第3話
「はあ、そりゃあ大変な話ですなぁ」
「ええ、そうなんですよ、もう」
弦之助は釣り糸を耳にあて、さもありなんと頷いた。
彼の同意に対して苦労を滲ませた声色を作ったのは、海面の下にいる人魚――というか人面魚である。彼は(便宜上彼と呼称するが)最近の苦労を弦之助らに語って、水中でぶくぶくと怒っていたのである。
「最近の陸のやつらはいけませんよ。何かと乱暴で、この間も仲間がひとり釣り上げられていきました。あいつはどうしているのか」
まさか一言も喋らないまま捌かれて刺身にされたとは言えない。
惨いことだ。姿が魚に少しよっているというだけで、問答無用で包丁を入れられ、それを悪いとも思われず殺されるのである。
彼らの心境というのは、自分たち人間が戦で身内を失うのと似ているのかもしれない。何処かの誰かが勝手に始めた戦いで、何処かの誰かが勝手に決めた線引きで、有無を言わせず命を奪われる。姿かたちの違いなど。そんなものは生まれつき決まっているものである。人魚、そうは呼びたくないが人魚たちの都合などというものは一切考慮されないのである。
思うに、国が違うだけで殺し合う我らが同胞である。肌の色が違えば、さらに言えば柔肌が鱗のくっついた肌であれば、それだけで十分殺戮の理由としては足るのだろう。悲しいことに、自分だって同じようにこの者たちの命など知ったことではないと思ってすら居た。
鈴千代の目が鋭角の三角形に変わった。
「
「いやいやいやいや、そりゃあ気のせいです。拙者がそのような、色欲に負けてあれこれとするような性格ではないということは、鈴千代どのがよくお解かりではございませんか」
彼は誓って言うだろう。旅の途中に鈴千代の寝具に手を掛けたことはないのだと。
恐らくそれは事実だ。たとえ、彼が寝具手前三寸で固まって一刻を過ごしていたとしても、鈴千代の脱いだ後の着物を入念に何か確かめることがあるようにごしごしと洗っていたとしても、嗚呼、決して彼は手を出したことはないのだろう。
だとしても、彼が鈴千代に何かしらのちょっかいを出したことがないということは、彼女もよく分かっているのだ。彼女は否定することはなく、水中の音声を伝えている釣り糸に耳を近づけた。
「とにかく、つまりだ。貴様らは港の船に悪さをしていた、わけではないのだな」
「ええ、ええ。その通りですとも、お姫様」
「うん? 何故
「……貴女は美しい。おそろしいほどに」
は、と鈴千代は哄笑した。
異形をして、その美を称えられる存在。
彼女がそれをどう受け取ったのかは知れぬ。
――がしかし、人のみならず人ならざる者からも畏敬を抱かれる妖貌、それは最早人知の及ぶ域にあるのだろうか。その疑問があってかあらずか、彼何にしても彼女は嗤ったのである。
「まあよかろう。それで、何か原因には心当たりがないのか? それとも水面からは何もかもが見通せぬと、そのように申すのか。それはそれで悪いとは言わぬが……嗚呼、良い答えではないだろう。差し当たって、我らが処遇を決めるにあたってはな」
「処遇と申されるか、姫君。私ども水底のはらからに何をせんと言われます」
「無論、何もせんよ。ただな、ここまで我らが足を運び、何もないでは済まんのだ。火のない処に煙は起たぬ。分かるかのう、
「つまりだ、魚人よ。拙者も諸君の苦労は慮るが、かと言って一度切った鯉口をそのまま戻すわけにはいかんのだよ」
弦之助は感慨もなく言い捨てた。
彼らはある意味で流浪の粛清機関である。悪事ありきで行脚する者だ。
行動して、現地に向かった以上、そこに悪がなければならぬ。
そうでなければ意味がない。そうでなければ都を離れる大義名分が失われる。
紛いなりにも鈴千代、鈴姫は浪州主君が一子。彼女が旅をするなどということは、本来あってはならないことなのだ。国の外聞が保てぬ。戦に負けて併合されたとて、仮にも一国として在るのだ。ならば支配する家にも風格・品格というものが求められる。
相当の理由がなければ、生き残った直系の姫君が国内を放浪するなどということは、恥なのだ。いくら『いかれひめ』であろうと、側近や側女を打ち殺し頚椎を捻り潰そうと、彼女が都を出て勝手に歩き回るということは、原則あってはならないことなのである。
血の繋がりを放棄したということだ。その国は主君の血族を繋げるつもりがないということだ。それは翻すと、浪州国主の血筋には何の価値もないということを暗に述べることとなってしまう。相続を諦めた、どころではない。国そのものを棄てたに等しいのだ。
唯一の血を野に放った。
であればその血を守る意図がないということだ。
よってその国を存続させる意志がない、と繋がるのである。現状の浪州は委任統治状態、総州の委任統治領というのが相応しい。仮に国家としての主体を失えば、瞬く間に瓦解するだろう。他国にとっては元の政府を利用する価値もなくなる。
したがって――弦之助も鈴姫も実働することに拘るのだ。何もしないではいられないのなら、とりあえずけちな悪党であっても斬るだろう。目に付く悪を斬るだろう。悪がなければそれを作ってでも、切り捨てるに違いない。
魚人は水面下で唸ると、糸に向けて口を開いた。
「……なるほど。であれば、ちょうどよい。我らが厭われ蔑まれる原因を作った輩がおりまする」
「ほう、それはよかった。
「佐島の宗右衛門。やつはそう名乗っておりました」
弦之助はへぇ、と声を上げた。
「やくざものですかい。こいつは面倒ですぜ」
その手の連中は宿場や港、つまり町そのものを根城としている場合が多い。特にこの地のような栄えた港町であれば、ある程度の富が集中しているはずだ。
財産があれば人手も嫌が応にも集まってくる。小規模であれ私設軍隊とも言える武装集団を抱えているだろう。
そうでなくては多額の利潤がもたらされる港を仕切ることなど出来はしない。宗右衛門とやらは、間違いなく他の敵を蹴落として利益を追求し、自らの周辺を武力で固めたからこそその地位に就いているのだ。
「面倒か。貴様はいつでも面倒と言うな。面倒でないことが在るのか」
「いや、どうでしょうな。たぶん」
「喧しい。真面目に答えるでない。大体――」
鈴千代は笑う。
不敵に、火に照らされて綺麗に鬼灯色をした頬を緩めた。
弦之助には、その顔がとても可愛らしく見えていたが――果たして余人にはどう映っただろうか。これを悪鬼の微笑とする者が居ないとは言い切れまい。
如何に言い表しても、真白い歯は凶暴に尖っているように見えただろう。細められた瞳は嗜虐的に歪んでいるとされるだろう。
だが、どうあれ二人の結論は変わらない。
彼女はくつくつと肩を震わせて言った。
「斬れるのだろう?」
弦之助は笑みを返した。
「――当然」
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