7

 意識が戻ったとき、俺は病院のベッドで横になっていた。

 清潔さと機能性が強調された、真っ白な部屋。窓にはレースのカーテンがかかっていて、エアコンの風を受けて静かに揺れている。


 圧倒的な気持ちの悪さと戦いながら、半身を起こした。

 途端に強烈な頭痛が襲ってきて、うめき声をあげながら横になる。

 未知の熱病にでも罹ったんじゃないかと思うくらい、全身が熱っぽい。


 ――いったい、何が起こった?


 開発最終段階に入っていた「戦之王」は、跡形もなく消え去ったという。

 開発に4年を投じた作品がリリース不能となれば、開発元が被る経済的な損害は測り知れない。その金額が億の単位でカウントされるであろうことは、ほぼ疑いない。


 だが実のところ、それは本当の問題とは言えない。


 開発中のゲームが、ソースコードはもちろん、ログから何から完全に消え去った。

 そんなことは、常識的に考えてあり得ない。

 なにしろ開発用のデータは強烈にセキュアな社内サーバで管理されているだけでなく、バックアップが外部のクラウドストレージ(および各種クラウドサービス)にも残され続けている。

 そのすべてが消え去ったというのは、「朝起きたら日本はすべて海の底に沈んでいました」というくらいに、あり得ない。


 だがあの社長が、一介の外注テスターにすぎない俺に向かって「戦之王」のすべてが消えたと言うからには、「戦之王」は本当にこの世から消え去ってしまったのだろう。


 おそらく今頃、ネットニュースは騒然としているだろう。

 開発本社のサーバからデータが消えたという話であれば(それだけでも相当に「あり得ない」話ではあるが、歴史の本によればかつてクラウドストレージの管理会社が自社サービスのサーバに向かってrm -rf /全削除を実行してしまったこともあるそうだから、可能性としてゼロではない(ちなみにrm -rf /が実行されたサーバにあったデータは復旧できなかったそうで、厳密には技術者クラスタに所属していない俺ですら想像するだけで胃が痛くなる)。

 だがクラウドストレージや各種バージョン管理ツールの上からもすべてのデータが消えたとなると、これはサービス提供側の信頼に関わる問題に発展する。

 現代においてクラウドストレージは、水道や電気のようなインフラの一種だ。そこから突然データが消えるというのは、水道の蛇口をひねったら高濃度汚染水が出てきたというくらい、社会全体の安定に関わる問題だ。記憶が確かならば、もし外部からの攻撃によってそのようなデータ破損(および改変)が行われた場合、国際法上におけるテロ行為として扱われるはずだ。


 熱と痛みで朦朧とする頭を抱えながら、俺は深々とため息をつく。


 そう。これは間違いなく国際的なテロとして報道されるし、警察も自衛隊もそのように判断して行動するだろう。

 そして俺は、この「凶悪な犯罪」の、ほぼほぼグラウンド・ゼロっぽいところに居合わせてしまった。

 こんな高級そうな病院に運び込まれているのも、要はそういうことだろう。

 俺はいま、極めて重要な位置にある(と目される)被害者であると同時に、このテロの第一容疑者でもある。テロを仕掛けた側が、重要な証拠を握る目撃者(ないし間抜けにも警察に捕まった“同志”)を抹殺しようとするというのは、実に自然な懸念だ。


 冗談じゃない。

 俺は何が起こったのかすら、まるで分かっていないというのに。


 ともあれ、今はひたすら気分が悪い。

 それに何より、喉が渇いた。


 俺はナースコールのボタンを探すが、どうしても見つからない。

 代わりにと言っては何だが、天井に監視カメラを見つけた。

 無機質なレンズが、天井から俺を睨みつけている。


 呆然とカメラを見つめていると、キィッという小さな軋み音を立ててドアが開いた。

 鈍く痛み続ける頭を動かし、入ってきた人物に視線を向ける。


 病室に入ってきたのは、ダブルの白衣も眩しい医師だった。淡いピンクのナース服を着た看護師が一人、その後ろに付き従っている。

 医師はカツカツと靴音を響かせながら俺のベッドの横までくると、灰色の小さな椅子に腰を下ろした。俺は何とも言葉にできない不安に駆られたが、かといって何かできるわけでもないので、とりあえず上体をベッドに倒す。熱のせいか、体の節々が傷んだ。


 しばらく無言で手元のタブレットを操作していた医師は、やがて俺の額に手をあてると、「熱が高いな」と呟いてから、タブレットに何かを書き込んだ。看護師はずっと押し黙ったまま、医師の背後で立ち尽くしている。

 ともあれ、喉の渇きが酷い。俺はそのことを伝えようと思って口を開きかけたが、医師の冷たい視線が素早く俺を射抜いた。蛇に睨まれた蛙のように、俺は言いかけた言葉を飲み込んでしまう。


「解熱剤と栄養剤を注射しよう。

 それで一眠りすれば、だいぶ体調は良くなるはずだ」


 医師は淡々とそう告げると、サイドテーブルの上に置かれていた注射器を手に取った。

 再び強烈な不安が押し寄せたが、おそらくそれは注射器を見たせいだ。俺は、注射が苦手だ。


 いや、待て。

 おかしい。それは、おかしい。


 俺が目を覚ましたとき、注射器が置かれたサイドテーブルなんてなかったはずだ。そもそも医師が座っているグレイの椅子だって、置かれてなかった。俺はただ、無意味に広くて白くて清潔な病室のベッドで寝ていただけだった。

 ならこの椅子は、このテーブルは、この注射器は、どこから出てきた?


 熱でボンヤリする視界の中で、医師が俺の左手を取った。


 違和感と不安に駆られた俺は、医師の手から逃れようと思って、暴れた。

 暴れようと思った。

 だが、体の自由が効かない。

 灼熱のアスファルトの上で焼け焦げていくミミズが這いずる程度にしか、手も、足も、動かない。

 注射器が迫ってくる。監視カメラが俺を見ている。医師は表情をピクリとも動かすことなく、鈍い銀色に光る注射器を俺の血管に突き立てようとする。ピンクの看護婦は何も起こっていないかのように突っ立っている。


 やめろ。


 意味もなく、そう叫ぼうとした。だが声は出なかった。


 やめろ!


 必死の思いで、そう叫ぼうとした。だが声が出ない。注射針が俺の左手に沈み込もうとしている。無表情な医師。白い部屋。監視カメラが回っている。立ち尽くす看護師。エアコンの静かなモーター音。レースのカーテンが揺れる。監視カメラが回る。立ち尽くす看護師。無表情な医師。白い部屋。レースのカーテン。


 でもそのとき、レースのカーテンの動きが、ピタリと止まった。

 まるで時間が止まったかのように、何もかもが動きを止めていく。


 キィッという小さな軋み音をたててドアが開いた。


 時が止まったかのように何もかもが静止している白い病室に入ってきたのは、真っ赤なコートを着た女だった。


 馬鹿な。


 彼女は間違いなく、Al3XiSだ。

 かつての俺のライバルにして、パートナー。

 八百長試合に巻き込まれ、スキャンダルにスキャンダルを重ねた末、頭蓋骨が原型を留めなくなるまでヤクザにぶん殴られて、東京湾に浮いた女。


 俺は自分が夢を見ているのだと確信する。


 そうだ、これは夢だ。

 これは間違いなく、夢だ。

 悪い夢。ただの悪夢。


 時が止まった病室を、黒いハイヒールの踵を鳴らしながら、彼女が歩く。

 熱に浮かされた視界の中で、彼女はとても綺麗だった。


「助けに来たよ、ナギサ。

 この看護師、見かけよりずっとやり手だね。

 彼女の張った〈防壁〉を破るのに、えらく手間取った。

 ま、でも、もう大丈夫」


 彼女は医師の手から注射器を取り上げると、そのままそれを医師の首元に突き立てて、内容物をすべて注入した。


「ああ、安心して? コイツはこの注射じゃ死なない。

 っていうか、コイツにはこの注射はまるで無意味だ。

 なにしろ中身はコイツの血液だからね」


 彼女が何を言っているのか、何が言いたいのか、理解できない。

 頭痛がする。全身が熱っぽい。

 だが彼女はそれ以上何も説明することなく医師から注射器を引き抜いた。

 それから彼女は新しい注射器を懐から取り出すと、それを医師の手に握らせる。


「今度こそ本物の解熱剤と栄養剤の注射だから、一眠りすれば熱は下がるはず。

 下がらないかもしれないけど、そこはナギサの運次第かな。

 ともあれこれで〈一貫性コヘレンス〉は維持される。

 ナギサは注射が嫌いだろうけど、注射自体をなかったことにすると、〈一貫性コヘレンス〉に対するダメージが深すぎるからねえ。そこは諦めて?」


 朦朧とする意識をかき集めて、小さく頷く。

 彼女は満足したような顔で何度か俺に頷き返すと、「じゃあね」と言って踵を返した。


 ハイヒールを鳴らして、彼女が去っていく。


 熱に浮かされた視界の向こうで、真紅インクィジターのコートが踊る。


 だから私は、その背中に声をかけていた。


「アミタ、私は、喉が、ひどく、乾く」


 アミタ・Aは立ち止まると、ベッドの上でもがいている私のもとに戻ってきた。

 それから彼女はいつものように口元をほんの少しだけ微笑ませると、懐から緑がかったボトルを取り出し、キャップを開ける。

 僕はそのボトルに見覚えがあった。あれは彼女が新たに獲得したスポンサーが主力商品として開発した「美容と健康のためのサイダー」だ。


 彼女はアップルサイダーを軽く口に含む。ペットボトルを傾ける白い喉が、とても艶めかしい。

 それから彼女は私の唇に自分の唇を重ねると、アップルサイダーを私の口の中に流し込んだ。

 合成リンゴ酢をベースにして作られたというその飲料は、甘みと酸味が入り混じっていて、アミタ・Aの味がした。


 霞む視界の向こうで、また彼女が遠ざかっていく。


 行かないでくれ。


 行っちゃダメだ。


 俺の脳裏に何回もその言葉が木霊したけれど、どうしても口が動かない。


 ドアがキィッと小さな軋み音を上げ、閉ざされた。


 左手に、チクリと鋭い痛みが走る。

 解熱剤と栄養剤が、体に入ってくる。


 急激に暗闇へと落ち込んでいく意識の中で、俺はただ、口の中に仄かに残ったリンゴの酸味と甘味を反芻していた。


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