第2章 2

屋根のある場所は、案外簡単に見つかった。墜落地点から二十分も離れていない場所に、山小屋があったのだ。


グリーシャは小屋に入ると後ろに背負ったバーバルを下ろし、近くに置いてあった粗末な椅子に坐った。バーバルは予想していたよりもずっと軽かったが、それでも人一人担いで森の中を歩きまわるのは重労働に違いない。背中の筋肉がひきつるのを感じて、ため息をつく。


 辺りを見回す。どうやら猟師が山籠りのために使っているところらしく、熊のはく製などが無造作に飾ってある。猟の時期はもう少し先なので、人の気配はしなかった。


 一息つける状況になって緊張が弛緩したらしく、足や手がしびれたようになる。しばらくぼうっと虚空を見つめながら、グリーシャは状況を整理しようと努めた。墜落してからどれくらいたっているのか。他の仲間はどうなっているのか。そもそもここはどこなのだろう。バーバルの領内でなければいいが。


何か手掛かりはないかと椅子から離れ、部屋の中を歩く。家具の類はほとんどなく、ベッドが一つと小さなタンス、それに埃を被った机が申し訳程度に設置されている。机の引き出しを開けるが、中から出てきたのは使い古されたペンと文珍だけ。


何も無しか、と視線をあげると、壁にやや小ぶりな地図が貼られているのが目に入った。グリーシャは画鋲を抜いてそれを剥がし、机の上に置いた。境界線と主要道路、さらに幾つかの地名が書き込まれている。中央やや右に赤い印が書き入れてあるのは、ここが現在地という事だろうか。地図のてっぺんに二つの言語でタイトルが書いてある。ひとつはバーバルの言葉らしく、理解する事は出来ないが、もう一つは慣れ親しんだルーシ語だった。


「ベルン誓約者同盟全国地図」。その文字を見て、グリーシャはやっと、正しい地理的情報を得る。なるほど、ここはバーバルの国でもルーシでもない。中立国ベルンだ。おそらく戦闘中に迷い込んでしまったのだろう。なんということだ、隊長が「ベルンには絶対に侵入するな。国際問題になる」と口を酸っぱくして言っていたのに。

さらに拙い事に、墜落時の気流が予想以上に早かったのか、あるいは自分の戦場での迷走が酷すぎたのか、印で示された部分はルーシやトラキアとの国境からだいぶ離れていた。国境沿いの山脈を越えてしまっているため、安全にルーシへ向かうためには大分遠回りしなければならない。地図に書き込まれた道路を指で辿り、所要時間を予想する。ルーシとの国境線(そこはトラキアとの戦争における現在の前線でもあった)まで歩いていくとしたら、最低でも二週間はかかるだろう。


「こりゃあ面倒なことになったな……」


 騎兵学校で教わった知識によれば、交戦国の兵隊が中立国に侵入する事は戦時法で固く禁止されている。仮に官憲に見つかってしまった場合、戦争が終わるまで抑留が基本だ。


 冗談じゃないぞ。自分は撃墜王になって、トーシャ達を見返してやるのだ。こんなところで燻っていてたまるか。頭をカリカリと引っ掻き、どうにかしてこの国から脱出しようと頭をひねる。その拍子に、髪の毛からポタポタとしずくが落ちた。


そういえば、軍服も水浸しのままだ。いったん意識すると湿って重くなった服がひどく煩わしく思える。タオルの類も見つからないし、脱いでしまおう。なに、バーバルは気絶したままだし、気兼ねする事もない。


グリーシャは水を吸った上着とズボンを脱いだ。シャツが体に張り付いてひどく気持ち悪いので、それにも手をかけて放り投げ、半裸になる。と。


「Die sind ehouxe? Raich ane…」


後ろで声がした。驚いて振り返る。


バーバルが目を覚ましていた。青い瞳を眠たげに細め、立ちあがって辺りを見回し、首をかしげている。


 やばい。本能的にそう思う。自分は男で、バーバルは女。辺りには二人以外誰もおらず、そして最悪な事に、自分は半裸。


「Und――」


 ふと目が合って、グリーシャは射抜かれたように硬直してしまった。バーバルは意識がはっきりとしてきたらしく、光が戻った眼を訝しげに瞬かせると、ぺたぺたとこちらに歩いてくる。


何とかしなければ。口を金魚のようにパクパクさせるが、手遅れだった。グリーシャの目の前で立ち止まったバーバルは、その顔にはっきりと驚きの表情を浮かべている。


「Auf…Aufwed gare!」


 びっくりするくらい大きな声と共にバーバルが放った右ストレートは、寸分の狂いもなくグリーシャの鳩尾を貫いた。その衝撃に思わず意識が飛びかける。足に力をこめ、辛うじてへたり込むことは避けたものの、痛みで動けない。バーバルははじけ飛ぶように後ずさると、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけた。


「Sh’ent an er! Des Aufwed!」

「ちょ、ちょっと待て……俺は別に」

「Shat dane! Den bin barbalia, Dant’die? Kine comen!」

「だから待てって……」

「Ur sain! Inf she ner moue bin, Ich totte dich!」


 グリーシャが呼吸困難の中で無理やり絞り出した言い訳の欠片にも耳を貸さず、後ずさりしながら喚き散らすバーバル。机の上に置いてあったメモ用紙やら鉛筆やらを見つけると、手当たり次第にそれを投げつけ、しまいには文珍まで持ち上げてきたものだから、グリーシャはさすがに焦った。とにかく落ち着かせようと、手を広げる。

「違う、違う! とにかく落ち着いてくれ!」


「Die, busihok bin der Barbalia…!」


 しばらく奇妙な問答が続いた。バーバルは手を胸に当て、内股になって姿勢を低くし、威嚇するように歯を見せる。長い金色の髪の毛からは水滴がしたたり、床にこげ茶色の染みを作る。グリーシャはゆっくり近づいていったが、そのたびにバーバルも一歩下がる。バーバルの背中が壁に達したところで、彼女はいきなり文鎮を投げつけてきた。


「うわっ……」


 文珍は狙いをそれ、ごとんと音をたてて床に落ちる。一瞬遅れて、全身から嫌な汗が噴き出てきた。


「なんて事すんだよ!」


 バーバルは尚も攻撃態勢を解かない。このまま近づけば腕にかみついてきそうな勢いだ。グリーシャは彼女に接近するのをあきらめ、言葉での説得に切り替える。意味が伝わるとは思えないが、何もしないよりはマシだろう。


「あ、あのな。気持はわかるが、もう少し冷静になってくれ」

「……」

「あんたに危害は加えないさ。わかるか? 危害、加えない。な」

「……」

「私、なにも、しない。あなた、わたし、ともだち」

「……素っ裸で迫ってきた奴にそんなこと言われて、信用するほど馬鹿に見える?」


 一瞬、それがルーシ語だと理解出来ず、グリーシャは思わず「え?」と聞き返してしまった。


「ルーシ……野蛮人め。何が目的? 食べたって美味しくないわよ」


 極めて流暢な文法で発音の訛りもなく、グリーシャは逆に違和感を覚えてしまう。金髪碧眼のバーバルが、まるで母国語のようにルーシの言葉を操っている。


グリーシャは一歩前に出て口を開こうとしたが、その前にバーバルが「動くな!」とドスの利いた声で叫んだ。それでグリーシャは委縮してしまい、何も言えなくなる。


「家の恥になるくらいなら舌を噛み切って死んでやるわ。その前にあんたのナニを噛み切ってやるから、覚悟して頂戴」

 

バーバルは早口でぶつぶつ言いながら、グリーシャと一定の距離を保ち、警戒の眼差しを送り続けている。


しばらくの間、こう着状態が続いた。グリーシャは彼女が発する威圧感を受け止めきれず、きょろきょろと視線を彷徨わせる。


ふと、彼女の胸元のペンダントが視界に入った。そういえばこいつと衝突した時にも目に入ったが、はて、冷静に考えてみると妙である。純粋な装飾品のように見えるが、軍人がそのようなものを身につけることなどできるだろうか。グリーシャは目を細めてそれを注視する。ペンダントには紋章のようなものが彫りこまれていた。その図柄はどこかで見たことがある。


「……そうだ、トラキアの銀獅子」

 

思わず声をあげる。バーバルはびくりと力んだが、何を言ったかまでは聞きとれなかったようで、わずかに困惑の色を見せる。グリーシャはとっさに口を押さえ、もう一度、今度は頭の中だけでその言葉を繰り返した。


トラキアの銀獅子。トラキアにおける貴族の証である。なぜ自分がそんなことを知っているかというと、騎兵学校で教えられたからだ。


バーバルは戦場での一番槍を最高の名誉だと考えており、突撃の際は常に身分の高い人間が先頭に立つらしい。が、ただでさえ危険な場所に、『銀獅子』などという目印を付けて立つ彼らは、文字通り射撃の的だ。戦う相手にしてみればこれ程有難いことはなく、当然、ルーシの兵はその各種育成課程において「銀獅子」の見つけ方を叩き込まれる。グリーシャとて例外ではなく、騎兵学校の教育は、彼をトラキア貴族の判別方法に関する一端の通へと仕立て上げていた。


例えば、一番格下なのが銅色のプレートに獅子一頭。色が銀、金に変わったり、獅子の数が増えればランクが上がる。金に三頭以上の獅子は皇帝家ゆかりの名門貴族だけしか身につけることを許されず、さらに王冠が付くと帝位継承権百位以内というおまけが付いてくる。


さて、目の前のバーバルが身につけているのは、金色のプレートに五頭の王冠を被った獅子。つまり、この華奢な少女は相当位の高い貴族という訳だ。


グリーシャは唐突に、隊内で流行っていた通俗小説の事を思い出した。とある平民がひょんなことから冒険に旅立ち、数々の困難を乗り越えて敵の親玉を捕虜にとり、母国に凱旋。王様からたっぷりと褒美をもらい、貴族の身分になって幸せに暮らしました、目出度し目出度し、というやつだ。


皆口々にその荒唐無稽さを馬鹿にしつつも、なんだかんだでページが擦り切れるほど読み込んでいたものである。


翻って、今自分が置かれている状況。不幸にも戦で墜落し、生存は絶望と思われていた兵士が奇跡の生還。しかも手土産は敵国のお姫様ときたものだ。


もしかしたら、自分が冒険の主人公になれるかもしれない。そう思ったとたん、得体のしれない高揚感に包まれた。エースどころの話じゃない。うまくいけば一代貴族の位だって貰える。グリーシャは早くも国王陛下に叙勲される自分の姿をはっきりと思い浮かべていた。


「……気味が悪いわね、ニヤニヤして」


その言葉で、はっと我に返る。そうだ、バーバルは多少警戒を緩めているようだが、まだどんな行動をするかわからない。慎重に行動しなければ。これから数分の振る舞いで、自分が英雄になれるかどうかが決まるのだ。


「あー、えーっと……その、なんだ。まずはお互いの無事を喜ぼう。三千メートルの高さから落ちてほとんど怪我もないなんて、神様の思し召しだよ」


努めて友好的な笑顔を浮かべようとする。多少声が震えるのは、この際仕方ない。


「それで、だな。こんな状況だし、ひとまず敵味方は忘れないか? 別に俺はお前をどうこうするつもりはない。むしろお前の命の恩人なんだよ」

「恩人?」

「そう。わざわざお前を担いでこの小屋まで歩いてきたのはこの俺だ。危害を加えるつもりならとっくにしているさ」

「……」

「な? だからいったん休戦といこう。それに、ほら、ここは中立国ベルンだ。戦闘行為は禁止されているって事くらい、お前も知ってるだろ」


 そう言ってグリーシャは手の中の地図を掲げる。


「俺らが出会ったのも何かの縁だ。こんな辺境に留まっているのは、お互い損だと思わないか? 一人より二人、この国を出るまでは一緒に行動する。悪くない案だろう」


 いかにも善意の提案というふうに言う。自分の演技力も中々のものである。


「二週間も歩けば大きめの町に出られる。そこでお互い本国に連絡を取ればいい。あとは迎えを待つなり、国境まで歩くなり、好きにすればいいさ」


 当然、本当に好きにさせるつもりはない。途中で本国と連絡を取れれば、国境近くに到着するころにはルーシの部隊が待ち受けている。そこで彼女は御用となり、自分は晴れて英雄の称号と勲章をもらえるという寸法だ。ルーシ万歳! 


――そんな夢想をしり目に、バーバルはぷいとそっぽを向くと、ドアを開け、雨が降りしきる森の中へと歩き出した。

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