第5話


夏海なつみちゃん」


彼女はそういった僕の声を噛み締めるように静かに目を閉じて深呼吸をする。

随分長い間彼女は自分の世界に浸っていた。

夕陽は今にも眠りにつかんとばかりに地平線へ潜り込もうというところ。


こんなのをいつもやっていたのだろうか。それなら一回ぐらい記憶があってもいいものだが。

僕はその状況をどうしたらいいかがわからないまま静かに彼女が話し出すのを待った。


やがて夕陽が沈み、空の赤が薄れ、夜の青がグラデーションを描き出した頃、ゆっくりと目を開けた冬谷ふゆたに夏海が、最初はどこを見ているかわからなかった眼を僕に向けた。


彼女の美しい眼は僕を見つめる。

仕方なくて、僕は彼女の眼を見つめ返す。

少しだけ蛇に睨まれた蛙の気持ちを連想する。

蛙っていえばこの状況に至るまでの道中、ミイラになった蛙を見つけたっけな。あれ見た時は絶望的だった。なんてそんなことまで思い出される。


こんなにも誰かの眼を眺めていたのはいつぶりだっただろうか。

手が震えてくる。眼は苦手だ。

特に彼女のような美しく澄んだ眼は。

なんだか、自分の中の何かを見られている気がする。


冬谷夏海は今の(高校生の)僕からすると一番怖い。

小3には見えないその眼が、あまりに複雑で繊細なものにみえて、触れ方がまるでわからない。


手を握りしめて震えを抑えた。

少しだけ早まる鼓動は呼吸を少し荒くする。


この間はきっとたった10秒ほどだった。

でも僕にはその10秒が永遠のように感じた。


ふと冬谷夏海が目線を夕陽のあった方へと逸らす。

少しだけほっとして、少し目線をそらしてまた彼女の言動を待った。

すると彼女はニッコリと笑って言った。


「ありがとう、春人はるとくん。またちゃんと戻ってこれたよ。」


当然今の僕に「また」の意味はよくわからなかった。やっぱり彼女はわからない。小学3年生にしてはあまりに複雑だと、今になって思う。得体の知れない恐ろしさみたいなものに捕えられた気分になる。

そんな自分を静かに隠して僕も笑った。

「そう。それはよかった。」




その後、僕と冬谷は別れ、自分の家へ向かった。

別れ際の彼女は明るくてよく笑う女の子に戻っていた。やっぱりよくわからない。

当時の僕は一体彼女の何が好きだったのだろう。


僕が家に着くと、母さんが丁度夕飯の支度をしているところだった。

自分の部屋に入り、少しだけ昔のままの部屋に懐かしさを覚えながらランドセルを置いて勉強机に向かって置いてある椅子に座り、背もたれにゆったりともたれかかる。


今も未来も変わらぬ天井の木目を見つめながら、今日1日(と言っていいのかわからないが)、あったことを色々と思い出して静かに考えた。

何を目的として"せかい"とやらが白也よりも僕を選び、こんなところに飛ばしたのか。

あの時、僕との会話を最後に忽然と姿を消してしまった彼女に関係があるのか。

そもそもこの作り話みたいな現実はどこから始まっていたのか。

彼女を思い出したのも、白也の誘いも、"せかい"の用意したシナリオの中の一部だったのか。

……全くなんの検討もつかない。


そんなことを考えていたらいつの間にか夕飯ができたらしい。

いい匂いと母さんの声に誘われてリビングに降り、夕飯を食べた。

その後風呂を済ませて部屋に戻り、これまた懐かしき「れんらくちょう」に書かれた、小3の宿題をササッとやった後すぐベッドに飛び込んだ。


一連の流れが懐かしかったが、よく考えてみればほんの数年前までしていた生活だったからなんのことない話だななんて思いながら、さっき考えていた続きをと思ったが、ぼんやり眠くなってきた。

どうせこのままじゃきっと来るであろう明日も、小3のままなんだろうと思うと今全部を考えてもどうにもならないななんて考えていた。

結局、そのまま僕はその睡魔に任せて眠った。


(おやすみ、はるとくん。)


とても懐かしくて、でも誰のものかわからない、そんな声が眠りに落ちる僕の頭の中に、静かに、響いたような気がした。



ーつづくー

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