第4話 極彩色ディメンション
聞き覚えのある男の声に、私は振り返った。
そこにいたのは、つい先ほどまで一緒だった、腹が立つほどマイペースな男。
「すみませんねぇ莉音ちゃん。監視させてもらいました。でもおかげで私の予想通り、ちゃーんと犯人を見つけることができました」
真っ黒な喪服姿の男――神木礼が、壊れた扉を足蹴にして乱暴に立っていた。
鈍く光る深紅の眼鏡を中指で押し上げる。口元は深く笑っている。こんな化け物を目の前にして、どうして笑っていられるというのか。
だらりと下げた右手に握られているのは拳銃。
片手で扱える大きさだが、小型と呼ぶには大振りで、ごつごつとした出っ張りはまるで子どもが扱う玩具のようだ。
悪い悪戯か何かかと思うくらい、現実味が感じられない。
化け物は私たちを睨み威嚇すると、身体を縮めて勢いをつけ、大きくジャンプした。
天井へ、壁へ、床へ、びよんびよんと蛙のように飛び跳ねる。
「おとなしくしていただけますか」
冷静な声を上げた神木がその玩具のような銃を前へ突き出した。
構えるでもなく、ラフな素振りで、パンッパンッパンッという軽快な破裂音を響かせる。
化け物の飛び跳ねた軌跡に小さな銃創が点々と刻まれる。
部屋を一周逃げ回った化け物が突如として姿を消した。見失ったのではない。煙が霧散するかのように、文字通り消えたのだ。
銃弾が当たったのだろうか。が、神木が漏らしたのは落胆を含んだため息だった。
「あーあ、逃げられてしまいましたね」
弾倉をカラカラと回し、空の薬莢を地面へ溢しながらつまらなそうに呟く。
神木がスーツのジャケットを翻すと、腰に物々しい黒いベルトと弾薬が見えた。慣れた仕草で銃弾を装填したあと、右腰のホルスターへとしまう。
神木はベッドの上で力なく横たわる山野美香のところへ行き、首筋に指を当てた。
無事だったのだろう、満足げに頷くと、今度は床で腰を抜かしている私の方に向き直った。
正面にやってきて片膝をつき、にっこりと眉を下げて微笑む。
「怖い思いをしたのでしょう? もう大丈夫です」
そっと私の肩を抱いた。
次から次へと何がなんだか、頭の中がごちゃごちゃで抵抗するという考えすら思いつかなかない。
「っと、ちょっと待ってくださいぃぃぃぃい!」
甲高い声が部屋に飛び込んできて、私たちの間を引き離す。
神木の助手のマユラだ。
「どさくさに紛れて何、女子高生に触ろうとしているんですか!? やり口が汚すぎます!」
「えぇ!? ここは颯爽と登場したヒーローと助けられたヒロインの間に愛が芽生えて感動のラブシーンを繰り広げるところじゃないんですか!?」
「こんな下心まみれのオッサンを世間はヒーローだなんて認めません!」
「オッサン……」
心外だったのだろうか。悲しそうな目を私に向け、フォローを求めてくる。
が、当の私は現在状況整理中につき、頭が真っ白になっている。
ぽかんとする私の顔を神木がしげしげと覗き込んできた。
「おやおや。あまりの恐怖体験に突っ込みを入れる気力すらないように見えます」
「莉音さんお気を確かに! これ、何本に見えますか!?」
なんだこの人たちのわちゃわちゃ感。こっちは死ぬ思いをしたっていうのに。緊張感のかけらもなく場をぐちゃぐちゃにかき乱して……
「何なのよあなたたちわぁぁぁぁぁ!」
私が叫ぶと、二人はひぇぇと小さな悲鳴を上げて飛びのいた。
「さっきの、あの黒い化け物は何なの!? 山野さんは無事なんでしょうねぇ!? だいたい、なんであなたは嬉々として拳銃を振り回してるのよ!! 頭おかしいんじゃないの!?」
とんでもなく酷い目に遭った八つ当たりも混じって、私のストレスが爆発する。
私は神木の胸倉を掴み、勢いよく問い正した。
「あなたたち二人は、一体何者!?」
あまりの剣幕に、神木は両手を上げて降参のポーズをとる。
「えぇーと……この状況を説明するには少々骨が折れるので……」
もたもたとする神木に、私は鋭い視線を投げる。
「ちゃんと分かるように説明して」
「……いや、まぁ、いずれそのうち――」
「こっちは殺されかけたんですけど」
「あー……そうですよねぇー……」
神木は困った顔でごまかしながら、はははーと乾いた笑いを浮かべた。
何から説明しましょうか、なんて言いながら頬をぽりぽりと掻く。
「……君は幽霊を信じますか?」
「信じない」
「……今、目の前で常識では片付けられないことが起きたばかりだというのに?」
「あれが幽霊だって言うの?」
「厳密には違いますが、まぁ似たようなものだと考えてください」
神木が膝をパンパンと
「さきほどの化け物が、どこから現れどこへ消えたのか。
……形あるものが『消える』など物理的にあり得ませんからねぇ。
消えたように見えるだけで、正しくは『移動』したんです。
それならば、どこへ、どうやって?
それこそ科学が追い求めてきた最大の難題であり、君の求める解でもあります。……君は量子力学を知っていますか?」
私は首を横に振る。成績が良からといって、そんな分野は高校生の専門外だ。
「それでは、『パラレルワールド』は? 四次元、と言った方が分かりやすいでしょうか。つまり、私たちが存在しているこの空間と平行する、別の空間が存在するということです。
空間は無数に存在し、ミルフィーユ状に折り重なっている。
それらは決して交わることはない。物理の法則を捻じ曲げなければ、ね」
おもむろにマユラが廊下から大掛かりなジュラルミンケースを引きずってきた。
神木はそれを指さして、不敵な笑みを浮かべる。
「この箱の中身は、現代の量子力学の結晶。つまり、物理の法則を捻じ曲げるものです。
敵は厄介なことに空間を自由に飛び回ります。我々がそうしたいと考えるなら、その箱を使うしかない」
中を開けると、何やら装置がひしめき合っていた。ボタン、パネル、モニター、良く分からない電子回路。
マユラが電源を入れると、モニターに心電図のような波形が現れ、緑色の電色がピコピコと脈打った。
神木が私の正面に立ち、両手を強く握る。
「それじゃあ莉音ちゃん。私の手、離さないでくださいね?」
その瞳はにこやかだが真剣だった。
マユラの操る装置がヴゥンと気味の悪い音を立てて振動し始める。
周囲の空気が変わったのを感じた。あの化け物が現れたときみたいだ。
何だか嫌な予感がする。
何をするのだろう。急に不安になってきた。
「ま、待って、さっきの説明、意味が全然分かんなかったんだけど!」
「大丈夫。心配いりません。私を信じて付いてきてください」
無理! と叫ぶ間もなく、激しい振動が全身を包み込んだ。
同時に気が遠くなり、平衡感覚が破壊され、上も下も分からなくなる。
手を離すなだって? 無理だ。身体の感覚がないのだもの。
洗濯乾燥機の中をぐるぐると回っているイメージだった。
意識を保っていられないほどの激しい眩暈。
五秒だろうか、十秒だろうか、ひょっとしたら、随分と長い間回されていたのかもしれない。
気がつくと、ぺたりと地面にへたり込んでいて、それでも自分の手が彼の手を握っていられたのは軌跡だと思った。
そして自分の膝は、無数の花々に覆われていた。
花。花。花。
辺りを見回すと、先の見えない一面の花畑。
赤、黄、紫。それはハッとさせられるような力強い原色。色とりどりの花弁。
空には晴れ渡る深い青が無限に広がっている。
ところどころ浮かぶ雲は、目が痛くなるほどに白い。
極彩色。
天国。きっとそうだと私は思った。
「これはこれは。君の心の中は随分とご機嫌な景色のようです」
私の手を握りながら、神木が天を仰いで笑った。
「私の、心の中……?」
「ええ」
「そんな馬鹿なこと、あるわけ……」
「そろそろ、自分の目の前に存在するものを受け止めたらどうです?
ここは人の心が司る平行世界。名を、
私たちが勝手につけた名前です。由来は……そのうち分かるでしょう」
洗濯乾燥機ショックから立ち直れないでいた私の身体を、神木が抱き起した。
ふらつきながらも私はなんとか立ち上がる。
不思議な場所だ。足の裏の感覚がない。足に触れているはずの花の感覚もない。
これだけ花が咲いているというのに、香りのひとつもしない。
まるでホログラフか何かのよう。完璧に見えて欠落している、そんなイメージだった。
「歩けますか?」
神木が私の手をゆっくりと引く。小さく頷いて私は足を踏み出した。
歩いているのか、いないのか、感覚がないからまるで泳いでいるような気分になる。
それでも身体は前へ進んでいた。
神木は不思議なことは何一つ存在しないとでもいうように、平然とした様子で私を先導する。
「澄み渡り穢れのない、完璧な世界。それが君の心の中のようです。ですが……」
足を止めた神木が、辺りを見回し眉をひそめた。
「美し過ぎて、少々不自然です。
普通、人間の心の中はもっとこう、矛盾と葛藤が絡み合っているものなのに」
神木は何かを探すように目を凝らした。『矛盾』と『葛藤』とやらを探しているのだろうか。
それとも――
「ここに、さっきの化け物がいるの?」
「ええ」
私の問いに神木は落ち着いた様子で答えた。
「でもこれは私の心の中なんでしょう? どうしてこんなところに……?」
「それは――」
神木がこちらを振り返った。紅い眼鏡の奥にある瞳が、恐ろしく冷えていた。
「あの化け物は、君の感情そのものだからです」
「私?」
――ずるい――
突然、誰かの声が響いた。
途端に、すとん、と私だけ花畑の下に落っこちた。
身体がごぽっと水に沈む。――水? どうして花畑の下に水がある?
息を吐いたら、こぽりこぽりと、小さな気泡が昇っていった。
上を見上げると水面があって、花畑と神木の姿が見えた。
神木は私の姿を探しているようだった。
ここだよ! と叫びたいけれど、もちろん水の中なので声は出せない。
身体がズブズブと沈み、水面が遠ざかっていく。神木の姿もどんどん小さくなっていく。
泳いでも泳いでも上へ行かない。まるで重しがついているかのように沈んでいく。
次第に光も遠ざかり、水は深い黒へと変わる。まるで海底にいるようだった。
なんとなく息苦しい。一応呼吸はできているようだが、じわじわと酸素が奪われていく。
自分が正気なのか、狂っているのか、分からなくなるような闇に堕ちる。
再び声が聞こえた。
――穢れのない、完璧な心だって? 笑わせる――
その声が姿を現した。真っ暗な闇の中なのに、不思議とそいつの姿が見える。
あのときの、あの化け物だった。
――憎しみも恨みも妬みもない、自分がそんな清らかな人間だと思っているのか? ――
化け物が私の頭の中に語り掛けてくる。
その声は馴染みのある音質だった。何十年も連れ添ってきた音。
私自身の声だ。
化け物の輪郭がぼうっと浮かび上がる。
今度はぼんやりとした人型ではなく、はっきりと人間の形を成していた。
私自身の姿だ。
――どうして認めない。どうして見ない振りをする。
自分の汚れた感情に。どうして蓋をしようとするのか――
私の姿をした化け物がじりじりと近づいてくる。
逃げようとするが、水の中をもがくようで上手く身体が動かない。
――恨み。憎しみ。羨望。暗く醜い自身の心を認めぬ限り、私の無念は晴らせない――
化け物が、私の喉に手をかけた。口からごぽりと空気の塊が漏れる。
全身でもがきながら、重圧に抗った。
一体何を言っているんだ。
恨んでない、憎んでない、羨ましくなんかないというのに。
勝手に人を悪者にして、何がしたいって言うんだ。
――そんなに認めたくないのなら、美しいままで死ねばいい――
化け物――いや、私の声が、頭の中で強く響いた。
抗えば抗うほどに、身体が重たくなっていく。
呼吸がしたい。大きく息を吸い込むけれど、欲しい酸素が入ってこない。
次第に手足の感覚が失われて、もがくことすらもできなくなる。
意識がぼんやりとして、過去の記憶がフラッシュバックする。
これが走馬灯というやつか。
私は死ぬんだ。そう思った。
走馬灯の中は、彼ばかりだった。
なんのことはない、くだらない彼との想い出が、ぐるぐると頭の中を巡っていた。
そしてそれは幸せな時間だった。
山野美香に邪魔されない、私と貴臣だけの時間。
私にとって、何より大切な思い出。
ああ、私は、ひょっとして。
貴臣のことが、好きだったのかなぁ?
そう感じた瞬間。
ピシリ、と。世界が軋む音が聞こえた。
目の前に広がる真っ暗闇に白い光の亀裂が走る。
再び醜く歪んだ私の声が響く。
――奪いたかったのだろう? ――
そうかもしれない。
貴臣に彼女が出来たと聞いて、平静を演じながらも、どうして自分ではないのだろうかと心の奥底で問いかけていた。
本当は傷ついていた。
本当は、奪ってやりたかった。
ピシッ、ピシッ、っと、鈍い音と亀裂がゆっくりと続いて、黒い破片が零れ落ちる。
破片から差し込む強い光をぼんやりと眺めながら、私は心の内をクリアにする。
私は貴臣のことが大好きで、けれど素直に認めることができなかった。
貴臣に対する独占欲。山野美香に対する嫉妬心。
確かに全部、その通りだ。恥ずかしくて、悔しくて、思い通りにいかない想いは全部気付かない振りをしてきた。
本当はずっと感じていたはずだ。
貴臣が自分だけのものになればいいのにと、どうしようもない独占欲に駆られていた。
私は、貴臣が欲しかった。
そう認識したとき、世界が、割れたガラスのごとく粉々に砕け堕ち崩壊した。
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