第2章 3

「ちょっちょっちょ、ちょっとまてよ!」


グリーシャはバーバルの予想外の行動に狼狽していた。おかげで上半身裸のまま雨中へ飛び出しそうになった。部屋を出る前に慌てて上着を羽織ったが、シャツは脱いだまま小屋に置いてある。ボタンの金属部分が腹に当たり、冷たいというよりは痛みを感じた。


「来ないで!」


 バーバルは振り返りもせずにそう言い、早足で進んでいく。グリーシャもなんとか追いつこうと足を速めるが、その差はいっこうに縮まらない。


「落ち着けよ! 女ひとりで何ができるっていうのさ! どうせ森の中で野垂れ死ぬか、女衒につかまって売り飛ばされるのがオチだ!」


そんな言葉をかけ続けて十数分。バーバルは根負けしたのか、足を止めて振り返る。


「来ないでって言っているでしょう!」

「冷静になれって! この雨の中じゃどうしようもないだろ!」

「黙れ!」

「じゃあこのままずぶぬれであてもなく彷徨い続けるってのか?」

「野蛮人と過ごすくらいなら、そのほうが幾らかマシよ!」

「ああもう、埒が明かない……!」


頑なにグリーシャの提案を拒むバーバル。折角小屋へ逃げ込んだのに、これでは意味が無い。


「とにかく、雨が止むまでは待てよ!」


グリーシャの必死の説得にも耳を貸さず、バーバルは再び歩き出す。グリーシャは慌てて彼女の手を掴んだ。


「触るな!」


バーバルは声を荒げて手を振り解こうとする。グリーシャもムキになり、腕に力を込める。力比べはしばらく続いていたが、雨でぬかるんだ地面がバーバルの足元をすくった。


「きゃっ……」


 たまらず尻もちをつくバーバル。グリーシャは予想外にか細い悲鳴に狼狽し、直前の喧嘩じみた口論を思わず忘れ、彼女の腕を握っている手から力を抜いた。


「あ……すまん。大丈夫か?」


いったん手を離すと、今度はそっと手を差し出し、助け起こそうとする。バーバルはきょとんとそれを見つめていた。


「ほら、悪かったよ。とにかくさ、ここに居ちゃまずい。お互い頭を冷やして……」


バーバルはおっかなびっくり腕を伸ばし――手が触れる直前、ハッとしたようにその動きを止めると、ぴしゃりとグリーシャの手を叩いた。吐息も荒くこちらを睨んでいたが、戸惑うグリーシャを見て、バツが悪そうにそっぽを向く。


「誰が……誰が野蛮人の手なんか握るもんですか」

「なっ……」 


これまで忍耐強く彼女を説得していたグリーシャだが、その言葉にはカチンときた。こちらが親切にしているというのに、付けあがって……(その親切は彼女を騙くらかす為なのだが、そんなことはもはや大した意味を持たないと、少なくともこの時のグリーシャは思っていた)。


「わかった、もういい!」


 グリーシャはかなり強い口調でそう言った。バーバルはビクリと体を震わせたが、それでも虚勢を張るように眼を細め、眉の端を吊り上げる。


「お前が雨の中あてもなく彷徨って、揚句野垂れ死にしようと俺は知らない、どうにでもすればいい。この世の終わりまで森の中を彷徨ってるが良いさ。幸運を祈るよ、三日も立たずにあの世行きだろうけどな!」


グリーシャが出まかせにまくし立てている間もバーバルの反抗的な表情は変わらなかったが、その目の中に少しずつ不安の色が見えてくる段になって、今度はこちらが嫌な気分を味わう事になった。告げる言葉もなくなって十数秒。グリーシャははあ、とため息をつく。


「俺は戻る。言っとくけど、国に帰るには地図が必要で、それは俺が持っているんだ。お前はそこで雨ざらしのまま倒れるか、獣に襲われて肉の塊になるか……屋根のある場所で考え直すか、好きにしろ」


そう吐き捨て、小屋への道を戻る。ちらりと後ろを覗き見ると、雨にけぶる森の中、バーバルは四メートルの距離を保ってグリーシャの後ろについてきていた。

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