6
ガクンという小さな衝撃で、僕は目を覚ました。僕が乗っていた飛行機が、無事
EPEsでレギュラーを張っていた時代は国際大会にも出場する機会がそこそこあって、ヨーロッパやアメリカにも何度か行った。片道12時間オーバーの旅路だが、僕はとても寝付きが良いという無駄な自負がある。離陸してシートのリクライニングがOKになったら即座に眠って、機内食で目を覚まし、食事を済ませるとまた寝て、最終降下態勢に入るまで熟睡しているというのが普通だった。枕が変わると寝れない系の神経質なチームメイトからは「なんでそんなに寝れるんだ」と羨ましがられたものだ。
もっとも、僕は日が沈んでいくアラビア海を見たこともなければ、夏の陽射しに照らされるシベリアの永久凍土を拝んだこともないわけで(どっちも熟睡していた)、寝付きが良すぎるのも考えものだぞと言うしかない。
僕がシンガポールまで来たのは、つまるところ、「断れない依頼」があったからだ。僕の名前を冠している超特殊なキーボードが2年ぶりにリニューアルされるにあたって、お披露目会に参加してほしいと言われてしまうと(もちろん旅費も宿泊費も全部主催者である
ともあれチャンギ国際空港に降り立った僕は、懐かしい人物の出迎えを受けた。EPEsマネージャの秘書を務める、マイケルだ。彼は実に人当たりがよく、神か仏なんじゃないかと思うくらい我慢強く、8カ国語を流暢に使いこなし、そして彼自身元プロプレイヤー兼元
EPEsメンバーは例外なく何らかの窮地(空港に集合したらパスポートを忘れたことに気づいたとか、遠征先で荷物を盗まれたとか、元カノがストーカー化したとか)をマイケルに救われており、傲岸不遜と傍若無人をそのまま人物にしたかのような
「お久しぶりです、ナギサさん。
今回のお披露目会ですが、僕がナギサさんの担当になりましたので、困ったことがあったら遠慮なく言ってください」
「お久しぶりです、マイケルさん。マイケルさんにサポートしてもらえるだなんて、驚きです。でもとっても嬉しいし、ありがたいです」
言いながら、マイケルとがっちり握手。
しかるにマイケルはテキパキと僕のスーツケースを車に積み込んだ。僕は彼の指示通り、SUVの後部座席に座る。
「では、まずは宿に行きましょう。荷物を置いて、一息ついてください。
ホテルまでは長くて30分程度ですが、道中寝ていてもいいですよ」
発車させながら、マイケルが英語で語る。マイケルの日本語はほぼ完璧だが、英語のほうがより完璧だ。僕も英語なら問題なくコミュニケートできる。
「じゃあお言葉に甘えて、一眠りします」
宣言通りに速攻で寝た僕は、30分後にマイケルに揺り起こされるまで爆睡し続けた。そして「ここが今回の宿ですよ」と言われたホテルがリッツ・カールトンなことに仰天したりしつつ、これはヘタにSNSに写真をUPしようものなら姉さんから「なんであたしも連れて行かなかった」系の罵倒が届くな的な、わりとどうでもいい心配をしていた。
■
シンガポールでの日々は、特にこれといったトラブルもなく、平穏に過ぎていった。
A-Sisのショールームで宣伝素材の撮影をしたり、現地メディアのインタビュー取材を受けたり、A-Sisの郭CEOが主催するVIPディナーに呼ばれたりと、やるべき仕事はたくさんあったが、予定の管理はマイケルに
だが最大の――そして最も驚くべきトラブルが、お披露目会の、その当日に発生した。
お披露目会には、当然と言うか何というか、EPEsの現メンバーをはじめ、A-Sisがスポンサーする他の有名プロチームも招かれている。A-Sisは彼ら世界的に有名なプロ選手の名前を冠した様々なゲーム関連グッズ(ヘッドセット、マウス、キーボードなどなど)を販売しているし、EPEsくらいに有名チームだと「EPEs公認ゲーミングノートPC」もあったりするので、お披露目会の場に集められる「関係者」は、相当な人数になる。
僕はなるべく目立たないように注意しながら、マイケルと話をしたり、かつてのライバルチームの選手と形式的な挨拶をしたりして、時間を潰していた。
EPEs第二の黄金時代を築いたチームの
まあ、アレだ。アジア的な優しさというか、距離感というか、そういうアレ。
ともあれそれはそれで有り難かったので、僕は自分の出番が来るまでの間、とても無難に時間を過ごしていけた。
けれど、よく作りこまれたプロモ映像が流れ、プレゼンテーターが僕の名前を呼び、僕がはにかみながらステージに上がって、「“ナギサ”式 第2世代トレーニング専用キーボード」、というのが正式な商品名)を前に座ってみせ、たくさんのカメラのフラッシュに包まれて、さて仕事は終わったと一安心したそのとき、事件は起こった。
「そんなもの、何の役にも立たねえのに、アホらしい!」
不躾な大声が、お披露目会の会場に響いた。まだ僕に向かってカメラを向けている記者さんがいるので、僕は営業用のスマイルを浮かべたまま、罵声を聞き流す。
「ハッ、馬鹿みたいにニヤニヤしやがって。
あのキーボードもクソなら、あいつもクソだ。
あんなチキン野郎、この場に呼ぶべきじゃねえだろ」
カメラマンさんの撮影が終わったが、まだ営業用スマイルを崩すわけにはいかない。
この後サプライズゲストとして、郭CEOがステージに上がってくる。彼と握手して、僕からの感謝の言葉を伝え、また第2世代トレーニング専用キーボードの素晴らしい完成度を褒めて、再び郭CEOと握手して、ステージから降りる。この段取りは取材陣にも前もって伝えられているから、カメラマンは郭CEOが出てきたところを撮影しようと、いつでもシャッターが切れる体勢。まかりまちがってもここで「不機嫌そうな無表情」とかなんとか適当なキャプションをつけられる可能性のある表情を見せるわけには、いかない。
でも罵声が飛んできた方向で、ガラスが割れる大きな音が響き渡ったとなると、僕もスマイルを引っ込め、思わずそっちを見てしまう。カメラマンもみな、物音の方向へと筒先を向ける。
「うっせえ! オレは本当のことを言ってるだけじゃねえか!
アレはクソキーボードだ。ナギサはイカサマ野郎の、チキン野郎だ。
あいつなんかに元EPEsなんて名乗らせてるから、EPEsは勝てなくなっちまったんだよ!」
このあたりで、さすがの僕にも大声の主が誰なのかに思い至った。現EPEsの切り込み隊長、リチャード・張だ。若くて、勢いがよく、そして荒っぽい――そんなイメージで売っている選手。彼が受けたインタビューの中で、彼が僕のことを徹底的にDisっていたという話を、人づてに聞いたことがある。
僕も聖人君子ではないので、晴れの場でここまでDisられると、ムッとする。でも彼のDisは、根拠のないDisではない。イカサマ野郎というのは事実と異なるが、チキン野郎というのはいい逃れようもない事実だからだ。
張はステージ上の僕が自分の罵倒に反応を見せたことに気を良くしたのか、声のボリュームをさらに上げて僕をDisった。
「そもそも、アイツがリーグ1部で何Killとった?
3だ! 3だぞ! 18戦、合計86マッチ戦って、合計3キルだ!
1on1での成績なんてもっとお笑いだ! 0勝18敗! ひでえプロもいたもんじゃねえか!
そんな
うん。僕もそう思う。
あの年のEPEsは86マッチ戦って80マッチに勝ったが、負けた6マッチのうち2つは決定的な1on1で僕が負けたのが原因だ。僕がもっとちゃんとしたプロプレイヤーだったら、EPEsは82勝していただろう。
ただこの場においては、僕が上手いか下手かはたいして重要ではない。現EPEsのスポンサーであるA-Sisさんの新製品が素晴らしいものかどうかが、一番大事なことだ。そこでスポンサーの製品までもDisる張は、正常な判断力を失っているとしか言いようがない――ああいや、違うな。さては張は、EPEsを抜けて、別のチームへの(そしておそらくはA-SisさんのライバルであるChuanさんあたりがスポンサーしてるチームへの)移籍が内定してるんだろう。だから最後っ屁とばかりにA-SisさんもDisっている、というところか。
ううん。でもこんなことをしてChuanさんが喜ぶとは思えないし、むしろこの件がネットで話題になれば(絶対に話題になる)、「リチャード・張は恩知らず」という悪名だけが残るんじゃないかな……。
ともあれ僕としてベストな選択は、「リチャード・張からの罵倒なんて聞こえない」素振りで、営業用スマイルをキープし続けることだろう。A-Sisの郭CEOが顔を出せば、いくら張でも僕をDisり続けてなんていられない。
そこまで考えた僕は、視線を本来のカメラ目線に戻すと、表情も営業用スマイルに切り替えた。
今にして思えば、張にとってみればそれは最大の侮辱だった。
僕は張の罵倒を無視するのではなく、張がそこにいることそのものを無視したのだから。
だから苛立った張が、言うべきではないことを口にしたのも仕方のないことだった、のかもしれない。
「聞こえてるんだろう、チキン!
すっかりゲロしちまえよ! テメェはAAと組んで八百長してたんだろ!?
あのクソ女がヤクザにぶっ殺されて、怖くなって逃げたんだろ!?
テメェとAAは、チャンピオンリングの汚点なんだよ!
その薄汚えケツをまくって、テメェもとっととこの世から消えろ!」
気がついたら僕は立ち上がって、張を冷ややかに睨みつけていた。彼に向けて左手を差し出し、「ステージに上がってこい」のジェスチャー。
一瞬だけ「やっちまった」と思ったが、そんな思いは一瞬で溶け去った。
僕のことを何とDisろうが、どれだけDisろうが、知ったことではない。
けれどアミタ・秋のことをDisるなら、それは自ずから別の話になる。
しめたとばかりに、張がステージに上がった。警備の人たちは戸惑っていたようだけれど、何か指示が出たようで、張を素直にステージに上げる。つまり僕と彼の対決は、郭CEOも認める「突発イベント」に昇格したというわけだ。
ならば話は早い。郭CEOは、投資家としては堅実、経営者としては実直だけど、エンターテイナーとしては成金趣味を疑いたくなるくらいに派手好きだ。恩義ある身として、僕は郭CEOの期待に答えなきゃならない。
だから僕はステージに上がってきた張に向かって、こう言い放った。
「君を勝負の場に呼んでなんかいない。
僕は“君たち”を呼んだつもり。
第2世代トレーニング専用キーボードの性能をメディアの方々に正しくご紹介するには、“君たち”全員で来てくれないと、まるで話にならないから」
挑発的なんて言葉では片付けられない暴言を吐いた僕に向かって、カメラの砲列がフラッシュを何度も瞬かせる。
でもそう言い放った僕は、これってアミタ・秋が言いそうなセリフだな、みたいなことを考えていた。
■
僕の挑発を受けてステージ上にEPEsの現メンバー5人が並び、僕と対峙する状況が完成したところで、改めて郭CEOがスポットライトを浴びて入場してきた。これまた実に派手好きならではの演出だ。
郭CEOは僕とEPEsの間に立つと、「では30分後に、EPEsとナギサ選手のエキシビジョン・マッチを開始しよう。ゲームは“戦之王”のスポーツPvPモード。最高の試合を期待する!」と言い放ち、しかるにまるで国際マッチの開会式かと思うような照明が舞い、ドラマチックで重々しいBGMがかかった。で、僕とEPEsは係員の指示に従ってそっとステージから退場。アドリブでこれだけやっちゃうんだから、A-Sisさんのe-sportsサポート部門はホンモノだ。
急に用意されたと思しき「控室」に案内された僕は、EPEsのマネージャとマイケルさん、そして監督のグエン・グエン・グエン(グエンは1年前に現役プロを引退、EPEsの監督に就任している)の訪問を受けた。
マネージャもマイケルさんもグエンも、皆とても沈痛な表情で、僕が何かを言い出す前に最大級の謝意を示してきた。僕としても今回の件は張の暴走が問題の根源で、EPEsそのものに無礼があったは思っていないから、素直に彼らの謝罪を受け入れる。
それからみんなで、ポツポツと、いろんな話をした。
マネージャはEPEsの衰退が止められないことを嘆き、グエンは監督として無念だと語り、マイケルさんはこの勝負で彼らも少しは目が覚めるかもしれません、などと場をとりなす。皆、僕が負けるとは微塵も考えていないようだ。
僕もいろいろと話したいことがあったけれど、係員が「エキシビジョンマッチまであと15分です」と声をかけてきたので、ステージに戻るほかなかった。僕はこれから曲芸じみたことをするのだけど、それだけに機材のチェックと調整をするのに15分くらいは必要になる。
幸い、マイケルさんがセットアップを手伝ってくれたので、僕は試合開始までの数分を使って、「戦之王」と第2世代トレーニング専用キーボードの相性をチェックできた。結露から言うと、第1世代よりもずっと使いやすいし、SRHMDを使う「戦之王」にも問題なく対応できている。
そうこうしているうちに、開始3分前がコールされた。ステージの反対側で、EPEsのメンバーがSRHMDを装着しはじめる。
僕もSRHMDを装着した。普段使っているスマホ版とはまるで違う、高解像度な世界が目の前に広がる。さすがはA-sis最強のゲーミングPCに、最高級HMDの組み合わせ。第2世代トレーニング専用キーボードとあわせて、フルセットで150万円くらいはするんじゃないだろうか(主に最後のヤツが高いんだけど)。
開始1分前になって、ステージ背後のスクリーンに動画が流れ始める。現EPEsの活躍を短くまとめた15秒のプロモ動画。それから、僕が現役だった頃のEPEsの15秒プロモ動画。
開始30秒前のアナウンスにあわせて、ステージ上が明るく照らされた。
途端に会場全体から驚きの声が上がる。知っていても、それでも異様な光景。それが僕の――いや、僕の時代のEPEsがやっていた「練習」だ。
「戦之王」のスポーツPvPモードは、5人対5人で行われる。
けれどこのエキシビジョンマッチでは、5人の現EPEsと、僕1人が勝負する。プレイヤー人数で言えば、5対1だ。
でもいまエキシビジョンマッチ用のサーバにログインしているのは、合計で10人。
つまり僕は、1人で5体のキャラクタを同時に操作する。
そのために最適化されたキーボードが、“ナギサ”式トレーニング専用キーボード。バージョン0.1を作ったのは、誰あろう郭CEOだ。
いま僕が使っている“ナギサ”式第2世代トレーニング専用キーボードは、第1世代の基本設計を引き継ぎつつ、より使いやすくなっている。
で、このキメラじみたキーボードがなんで必要になったかと言うと、これを使った「練習」が、めっちゃ効果的だったからだ。
僕がアミタ・秋に誘われてEPEsに入る前から、EPEsでは2台のPC、2枚のキーボード、2つのマウスを使って、「1人で自分相手に対戦する」という練習がメニューに組み込まれていた。最初見た時は「馬鹿じゃないのコレ」とか思ったのだけれど、この練習を続けていると、複数のことを同時に判断して処理できるようになる。知覚が広がっていくようなこの感覚に、僕はすっかり夢中になった。
そのうち僕は「2対2も1人で操作できるんじゃないか」と考え始めた。そして実際に試してみると、結構なんとかなることが分かった。初めのころはチームメイトも「ナギィが狂った」みたいな目で見ていたんだけど、すぐに彼らもこの練習の有用性に気づいた。1on1はしばしばe-sports中継の華となるけれど、ゲームを決める勝負は2on2以上の規模で発生するからだ。
かくして僕が無理やり構築した「一人で4枚のキーボードと4つのマウスを使う環境」は、“ナギサスペシャル”としてチームの秘密練習場に置かれるようになった。マスコミの取材が入る練習室に置いたら、真似されてしまうからだ。
そこから先は、ご想像通りだ。
僕は3on3が1人でできる環境を再び強引に構築し、6キャラを同時に操作できるという感触を得た。当然その次は4on4を目指したのだけれど、このあたりで物理的にキーボードの置き場がなくなった。そこでスポンサーであるA-Sisのエンジニアさんに相談したところ、なぜか途中から郭CEOが出てきて「試しに作ってみたよ」と渡されたのが“ナギサ”式練習用キーボードだったというわけ。
郭CEOが凄いのは、この練習用キーボードを4on4用に作ったのではなく、5on5用に作ったところだろう。さすがに10キャラ全部をきちんと操作しきれた選手は当時のEPEsでも僕とアミタ・秋しかいなかったけれど。
「試合開始、5秒前」
カウントダウンが始まった。僕は集中するでなく、放心するでなく、どちらでもないニュートラルな精神状態をキープする。と、現EPEsのメンバーがどうやって僕を殺そうと考えているのかが、なんとなく“感じ取れる”気がした。
そして経験上、この“感じ”は、ほぼ間違いなく的中する。
僕は第2世代練習用キーボードの上に手を巡らせて、5体のキャラに移動先を先行入力する。これで彼らの奇襲を
「試合開始!」
アナウンスと同時に、5体のキャラクターが一斉に動き始める。
さあ、我ら最強のEPEs、今夜も良い狩りをするぞ!
■
エキシビジョンマッチは18分48秒でカタがついた。落ち目のチームにしては、負け確してからもよく粘ったと思う。でも、痩せても枯れても彼らはEPEsの後継者たちなのだから、20分は踏ん張ってみせてほしかった。
僕は呆然としている現EPEsのメンバー全員(張も含めて)と笑顔で握手をして、最後に郭CEOとハグしてから、改めて第2世代トレーニング専用キーボードの前に立った。途端、カメラの砲列が一斉にフラッシュを炊く。
ステージの裾のあたりでは、おそらくネット生中継しているであろうキャスターと解説者が「タイムリーパー・ナギィは、3年の時間をリープした! 現EPEsに対して、1人対5人で完璧な試合運びでした! いかがですか、解説のエジリさん!」「ナギサ選手にも小さなミスはいくつかありました。EPEsが適切に対応していれば、EPEsの勝利もあったと思います。って、これまるで、普通のマッチの後のコメントですよね。信じられません。すさまじい。それ以外に何も言えません」みたいなことを言っていて、さすがエジリさんだなあ、僕のミスを見られてたか、恥ずかしいなあ、みたいなことを漠然と思っていた。
と、メディアの方から「ナギサ選手、SRHMDとヘッドセットを着用して、新製品を使っているような雰囲気で撮影させて頂けませんか?」という要望が出た。郭CEOをちらりと見ると、OKみたいなジェスチャをされたので、僕は素直にその要望に答える。SRHMDが映し出す画像の中で、また何度もフラッシュが光った。
でもそのとき、本当の「トラブル」が起こった。
SRHMD内部に、
まず最初に、EPEsのメンバーが互いに顔を見合わせた。誰かがゲームをリスタートさせてしまったというのが、一番あり得る可能性だから。でも誰一人として、ゲームをリスタートさせてはいなかった。
それを確認したスタッフが郭CEOに状況を伝えると、CEOの表情がこわばった。スタッフも露骨に焦っている。これはもう、エキシビジョンマッチのサーバに侵入されている以外、あり得ない状況だ。
僕もすぐに、これはとても良くない状況だと思った。大量のメディアが見ている前で、エキシビジョンとはいえ試合用のサーバをハックされただなんてことになれば、A-Sis社の株価に関わる問題になる。
だから僕はSRHMD上で簡単な画像検索を行い、会場にグエンがいないのを確認してから、ヘッドセットのマイクに向かってこう告げた。
「どうやら僕の古い友人が、僕と一勝負したがってるみたいですね」
郭CEOは「これは驚いた」的な表情をしてみせると、「なるほど! ではここからが“本当の勝負”なのかな?」と言い出した。いやはや、現EPEsを全力でぶった切るような発言だが、仕方ないだろう。僕もさすがにそこまでの配慮はしてあげられない。
「もちろん。かつてEPEsがどんな“練習”をしていたのか、ご覧にいれましょう。もっとも、勝つのは僕ですけどね」
僕は自信満々に言い放つ。
「ほほう! いきなり勝利宣言とは。その理由は?」
大げさなリアクションを見せながら、郭CEO。
「第2世代トレーニングキーボードは、まだこの1台しかないのですよね?
なら相手は第1世代を使ってます。
A-Sisさんのためにも、機材の差が結果の差になる実例をお目にかけましょう」
郭CEOも、ギャラリーも、実況者も、解説者も、一斉に笑った。ともあれ、これがハッキングではなく、追加の余興であるという演出は、これにて成功。
あとは少しでも試合を長く引き伸ばして、侵入ルートを遮断する時間を稼ぐ――あわよくばセキュリティチームが逆探知できるまで頑張る。
僕は新品のキーボードの上に手を滑らせ、「挑戦を受ける」ボタンをクリックする。勝負開始のカウントダウンが始まると、会場からのそのカウントダウンに合わせて数字を読む声が上がるのが聞こえた。視界の隅で郭CEOがステージから去るのを見ながら、僕は謎の侵入者との勝負に備える。
そうやって始まった勝負は、とても困惑させられるものだった。
はじめは、相手は腕利きのクラッカーで、クラッキング技術を誇示したいのだと思っていた。だからゲームは下手だろう、と。
だが僕の“感覚”は、侵入者がとてつもない凄腕であることを捉えていた。
油断すれば、開始1分以内に勝負が決まる。
僕はいくつかの選択肢のうち、ファーストムーブとして最も安全な策を選ぶ。結果、ゲーム開始から最初の30秒、どのキャラクタの視界にも敵の姿が映らなかった。相手も安全策で来ているのか、それともこちらが安全策を取るのを見越して大胆な潜伏作戦に出ているのか。
開始50秒が経過したところで、僕は相手が潜伏作戦に出ていると確信した。なぜ確信できたかと言われると困るのだが、これは“感覚”ではなく、経験によるカンのようなものだ。
でも、このカンが正しいとなると、それは――でも……。
65秒、初コンタクト。
予想通り、敵は大胆な潜伏作戦を採用していた。僕は4キャラをそちらに差し向けて緩い包囲を作ると同時に、機動力に優れた1キャラを一気に敵本陣に走らせる。敵が4キャラによる包囲を食い殺すほうに賭ければ、僕が送り込んだ伏兵が敵の本陣を落としてゲームは終わる。
結果、敵は包囲しているキャラを殺す選択肢を選ばず、潜伏を諦めて自軍本陣の防衛にキャラクタを戻した。1キャラが本陣への
4対4なら、十字砲火が可能な僕が有利だ。敵本陣に向かわせたキャラクタも、包囲戦が起こる場所へと進路を変更させている。時間も、空間も、僕の味方だ。
けれど敵はあっさりと僕の包囲をすり抜け、再び視界外の領域へと逃げていった。まるで「お前の包囲の作り方なんてお見通しだ」と言わんばかりに。
90秒が経過し、騙し合いはなおも続く。僕はわざと敵に包囲されるムーブを行い、包囲されたところで予め伏せておいたキャラクタを使って逆包囲を仕掛けに行ったが、敵は僕を包囲していたキャラ2人を捨て、伏せさせておいた僕のキャラ2人を殺しに行った。
僕は敵が捨てた2人を食ったが、ほぼ同時に伏せておいた2人を敵に食われる。
120秒を越えたあたりで、要所要所で起こる遭遇戦が激化しはじめる。
互いにキル数こそ少ないが、これは「戦之王」のスポーツPvPモードならではの特徴だ。「戦之王」においては、敵を殺すより、敵を追い払って陣地を確保したほうが圧倒的に有利なのだ。だから死にかけた敵キャラが目の前にいても、追撃戦を仕掛けることは滅多にない。
このあたり、僕がEPEs時代にメインでプレイしていた「Crimson Angels」と「戦之王」では、だいぶバランスが違う。CAでは「陣地を捨ててでもキルを取るべき状況」がわりとあり得るので、「戦之王」みたいにとにかく陣地! 何が何でも陣地! みたいな展開にはならない。
240秒を越えて、戦況はやや僕が有利か、という状況が発生した。マップ中央にある丘の支配を、僕が概ね確定させたのだ。
この丘は、とにかく見晴らしがいい。さらに、この丘に棲むカラスの魔物を手懐けると偵察の効率はさらに良くなる。こうなると、丘を取られた側は奇襲とか包囲とか潜伏とかいう選択肢が、ほぼなくなってしまう。
だから普通、この丘の支配はなかなか決まらない。さっきのエキシビジョンマッチでも、僕がこの丘を完全に支配できたのは15分過ぎだ。だのにたった4分で支配が固まるというのは、敵のスキルから考えて不自然極まりない。
……不自然極まりない、の、だが。
360秒、480秒と、時間が進むにつれ、僕の有利は徐々に決定的なものになろうとしていた。
会場のギャラリーの表情をちらりと見てみると、「これってもう勝負あったよな」みたいな顔になっている人が多い。この会場にはプロゲーマーが多いわけで、その彼らの多くが勝負ありと考えている、ということだ。
でも僕は、自分が非常に良くないルートに乗ったことを確信していた。
これはかつてEPEsで僕が使った奇策の、変形版だ。
だけどこの奇策が何を狙っていて、なぜ成功するのかを完全に理解していたプレイヤーは、僕が知る限り1人しかいない。解説者や各種ゲームメディアはもちろんとして、当時のEPEsのメンバーも、マネージャも、マイケルさんですら、「正規のマッチで舐めプはやめるべき」と僕に注意する側にいたのだ。
だから僕と戦っているこの敵は、極めて高い確率で、その「1人」だ。
そして予想通り、600秒を越えたあたりで――正確には622秒めに、決定的な危機が訪れた。丘のカラスを完全支配して広大な視界を得た僕に対し、敵は広範囲かつ一気呵成なラッシュを仕掛けてきたのだ。
情報とは、すなわち力だ。情報があればあるほど、戦いは有利になる。
けれど人間が一度に捌ききれる情報の量には限界がある。
そして限界を越えた情報は、思いがけない不利を招く。
これは、ジャムを買うときのことを想像すると、わかりやすい。
そこらのスーパーに行って、ストロベリー・ブルーベリー・マーマレードの中から1つ「自分がいちばん食べたいジャム」を選ぶのは、簡単なことだ。場合によっては3つ全部買ってもいい。
けれどジャム専門店に行って、そこに並ぶ100種類のジャムから「自分がいちばん食べたいジャム」を選ぶとなると、ぐっと難易度が上がる。そして100種のジャムを全部買うという選択肢も、非現実的になる。
結果として、難しいことを考えずにストロベリージャムを買っておけば朝の食卓にちょっとした変化を得られたはずなのに、100種のジャムを見てしまったがゆえに結局ジャムを買わずに店を出たり、あるいはトーストのためにジャムを買いに出たはずなのにネギ味噌のペーストを選んでしまったりする。
つまり、僕は丘のカラスを支配したことで、「100種類のジャムが並ぶ店」の扉を開いてしまった。そして敵はその瞬間に動き始めることで、僕が同時に判断し、選択し、動かさねばならないことを、爆発的に増大させてみせたのだ。
そして案の定、僕は敵のラッシュを受け止め損ねた。5キャラを同時に扱う状況下にあって、僕の情報処理能力は常時パンク寸前だ。そこにさらに巨大な負荷がかかれば、分かっていても手が動かない状況があちこちで頻発する。
もちろん僕には、丘とカラスを支配しない、という選択肢もあった。
でも「戦之王」のPvPは、陣地支配を巡るゲームだ。陣地を支配することでスコアを稼ぎ、それが巡り巡ってキャラクタの強化に繋がる。
僕が丘を確保した段階で、敵の陣地支配数は5。僕は丘を含めて5。
つまり僕は、丘が取りたかったのではなく、丘を取らされたというわけだ。
敵が猛然と仕掛けてくるラッシュを、必死になって捌き、受け止め、反撃し、伏兵を走らせ、撹乱する。
でもラッシュ直後にしでかしたいくつかのミスは、そのまま自軍キャラのデスにつながった。そしてその差が、どうしても埋められない。気が付くと敵は全体的に僕の本陣に近い側でゲームを進めていて、陣地の支配数も4:6と1つ負け越している。
負ける。
本能的に、そう感じた。現役のコーラー時代、4回だけ感じた明確な敗北のビジョン。この先には、何をどう足掻いても、敗北しかない。
思わず、指先が
どう考えても、これ以上はやるだけ無意味だ。
でも僕は、サレンダーのボタンを押さなかった。
当然だ。僕は、プロだ。最後の瞬間まで、勝利を信じて戦う。
それに僕は、この敵を相手に、まだ負けを認めたくなかった。
絶対に、認めたくなかった。
だから僕は、大きく深呼吸する。
それから、机の上に放置していたアップルサイダーを手に取り、一気に呷った。
アミタ・秋に押し付けられた「美容と健康のためのサイダー」を飲んだ試合で、僕は負けたことがない。
ゆえに、僕は負けない。
落ち着いて、精神を研ぎ澄ます。
かつて僕は、10キャラを同時に操って、1人で5対5の戦いをしていた。
そして今も、この戦場にいるのは全部で10キャラだ。
戦場の視界をほぼ全部取っている以上、落ち着いてプレイすれば、有利なのは僕だ。
集中しろ、ナギサ。
必要なのは、それだけだ。
900秒を越えたところで、敵のラッシュが止まった。
僕は、ラッシュを食い止めたのだ。
1000秒を越え、拠点の支配数を5:5に戻す。
長丁場の戦いの中で、敵にもミスが出始めた。
そのミスを突いて、僕は戦局を5分に戻せた。
でもこのあたりから、僕もミスを乱発しはじめた。
僕の集中力は、とうに限界を越えていた。
今はもう、意地とか根性とかいう、精神論の世界で戦っている。
1秒1秒が、そして1クリック1クリックが、鉛のように重い。
それでも泥の中を泳ぐようにして、戦い続ける。
待ち伏せを仕掛け、それを包囲に変形させ、あるいは数の暴力に訴え、ときには大胆に退く。
脳が焦げていく。
焼けて、燃えて、熔けていく。
視界のあちこちで火花が散る。
自分が落ちていく。消えていく。
息ができない。
苦しい。
でも僕は6つ目の陣地を支配していて、敵の本陣を直撃するルートを確保していて、敵は劣勢を覆すために丘の支配を奪取しようとしていて、マップ北の2人を囮にしながら3人を南に回しそのうち1人を途中から丘に抜けさせて支配を取ろうと考えているから僕は北に3人回してわざとミスしてその戦いから撤退し南は2人で攻撃を受けて戦線を膠着させ敵が満を持して丘に1人向かわせた隙をついて北から撤退した3人を敵本陣に突入させると敵は最大3人でしかこれを即座に迎え撃てないからトータルで収支を見ると僕の有利を覆すことはできないしむしろこの局面で丘を譲れば敵は僕が苦しんだのと同じ情報過多にこの土壇場で陥るからラッシュをかければ勝つのは僕だ
■
気が付くと、1241秒でタイマーが止まっていた。
画面もフリーズしている。
そうだ。
そうだった。
これは正規のマッチではなく、EPEsの特訓でもなく、イリーガルな侵入をしてきたクラッカーと戦っているのが僕で、そしておそらくいま、セキュリティチームがクラッカーの接続を叩き切った。
かくしてゲームは不正終了し、勝負はその最終決着を迎えることなく終わった。
僕は荒い息をつきながらHMDを外そうとしたけれど、どうにも指先が震えてしまい、リリースボタンを押すことすらできずにいた。
そしてそのとき、唯一生きていたテキストチャット窓に、文字列が並んだ。
Al3XiS: GG
僕は朦朧とする頭のままGGと入力して、エンターキーを叩くと同時に、視界がブラックアウトした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます