第2話


 港町だけあって街中は活気に溢れていた。滞在二日目、というべきか、風邪を引きそうなびしょ濡れで宿に入ったので逆に直ぐ風呂を沸かしてもらえたのがよかったのか、調子は上々であった。

 件の人魚が実際に居るかどうか、その情報を集めなければならない。

 と。弦之助は意気込んではいたのだ。


「ああ、この間落ち葉長屋の玄さんが釣り上げたって話だよ」

「……釣ったとな」


 彼が宿の娘に尋ねたところ、想定外に有力な情報源を得てしまったのである。

 何故斯様かように、といえば先の商人が言っていた通りである。この町を訪れる客といえば貿易によってもたらされる珍品の買い付けか、漁師の獲った魚の買い付けか、それとも人魚の噂を聞きつけてか、その三つが大半であった。元々港町、漁港でもあったのだから前に挙げた二つは当然として、残る一つの理由が最近の噂である。つまり以前から頻繁に訪れていた者たちならばいざ知らず、この頃初めて顔を見るような旅客は人魚が目当てだと推量が利くということなのだ。

 しかし船に悪戯をするという話はどこに行ったのか。釣られる程度のモノが何かできるのだろうか。これではあまりにも身構えた甲斐がない。


「というと、いや本当に釣れたのか」


 信憑性は如何程か。別に表面上は嘘をつく意味がないのだから、わざわざ虚偽の内容を語っているとは思えない。それにしても、もう少し何かあるのではないのだろうか。情緒のようなものが。


「ええ! 玄さんは釣りの達人ってやつでね。船もひとりで回しているからよく分からないけど、この辺りじゃあ有名だよ」

「で、その釣った人魚はどうした」

「食ったそうだよ。何でも腐るのが早そうだったから、とか」

「食った」


 弦之助は言葉を失った。

 他の人間の言語を奪い去ることは、率直に言って彼らのたびにおいては珍しいことではなかった。鈴千代の短気でそうなることもあり、弦之助の剣腕が喧しい群衆を黙らせるということもあった。

 だが彼自身が黙り込む、そのようにさせられるとなると、少々希少な現象である。

 ――食ったというのは、まさか本当の本当に食べたということか。例えば人魚があんまりにも美人だったので、そういう意味で床の上で料理したとか、そういう意味ではないのか。


「いやいや、刺身にしたってさ」


 人魚を、刺身にして、食った。

 どんな剛の者だ。仮にも上半身は人間だろう。それを捌いて食ったなどということが許されていいのだろうか。

 弦之助はふと思い至り、口元に手を運んだ。湯呑みは置かれたままであった。

 漁がそれだけ上手くいっていなかったということか。流石に他に食うものがあったのなら、そのような怪しいものに手を出したりはしないだろう。自分のように過去化生との対話の経験があったのならばまだしも――それでも驚くだろうが――普通の人間があの手の存在に対面して狂乱に至らずして冷静に居られるとは思えない。

 だとすれば、狂っている余裕がない状態であったか、それとも元から狂うだけの余裕がなかったからか。

 彼は頷いた。


「何か、そのに変化はあったか。血色が良くなったとか」

「若返ったとさ」

「……もう一度頼む」


 そばかすの可愛らしい娘は得意げに胸を張った。


「だからさ、若返ったのよ。玄さんといえば四十もとうに過ぎていたんだけどね、会ってみてごらんよ。三十路よりも若く見える」

「……頭が痛い」

「昨日、湯に浸かってしこたま呑んでいたじゃないか。全くお侍さんともあろうお方が、そんなことじゃあ、お連れ様にまた怒られるよ」


 その連れは絶賛不機嫌にこちらを睨んでいる。

 いやはや、彼女は常にこちらに対してアレコレと悪態を吐いてはいるが、これを見ればよく分かる。自分が女と離していると直ぐにやきもちを焼くのだ。中々、あれで可愛らしいところがあるから楽しいのである。

 ちなみに鈴千代の機嫌が悪いのは、悪酔いした弦之助のいびきが酷かったせいで眠りが浅かったせいなのであった。勘違い甚だしい男である。


「いやあ、そりゃもう。お嬢さんみたいな美人が運んでくれるものだから、ついつい嬉しくなってしまってな」

「あらあら、途中からおとっつぁんに変わっていたことも覚えていないのかい」

「今のは……忘れてくれ」


 正直、覚えていなかった。

 路銀に余裕があると二人ともが遊びだすという、どうしようもない二人組である。現在黙って様子を伺っているように見える鈴千代も、実はその手に町の名物である砂糖菓子を握っているのであった。

 さておき、弦之助は行動に移ることに決めたようだ。短く宿の娘に礼を言い、そのついでに案内を頼んで華麗に断られて、一度項垂れてから鈴千代の前に向かった。。


「そういうわけで、落ち葉長屋とやらに行きやしょうぜ」


 鈴千代は膝の菓子くずを払って頷いた。


「ああ、ようやくか。貴様は何かと時間をかけ過ぎだ。もう少し短縮する努力をいたせ」

「そうは言いましてもね、ついつい美人が相手だと口数が増えてしまうのが、男ってもんでしょう」

「嘘を申すな。ならば貴様は、わたしの前で四六時中一生喋り続けていなくてはおかしいだろう。いや、今は笠のせいで隠れているか。まあ、仕方がない」


 とりあえず、何がどうあれ一つは文句をつけなくては気がすまない鈴千代であった。

 さて、時は流れて夕刻を過ぎ、満月の上がった夜である。

 彼らはきちんと目的地を忘れることなく漁師の玄とやらに対面し、話を聞き出してはいた。あえてここで含みのある表現をしているのは、注釈するとその聞き込みの結果が思わしくなかったことを表現せんと試みているからである。

 さらに付け加えると、彼らは今回については目立った失敗もしていない。だというのにどうしてまともな情報が得られなかったのかというと、


「……手前ぇで釣れときやしたか」

「……弦之助、命令だ。釣れ。釣るのだ。何が何でも人魚を釣り上げよ」


 確かに漁師の玄という男は実在した。そして確かに、四十をとうに過ぎたにしては若々しい顔つきでもあった。もしかしたら、三十路手前の弦之助と同い年とも見えないではないような見目であった。

 ただし人魚については釣り上げるなりさっくりと〆てしまい、何も語るべきことがないという話で、結論としては自分で釣ってどんなものかは確かめろ、とのことだったのである。

 そういうわけで二人は釣竿を片手に船を漕ぎ出し、場所としては町の港がある岬からちょうど陰になった海上、漁師に金を握らせることで聞き出した場所で釣り糸を垂らしているのであった。

 

「あの、鈴千代どの」

「言うな。わらわも分かっておる」


 聞けば、釣り一筋で生きてきた男がやっとのことで釣り上げたとのこと。これを旅の食い扶持に仕方なく川魚を釣っていたような自分たちに捕まえろというのは無理ではないだろうか。

 鈴千代は無闇に釣り糸を戻しては餌を確認し、投げ入れている。暇なのだろう。


「あー、鈴千代どの? 何かお話でもどうですかな」

「何だ。貴様に面白い話ができるというのか」

「どうでしょうなァ。何せ俺も俺で、剣を振る以外は能がねえ」


 言い出したはいいものの、話題などというものはない。流れで馬鹿な話をしろと言われたのならどうにかするが、自分から切り出せといわれると狼狽してしまう。

 これには仕方のないことだと言い訳をしたい。何せ、自分は鈴千代の国を攻めて併合してしまった、総州家老の家の者である。下手なことを口にすれば気の毒なことになるだろう。

 否――と弦之助は内心で自らの思考を否定した。

 国が小さくなった、兵が死んだ、それだけではないのだ。鈴千代は――鈴姫は母親と兄、そして姉までもを戦の最中に喪失なくしている。自分はそれをよく知っている。本来仲良く旅行をしましょうと言えるような間柄ではない。

 何が言えるというのか。

 彼は不意に発するべき言葉を失い、沈黙した。


「おい、どうした。何を……貴様、またか」


 鈴千代は彼の内心の長ったらしい思慮を察してか、呆れ満点に嘆息した。

 背中合わせの状態で、彼女は弦之助に体重を預けた。


「黙っておってもつまらんだろう。それに、国のことは国のことだ。当然貴様のことも恨んではおる。いつかは殺してやろうと思うが、しかし今ではない。面倒だから黙るな。ただでさえ不細工な面が目も当てられなくなる」

「今は後ろ向いているので、見えないんじゃないですかね」

「妾ほどともなればお見通しよ」


 年の差は倍ほどもあるが、既に尻に敷かれている男の図であった。


「――まったく。鈴千代どのには敵いませんなァ」

「当然だ」

「お美しい」

「無論だ」

「聡明でいらっしゃる」

「ふ、誇張なき事実とはいえ、少し面映いな」


 正しく彼女の顔立ちは月夜によく栄える。

 弦之助がどうせなのでひと目眺めておこうと身を捩った瞬間、彼の釣竿が激しく引いた。


「お、来た…って、でかいな……!」

「む? なんだと、食いついたのか。よいか、絶対に釣り上げるのだ!」


 鉛でも引いているのか、と思うほどその力は強い。これが魚であったのなら、きっと人間ほどの大きさはあるのではないだろうか。

 本当にそれだけの大きさであったなら――人魚の可能性もある。

 いやまさか、と思う反面期待も膨らむ。

 何せ人魚といえば化生どもの中でも珍しく、その姿が朧ながら伝わっているのだ。人の言葉を解し、足の変わりにひれがくっついている。

 と、弦之助は一つの仮説に行き着いた。

 もし、雌だとしたら着物などはどうしているのだろうか。綿や麻が海中にあるとは思えない。わかめなど滑って巻くことにすら苦労するだろう。しかし、薄暗い海の中で誰が見るというのだ。見られることがないとすれば、裸という可能性もある。いや、きっとそうに違いない。

 男の四肢に力が漲った。それ以外の何かも漲ったりしているのだろうか。彼は全身の力を使い、船の縁に両足を踏ん張って釣竿を引く。


「観念しろ……!」

「よし、いいぞ! うろこが見えた」

「その上、その上はどうですか!」

「上? 上がどうした、いや……上、上か。上……?」


 彼女の戸惑いは身の丈を優に超える水飛沫で遮られた。

 直後、まるで人一人が飛び乗ったかのような衝撃で、小さな船が大きく軋んだ。借り船なので壊れてしまうと、彼らの財布がまた気の毒なことになったり、そのせいで宿を一日早く出ることになってしまったりするかもしれない。

 弦之助は想定外の重労働で上がった息を整え、釣果を確認した。


「……鈴千代どの。これは駄目でしょう。出来損ないです」

「いや、一応……手が生えているぞ」


 ――足があるべき場所にひれがあった。伝聞は正しかった。

 手も生えている。なるほど、それも正しい。

 弦之助の頬が引き吊って震えた。

 尾びれがあり、腕が生えており、そして少しだけ人の顔面に似た構造をした顔が、魚の頭があるべき場所に埋め込まれていた。微かであるが、その者の口からは「水」という声が漏れ出ている。

 人魚というよりも、魚人。もしくは人面魚という方が正確であるような、哀れみを感じる程に歪な形の生物であった。


「おい、どうも水に戻りたがっておるぞ。戻してやらねば……おい、おい。どうした。どうしたというのだ弦之助」


 ――これは人魚ではない。

 弦之助は真顔でそう言って、鈴千代の張り手と人魚の尾びれで同時に引っ叩かれた。


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