4
いつの間に眠ってしまったのだろう。
単調な電子音の連続が耳に入ってきて、俺は朦朧と霞む意識の淵からゆっくりと目を覚ます。スマートウォッチの目覚ましアプリのアラーム音を「ランダム」に設定してみたのは、最初こそ面白さもあったが、実用性を考えると起床を促す警告音は毎朝同じもののほうがベターだなと感じる。
目を覚ました俺は、無人のテストルームにいた。部屋の主電源は落とされているようで、非常用の小さなオレンジの灯りだけがポツリポツリと点灯している。
いやはや。
確かに俺は超長時間連続したテストを自発的に行う傾向のある
気づいたら俺が〈入って〉いる端末とログ取得用のマシンだけが起動していて、開発室は施錠されていた(そして社内コンビニで購入されたと思しき大量の飲み物と値下げシールのついた惣菜パンの類が机の上に置かれていた)なんてことも、珍しくはない。
俺は軽く頭を振り、ゆっくりとSRHMDを外す。
SRHMDには高性能な外部カメラが複数埋め込まれている。これで取得した画像を合成してHMDに出力することで、装着者は常時「現実」が見えるようになっている。
HMDの解像度は8Kなので、わざわざ立体映像に変換する必要はない。この解像度に達すると、立体映像に変換されていなくても、人間の目と脳は画像に対して勝手に「立体」を感じてしまう。
もっともこのあたりは議論も多くて、古典的なVRHMDのように立体映像に変換したほうがいい派も少なくない。「そっちの意見も理解できる」というのが、NTとしての俺の立ち位置でもあるし。
ただ、言った通り俺は超長時間連続でのテストを平然とやってしまうNTなので(今となってはこんな
SRHMDを外すと、開発室はほぼ完全に真っ暗だった。
出口の上に置かれた緑色に光る「非常口」のサインボードが、ほとんど唯一の光源。
非常用の小さな灯りは、SRHMD内部で合成された、架空の灯りだ。実際に非常灯をいくつも設置して定期的に交換するよりは(物理照明は、消防法にもとづき、LEDランプ本来の寿命よりもずっと早い段階で交換しなくてはならない)、社内サーバにSR空間データを保持しておいて、そこに架空の非常灯を設置したほうがエコだからだ。
間抜けなことをしたなと軽く舌打ちしつつ、もう一度SRHMDを装着。
しかるに、SR空間内に置かれた時計を確認する。朝5時ジャスト。
これはまた警備部にも健康管理課にも怒られるなと思いつつ、俺は再びSRHMDを外す。開発室の社員が出社するのは、だいたい朝10時。それまで開発室の鍵は閉まったままだ。
いやそりゃあもちろん、開発室のドアに張り付いて(あるいは監視カメラの前に立って)、ドアを乱打しながら「開けてくれ、出してくれ」とでも喚けば警備部がすっ飛んできて鍵を開けてくれるだろうが、既に怒られることが決まっているというのに、さらに怒られる要因を増やすというのもバカバカしい。
開発室内部にコーヒーサーバーは置かれているし、部屋の主であるボス・ツチダの机を漁ればスナックの類もあるはずだ。しかるに開発室内部にトイレもある(完成度の低い
俺はSRHMDの外部入力端子に自分のスマホを接続して、音楽アプリを起動する。ランダム再生で選ばれたのは、マレーシアの音楽グループがリリースしたばかりの新曲。前世紀末に流行った(そして今では物理的に全滅した)PSGやFM音源による音を古い動画メディアから再サンプリングし、ミニマルな楽曲へと再構成した話題作だ。
軽快で軽薄なサウンドにあわせて、周囲の風景も変わっていく。テロップによれば、この音源を取得した時代の(つまりは「在りし日の」)ランカウイだそうだ。ありきたりな表現だが、抜けるような青い空と白い浜辺、透き通った海が組み合わさって、最強のリラックスムードをかきたてる。
俺は輪郭だけが青白く光って表示される「現実に存在する物体」を避けながら、仮眠用のソファにたどり着く。それと同時に、音楽アプリがランカウイのアセットからリゾート用ソファを選択。視界の中で、コーヒーのシミで薄汚れたソファが、いきなり瀟洒な布張りのソファに置換された。平たく言えばアプリとSRHMDに騙されているわけだが、よりリラックスできるんだから文句はない。
洒落たソファに横たわり、ランカウイの浜辺に押し寄せる穏やかな波の音と風の音、そしてシンプルなメロディの繰り返しを聞いているうちに、俺は再び眠りの淵へと落ちていった。
今度は、夢も見ずに眠った。
■
安らかな眠りは、唐突に打ち破られた。
「起きろ! 起きろナギサ!
お前は一体、何をした? 何があった!?」
社長の怒鳴り声で、一気に目が覚める。
寝ぼけた頭が理解するには、ちょっとばかりハードすぎる状況。
俺はSRHMDを外して、ソファから身を起こした。
だが、なぜか俺はテスター席に座ったままだった。
俺は――確か朝5時頃、テスター席で目を覚まして、それから仮眠用のソファに横になって、寝直したはず……
「待ってください。俺にも何が何やら……。
その――ええと、とりあえず、何が起きているんです?」
俺自身大混乱しながら、まるっきりのカオスに包まれた開発室を見渡す。
「お前にテストを依頼していた『戦之王』プロジェクトが、ソースコードごと消え去た。
ログから何から、一切残っていない。
まるで『戦之王』なんてプロジェクトは、この世に存在しなかったかのように、な」
「――な!?」
衝撃的すぎる知らせを前に更に混乱する俺に、強烈なフラッシュバックが襲ってきた。
そうだ。俺は、見た。
開発室の天上が吹き飛び、謎の光が周囲に満ちあふれ、そしてボリスがその光に――
「ボリスは!? ボリス・Vは無事ですか!?」
慌てて俺は社長に問いただす。
だが今度は社長が不思議そうに首をひねった。
「ボリス・V?
彼はベトナムでバックエンド処理のコードを書いている真っ最中だ。
もっとも、彼の努力もこのままでは水泡に帰しそうだが」
そんな馬鹿な。彼は
「――君もだいぶ混乱しているようだな。
ともあれ、警察には通報した。君も証言を求められるだろう。
だがその前に、君から率直な話を聞いておきたい。いいかな?」
社長の言葉に、俺はただ頷くことしかできなかった。
■
社長室に移動した俺は、社長以下重役たちを前に、昨晩の――正確には俺が昨晩と理解している時間に起きたことを、あますことなく喋った。
「――君の話を総合すると」
話終わった俺を鋭い双眸で射抜きながら、社長が話を引き継ぐ。
「君は昨晩、ボリス・Vがデザインした
さすがは敏腕で鳴らす社長だ。まるでとりとめのない俺の話を、上手くまとめている。
「その通りです。すさまじい
世界最高峰となるシンガポール・リーグが舞台というのも、頭がいい。シンガポールは街としてさほど大きくないし、政府が都市構造モデルをオープンソースで提供している。しかも海に面する領域が広い。
理解者を得た嬉しさで、俺の語りにも力が入る。
「だがそれは、我々の知る『戦之王』世界とは、まったく異なる。
その点に、君は疑問を抱かなかったのか?」
途端に、俺は口ごもった。
「そ、それは……その――おっしゃるとおりです。
俺はなぜか、その点について何の違和感も抱きませんでした」
社長は大きく頷く。
「そもそもボリスがNEというのも実に不可思議だ。
あの朴念仁の技術屋が、よりによってNEというのは、どんな適性シートを見てもあり得ない。彼自身、『技術と名前がつくものなら何でもやるが、
「ですが、俺は嘘をついてなんか――」
自分が疑われていると思い込んだ俺は、慌てて社長の言葉を遮る。
「君が嘘をついている可能性は低いと、私は考えている。
それに、君の証言が事実に基いている可能性も、十分にある」
社長の寛大な言葉は、逆に俺を混乱させた。
俺の証言が事実? じゃああの光は? 死んだボリスは?
「君が語ってくれた体験は、すべて、君がSRHMDを通じて得た
つまり、昨晩君が会話したボリスは、SRHMDの画像の中にしか存在しなかった。
ボリスが作ったという
――確かに。
「そして君はSRHMDを通じて謎の光を見て、ボリスの死を目撃した。
午前5時にもう一度目を覚まして仮眠用ソファで二度寝したのに、目覚めたときにはテスター用の椅子に座っていたというのも、
「で、ですが、
俺の抗弁を聞いた社長は、眉を潜めた。
「昨晩の監視カメラには、何も映っていなかった。
君も含めて、だ。
状況から見て、カメラがハッキングされていたと考えるべきだろうな」
急激に、吐き気がこみ上げてきた。
SRHMDで、極めて完成度の低い
俺は「失礼」と呻きつつ、口元を抑えながら立ち上がろうとしたが、果たせずに社長室の床に転がった。周囲が一斉にざわめく。
そして俺は、社長以下重役たちが見守る目の前で、社長室の床に向かって激しく嘔吐した。
胃液を吐きつくす勢いで吐いた俺の吐瀉物からは、ほんの少しだけ、リンゴの匂いがした。
ゲロにまみれながらその匂いを嗅いだ俺の意識は、ゆっくりと闇に飲み込まれていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます