……ふっ……ぅ」


瞬間、バーバルがもう一度、今度はさっきより大きく吐息を漏らした。それがグリーシャには銃声のように思えて、我知らずに飛びあがってしまう。その拍子に椅子に足をぶつけ、がたん、と大きな音がした。


「――Wahen!?」


突然の出来事に、バーバルが飛び起きた。グリーシャと目が合い、戸惑ったように首をかしげる。まだ寝ぼけているのかもしれない。


「よ、よう。よく眠れたか」


 バーバルは数秒、うす眼で何かを考えていたようだが、グリーシャの視線を追って自分のあられもない姿に気づき、慌てて毛布を手繰り寄せた。


「寝ている間に何かしなかったでしょうね」

「あ……当たり前だ」


 バーバルは敵意というより羞恥の視線でグリーシャを睨みつけながら、毛布の中で何かを確かめるようにごそごそと手を動かす。


「本当に、なにもしてない?」


再びグリーシャの方を見つめ、いぶかしげに言う。


「だから、してないって」


彼女はまだ疑わしげだったが、グリーシャは背を向けると、逃げるようにそこを離れた。


既に先ほどの奇妙な痺れは引いていた。ふう、とため息をつき、かぶりをふる。トーシャが見たら大笑いするだろう。奴がここにいなくて良かった。


「……ちょっと」

「なんだよ」

「私の服。どこ?」


 毛布に包まってしゃがんだまま、バーバルが聞いた。グリーシャがわざとぶっきらぼうに部屋の隅を指差すと、彼女はそちらに歩いていく。


「……最悪。乾いてない」


 未だに水が滴っている軍服をつまみながら、不満そうに言う。


「これ着ろよ。どっちにしろ軍服じゃ目立つしな」


 グリーシャは引き出しにあった服をバーバルに投げた。彼女はそれを一瞥して、一言。


「酷い服ね」

「文句があるなら裸で歩け。別に止めないぜ」

「最悪」


 グリーシャにはわからないバーバルの言葉でなにやら文句を垂れながら、毛布をすっぽりかぶり、端っこで着替えを始める。その間にグリーシャは乾パンを齧り、地図を机の上に広げた。


まずは人里に出て、宿や食糧を調達しなければならない。幸いなことに、現在地点からそう遠くない場所に小さな町があった。うまくいけば二、三日で到着できる。


「着替えたわよ」


 不機嫌極まりないといった感じの声に振り返る。バーバルはクリーム色の木綿シャツを着、その上に擦り切れたチョッキをはおり、くたびれた皮ズボンをサスペンダーで支えていた。ややサイズが大きいらしく、袖が手のひらの半分ほどを隠している。センスもなにもあったものではない。バーバルにはそれが受け入れ難いらしく、まるで自分が裸であるかのようにほほをあからめ、体を丸めている。


グリーシャは先ほどの奇妙な痺れが蘇ってくるのを感じた。辛うじて「おう」とだけ反応すると、務めて彼女の姿を意識から取り除くべく、地図に集中する。


「で、これからどうするのかしら」

「小屋を出て、国境近くまで歩いて行く。今俺たちがいるのがここ。まずは国道に出てこの町を目指す。急がないと野宿だってうおわあ!」


説明を終える前に、バーバルがいきなりグリーシャの体を押しのけた。不意打ちで体のバランスを崩し、肩から床に落ちる。バーバルは間髪入れずに手を地図に伸ばす。グリーシャはほとんど本能的な反応で地図をひっつかんだ。机の上をバーバルの手が掠める。


バーバルはなお狼のような俊敏さでグリーシャにとびかかってくる。体を転がしてそれから逃れ、不格好ながらもなんとか立ち上がる。突然のことに呆然とするグリーシャ。バーバルはいまだ目的のものがグリーシャの手の中にあるのを認め、


「……最悪。しくじったわ」


と舌打ちをする。


「てめっ……いきなり何しやがる……!」


 グリーシャの当然の抗議に、しかし彼女は涼しい顔で答える。


「私達は敵同士よ、馴れ合おうと思わないで」


 そう言い残し、スタスタと歩いて行くバーバル。なんて奴だ。グリーシャは少しでも彼女の事を意識してしまった事を後悔しながら部屋を出た。

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