第3話 暗色オーバーフロー

 目的地に到着する頃にはすでに夕方の六時を回っていた。

 夕闇が辺りを覆う。そびえ立つ巨大な建造物の影だけが中から漏れる明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がる。

 山野美香が入院している病院だ。


 彼女の病室は五階にあった。エレベータを降りてすぐのナースステーションで記帳を済ませ、彼女の部屋番号を探す。

 探し当てたその部屋は個室で、戸口は閉まっていた。

 二回ノックをして、失礼しますと声をかけたら、中から「はい」と線の細い声が聞こえた。彼女だ。

 病室の引き戸を開けると、頭半分に包帯を巻いた山野美香がベッドの上で横たわっていた。が、その脇に立つ先客の方に目を引かれる。

 貴臣だった。


 貴臣は私を見て驚いているようだった。どうしてここに、とでも思っているのだろう。

 もちろん、彼がここに居る理由はシンプルだ。自分の恋人の見舞いにやってきた、ただそれだけ。

 それなのにどうしてだろう。二人が並んでいる姿を見ると鼓動が騒ぐ。

 動揺している――?


 騒がしい胸の内を表に出さないように、私は二人に向かって笑顔で挨拶した。 

 「こんばんは。も、来てたんだ」

 あえて『貴臣』という呼称を避けたのは、親しくファーストネームで呼ぶことをはばかられたから。一応、彼女の目の前だし。


 が、そんな私の気遣いをぶち壊して、貴臣はいつも通り口を開く。

 「莉音こそ。驚いたよ。突然どうしたんだ?」

 面食らったような、けれどもどこかホッとしたような笑顔。


 「……課題のプリント、先生から預かってきたの。これ、山野さんの分」

 私がバッグからプリントの束を引っ張り出すと、ベッドの上の山野美香が「ありがとう」と抑揚のない声で言った。


 山野美香はいつも通りの無表情だ。とても『ありがとう』を言うときの顔とは思えない。たぶん社交辞令だろう。

 そして近くで見る彼女は輪をかけて美しかった。大きな瞳に長い睫毛。曇りの一滴もない白肌。細く繊細な身体のライン。腰まである絹のような黒髪が柔らかな胸の膨らみにかかり、妖艶さを醸し出している。

 男だったら誰しも目が離せなくなるであろう魅力を彼女は持っている。


 私とは比べ物にならないな……そんなことを思って、心が重たくなった。

 比べても仕方がないのは分かっているし、別に羨ましいわけじゃないけれど。

 彼女の隣に並ぶのは、なんだか少しだけ気が引ける。


 山野美香が浮かない顔でプリントの束を眺めていたので、私は一通り説明してやることにした。数Ⅲの提出期限は来週の水曜日まで。英語は今週中。現国は教科書に答えが載っていないから自分で調べなければならなくて、少々面倒くさい。

 私が説明している間、彼女は変わらず感情の乏しい目でぼんやりと頷いていた。


 そんな様子を眺めながら

 「俺、そろそろ帰るから」貴臣が床に置いてあったリュックに手を伸ばし、だらりと肩から下げた。

 

 「ううん、私こそすぐ帰るから、佐原くんはこのままここに――」

 「いや、ちょうど帰るところだったんだよ」

 

 そう言って貴臣は部屋を出ようとする。

 慌てて追いすがる私に貴臣は、山野美香には聞こえないような小声でそっと耳打ちした。

 「莉音、せっかくだから少しだけ美香の話相手になってやってくれ。入院って暇らしくてさ。今まで俺がずっとそばにいたんだけど、さすがに俺ばっかりじゃ飽きてきたみたいだから」

 任せた、と私の肩を軽く叩いて、貴臣は病室を出ていく。

 

 そっか。貴臣が学校をずっと休んでいたのは、彼女のそばにいたからなんだ。

 結局、貴臣の世界は彼女を基準にして回っている。

 分かっていたことだけれど、なんだか無性に虚しくなった。

 心配なんて、するんじゃなかった。


 私と山野美香の二人が意図せず病室に残されて、重苦しい沈黙が下りる。

 そもそも私たちはそれほど仲が良い訳ではない。なのに突然二人きりにするだなんて、どんな無茶ぶりだ。


 気まずい。

 よろしくされてしまった手前、このまま帰ることもできずに、沈黙を飲み込む。


 山野美香はこちらに全く興味がないといった様子で、窓の外に視線を投げていた。

 空は完全に濃紺の奥へ沈んでしまった。夜の訪れ。面白味のない窓の外の風景に視線をうつろわせながら、彼女はふと口を開いた。


 「妃崎さんは、佐原くんと、仲が良いのね」

 ひんやりとした、感情の読み取れない声だった。


 他人に質問を投げかける姿なんて見たのは初めてだったから、少々驚きながらも私は答える。

 「佐原くんとは、幼馴染だから」

 

 それを聞いた山野美香は少しだけ怪訝そうに目を細めた。

 「それだけ?」

 「え?」

 「クラスの女子たちが話しているのを聞いたことがある。あなたと佐原くんはいつも一緒にいるから、付き合っているのだろうって」

 「ち、違うよ!」

 私は咄嗟に大きく首を振った。


 慌てふためく私を一瞥で済ませた山野美香は、再び窓の外へ視線を戻す。

 ぼんやりとしながら、たいした興味もなさそうに呟いた。

 「別に、かまわないわ。浮気されるくらいの方が、気が楽でいい」

 「え?」

 「真剣に付き合いたいだなんて言われても、重いから」

 涼しい表情で言い放った山野美香に、私は言葉を失う。


 それはつまり、貴臣と真剣に付き合う気がないということだろうか。

 彼女にとって貴臣は、その程度なのだろうか。

 真摯に向き合う貴臣の善意を、優しさを、踏みにじるつもり?


 黙り込んでしまった私の代わりに、山野美香が口を開いた。

 「佐原くんは、恋愛感情と同情をごっちゃにしてるみたい。私のことを、両親を亡くした可哀相な女の子だって思ってる。助けてやらなくちゃって、使命感を燃やしている。自分が私と付き合うことで、私を救えると思っている」

 「違うの?」

 「私は、誰かに救われたいなんて思ってない」


 ぴしゃりと言い放って彼女は口を閉じた。

 何を言えばいいのか、何を聞いていいのか、分からない。

 病室は酷く静かだった。気が狂いそうなほどに。

 私は二人の関係に、立ち入っていいのだろうか。


 「……それなら、どうして佐原くんと付き合ったの?」

 私は躊躇いながらも問い掛けた。

 山野美香の瞳が私の顔色を確認する。色のない無感情な瞳が、面倒くさそうにうつむいた。

 「安心して。付き合ってるといっても、恋人らしいことは何もしていない。するつもりもない」

 「それはどういう……」

 「あなたは佐原くんのことが好きだから、私と佐原くんが付き合っているのが許せないんでしょう?」


 うっと息を飲み込みうろたえる。

 違う。違うよ。そんなんじゃない。

 確かに貴臣のことは心配だけれど、それは幼馴染としての感情で。

 貴臣が誰と付き合おうが、私には関係ない――ないはずだ。

 

 「……誤解だよ! 貴臣はただの幼馴染で、私は好きだなんて――」

 思わず『佐原くん』ではなく『貴臣』と口に出してしまって、あっと呻いた。

 そんな私を見て、山野美香はふっと息を吐いた。もしかしたら、笑ったのかもしれない。


 「じゃあ、もう少し佐原くんで遊ばせてもらっても文句ないかな?」

 「……え?」思わず表情が強張った。「……遊び、なの?」

 「当たり前でしょう?」


 胸がちりっと痛んだ。

 私は部外者だから、二人の付き合い方にどうこう言う権利はない。

 けれど、こればっかりは間違っている気がした。 


 「それは……だめ」

 「どうして? あなたは佐原くんに興味がないんでしょう」

 「でも、大事な、友達、だし」


 だって、他になんて言ったら納得してもらえるんだ。

 もごもごとしながら言い訳を吐き出す姿を見て、山野美香の瞳が鋭くなった。


 「そんなに大事なら、あなたが彼と付き合えばいいじゃない。私は止めない」

 

 彼女が窓際の机の引き出しを開いた。中から手のひらサイズの小さな四角い箱を取り出す。

 高級感溢れる赤いスエードで覆われたその箱の中身には、覚えがあった。

 貴臣が彼女のために買った指輪だ。あのアクセサリーショップで一緒に選んだのだから見間違うはずがない。

 山野美香がそれを私の前に突き出す。


 「欲しいなら、あげる。あと、彼のことも」

 

 わずかだった胸の痛みが、はっきりとした苛立ちに変わり、怒りが込み上げてきた。やるせなさに拳をぎゅっと握りしめる。

 貴臣が必死にお金を貯めて選んだその指輪を、あっさりと手放すのか。

 『あげる』の一言で、関係を清算しようというのか。


 出来ることなら彼女の言う通り、貴臣を奪って逃げだしたいところだ。

 が、彼はあいにく物ではないし、何より彼のベクトルは、私ではなく、山野美香に向いている。


 悔しい。

 私の方が山野美香よりもずっと貴臣のことを考えているのに。

 

 どうして選ばれるのは彼女なんだ?

 

 彼女が、憎い。



 抑えきれない激情が堰を切って溢れ出す、そんなイメージだった。

 ぞくりと背中を伝う感触。

 それがどす黒い負の感情であることを、私は直感的に理解した。


 突然、どん、と身体を押されたような衝撃。

 机の上につんのめって、何事かと目を丸くする。

 背中の真ん中で風船が弾けたようだった。


 瞬きして身を起こすと、病室は明らかに先ほどよりも薄暗い。

 蛍光灯の不調か何かだろうか。どうにも視界が悪く、まるで、黒い霧が立ち込めているような。

 

 ふと、横に居る山野美香が珍しく驚いたような顔をしていることに気が付いた。 

 自身の胸元にある一点をじっと見つめている。

 その先には、小さな黒いもやのような塊が浮いていて、重苦しい闇色の斑を吐き出していた。

 私はぎょっとして目を見開く。


 病室に立ち込める陰りはどうやらそれが原因らしい。閉じられた病室がみるみるうちに暗色へと染まっていく。

 そしてその塊自体も次第に形を大きくしていく。

 

 訳が分からない。こんなの、見たことがない。

 とにかく、嫌な感じがする。


 逃げよう、という言葉を私たちが口にする前に、山野美香のお腹の上で大きく育った塊が不気味に揺らめき形を変えた。

 にゅるり、と全身を水のように震わせて、側面から触手を生やす。

 触手が素早く山野美香の首に巻き付いた。


 「っ!?」

 「!!」


 苦悶の表情を浮かべる山野美香。声を出すことも叶わず、手で首の辺りを掻きむしるようにもがいている。

 混乱と躊躇で私の頭の中が真っ白になる。

 まるで夢を見ているみたいだ。とびきりの悪夢。だってこんなの、現実なわけがない。


 ふと神木から聞かされた貴臣の証言が頭をよぎる。

 ――犯人は人成らざる『黒い影』で、煙のごとく忽然と姿を消した――


 まさか、そんな馬鹿なことあるわけ――


 思わず膝の力が抜け、その場にへたり込む。驚くほど身体が動かない。


 私が混乱している間にも、黒い塊はたぷんたぷんとその身を波打たせながら形を変えていく。

 輪郭にはっきりとした凹凸が現れる。頭ができ、肩ができ、山野美香へ伸ばした触手はひょろりと伸びた腕へと変わる。

 それは人の形を成していた。線は細く、小柄な、私と同じくらいの背恰好をした人型。


 頭の部分が、くるりと回転してこちらを向いた。

 丸く輝く二つの穴が開いていて、目を連想させた。

 その下、口の箇所に亀裂が入り、にぃぃぃぃぃぃっと、三日月に裂ける。

 笑ってる……


 全身が総毛立つような、狂気の笑顔。

 化け物――

 呼吸が止まる程の恐怖というものを、私は生まれて初めて体験することになった。


 目の前のこの化け物が、本気で私たちを殺そうとしているのが伝わってくる。

 生まれて初めて感じる、はっきりとした『殺意』。

 それを確信したら、自分の中で何かのスイッチが入った。

 なきゃ、られる。


 私は床に転がっていた自分のバッグを咄嗟に拾い上げた。

 思いっきり化け物に向かって投げつける。が、バッグは虚しく宙を凪ぐ。

 当たらなかったのではない。身体の真ん中をすり抜けたのだ。

 どうやらこの化け物、こちらから触れることはできないらしい。


 そんなの、どうしようもないじゃないか。

 このまま、おとなしく殺されろっていうのか?

 冗談じゃない。


 動揺する私を見透かすように、光る二つの目玉が、避けた口元が、こちらを見下ろしてニィィィと笑う。恍惚な、歪な笑み。


 だめだ。私の手に負えるものじゃない。

 立ち上がれぬまま手で床を掻いて後ずさる。

 何かないのか。この最悪な状況をひっくり返す、何かが。


 ぎゅっと目を瞑ったそのとき。


 背後から、強烈な破壊音。

 頭上を鋭い風が通り過ぎる。

 ガンッ! と床から大きな振動が伝わり、堅い何かが叩きつけられる音がする。

 慌てて目を開くと、自分の真横に外れた病室の扉が横たわっていた。

 真ん中がぐにゃりとひしゃげている。一体何をしたら扉がこんな歪み方をするのか、見当もつかない。

 

 ハッとしてベッドの上へと視線を戻すと、化け物は山野美香の上を離れ、窓ガラスに足を踏ん張り這いつくばっていた。重力を無視して蜘蛛のようにへばり付いている。


 ガコン、と、ひしゃげた扉を躊躇なく踏みつける革靴が視界に入ってきた。


 「いやー、張り込んだ甲斐があったというものです。これほどあっさり犯人が見つかるとは」


 上から降ってきたのは、聞き覚えのある能天気な声だった。

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