第1話 強行アブダクション
その日、私――
クラス委員である私は、入院中のクラスメイトに課題を届けるよう頼まれて、いつもより早めに下校の途についた。
校門から駅へ向かうための一本道。学校の敷地を囲む鉄柵とガードレールで挟まれた細い歩道。いつも道りの光景だ。
違っていたのは、真っ黒なスーツを身に纏った男が道端にしゃがみ込んでいたこと。
その男は背を丸め、膝に顔を埋め、ひくひくと肩を震わせていた。たまに嗚咽が漏れてきて、泣いているのだと分かった。
その男の脇に、女の子が立っている。
男の背中をさすりながら、必死に介抱しているようだった。
こんなときに限って
「マユラちゃんがあんなこと言って期待させるから、楽しみにしていたのに。みんな黒タイツを履いているじゃないですか。一体どこにあるっていうんですか
「先生、やめてください、発言が完全に変態です。仕方ないんです、黒タイツがこの学校の制服なんですから」
どうしよう。変質者だ。
私は背筋を凍り付かせ足を止めた。
警察へ通報すべきか、戻って先生に報告すべきか。悩んだ末に後者を選び、私はそっと踵を返す。
そのとき。
「ほら、先生! そうこうしている間にターゲットが!」
「なんと!? いけない! 逃げられてしまいます!」
振り向けば女の子がこちらへ向かって指を指し、男が縮こまった身を跳ね起こしていた。
その二人の示す先は明らかに私。
「お待ちなさい、そこの
男の叫び声を背に受けて、私は弾かれるように走り出した。
二つの足音が追ってくる。校門はすぐそこだ。入ってしまえば手を出せまい。
が、少々体格にハンデがあり過ぎた。片や一般的な身長の女子高校生。片や長身の成人男性。性別の差もさることながら、歩幅に違いがあり過ぎる。
私は必至に手足を振り動かした。肩下で切りそろえた黒髪が勢いよく風になびく。そこそこのスピードは出ていたはずだ。
が、伸びた男の手があっさりと私の右腕を捕らえた。
全速力で走っていたところに無理やり腕を掴み取られ、私の身体は前後逆向きに半回転する。勢いが殺し切れず背中が地面に引き寄せられる。
すかさずスーツの男が私の背面に回り込み抱きとめた。
「女・子・高・生・G・E・T・です♪」
「っ!!」
不敵な笑みを浮かべる変質者の腕に抱かれながら、咄嗟に口よりも手が動いた。
ばちぃぃぃぃぃぃいいいいん!!
乾いた音が響く。
「っ痛ぁ!」
男が頬を抑えながらしゃがみ込んで、取り落された私はお尻から地に落ちた。
お尻を抑えて呻く私に、男が涙を浮かべながら非難の瞳を向ける。
「ひ、酷いじゃないですかぁ! 私はただ倒れそうな
打ちひしがれている男の元へ、後ろから追いついてきた女の子が冷たい声で進言する。
「そうやって女子高生女子高生連呼しているところが気持ち悪いからです」
「そもそも、初対面なのにどうして逃げるんですか」
「お言葉ですが、不審な男が追いかけてきたら普通は逃げます」
「マユラちゃん、私のどこが不審だっていうんです?」
心底不思議そうに首を傾げる男に、マユラと呼ばれた女の子は「本気で言ってますか?」とため息をついた。
その男の外見は、まごうことなき『不審者』だった。
喪服のような真っ黒いネクタイと真っ黒いスーツ。髪の色も黒。瞳も黒。気味が悪いほど全身黒ずくめ。
なのに眼鏡だけが深みを帯びた紅色で、メタリックな鈍い光を放っていた。
それだけが妙に浮いていて違和感を際立たせている。
対する女の子の方は、目を疑うほどに愛らしく、男とは違った意味で浮世離れしていた。
陶器のように白い肌と色素の薄い髪から、どことなく儚げな印象を受ける。
腰まであるウェーブがかった髪と、足首まであるふんわりとしたスカートは、まるで西洋のお人形さんのようだった。
どういう関係であるか、なかなか察しの付け難い二人である。
私に一体何の用だろう、胸元でバッグをぎゅっと握りしめながら警戒した。
「そんなに怯えないでください、少し話を聞かせてもらいたいだけですから」
男が勝手に私の手を取り、甲をすりすりと愛おしそうにさする。
「やめてください! 猥褻行為で訴えられてしまいます」
女の子に激しく腕を叩かれて、男は呻いて身を縮こませた。
「度々ご無礼を申し訳ありません。私共はこういうものです」
女の子が幼い外見にそぐわぬ礼儀正しい口調で頭を下げた。
胸元から黒い革製の手帳を取り出し、こちらに向けて中身をかざす。
その手帳の片面には身分証、もう片面には仰々しい金色の記章が貼り付けてあり、刑事ドラマでよく見る警察手帳のあれと似ていた。
が、記章はどことなく警察のものとは形が異なっていたし、どちらにせよ実物を見たことがないから本物かどうか見分けられない。
身分証に書かれた肩書を口に出しながら、私は首を傾げた。
「『厚生心理保安省 特別捜査局』……?」
『厚生心理保安省』の名には聞き覚えがあった。
確か、国が鬱病などの精神疾患、加えて怨恨やストーカーによる犯罪の多発を問題視し、それらの心の病を解決すべく新たに発足した機関の名称――だったか。
男も彼女に習い身分証を掲げて、だらしのない笑顔を浮かべる。
「
仰々しい肩書ではありますが、分かりやすく言えば、公務員みたいなものです。決して怪しい人ではありませんよー?」
その男――神木がちっとも説得力のない顔で飄々と言う。
「それで、私に何の用ですか……」
恐る恐る問いかけると、神木は嬉しそうに身体をくねらせた。
「なぁに、たいしたことではありません。とりあえず、私たちと一緒に来ていただきましょうか」
そう言って神木が指し示した方向、数メートル先の道路脇には、見たこともない外装をしたタクシーが止まっていた。
真っ黒い車体、サイドには蛍光ピンクの二本ライン。ボンネットには先ほど見せられた記章と同じような文様が派手派手しい金色で刻まれていた。
怪しすぎる。
「さぁさ、ご乗車ください」
神木が軽快に叫んで私の手首を掴んだ。
そのままタクシーに引き入れようとするから、さすがにぎょっとして声を上げた。
「離してください!」
「警戒しなくても大丈夫ですって。ほら、どこをどうみても、女の子を捕って食べちゃうような悪い男には見えないでしょう?」
何を言っているんだこの男は。悪い男にしか見えない。
全力で抵抗したにも関わらず、神木はいとも簡単に私の身体を後部座席へと押し込んだ。
出口を塞ぐ形で助手のマユラが乗り込んできて、神木も助手席へと滑り込む。間をおかずタクシーが走り出した。
「何なんですか!? 降ろしてください!」
外に出ようと試みるが、ドアにはロックが掛けられており、びくともしない。
神木が助手席から後ろを振り返り、にっこりと微笑んだ。
「運転中にドアを開けたら危険ですよー?」
その笑顔の裏に邪悪さを感じとって、背筋がぞくりと冷たくなる。
拉致だ。誘拐だ。新手の犯罪だ。とにかく早く逃げなければ――
――とはいえ走る車内に三対一、抵抗したところで何ができるだろう。
困惑する間にタクシーは細い路地へと入り込む。土地勘のある者にしか分からないような道をくねくねとひた走り、もう窓の外の景色がどこなのか私には分からない。
やがて古びた雑居ビルの前でタクシーは止まり、後部座席のドアが開いた。
それは五階建ての、何の飾り気もない無機質なビルだった。
上階はフロア全体がガラス窓に覆われ、大きなワンルームであることが分かる。一般的にはオフィスや店舗に用いられる物件なのだろう、とにかく居住用でないことは確かなのだが、かといって建物の外観を見る限り何に使われているか判断できる要素は何もない。
不安感を掻き立てる『怪しい建物』であることは間違いなかった。
タクシーの外へ足を踏み出したところで、すかさず神木が回り込んできて逃げ道を塞いだ。しまいには私の身体をひょいと持ち上げ肩に担ぎ上げる。
「ちょっと! 何するのよ!!」
「だって、君。逃げるんですもの」
神木は私を抱えたままビルの中へとダッシュした。
線が細く貧弱そうに見える割には、女子高生を担いで走る筋力は持ちあわせているようだ。
「下ろしなさいよ変態ぃぃぃぃ!!」
神木が通路の奥のエレベータに飛び乗った。走り込んできたマユラがすかさず『閉』ボタンを連打する。
厚くて頑丈なエレベータの扉が、目の前で閉じられる。
退路が、断たれた。
胸の中に絶望が込み上げる。
やがてエレベータは最上階で動きを止めた。
外へ出ると、廊下の先に表札のない簡素なドアがあって、そこを開けたところで私は地面に下ろされた。
中は何の変哲もない、ただのオフィスだった。
こじんまりとした事務所と言った方が近いかもしれない。
部屋を入って右側に、スチール製の仕事机が四つ向かい合わせに並んでおり、パソコンと書類の束が積みあがっていた。
左奥は来客用のスペースなのだろうか、上質そうなガラス製のローテーブルと、それを囲むように向い合わせで配置された皮製のソファ。
部屋を囲む大きな横長の窓は一面ブラインドが引かれている。その手前には観葉植物。
あまりにも当たり障りのない光景に拍子抜けする。
「ここは……?」
尋ねた私に向かってマユラがにっこりと微笑んだ。
「この近辺を管轄する捜査局員が使う作業場みたいなものです。といっても、今は神木先生と私くらいしか使っていませんから、どうぞおくつろぎください。今、お茶を入れます」
そう告げてマユラは部屋の奥へと姿を消す。
どうかお茶などいいから、この男と二人きりにしないで欲しい。
調子の良い笑顔を浮かべた神木が、私の背中を押して、「さぁさぁ」とソファへ促す。
「少しお話をしましょうか」
私を奥のソファへ座らせたあと、神木自身もテーブルを挟んだ正面に腰を下した。
私の背面にある窓、ブラインドの隙間から鋭い西日が差し込んできて、正面の男の顔色が橙に染まる。
神木礼――その得体の知れない男をまじまじと観察した。
歳は二十代前半くらいだろうか。よくよく見ると整った顔立ちをしている。
が、そのふざけた態度と異様な身なりが全てをぶち壊している。残念極まりない。
にこにこと穏やかな笑みを浮かべてはいるものの、それは決して優しそうとか、良い人そうとか、そういう類のものではない。
偽善的な、何か裏の思惑を予見させるような――そんな不敵さを携えて男は口を開く。
「君の名前は、
「……どうして私の名前を?」
「言ったじゃありませんか。ターゲットですって」
神木は膝の上で手を組み、笑顔のまま話し始めた。
「実は私たち、とある事件について調べているのですけれど。先日この近辺で起きた通り魔事件をご存じですか?」
通り魔事件と聞いてピンときた。クラスメイト二人が襲われて怪我を負ったアレのことだ。何しろつい三日前のことで、まだ記憶に新しい。
私が頷いたのを見て、神木は満足そうに微笑んだ。
「第三者の目撃証言もない、なかなかに手の付けようがない事件でして。
だから私たちは容疑者と
――容疑者と
言葉に引っかかりを感じて、私は眉をひそめた。
ということは、つまり。
「まさか、私が容疑者だなんて言うんじゃあ……」
「ご明察。そういうことになりますね」
満面の笑みで神木が頷く。
――ちょっと待て、私が容疑者? どういうことだ?
それは私にとって全く身に覚えのない話で、寝耳に水、晴天の霹靂、まさしく完全なる冤罪だった。
「ちょっと待ってよ、どうして私が――」
「ああ、そうそう!」
反論を遮って、神木が思い出したかのように手を叩いた。
「大事なあの儀式を忘れていました。いけないいけない。
莉音ちゃん、これからお決まりの台詞を言うけれども、おまじないみたいなものだから、びっくりしないで聞いていてくださいね」
そう前置きすると、ソファに深く腰かけて悠然と足を組んだ。
やがて語り始めた神木の口調は淡々としていて、有無を言わさぬ圧力を含んでいた。
「君には黙秘権がない。
これから行う取り調べは、国家権力に基づき、正当な法の下に執り行われるものであり、我々『厚生心理保安省 特別捜査局員』は国民の生命に危険が及ぶ事態において司法の代弁者たる絶対的権限を有することを承認されている。
なお、我々の協力に応じない場合は、国家への反逆行為とみなし、然るべき罪を与えるものとする」
柔らかな口元とは対照的に、鋭い瞳が私の身を貫き縫いとめる。
「――と、いうことなのですが、ご了承いただけますでしょうか」
神木は今しがた宣った物騒な言葉の余韻を掻き消すが如く、最後に飛び切りのスマイルを繰り出した。
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