5

 主観意識が回復したとき、私は法廷ロイヤル・コートに立たされていた。

 状況を理解できずにいる私の前で、審問が粛々と進んでいく。


「以上により、被告ナギサの信仰汚染が証明された。

 〈再構成〉をもってしても、被告の浄化は果たし得ない。

 よって、聖なる焔による究極浄化パージの必要を認める」


 名誉をすべて剥ぎ取られた末の死が確定してもなお、私はそのことに何の実感も抱けなかったし、何の感情も湧き上がらなかった。

 自分が終わらない夢の中を漂っているようで、目の前で発生している現実に対しまるで実感が沸かない。


「被告ナギサに、最終抗弁の権利を与える。

 審判に対し、何らか申し開きはあるか?」


 ありません。


 その言葉が喉から飛び出しかかったが、何かがギリギリでそれを押し留めた。

 実に馬鹿馬鹿しい判断だ。

 すべてを認め、1秒でも早く高炉ファーナンスに突き落とされてしまえば、楽になれる。侮蔑に耐えることも、恥辱に震えることも、もはや戻らぬものを失った痛みを抱きかかえることも、これ以上はもう、無理だ。

 理性は全力でそう訴えるにもかかわらず、「ありません」の一言は、私の喉から飛び立って行こうとしなかった。


 代わりに私は、まるで逆方向の言葉を吐いていた。


「判決のすべてを認め、罰のすべてを受け入れます。

 ですが私が為したとされることに対して、私は抗弁します」


 判決を受け入れたことで、私が究極浄化パージされることは規定の事実となった。だがそんなことは問題ではない。所詮この命は、使うべき場所で使い損ねた、余り物にすぎない。

 罰は認めるが事実は否認するという私の言葉に、案の定、法廷は静かなどよめきに包まれた。「見苦しい」「所詮は敗残者」「異端の姦婦め」といった類の、私にとってはもはやお馴染みになった罵倒の囁きが、荘厳な法廷ロイヤル・コートの空間に木霊する。


 だがあくまで法典コーデックに厳正な審問長は、規定通り木槌を2回打ち鳴らすと、一同に静粛を求めた。


「では被告ナギサの抗弁を聞こう。

 いかなる事実認定が、被告の認識と異なるのか?」


 私はゆっくりと、長く、息を吐く。

 紅乙女スカーレット・エンジェルズたちは、精神を集中させるべきときには、必ず気息を整えるものだ。


「事実認定に、疑義はございません。

 ですが私は、私の事実認識そのものを歪められた可能性が高いと判断します。

 それゆえに、私の主観世界において何が起こっていたかを弁論する権利と、またこれを戦訓史ブック・オブ・ウォーに残すことを要求します」


 我ながら、大胆不敵極まりない要求。

 聖戦の英雄であるならいざしらず、たかが敗残者の主観記録を戦訓史に残すことなど、常識ではあり得ない。

 横紙破りな私の要求に、法廷は先ほどよりもよりはっきりとした罵倒の囁きに包まれた。再び、審問長が木槌を打ち鳴らす。


「被告は、被告の主観記録が1万2千年を記録する戦訓史に記載される価値があると主張するのであるならば、その根拠を述べよ」


 審問長すら、私の馬鹿げた要求に怒りを覚えたようだ。言葉の端々に、抑圧しきれない憤怒が混じっているのが、ひしひしと感じられる。


「私自身は正当な根拠を持ちえません。

 ですので私の主観記録を聴取頂いた上で、その判断を委ねます。

 ただ私が申し上げたいのは、私の歪められた主観記録の内部には、異端審問官インクィジターが登場するということです。

 このことだけをもってして、私は己の主観記録が戦訓史に記録されるべきであると主張します」


 法廷は、一瞬で静まり返った。


 異端審問官は、その存在そのものが、世界から独立している。つまり使徒たちがどれほど〈こちら〉を歪めようと、異端審問官をその歪みに絡めとることはできない――なぜなら異端審問官は、〈こちら〉の存在ではないからだ。

 そしてまた、使徒たちが異端審問官の存在を捏造することもまた、理論上不可能だ。なぜなら使徒という情報集合の内部には、異端審問官という物語ナラティブが存在しないからだ。使徒がその能力を駆使して物騙ろう・・・・としても、彼らの語彙ボキャブラリ集合に存在しないものを騙る・・ことはできない。


 その、はずだった。


「被告の主張に一定の重要性を認める。

 被告は、被告の主観記録を陳述せよ」


 審問長が、どこまでも厳かに、私に弁論を命ずる。


「私の主観体験において、私は赤色派修道院ハウス・オブ・レッドに所属する、元紅乙女でした。先の審問を拝聴する限り、この点については歪みの影響はないかと思います。

 イラーク包囲戦を生き延びてしまった私は、敗残者となりました。そして己の命を適切に使い尽くすため、2級異端審問官のアミタ・A・リーパーの下に配属されたのです」


 こらえきれなくなったのか、審問官の間から「嘘だ!」「デタラメを言うな、歪みの姦婦め!」という叫び声が上がる。その叫びは罵倒というより、悲鳴に近かった。

 審問長は、木槌を2回打ち鳴らす。先を続けろという合図。


「アミタ・Aのもとで、私は第4位階、悪夢の使徒ボリス討伐を補佐する任務に就きました。

 アミタ・Aによって物理レイヤーに対するアンカーを失ったボリスは逃走を試みましたが、私はSRHMDを使って使徒ボリスの前世プレ・ライフにダイブ。そこで使徒ボリスに取り込まれる寸前でしたが、私をマーカーとして追撃したアミタ・Aによって使徒ボリスは根絶ターミネートされました」


 審問官の間から再び怒号の嵐が巻き起こる。私ではもはや彼らが何を言っているのか、判別すらできない。

 審問長は、木槌を2回打ち鳴らした。だがそれでも法廷はあるべき静寂を回復できず、審問長は追加で2回木槌を打ち鳴らす。これは恐ろしく珍しいことだ。私の記憶が確かなら、この1500年間、法廷がこんな無様な混乱を示すことはなかったはず。

 異常事態に驚いたのか、審問官たちは一斉に静まり返った。私は陳述を継続する。


「使徒ボリスの主観時間連続体体験から離脱した私は、アミタ・Aからボリス討伐の褒章として、自然生成されたリンゴを下賜されました。

 アミタ・Aは、その場で私がリンゴを摂取することを求めました。その要求に私が応じようとしたそのとき、使い魔AIが次元侵食波動を検知。迅速に戦闘態勢に移行しましたが、直後にアミタ・Aが死亡。おそらくはほとんど同時に私も死亡しました。戦闘ログ圧縮装置ブラックボックスのシールドが崩壊し、戦闘ログの記録が不可能になったというAIからのメッセージが、私のほぼ最後の主観記録です」


 罵声を飛ばす気力を失ったのか、それとも自分たちが1500年ぶりの不名誉な記録を残したことに動揺しているのか、審問官たちはもう何も言わなかった。

 だが審問長だけはきわめて冷静に、私に問いを発する。


「ほぼ最後? 本当の最後の主観記録を陳述せよ」


 私は深呼吸してから、己の恥を法廷でさらけ出す。


「最後の主観記録は、これが夢だという妄想、目を覚ませばアミタ・Aに抱かれている自分を見いだせるという妄想、そして目の前の床に転がっている自然生成されたリンゴでした」


 審問長はしばらく沈黙した後、重々しく、そして慎重に、言葉を発した。


「被告の主観記録陳述の一貫性コヘレンスには、歪みの影響が確認できない。被告の主観記録陳述は、被告の主観において、真実であることを認める」


 静まり返った法廷に、潮騒のように動揺が広がっていくのが、聞こえる。

 無論、動揺は聴覚で判定するものではない。だが私にははっきりと、動揺が広がっていく音が聞こえた――気がした。


「だが被告の陳述を戦訓史に記録すべきか否かの判断は、不可能である。

 この判定を行うため、これよりいくつかの事実陳述と、質問を行う」


 この言葉には、さすがの私も驚きを隠せなかった。

 審問長が、判断を回避する? そんな、馬鹿な。

 審問長は時間集合辞典timepediaと連結されている。審問長に判断できないことなど、意味集合論上あり得ない。


「最初に、客観記録を概説する。

 被告が“第4位階、悪夢の使徒ボリス”と認識した存在は、第4円環主教座のボリス枢機卿である。

 また被告が“2級異端審問官アミタ・A・リーパー”と認識した存在は、異端審問官として存在しない。

 被告は“2級異端審問官アミタ・A・リーパー”なる存在の操作を受け、ボリス枢機卿の暗殺を補佐したものと考えられる」


 〈現実〉という名前の冷たい釘が、私の心に打ち付けられていく。

 ボリス枢機卿は私を赤色派修道院ハウス・オブ・レッドに推薦してくれた、大恩ある方だ。私はその恩人を根絶ターミネートする陰謀の、片棒を担がされてしまったのだ。

 そして、あれほどまでに愛しまた愛されたアミタ・Aは、実在しない。私の愛も、彼女の愛も、なんら実体を持たぬ、空虚な夢でしかなかった。


「しかしながら、“2級異端審問官アミタ・A・リーパー”が使徒である可能性は、低い。なぜなら異端審問官は、その情報構造上、使徒が騙る・・範囲の外にあるからである。

 そして今なお、使徒と異端審問官の間における情報力学には、有意な変化が発生していない」


 審問長の言葉を、咄嗟に私は理解しかねていた。

 なぜなら審問長の論述に基づけば、アミタ・Aとは、つまり――


「ゆえに“2級異端審問官アミタ・A・リーパー”とは、使徒とは異なる、既知現実を操作する能力を持った存在であると推測できる。

 以上を踏まえ、被告に質問を行う。被告は先程のように証言をためらうことなく、すべてを一度で語れ。被告の言葉はいまや既知現実の安定に対して重大な意味を持つ可能性があることを、紅乙女の名誉に誓って肝に銘じよ」


 審問長の脅しにも似た言葉を、私は正面から受け止める。


「では、被告に問う。被告の主観記録において出現した〈リンゴ〉とは、いかなる存在であるか?」


 審問長の言葉に、私は絶句するほかなかった。

 だが紅乙女の名誉まで賭けられたからには、ここで躊躇うわけにはいかない。


「リンゴとはバラ科リンゴ属の落葉高木樹であり、私の陳述においては特にその果実を意味します。必要であれば、フリーハンドですがビジュアルイメージも記述できます」


「君の主観記録にある〈リンゴ〉のビジュアルイメージを、提出したまえ」


 私は被告席に備え付けられたディスプレイに手をかざし、指先で簡単にリンゴを描く。ハンドドローイングは、小さいころ趣味にしていたから、そこそこ自信がある。カラーパレットを起動して、簡単に着彩してから、審問長に提出する。

 だが私が提出したデータを受け取った審問長は、再び沈黙した。今度の沈黙は、不気味なくらいに長かった。


 たっぷり数分間の沈黙の後、審問長は口を開いた。


「既知銀河の、既知時間に存在するすべての情報を検索した。

 君が主観記録に存在すると主張する〈リンゴ〉なる植物の果実は、この世界には存在しない。

 君はいま、この宇宙に対し完全に新しい語彙ボキャブラリを発生させた。これに伴う言語情報集合および意味集合の振動も確認している」


 ――馬鹿な。

 そんな、馬鹿な。


 リンゴは、確かに奢侈品ではあるが、審問官くらいの俸給を得ていれば、毎朝の食卓に乗っても不思議ではない。審問長ともなれば、リンゴを細かく破砕して果汁だけを集めた「リンゴジュース」を飲んだことがあったとしても、何の不思議もない。

 つまり〈リンゴ〉とは、まかり間違っても、詩文芸術局から局員が飛んできて浴びせるように勲章を与え、一生かかっても使い切れないような賞金が授与されるような事態――既知宇宙に対して新しい語彙ボキャブラリを作り出すいうのは、そういうレベルの偉業だ――を発生させるような、特異点となる言葉ではない。


 だが審問長が言うからには、これは事実なのだ。

 この宇宙において、〈リンゴ〉という言葉は、今この瞬間に産まれた。


「ナギサ被告に対し、究極浄化パージの執行延期を命じる。

 同時に被告に対し、“2級異端審問官アミタ・A・リーパー”の捜索と、必要に応じてその討伐を命ずる。

 “2級異端審問官アミタ・A・リーパー”の発見と、必要に応じての討伐が完遂された段階をもって、ナギサ被告の究極浄化パージを執行する」


 審問長の下した判決に、思わず青ざめる。

 究極浄化パージの執行が延期されるということは、つまり私は究極浄化パージが実行されるまでの間、信仰汚染状態にある危険で穢らわしい存在として、この世で生き続けねばならないということだ。いうなれば、「独自の意思をもって蠢く汚物」のような扱いを受け続けることになる。

 この地獄から解放されるには、アミタ・Aを再び見出さねばならない。さもなくば私は世界の汚濁として歴史に刻まれる――そしてそんな不浄なる存在を排出した紅乙女の名誉も、地に落ちる。


 私は、何が何でもアミタ・Aを探しだし、そして究極浄化パージされねばならない。


「被告の究極浄化パージが完了した段階をもって、本件は〈紅乙女ナギサ〉の名とあわせて戦訓史に記録される。

 以上をもって閉廷とする」


 私は改めて、審問長の叡智に感服した。

 アミタ・Aを探しだし、必要とあれば殺すことで、私は究極浄化パージされ、そして〈私〉がいかにして戦ったかが戦訓史に残される。

 あらゆる不名誉と汚濁と汚染をひっくるめて、私のすべてが認められ、許され、讃えられる。もちろん、その名誉は紅乙女もまた共有する。


 ならばもう、迷うことなどない。恐れる必要もない。

 私は、アミタ・Aを見つけ出す。

 そして必要とあらば、彼女を殺す。


 法廷コートが時空間的に遠ざかっていくのを感じながら、私は自分の独房との空間接続衝撃に備えて、目を閉じた。

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