人魚の足

第1話


 潮の香りがする風が伸びてきた髭をくすぐった。個人的にはあまり気にしないのだが、道連れがやれ見苦しいだのむさくるしいだのと喧しいので、当分のところ髭を伸ばしたままにするのは難しい。適当なところで川辺によって、剃ってしまわねばならない。川に沿って歩いているので、別に今でも構わないといえばそうなのだが、どうしても面倒なのでこうなったら宿に着くまで放っておけばいいと思っているところである。


「うむ……」


 しかし悲しき哉、鈴千代の美意識を優先しなくてはならないのだ。この国では彼女の方が身分が高い。それを承知で監視役を請け負ったのだから文句は言えないにしても、面倒なものは面倒だ。困らないのなら放っておきたいのが男心というものではないか。

 しかし髭や身だしなみについては、思い出すと実家でも散々下女や門人にも色々と言われていたので、あまり強く出ることができない。というより、流石にそこまで強硬に跳ね付ける気も起きない。

 弦之助は腕組みをし、髭を擦った。ある程度伸びた髭の感触というのは、意外と持ち主にとって悪いものではなかったりするのである。それが気に入っているから、彼はわざわざ常識的な指摘を拒否しようとしているのかもしれない。

 ――とそんな時、軽い肘打ちが弦之助の脇腹を突いた。ぐえ、と蛙が潰れるような声を上げた彼を、冷たくも透き通った瞳が睨みつけた。


「……耳障りだ」

「な、何がでしょ」

「その音だ。せっかくわらわが潮騒に思いを馳せているというのに、じょりじょりじょりじょりと。もういい、鬱陶しいからこの際この場で剃ってしまえ。剃らぬというなら妾がやってもよいのだぞ」


 ちなみに、鈴千代はそれなりに教養も身に付けているので、実を言えばやってやれないのではないのだ。手先も不器用ではない。さして器用というわけでもないのだが、何をやっても物を壊すだとか、そういった領域ではない。

 ないのだが、以前任せた時は首が転げ落ちるかと思うほど深々と肌を削ぎ取られたので、二度と任せるつもりはない。


「いえいえ、じゃあちょいと失礼しやすよ。一旦道を外れますぜ」

「まあ、よかろう。その見苦しい面で四六時中居られたら、妾の気が殺がれるからな。それに水も少なくなっていたはずだ」

 

 鈴千代は竹筒を弦之助に押し付けると、むしろ彼よりも先に土手を下っていった。即決即行即行動を好む彼女らしい行動であった。弦之助も小刀を引っ張り出しながら、青々とした草の茂る斜面をぼちぼちと降りていく。

 河原には先客が十は居た。どうやら次の町に行くまでの休憩地点として、立ち寄る人間が多いようだ。老若男女の区別なく団欒している様子が見て取れる。

 中には手ぬぐいで大胆に体を擦っているおやじまで居る始末である。絶対にあの男より下流では水を汲み上げまい、髭を剃るにしても目立たない少し上の方で行うべきだろう、と弦之助は心に誓った。

 彼は人々から離れた川べりの岩に腰を降し、大口を開けてあくびをした。空高くから降り注ぐ陽光が、流れる川を眩しい程に煌かせている。


「……ったく、どうして髭なんてものは伸びるのかねぇ」

「それはわたしも不思議に思っていた。禿頭の癖に口ひげは確りと蓄えているような者がおるだろう。あれはどういった次第なのかとな。どうせ剥げるのならば、何故口元を残すのだ?」

「いやあ、ありゃ別に狙って禿たわけじゃあないでしょう」

「分かっておるがな、貴様も考えたことはないか。どうして髪はないのに髭があるのだと」


 弦之助は小さく噴き出して、髭剃りをはじめた。

 あまり冗談に付き合っていると、彼の相棒は調子に乗って声が大きくなっていくということを知っていたのである。それも可愛らしい側面といえばそうなのだが、かといって一部の人間の痛いところを蹴りつけるようなことを大声で口走らせるのは、護衛としても避けたいところなのだろう。


「そいつは、あれですな」

「どれだ。はっきりと申せ」

「おっと……天運というものですよ。ほら、お天道様がぴかりと輝くのと同じで、誰かの頭がぴかりと光るのも星のめぐりと似たようなもんです」


 危うく耳を落としかけ、弦之助は息を吐いた。

 

「ふ、はは、人の禿を天が知るか」

「ええ、案外お天道様や神様ってのは色々なことを知っていらっしゃると聞きやすぜ。ま、俺ァあの方々が何を考えているかなんて知りませんがね」


 ――もう少しこのように笑ってくれたらこちらも気が楽なのだが。

 弦之助は鈴千代がいつも皮肉げな笑みばかりを浮かべることに、多少の抵抗感を覚えていたらしい。それは決して奇特なことではない。十二、十三の娘が眉間に皺を寄せて、口の片端だけを上げて笑うというのは少なくともよい兆候とはいえないだろう。

 一旦会話を切り上げ、彼が髭剃りを終えると、鈴千代は穏やかに川に素足を浸していた。弦之助が見ていることに気付くと、彼女は芝居がかって短く鼻を鳴らした。


「ふん、遅いぞ。もう少し早くはできんのか」

「いやいや、失礼仕りました。それで、ええ……水を汲まなくちゃあならんのですがね」

「ふ、存分に汲むがいい。妾が足を洗った水をな」

「……なるほど」


 弦之助は大した反応もなく、歩いて鈴千代を通り過ぎようとした。

 すかさず鈴千代の小さな手が弦之助の着物を掴む。


「待て、貴様情緒というものを分かっておらんようだ」

「ご教授願いたいですな」

「ここは、そうだな。落涙してでもありがたく妾のを頂戴するものだ……いや、それは気色が悪いな。むしろ嫌そうな顔で、しかし妾の美貌と威厳に圧されるがまま水を汲むというのがいい。特に嫌な顔が重要だ」

「承知いたしました」


 つまり逆をやればいいということだ。

 弦之助はとてもいい笑顔で、そして驚くべき俊敏性を発揮して鈴千代が足をつけている直ぐ傍の水を自分の竹筒に汲み取った。

 ばかもの、と叱りつけて彼女は自ら水面から飛び出した。


「だ、誰がそのような顔でやれと言った。嫌がらんか!」

「そんなまさか、鈴千代どのがくださるというのですから、拙者としてもありがたく……」

「ええい気色が悪い!」


 などと彼らが賑やかにしていると、どうやら注目を集めたようで、一人の商人らしき男が二人に近寄ってきた。

 唐草模様の頭巾に、背嚢には山笠と丸印。旗を持たぬところを見ると行商から帰路であると思われる。恐らく、この先の港町の者だろう。ここにきて更に何か売りつけてやろうということはないはずだ。

 

「お二人さん、お元気なようで」

「まあ、見ての通り。若者の相手は骨が折れます」

「なるほど、いやお侍様もお若く見えますがね。見たところ旅のお方のようですが、どうです。この先の町へ?」


 弦之助は簡単に首肯で返した。


「そうですか。買い付けでしたら、うちの店がちょいとばかし融通を利かせますがね……いや、そうは見えねえな」

「物見遊山ってもんです。何、我らも少しばかり面白い話を聞きましてな」


 曰く、この先の町には人魚が出て、交易船や漁船に悪さをする。

 曰く、海賊もその被害を受けているのだという。

 曰く、足の代わりに大きながついていたという。

 そんな根も葉もない噂を頭から信じたわけではないが、何しろこの巫宋には人間の他にも妖怪変化や化生が生きているのだ。自分も回数は少ないが会ったことがある。なのであやかしの類が暴れているというなら見て見ぬふりはできないのである。


「妾は疑わしいと言ったのだがな。この者が無駄に信心深いので連れてこられたのだ」

「ははあ、お二人さんもそのクチですか。イヤ、私も詳しくは知らねえんですがね? 最近そういうのが居るたぁ文で聞かされていやしたから、わざわざ陸を歩いてきたもんで」

「やはりか。うむ、これはひょっとして……ひょっとするかもしれんな」


 あの手の者を相手にするのはかなり厭だ。

 本音としては穏便に済ませたい。そうであればいいと思うが、もし上手く説得が進まなかったなら、戦うということも選択肢に入ってくる。

 弦之助は肩を落として、商人に尋ねた。


「何か有用な情報はないか」

「イヤ、申し訳ない。全く」

「……そうか。済まないな」


 ――どうしたものか。

 しばし悩んでいたが、結局現地に入ってから聞き込みでもすればいいだろうと結論し、彼は残った一つの竹筒の中身を満たすと、商人に別れを告げてまた鈴千代と街道を進むことにした。

 悩んでも仕方のないことではある。彼が何を思ったところで、人魚の目撃自体が虚偽であったのなら話にならない。それに、もし真実人魚が人々を襲っていたとしても、説得が上手くいけばそれで済むのだ。

 ふう、と力を抜いて、彼は水筒に口をつけた。


「お、おい貴様。本当に飲むのか!」

「え、ええ。まあ別に」


 そんなことを言い出せば、遥か上流では先ほどの川に猪が小便を垂れていたかもしれないのだ。ただ、何となく目に付くところでそういう行為があると、厭な気分であるというだけである。

 ――大体、鈴千代が足を洗ってから少し時間が経っていた。気にするほどのこともない。そう、根本的に気にすることがないのだ。あえて流れに乗って遊んでいただけのことである。

 そんな弦之助の考えを知らないからなのだろう、どこか引いた様子で鈴千代も竹筒を傾けた。


「……弦之助よ。妾に憧れるのは仕方がないが、限度というものもあるのだぞ」

「そうですかい? そいつは困ったなァ」

「……少し離れて歩け」

「え、いや、そりゃどうして」


 煩い、と言って鈴千代は彼の肩を押した。

 その拍子に弦之助は彼女のもつ竹筒に、自分の名前が彫ってあることに気が付いた。気付いてしまった。


「うん? おや、そいつは俺の水筒みたいだ」

「……何だと?」

「おお、やはりそうか。いや、済みませんね。どうもお渡しする時に入れ替わっちまっていたみたいで」


 と、彼はそこで石のように固まった。

 鈴千代は静かに言った。


「弦之助、近うよれ。許す」


 ――十と数えないうちに不注意な男が一人、川に放り込まれた。

 彼らが町で宿に着いたのは、すっかり日が暮れてしまった頃になってからのことだった。

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