第2章 1

最初に回復したのは嗅覚だった。息を吸うと、鼻孔が湿った土の匂いで満たされる。うっすらと目を開けると、黒と茶色が入り混じったような色の大地が大写しになった。


体の節々が鋭く痛みを発する。手をついて顔を上げ、朦朧とした意識のまま辺りを見回す。


そこは見知らぬ土地だった。鉛色の空と、くすんだ緑色の木々。色素の薄い世界の中で、遠くに見える山だけがはっきりと白黒に浮き上がっている。


頭をぶんぶんと振り、無理やりに脳を覚醒させる。我が身に起こった事を、おぼろげながらも思い出してきた。そうだ、自分は出撃して、敵に奇襲されて――撃墜された。


 我知らずにため息が出る。大戦果を上げるどころか、碌に銃を撃つ事も出来ずに空をうろうろと飛び、バーバルに狙撃され、挙句落伍者と衝突して墜落。そのまま今までこんな場所で眠りこけていたとは。自分がたまらなく情けない。


 傍らを見ると、彼の竜が石のように横たわっている。確かめるまでもなく、息絶えていた。彼に対しても申し訳なく思う。自分がもう少しよくやっていたら、こんな事にはならなかっただろうに。


 我が身の方はどうだろう、とあちこち眺める。ところどころ擦り傷が出来ているし、軍服は泥だらけだが、奇跡的に大きなけがはしていないようだった。筋肉痛のような違和感こそあるものの、歩くくらいなら問題ない。緊急時の医療器具や保存食を詰めたバッグも、体に巻きついたままだった。


「……どこだ、ここ」


 ポロリと漏れる言葉に、答える者はいない。辺りには人工物もなく、その風景はまるで原初の時代から変化していないようだった。太陽は雲に覆われて、姿を確認することはできない。分厚いコートの隙間から冷気が侵入してくる。


「誰か、いないのか」


その声も湿った大気に吸収されていくだけで、鳥の囀りすら聞こえない。木々だけが不気味にざわめいている。


「おーい……」


 もう一度、今度は少し大きめに呼びかける。やはり返答はない。どうやら霧が出てきたようで、視界が徐々に乳白色に覆われ始めている。


唐突に、グリーシャは強烈な不安に襲われた。誰にも知られることなく、ここで哀れに朽ちていく自分の姿が頭をよぎり、堪らず叫ぶ。


「誰か! 誰でもいいから答えてくれよ!」


 早足であたりをうろうろしながら声を振り絞るが、それも結局徒労に終わり、いよいよ恐怖がグリーシャを包んだ。


勘弁してくれ、と心の中で呟きながら、へたりと坐り込む。ひょっとするとここはもう死後の世界で、自分は墜落して死んでしまったのかもしれない。そう思えば、確かにこの光景は幼いころ見た地獄絵図に似てない事もない。とすると、自分は結局天国には行けなかったのか。畜生、せめてもうちょっとカッコよく死にたかった。


どうする事も出来ないまま、再び辺りをぐるりと見回す。別に何か目新しいものがあるわけでもなく、近くにポツンと大きな岩が転がっているくらいだった――いや。


(なにか、いる?)


よく見ると、岩陰から何か細長いものがひょっこりと突き出している。目を細めてみると、どうやら動物の尾っぽらしい。赤い鱗が張り付いているところなど、竜のようにも見える。


グリーシャは生き物の痕跡を見つけて安堵し、立ち上がってそれに近づいて行った。もしかしたら同じように墜落した友軍かもしれない。あるいは自分の知らない猛獣の可能性もあったが、仮にそうだったとて、ぴくりとも動かないところを見ると、直近の危険はないだろう。それよりとにかく自分以外の存在を確認したかった。この色のない世界で一人きりという不安は、自分には重すぎる。


 遠巻きに岩の裏側を覗くと、予想通りそれは竜だった。そしてもうひとつ、予想外のものも発見した。竜の傍らに、見慣れない軍服を着た男が倒れていたのだ。


「……バーバルじゃないか」


 その時の気持ちを表現するのには、グリーシャの語彙は少なすぎた。自分以外の人を見つけたのは僥倖だが、それがバーバルとあれば、素直に喜んでいいのか分らない。


あたりを見回すが、他に人影は見当たらない。バーバルの首筋にかけられた金色の鎖は、空で意識を失う直前に目の前をちらついていたものとそっくりだった。おそらく自分と衝突した間抜けの竜騎兵がこいつなのだろう。そう思うと怒りが湧き上がるが、残念な事に彼はバーバルに鉄拳を食らわす勇気を持たず、かと言ってその場から離れるほど度胸があるわけでもなく、結局距離を保ったままでじっと観察するしかなかった。


傍らの竜は水晶のような目を虚空に向け、ぴくりとも動かない。完全に絶命しているようだ。一方で、バーバルの胸は微かに上下している。


「おい」


恐る恐るバーバルに呼びかけるが、返事はない。見た限り怪我をしている訳でもなく、時折寝言のように何か呟いていた。吐息は幼く、体型も小柄。あるいは自分より年下かもしれない。


グリーシャはバーバルの周りを数分程うろうろと歩き回った。石を投げ付けたり、落ちていた木切れでつついてみたりもしたが、反応らしい反応を示すことはない。

このままではらちが明かないと、意を決し近づく。息を止め、じりじりと歩を進めて、手が届くくらいのところでしゃがむ。


 バーバルは仰向けに転がったまま、静かに息をしている。鉄の帽子がわずかにずれていて、白い肌に影を落としていた。見たところライフルやサーベルは身につけていない。それに安心すると同時、グリーシャはバーバルの奇妙な特徴に気づいた。

胸が僅かに膨らんでいる。それだけではなく、よく見れば妙に丸っこいし、目鼻立ちにも違和感が……。


(こいつ、女だ)


瞬間、グリーシャの動悸が早まる。思考が急速に散らばり、軽い混乱状態に陥る。手のひらで顔をなでて意識を無理やりに結束させるが、心音はまだ早鐘のようで、完全に冷静になるにはもう数秒必要だった。


別に不思議なことではない、この世の半分は女だ……そう自分に言い聞かせ、なんとか緊張を抑え込むと、気を取り直して観察を続ける。


学校ではバーバルの容姿を「狼のような」と形容していたが、なるほど確かにくっきりとした鼻筋や、すっと通った顎の線や、彫刻刀で彫ったような眉は、家畜を狙う獰猛な獣に見えなくもない。ただ、そのどこか作り物めいている顔立ちと、雪のように白い肌を、彼は不覚にも少し美しいと思ってしまった。


 どうも調子が狂ってしまうな。そう思って立ち上がる。直後、鼻の頭に何か冷たいものが落ちた。手を突き出すと、ぽつぽつと透明な染みが広がっていく。


「雨た」


 最初は控えめに雫を垂らしているだけだった鉛色の空も、すぐ火がついたように泣きだした。コートの肩があっという間に黒くなり、堪らず森の中に避難する。


(しばらくは止みそうにないな……)


 無線通信機のノイズのような雨音を聴きながら、空を見上げる。どこか屋根のあるところを探さないと。


 ちらりとバーバルの方を見る。全身ずぶ濡れになっているが、それでも目を覚ます様子はない。このまま放っておけば体に障るだろうが、こちらも余裕があるわけじゃない。多少心苦しくはあるが置いていくしかないだろう。


「ま、気が向いたら迎えに来るさ」


 そう一人ごちて、背を向ける。一歩足を踏み出したところで、バーバルが苦しげに呻くのが聞こえた。振り返ると、僅かに眉をひそめ、吐息も荒くなっている。鉄兜がずり落ち、金色の髪が生まれたての子犬のように濡れて波打っていた。


 その姿を見て、グリーシャの良心がつぶやく。このまま放っておいていいのか? そのうち野犬の餌食になってしまうぞ。


だが、理性は反論する。あいつは敵だ。助けてやる義理はない。わざわざ荷物をしょい込むこともないだろう。


 グリーシャは理性に賛成なのだが、意志の力を総動員して歩みを進めようとしても、バーバルのうめきと良心の声に後ろ髪をひかれ、すぐに立ち止ってしまう。その間にも雨足は強くなっていって、グリーシャとバーバルの体を冷やしていく。


 数分間の煩悶の後、結局良心が勝利し、グリーシャは荷物をしょい込むことになった。

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