第1章 2

祖父はよく、「自分にとっては平和の方が非日常だ」と言っていた。それを証明するように、中学校で使っていた歴史の教科書は、ページの八割が戦争の名で埋まっていた。ちなみに残りの二割は自分達の敵、トラキアの悪口だ。


トラキア。正式な国号は「皇民並びに十二選帝侯が信任する帝王によって神とトラキア銀獅子の守護の下に正しく統治される諸王国および諸邦の連合」らしい。でも、グリーシャを含めたルーシ人は、トラキア人の事を、バーバル野蛮なものと呼んでいる。


トラキア人は野蛮人である。我ら善良なルーシ人とその国土を侵害せんと狙う陋劣の輩である。だから一刻も早くこの大陸から追い出さなくてはならない。結局のところ、戦争をする理由などそれで充分だった。


前の休戦はグリーシャが八歳の頃だったというから、去年の暮れまで続いた九年の平和は、随分長いほうだったのだろう。祖国は手際よく戦時体制へと移行し、国民は国家への奉仕を義務付けられた。徴兵もその一環で、中学校の生徒はグリーシャを含めて皆兵隊に取られた。


軍に入ったからには華々しい活躍を、と望んでいたグリーシャは、心配がる両親を尻目に、自ら前線行きを志願した。幸運な事に、彼は竜を扱えるという特殊技能を持っていたので――かつて竜騎兵として大祖国戦争を戦った祖父から、老竜を譲り受けて乗り回していたのだ――非常に有利な立場を確保していた。


というのも、ルーシ軍はその規模に比して竜騎兵の数が極端に少なく、従って騎竜技能を持つ人間は良質な金鉱にも劣らない価値を持つ。彼は上官からあっさり推薦を取り付け、即席教育の後にめでたく竜騎兵として配属される事と相成った。


今やグリーシャは、自分の前途に揚揚と英雄への道が開けている事を疑わなかった。だが、彼の自信は同僚にとって揶揄の対象でしかないらしく、事々にからかわれるのが気に入らない。


確かに今この空を飛んでいる十六人のうち、自分が一番の新人なのは間違いない。けれども、意思と能力があれば経験の差など些細なものだとグリーシャは信じきっていたし、それを周りに証明できると意気込んでもいる。


さあ、見ていろよ……自分を奮い立たせ、肩にかけたライフルを持ち直す。今回は奇襲。普段の夜間飛行では皆が手に持っているランプも、今日は隊長だけ。目的地までは、探知を避けるために中立国との境界ぎりぎりを飛ぶ事になっている。


今のところは予定通りだ。そろそろ突入の号令が出るはず。上手くやれば一気に撃墜王にだってなれる。大丈夫、やってやれるさ。


「総員、降下準備!」


 隊長の声が聞こえた。いよいよだ。


「いくぜ、グリーシャ。ビビんなよ」

「おまえこそ、トーシャ」


身震いする体をさする。手順通りにやればいい。闇夜に乗じて砦に突入し――


 ドン、という音とともに、辺りが煌々とした光に照らされた。何事かと思って天を見上げると、頭上にゆらゆらと白い光源が揺れている。照明弾だ。


 おかしい、とグリーシャは思った。事前の説明では、無灯火のまま攻撃する手はずになっていた。そのためにわざわざ面倒な夜間飛行訓練もしたというのに。計画が変更になったのか、それとも誰かがトチって誤射してしまったのかも。横のトーシャも状況を理解していないらしく、グリーシャの方をみてキョトンとしている。


 ――後になって考えると不思議なのだが、グリーシャたちはその時、最初に考慮すべき可能性をまったく見落としていた。


「て、敵襲!」


 その叫び声には、あきらかな狼狽と恐怖が潜んでいた。その事が何よりも自分たちの置かれた状況を表していて、グリーシャは瞬間、胸の奥に鉛が押し込まれたように硬直する。恐怖が体を駆け巡り、不意打ちのパニックでどう動けばいいかわからなくなる。そんな自分を情けなく思うほどの理性さえ残ってなかった。周りの騎士たちもほとんど同じような状態らしく、早くも編隊が乱れてきている。


「落ち着け、訓練通りにやればいい!」


 隊長の声も心なしか固くなっていたが、他にくらべるとまだいくらか冷静だった。グリーシャはその言葉で僅かに平静を取り戻す。こわばって動かない筋肉を引きちぎるようにして首を動かし、あたりを見回した。


「バーバル!」


 誰かが叫んだ。グリーシャはその言葉にびくりと体を震わせる。


「二時方向、やや下方! 数十五、距離五百、近づく!」

「射撃用意!」

 号令に合わせてライフルを構える。ボルトを引き、初弾を装てん。指示された方を向くと、白い光の中に豆粒のような何かが浮いていた。


「トーシャ、早くせんか!」


 年長の騎士が怒鳴り、トーシャは情けない声を上げる。それに茶々を入れる余裕もなく、グリーシャもカタカタと震えていた。


豆粒はどんどん大きくなり、いまや十数騎の竜騎兵がはっきりと見て取れた。こげ茶色のコートに白い革ベルト。鉄兜の天辺には槍のような突起が付いていて、その先端が威嚇するようにこちらを向いている。あれがバーバル。初めて目にする敵の姿に、ただでさえ速い心臓の鼓動がさらに高まる。


「まだだ、まだ撃つな!」


 隊長は振り上げた腕を中々振り下ろさない。バーバルのシルエットがどんどん大きくなっていき、グリーシャの心臓は張り裂けそうなほどに脈打つ。


 静かだった空に突然、バァンという火薬の爆発音が響き渡った。グリーシャはそれにつられ、反射的に引き金を引く。ほかの隊員も続き、稲妻のような閃きがまばらに迸る。


「待て、止めろ! まだ合図は出していない!」


 隊長が必死に叫ぶ。傍らではトーシャが「しまった」という顔でこちらを見ていた。最初の一発はトーシャの先走りだ――頭では理解していても、一度付いてしまった火はそう簡単には消えない。グリーシャは無我夢中で弾を込め、引き金を引く。


硝煙が視界を遮るように噴き出す。グリーシャは興奮しながらバーバルのいる方を見つめるが、彼らはまったくひるんだ様子を見せず、見事な陣形を組んだままこちらに銃口を向け続けていた。全弾外れ。混乱の中で碌な照準も付けられないのだから、当たり前の結果である。しかし、今のグリーシャにそんな考察をする余裕はなく、ただ焦りだけが増す。


「落ち着け、再攻撃用意! 今度は一斉射撃で……」


 ダーン、という遠雷のような炸裂音が、隊長の声をかき消した。次いでヒュン、という奇妙な響き。叫び声がいくつも聞こえる。振り向くと、年長の騎士が竜から転げ落ちて闇へと消えていった。バーバルが撃って来たのだ。


「マジかよ……!」


 トーシャが引きつった声を出す。グリーシャも吸った息を吐き出せず、代りに冷汗が噴いた。


「くそっ……近接戦闘よーい!」


 隊長が叫ぶ。バーバルはいつの間にか編隊の懐に潜り込んでいる。グリーシャはライフルを肩にかけなおすと、腰のサーベルを抜いた。


「――――!」


 バーバルの叫び声が聞こえるほどに、お互いの距離が近づく。竜から振り落とされないよう手綱を必死に握りながら、サーベルを突き出し、突撃態勢をとる。勢いあまって毛皮帽がずり落ち、頭が寒風にさらされる。


 バーバルの一騎がこちらに近づいてきた。相手の手にも剣が握られている。もう後戻りはできない。グリーシャは雄たけびをあげた。背中に背負ったライフルがガチャリと音を立てる。


 鈍い衝撃が体を貫く。竜同士が衝突したのだ。頭が揺さぶられ、視界がぶれる。それでもサーベルを必死で振り回す。


一瞬手ごたえを感じたが、鉄兜に当たっただけらしい。腕がはじかれ、切っ先が宙を向く。同時に相手の剣がこちらに突き出された。反射的に上半身をそらす。頬に痛みが走り、刃が掠った事を知る。息を荒げながら手綱を引っ張り、後ろを取ろうと動く。


いまや二騎は抱き合っているかのような至近距離にあった。バーバルの歯並びまでがはっきりと見て取れる中、サーベルを閃かせて犬のように相手のしっぽを追いかけまわす。


一瞬、お互いの目が合う。恐怖に歪むその顔は、グリーシャと同い年と言っても差支えないほどに若かった。その事に驚く。


「――――!」


 僅かに生じた意識の隙間を、バーバルの獣のような叫び声がこじ開ける。大変な迫力に、グリーシャはひるんでしまった。その隙を見逃すまいと、バーバルが剣を振り上げる。致命的な危険に対して脳が警告を発するが、体は金縛りにあったように固まって、目をつぶることしかできない。ひゅん、と剣が振り下ろされ、直後に鉄が肉にめり込む鈍い音がした。


 予想に反して痛みはなく、それどころか打ち付けられた衝撃すらなかった。うっすらと目を開けると、目の前にはバーバルでなく隊長の毛皮帽。


「馬鹿野郎、死にたいのか!」


 叱責が飛び出す。彼の持つ剣がバーバルの腹にめり込んでいる。バーバルは青い目を見開き、その口元が苦痛にゆがんでいた。


「――――」


 何かをつぶやく。隊長が剣を引き抜くと、バーバルは人形のようにうなだれ、ずるりと竜の背から崩れ落ちた。主を失った哀れな竜が所在なさげにどこかへ飛んでいく。


「しっかりせんか!」


 捨て台詞を残し、隊長はそのまま空戦の中心へと飛び込んでいった。グリーシャは間抜け顔を晒しながらそれを見送る。


 助かった、のか。現実感を無くしたままでぼうっとしていること数秒、突然に竜が嘶いた。今まで聞いた事もない、例えて言うならガラスの破片を踏みつけたように苦しげな声。


「なんだ、どうしたんだよ」


 竜に問う。だが、彼は答えずに荒い息を吐くだけである。よく見ると、その首筋に焦げたような黒い斑点があり、そこから真っ赤な鮮血が流れ出していた。


(……撃たれた!?)


 戸惑う間にも、再び竜がギャア、となき、今度は直前に風切り音が聞こえた。狙い撃ちされている。グリーシャはとっさに頭を下げて竜の背中に抱きつく。手綱を引っ張り、射界から逃れるべく急降下を命じる。が、竜がそれを実行する直前、音の速度を超えて突進してきた鉄の塊が、有り余るエネルギーで翼を貫く。


最初は豆粒のようでしかなかった翼の弾痕は、空気抵抗によって一気に引き裂かれ、たちまち竜とグリーシャの体重を支えていた揚力を引き剥がした。無事な片翼ではもはや高度を維持する事も叶わず、地面に向かってどんどんと落ちていく。コントロールは失っていないものの、基地への帰還は絶望だ。不時着しかない。


 眼下では相変わらず黒い森が手招きするように佇んでいる。グリーシャは息も絶え絶えの竜に拍車をかけながら、少しでも平坦なところを探そうと必死に目を凝らした。


 急激な動作をすれば一気に失速してしまうので、状況に不釣り合いなほど穏やかに手綱を操る。瞬きが出来ずに涙が乾き、徐々に視界が霞んでいく。


と、そこにバーバルの騎兵が飛び込んできた。戦闘をしているわけでもなく、僚騎も伴っていない。編隊から落伍したのだろうか。こちらには気付いていないらしく、操者はあさっての方向を見つめている。まずい、このままだと進路が交錯する。回避しようにも、竜はもはや言う事を聞く体力すら残っていない。


「どけぇ!」


 衝突の危機を感じたグリーシャは、大声で叫んだ。バーバルはぎょっとした様子でこちらを向き、すぐに慌てて手綱を引く。だが、遅すぎる。重力にひっぱられて増速したグリーシャの竜は、彗星のように突進していく。


「――――!」


 接触。バーバルの声はヒステリックに甲高かった。手をつなげるほどに近づき、お互い無意識に顔を見合わせる。相手は驚きと混乱で状況が飲み込めないようだった。自分もたぶん似たような顔をしているだろう。


グリーシャの竜はこの接触で完全にとどめを刺された。バーバルの竜に寄りかかり、だらりと動かなくなる。直後、強烈な遠心力がグリーシャを襲い、体が振り回される。完全に揚力を失った二匹の竜が、騎手ごと絡み合うように落下する。


バーバルが何かを叫ぶ。自分も何かを叫ぶ。二人の間に、一瞬奇妙な連帯感が生まれる。めまぐるしく変わる景色の中を、金色の何かが揺らめく。それがバーバルの首に絡みついたペンダントのようなものだとは辛うじて判別できたが、内臓がひっくり返るような強烈な不快感の中でそれ以上何かを考えることはできず、グリーシャは遠のく意識の中で神を呪う言葉を吐き出した。

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