山羊と手紙 二通目(黒山羊としては)
「起」
8月の京都に、生温い風が吹き溜まる夕暮れ時のことでした。19時を過ぎてやっと日が落ち、束の間の夜がやってきます。黒山羊は会社から解放されたのち、スーパーに寄るため、自転車を漕いで北へ向かっていました。
「なつはよる、つきのころはさらなり。やみもなほ……闇、無いなぁ」
二条のあたりから続く大通りは車の行き交いが激しく、ヘッドライトの明かりが眩しいほどで、夏の京の趣が一切感じられません。千年以上前の名作を口ずさむ黒山羊の声ですら、車の走行音にかき消されてしまいました。
スーパーに到着すると、黒山羊は慣れた様子で自転車を止め、まずは精肉売り場で安売り商品を確認しました。そして「豚ロース薄切り」に狙いを定めると、今度は早足で野菜売り場に向かい、ピーマンや竹の子などを最短距離で移動しながらカゴに入れていきます。最後に酒類コーナーで立ち止まり、缶酎ハイを2本、ビーフジャーキー1袋も追加しました。金曜日の黒山羊は、こうして一人でつまみをつくり、酒を飲んでいるのです。
北野天満宮から少し北に上ったところに、黒山羊の住むアパートがあります。築20年くらいの、何の変哲もないアパートです。2階に住む黒山羊が使う階段の直ぐ脇に、建物6部屋それぞれの分のポストが、まとまって壁に付けられています。大抵はチラシが入っているだけで、近所に住んでいる大家さんが置いてくれたゴミ箱に捨てるだけの動作が、階段に登る前の一瞬に行われます。
今日に限っては、薄緑色の、肌さわりがとても良い封書が入っていました。
「承」
黒山羊に手紙を送る人物など、これまで一人もいませんでした。社会に出て4年がたち、学生の頃の友人とも疎遠になってくる年代です。早い人では既に結婚したという噂もありましたが、黒山羊には関係のないことになっていました。
半年前、思い切って参加した男女が出会うためのイベントで、黒山羊は白山羊という女性と連絡先を交換することができました。他にも何人か連絡先を交換した相手はいたのですが、「今日はお疲れ様でした。お話し出来て楽しかったです。またお会いできたら嬉しいです」という当り障りのない黒山羊のメールに返信をくれたのは、白山羊だけでした。白山羊のほうも「お疲れ様でした。わたしも楽しかったです。駅まで送ってくださって、ありがとうございました」と、とても簡素な返信でしたが、黒山羊にとっては貴重な機会となりました。
既に結婚していた姉に、女性との距離の詰め方を恥を忍んで相談したり、インターネットの質問サイトを熟読したりして、黒山羊は慎重に白山羊に近づいていきました。そのうち、白山羊もあのようなイベントに参加するのは初めてだったことや、学生の頃に一度だけ彼氏が出来たが、彼氏の浮気が原因で別れて以来ずっと交際相手がいないまま過ごしていることなどがわかりました。
京都はデートスポットには事欠きません。お互い社会人で仕事が忙しく、週末の予定を合わせるのも難しいときもありましたが、半年の間に7回ほど、食事や映画、買い物などの定番デートを重ねました。黒山羊も白山羊も、決して口数が多い方ではありません。ただ、本の趣味が似ていることが分かってからは、作品の話で盛り上がることが増えていきました。
「森見さんの小説で、一番好きなのが『太陽の塔』なんです」
「あら、意外ですね」
「そうですか。僕、クリスマスに「ええじゃないか」と騒ぐシーンを読むと、そういえば自分も学生の頃にこんな風にヤケになってたなぁって、懐かしくなるんです。あの、あそこまで下品ではなかったですよ、決して」
黒山羊が自分から墓穴を掘りにいき、さらに自分で棺桶を置こうとしていることに気がついて慌てる様子を見て、白山羊はクスクス笑いながら言います。
「でも、結局のところ、主人公が「ええわけあるか」と言って、別れた彼女と元鞘になったような話ですよね、あれは」
「そうなんです。だから当時は結末に納得がいかなくて……勝手ですけど、置いて行かれたような気がしたんです。やっぱり物語の主人公は幸せになっちゃうんだと思うと、辛くなりました。裏切られた、とまでは言いませんが。そういう意味では、主人公の親友が一番好きですね。思い切りがある」
「思い切り、ですか」
「男には美学が必要だと思っていますので」
「ちょっとよく分かりませんねぇ」
白山羊は重ねてクスクス笑いをします。そして、幸せになれるならご都合主義もいいと思いますけどね、と呟き、まるで幼児を見るような慈愛に満ちた目で黒山羊を見ていました。
「転」
イベントからそろそろ半年が過ぎようとしていた2週間前、黒山羊は白山羊と急に連絡が取れなくなっていました。それまでは、白山羊はどんなメールにも必ず反応をしていたのですが、2週間前に黒山羊が送った「週末に、どこかで一緒にランチをしませんか」というメールに対して沈黙を保ったままでした。仕事が忙しいのかと気を遣い、しかし3日経ったところで限界に達し、電話を掛けてみましたが応答がありません。帰りが遅くなったときに2度ほど家まで送った記憶を掘り起こして、白山羊の家の周りを歩いてみましたが偶然出会うわけもなく、黒山羊は歩き疲れてトボトボ家に帰るしかありませんでした。
再度、恥を忍んで姉に相談してみたところ、「女というのは急に心変わりすることがあるのよ。ここでストーカーみたいに連絡をしつこくしたら、印象が悪くなるだけ。どーんと構えていなさい、どーんと」という一方で、「ま、もしこのままフェードアウトになったら、かわいい弟のために姉ちゃんが焼き肉を奢ってあげる。今回はよく頑張ったほうだよ」と、既に結果が出てるかのような言い様をされてしまい、黒山羊はただただ落ち込んでいました。
そして、今、目の前に薄緑色の封書があります。裏面に住所はなく、細く綺麗な字で「白山羊」とだけ書かれていました。白山羊からの2週間ぶりの連絡のようでした。
部屋に入った黒山羊は食事用のちゃぶ台に封筒を置くと、まずはスーパーで買ってきたものを冷蔵庫にしまいました。すぐに封を切りたい気持ちもありました。でも、内容が別れの挨拶であることは容易に想像され、読みたくない、見なかったことにしてしまいたいという気持ちもありました。
習慣というのは恐ろしいもので、自分の気持ちに振り回されて茫然自失となっている黒山羊でしたが、シャワーを浴びて、買ってきた食材で青椒肉絲を作り、テレビの前にちゃぶ台を動かして飲み物や皿を並べました。封筒は、まるで初めての営業先でいただいた名刺のように、ちゃぶ台の隅に妙に丁寧に置かれました。
テレビでは21時台のドラマが映っています。先週、主人公とヒロインがカップルになって幸せだったのも束の間、主人公の元交際相手が嫉妬のあまりヒロインに嫌がらせをするという筋のようでした。
「でもどうせ、最後にはうまくいくんだろ」
缶酎ハイでいささか酔っている黒山羊は、テレビに向かって独り言をいいます。そして、俺はいつもうまくいかないほうだよとでも言うように、ちゃぶ台の隅に置かれた封筒を手に取り乱暴に開けました。
中身が、ありません。
え、うそ、なんで、混乱しながら封筒を逆さに振りますが、なんど見ても封筒以外がありません。もしかしてと展開図のように開いてみても、中に文字が書かれていることはありませんでした。
「どういうこと?」
一瞬嫌がらせかと思い白山羊に対する怒りがこみ上げてきましたが、いやいや、あの平凡な白山羊さんが手の込んだことをするわけがないと思い直して心の中の拳を収めました。そもそも、白山羊はどうやって黒山羊の家を知ったのでしょうか。何でもない会話の中で「北野天満宮から少し上ったところに住んでいる」ということを言った覚えはあります。黒山羊は住まいを尋ねられた時はいつも、このように答えるようにしていたからです。しかし、それだけの情報で白山羊が住所を突き止められるはずもありません。
黒山羊は必死に考えました。何かの事件に巻き込まれていて、自分に助けを求めているのではないか。これまで事情を包み隠さず明かしていた姉のイタズラではないか(実際に黒山羊の姉は突飛な行動に出ることがしばしばある人でした)。あるいは、
「でもなぁ、ちょっと気味悪いよなぁ」
テレビの中ではドラマの次回予告が映っています。笑顔でデートをしている主人公とヒロイン、その跡をつける主人公の元交際相手、ヒロインを送り届けて帰路につく主人公、ゆらっと動く元交際相手の影、というところで「次週、花子の身に危険が!?」とナレーションが入りました。
縁起でもありません。黒山羊は思わずテレビを消しました。そして、暗い表情のまま歯を磨いて布団に入ります。何度も寝返りを打って、携帯を眺めたり、ラジオを聞いたりして、日付が変わる頃に眠りにつきました。
*
翌朝、黒山羊が起きてみると、ちゃぶ台の上には昨日片付けなかった皿と白山羊からの封筒がありました。あれだけ白山羊から連絡が欲しいと思っていたにもかかわらず、望んでいない形式でアプローチされると、いっそなかったことにしてしまいたいという気持ちがふつふつと湧き上がってきます。
恋とはやっかいなものです。いや、恋に限った話ではないかもしれませんが、自らが望んだ通りにはなかなか話がすすまないのですから、やっかいなのです。黒山羊のように、小説や漫画で恋が進んでいくパターンを予備知識として複数持っていて、なおかつ、最新の情報をインターネット(と、姉)から仕入れたとしても、このような奇妙な場面にあたっては為す術がありません。
一方で、恋をしてしまったからには、問答無用で相手に会いたいと願う気持ちに歯止めがきかないのです。どんなにトリッキーな真似をしてでも会いたい、できれば、自分にとって都合の良い言葉を相手から引き出したいと思うことこそ、恋なのです。
そして黒山羊は、白山羊に恋をしてしまっていたのでした。
「結」
午前10時、黒山羊は河原町のアーケードにいました。普段は来ない場所ですが、便箋を探して周ります。しばらくすると、一軒、白山羊の好きそうな雑貨が並んでいる店を見つけました。牧歌的な絵柄が書かれた、かわいらしい便箋とセットになった封筒が売っています。黒山羊が気恥ずかしさを堪え、レジに持って行きました。
「プレゼント用とご自宅用のどちらにしましょ?」
「あ、自宅用でお願いします」
「はーい。470円になります」
じろじろと店員から見られている自分に奇妙な罪悪感を覚えながらも、黒山羊は無事に便箋を購入しました。そして、直ぐに目に入ったコーヒーチェーンの店の看板を目指して歩きだします。数歩歩いた所で、さっきの店に何か忘れ物をしたような気がしました。ズボンのポケットを触ると、財布と携帯が入っています。ベルトには家の鍵がしっかりぶら下がっています。この瞬間の黒山羊は傍から見れば可怪しな人でした。まるで自分の体がここにあることが信じられないとでもいうように、ペタペタと触っていたのですから。
居心地の悪さに囚われて、仕方がなく先ほどの店に戻りました。入り口の自動ドアに風鈴が付いていて、踏み込もうとする黒山羊の右足に反応して「チリンチリン」と鳴りました。奥からは、さっきと同じ店員がますます不審そうな目でこちらを見つつ「いらっしゃいませー」と声をかけてきます。黒山羊は戸惑いました。すぐにでも踵を返して帰りたくなりました。額が汗ばみ、喉が渇いたような苦しさを覚え、しかし勇気を出して、さっきの自分と同じ場所で便箋を選んでいる人に声を掛けます。
「白山羊さん?」
*
コーヒーチェーンの店に、ジャズのようでジャズではないような音楽が流れています。黒山羊は白山羊の話に耳を傾けていました。白山羊はまず連絡が途絶えたことを詫び、事の顛末を語ります。その話は所々が腑に落ちないものでしたが、黒山羊は白山羊に会えた喜びで冷静さを欠き、質問もせずにうんうんと頷いていました。
「中身が無い封筒は気味が悪かったと思います。本当にごめんなさい」
「いやぁ、いいんですよ。こうして会えたのだから」
そうだ、と言って黒山羊は買ったばかりの便箋を開けます。
「白山羊さん、何か書くもの持ってますか?」
「たぶん、手帳に」
差し出された細いボールペンを握ると、黒山羊は白山羊から見えないように手元で何事かを書き、封筒に畳んでいれました。
「はい、返事です」
白山羊が封筒を開けて手紙を読むと
「白山羊さんからのお手紙、美味しそうだったので食べてしまいました。お手紙のご用事は何でしたか?」
とだけ、書かれていました。
驚いて白山羊が顔をあげると、黒山羊が照れ笑いをしながら応えます。
「僕も、ご都合主義者になって良い気がしてきました」
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