第二話 新たな来日客ジルフマーハちゃん
午前五時頃。
(バルルートお姉ちゃんも、マズアンお姉ちゃんもおねんね中だね。よぉし。時刻的に早朝だからお外へ出ても問題ないよね)
目を覚ましたクリュカは、物音を立てないようにお部屋から出て玄関へ移動し、鍵をそーっと開け、こっそりとお外へ出る。
それから三〇分ほどしてクリュカは無事、戻って来た。
(全然危険じゃなかったよ。バルルートお姉ちゃんは心配性だなぁ。それどころか、理科の自由研究に良いもの取れちゃった♪ ビニール袋持っていって良かったよ♪)
クリュカは満足げな気分で布団に潜り、再び眠りにつく。
さらにしばらくのち、耕平の自室。
「もう朝か……ん?」
まだセットされた目覚まし時計が鳴る前、七時頃に目を覚ました耕平は、妙な違和感を覚えた。布団の中で、何かがごそごそと動き回っていたのだ。
「これって!」
耕平はやや表情を蒼ざめさせながら、掛け布団をおもむろに捲り上げてみる。
「うわぁっ!」
瞬間、びくーっと反応して飛び上がった。
バッタ、ではなくイナゴがいたのだ。
それも二十数匹。耕平のパジャマにも十匹ほどまとわりついていた。
「いつの間に入って来たんだ?」
耕平は体を激しく揺さぶり、振り払っていたところ、
「おっはよう! 耕平お兄ちゃん」
クリュカが部屋の扉を開け、爽やかな表情で大きな声で挨拶して来て部屋に足を踏み入れてくる。
「これ、ひょっとして、クリュカちゃんが?」
耕平は苦い表情で尋ねる。
「うん、あたしだよ。ちょっと前に学校の図書室で読んだ、松山が舞台の小説『坊っちゃん』の真似をしてみたのーっ! カナヨト王国にはイナゴさんは生息してないから、やっと試すことが出来て満足出来たよ。ちょうど稲刈りシーズンだからたくさん取れたよ♪」
クリュカは得意げな表情で嬉しそうに言う。
「結局わたくしやバルルートの言いつけを破ってお外へ出たのね。ダメでしょクリュカッ! そんなことしちゃ。誘拐事件に巻き込まれる可能性だってあったのよっ! 耕平ちゃんにも謝りなさい!」
いつの間にか背後にいたマズアンはクリュカを担ぎ上げ、お尻をむき出しにしてパシーンと叩いた。悪い子へのお仕置きの仕方は日本人と共通のようだ。
「耕平お兄ちゃぁん、ごめんなさぁぁぁい。もう二度としませぇぇぇん」
痛かったのか、クリュカはえんえん泣きながら謝ってくる。
「あっ、いや、べつに、俺、全然気にしてないから」
耕平は戸惑ってしまった。
「……んにゃっ、どうしたん? やけに騒がしいけど」
香子も目を覚ましたようだ。むくりと上体を起こす。
「あっ、ねっ、姉ちゃん、危ないっ!」
耕平は慌てて注意を喚起する。
遅かった。
イナゴが二匹、香子の鼻にぴょこんと乗っかったのだ。
「きゃっ、きゃあああああああぁぁぁぁぁっ!」
香子は瞬く間に顔を蒼ざめさせ、口をあんぐり開けて百デシベルは超えていそうな断末魔の叫び声を上げた。香子は女の子にはとりわけ珍しいことではないのだが、虫が大の苦手なのだ。
さらにもう一匹、香子のきれいなピンク色の唇目掛けて乗っかる。
「……」
香子はパタッと仰向けに倒れた。
「香子ちゃん、関西人らしく大げさなリアクションね」
マズアンも目を大きく見開き、びっくりしていた。
「姉ちゃん、しっかりしろ」
耕平が香子のお顔に乗っているイナゴを一匹残らずはたいてあげた後、頬をペシペシ叩いて香子は無事生還。
「ごめんなさぁい、香子お姉ちゃぁん。イナゴさん、すぐに片付けるからぁ」
クリュカはえんえん泣きながら、土下座して謝る。
「クリュカちゃん、泣いて謝ったくらいでうちが許すと思ったら、大間違いやっ!」
香子は目に涙を浮かばせながらこう言い放ち、猛ダッシュでこの部屋から飛び出て行った。
「おはようございまーす、皆様。朝から賑やかですねー。あらっ、蝗さんがいっぱい。【ぴょんぴょんと 蝗飛び交う 畳部屋】」
入れ替わるようにバルルートは寝惚け眼を擦りながらこのお部屋へやって来て、のんびりとした声で挨拶して、ちゃっかり一句詠んだ。
このお部屋でたくさん飛び跳ねているイナゴは、クリュカの収集魔法の力によって一瞬のうちに片付けられたのであった。
七時五〇分頃。
「洗顔フォームで五分以上は念入りに洗ったのに、まだイナゴが鼻の上に乗ってる感覚が……あんた達ぃ、やっぱり問題事起こしたわね。これ以上泊めることは出来へんわっ!」
応接間にて朝食団欒時。香子は怒り心頭で三姉妹、のうち特にクリュカを睨みつける。
「ごめんなさぁーい」
クリュカは怯えて涙目になりながら謝罪する。
「まあまあ香子。佃煮の材料が出来て助かったんやから」
千賀子は優しくなだめ、それが盛られたお皿をローテーブル上に置く。
「きゃっ、きゃぁぁぁっ!」
香子は甲高い悲鳴を上げ、飛び上がって耕平の体に抱きついた。
「ねっ、姉ちゃん、それくらいで怖がるなよ」
耕平はかなり苦しがる。顔に胸を密着されていたのだ。
「だっ、だってぇ。お母さん、そんな不気味なもの、作らんといてよ。あり得へん」
今にも泣き出しそうな表情の香子を見て、
「もう、香子ったら、イナゴの佃煮くらい作れなきゃ、お嫁に行けないわよ」
千賀子はくすっと微笑む。
「いつの時代の話やねん」
香子はむすっとなった。
「甘辛くて、すごく美味しい♪」
「蝗さんは、昭和時代までは各ご家庭でよく食されていた日本食ですね」
クリュカとバルルートはイナゴの佃煮をお箸で摘み、美味しそうに食していた。
「グロテスクね、怖いわ」
マズアンは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「マズアンちゃんもこういうの苦手なのね」
千賀子は再び微笑む。
「あなたもそう思ってたんか」
香子は若干親近感が沸いたようだ。
「うん、わたくしも虫苦手。香子ちゃん、わたくし達、気が合うわね」
マズアンはけっこう嬉しそう。
「うん、その一面だけはね」
香子は小さく頷いた。
民宿が廃業して以降は高校の社会科教師を勤めている父は、皆が朝食を取る前、七時半頃には家を出ていた。
まもなく午前八時になろうという頃、ピンポーン♪ とチャイム音。
「おはよー耕平くん、学校行こう」
その約一秒後、ガラガラッと玄関扉の引かれる音と共に、のんびりとした声が聞こえて来た。
「おはよう、すぐ行くから」
耕平は通学鞄を肩に掛け、玄関先へと向かう。
訪れて来たのは、絵美だった。
学校がある日は、いつもこの時間帯くらいに迎えに来てくれるのだ。
耕平は中学に入学した頃から現在完了進行形で登校は別々でも良いと思っているのだが、絵美がそうは思ってくれていないので付き添ってあげているという感じである。とはいっても耕平もべつに嫌がってはいない。けれども通学中に同じクラスのやつ他知り合いにはあまり会いたくないなぁ、という思春期の少年らしい照れくさい気持ちは持っていた。
「耕平お兄ちゃん、絵美お姉ちゃん、行ってらっしゃーい!」
クリュカも玄関先へとことこ駆け寄って来て、手を振りながら見送った。
「おはようクリュカちゃん、学校へ行ってくるね」
「じゃ、行ってくる」
八時頃、絵美と耕平はいつものお出かけの挨拶をして家を出発。この二人は高校へ入ってからも徒歩通学である。平等宅から二人が通う高校まで1.5キロ圏内の自転車通学禁止区域に指定されているからだ。ちなみに里乃も同じである。
「クリュカちゃんは、高校の数学の問題も難なく解けてたよ。カナヨト王国の学生は、日本の学生よりも勤勉だと実感したよ」
「そうなんだ。科学技術が日本以上に発達しているわけだね」
公立校らしいオーソドックスな紺色ブレザーを身に纏った二人は門を抜けて、他愛ない会話を弾ませながら通学路を一列で歩き進む。
八時一五分頃。平等宅では、
「食器洗いだけやなく、お掃除とお洗濯まで手伝ってくれるなんてとってもいい子達ね。お駄賃をあげたいくらいだわ」
千賀子が三姉妹を褒めていた。
「タダで泊まっとるんやから、やって当然と思うわ。お母さん、あの子達に小遣いあげたらいかんよ。それじゃ、行って来まーす」
香子は不機嫌そうに言い、家を出た。近隣の私立大学に通っているが、まだ夏休み中のため講義は無し。今日はサークル活動があるのだ。
八時二〇分頃には、耕平と絵美は一年四組の教室に辿り着いていた。幼小中高同じ学校に通い続けているこの二人は小学六年生の時以来、久し振りに同じクラスになった。芸術の選択で同じ書道を取ったため、なれる確率も高かったのだ。
「エミちゃん、コウヘイくん、おっはよう!」
二人が自分の席へ向かおうとすると、先に来ていた里乃が元気な声で挨拶してくる。
「おはよう、瀬木さん」
耕平は素の表情でごく普通に、
「おはよー里乃ちゃん。今朝はちょっと寒いくらいだったね」
絵美は爽やかな表情と穏やかな声で返してあげた。
「コウヘイくん、あの子達泊めて、トラブルは起きへんかったん?」
里乃がさっそくこんな質問を問いかけてくる。
「小さなトラブルは起きたよ。今朝、クリュカちゃんに俺の布団にイナゴを入れられた」
耕平は苦笑いを浮かべながら伝えた。
「そっか。夏目漱石さんの小説『坊つちゃん』みたいやね」
里乃はくすくす笑う。
「かわいいイタズラされたんだね」
絵美はにこりと微笑む。
「幼い子のすることだし、俺は許せたんだけど、姉ちゃんは怒り心頭だったよ」
耕平がため息混じりに伝えると、
「コウヘイくんのお姉ちゃん、やっぱ今でも大の虫嫌いなんやね」
里乃は香子にちょっぴり憐憫の念を抱いたようだった。
「テントウムシは触れるみたいだけど……」
耕平は苦笑顔でそう伝えて、自分の席へ。
それから七分ほどのち、
「やぁ、耕平ぉー。さっそくで悪いのだが、数学の宿題見せてくれー」
守也が登校して来てのっしのっしと近寄って来る。
「ほらよ、守也。ついでに昨日借りたラノベも返しとく」
「サンキュー。面白かったか?」
「まあまあだったな。途中で飽きて最後の方は流し読みになった」
「耕平、このラノベもべらぼうに面白いぞ、読んでみろ。来年一月からアニメも始まるんだぜ」
鞄の中から例の物を一冊取り出し、耕平に手渡して来た。
「……一応、借りておくよ」
それを見て、耕平は顔をしかめる。表表紙に下着丸見えの制服姿な可愛らしい少女のカラーイラストが描かれていたのだ。守也は、小学五年生の終わり頃からラノベや萌え系の深夜アニメに嵌っていたらしい。
耕平はこういう世界に深く踏み込んではいけないな、と本能的に感じている。すぐさま鞄の中に片付けた。
(これと同じの、姉ちゃんも持ってたような……)
じつは耕平は、今から遡ること四年ほど前、守也から初めてラノベを借してもらい家に持ち帰った時、香子にエロ本を読んでいると勘違いされ、「保健の教科書で我慢しなさぁーいっ!」と険しい表情で叱責されたあとに没収されビンタ一発、じかにお尻ペンペン十数発、とどめの大外刈り一発を食らわされた苦い経験があるのだ。皮肉にもその出来事が、香子がオタク趣味に嵌ったきっかけとなってしまったのである。
「おっはよう、モリヤくん。今日も汗だくやね」
「……おっ、おはよぅ」
突如、里乃に明るい声で挨拶された守也は、俯き加減になり小さい声で挨拶を返す。
「守也くん、宿題はなるべく自分の力で最後まで仕上げるようにしなきゃダメだよ。テスト本番で痛い目に遭うからね」
「はっ、はい」
絵美の忠告にも、守也は緊張気味に返事した。いつものようにこの二人から話しかけられるが、いつまで経っても慣れない守也に対し耕平は、この性格は一生治らないだろうなとちょっと心配に思っていた。
耕平達の通う桜豊高校で一時限目の授業が行われていた頃、平等宅茶の間でくつろいでいた三姉妹は、
「皆さんは、今日はどこを観光するつもりなのかしら?」
千賀子から唐突に尋ねられた。
(そういえば、わたくし達、そういうことになってたんだ)
マズアンはふと思い出す。
「そうですね……今日は、海遊館辺りを」
バルルートはとりあえずこう答えておいた。
「そっか。それじゃ、旅費を渡しておくね」
すると千賀子は普段から愛用している手提げバッグを手に取り、中から財布を取り出した。
「おば様、こんな大金を渡して下さり、誠にありがとうございます」
「おばちゃん、ありがとう。大事に使うよ」
「お昼代含めてもじゅうぶん過ぎると思うわ。半分くらいお返しするね」
「いいのよ、お手伝いすごく頑張ってくれたから。では、気をつけて行ってらっしゃい」
三姉妹は合わせて四万円以上の旅費を頂いて、九時ちょっと前に平等宅を出た。
「観光してみるのも、いいかもね」
「わたしはそのつもりは全くなかったのですが、おば様から頂いた大阪の観光ガイドを見ると、急に行きたくなっちゃいました」
「あたしもーっ。大阪城も通天閣も天王寺動物園もあべのハルカスもUSJも面白そうだよね。学校視察は後回しでもいいよね?」
おしゃべりしながら平等宅最寄りの私鉄駅へと向かって歩いていく。
構内へ辿り着いたのち、
「あら?」
券売機の前で、マズアンはジーパンのポケットに手を突っ込みながらこう呟いた。
「マズアン姉ちゃん、どうしたの?」
クリュカは不思議そうに問いかける。
「あのね、財布、どこかへ落としちゃったみたいなの」
マズアンは苦笑いしながら答えた。
「マズアンお姉さんったら、あれほど気を付けてって言いましたのに」
バルルートは若干呆れ顔。
「大変だぁ。早く見つけないと、誰かに盗まれちゃうかも。拾い主が親切な人だったらいいんだけど」
クリュカはマズアンよりも深刻そうな面持ち。
「ついさっきまではあったの。売店でお茶買ってお金払ってからポケットに仕舞って。すられたのかも」
「きっとその辺に落ちてるよ。あたしが探してあげる」
マズアンを責めることもなく、心配そうに接してくれた。
「ありがとう、ごめんねクリュカ、迷惑かけちゃって」
マズアンは申し訳なさそうに礼を言う。その時、
「マズアンお姉さん、十メートルくらい後方に落ちていましたよ」
バルルートが拾って知らせてくれた。
「ありがとうバルルート。さすがわが妹、頼りになるわ」
マズアンは深々とお辞儀してから受け取る。
「マズアンお姉ちゃん、見つかってよかったね。バルルートお姉ちゃんも、いいところ見せたね」
クリュカはにっこり微笑む。
「マズアンお姉さん、財布はいくら取り出し易くても、ポケットにそのまま突っ込むのではなく、鞄に入れて置きましょう。スリの心配もありますから」
バルルートは心配そうに注意した。
「分かったわ。今から気をつける。日本は治安良いといっても、けっこう犯罪起こってるものね」
マズアンはてへっと笑って少し反省。
ともあれ一件落着。
けれどもその後すぐに困った事が。
「これ、どうすればいいのかしら?」
「わたしにもさっぱり分からないです。昨日、電車に乗った時、絵美お姉さんに教えてもらっていればよかったですね」
切符の買い方で悩んでしまった。マズアンは券売機の前で立ち止まってしまう。
「マズアンお姉ちゃん、あたしに任せて」
クリュカはマズアンから千円札を一枚受け取って、テキパキと操作をし始める。
特に問題なく乗換駅までの子ども一枚、大人二枚計三枚の片道切符と釣り銭が出て来た。
「クリュカ、未知の機械なのに難なく使えて凄いです」
「たいしたことないよバルルートお姉ちゃん、日本の電車の切符の買い方、社会科の授業でこの間習ったばっかりだもん」
クリュカは照れくさそうに言う。
「今は小学校でそんなのも習うのですか?」
「国際化がますます進んでるのね」
やや驚くバルルートとマズアン。
こうして三姉妹は計画通り、当駅九時半頃発の阪急梅田行き急行に乗り込むことが出来た。
「あーっ、あそこの席見て。教科書通りの人がいたぁーっ。社会科の教科書の日本の関西の暮らしの項目に大阪のおばちゃんは、豹柄の民族衣装を身に纏って飴玉を持ち歩き、髪の毛を紫色に染めてるって書いてた通りだ。本当に派手な格好のおばちゃんだね」
クリュカは嬉しそうに叫ぶ。
「こらこら、失礼でしょ」
「クリュカ、聞こえたら大変ですよ。大阪のおばちゃんに、おばちゃん、おばさん、お婆ちゃんは禁句です。どんなに歳をとっても、たとえ八〇や九〇、百歳を越えているような明らかにお婆ちゃんと呼ぶべきご年配の方にも、お姉さんと呼ばなければいけないみたいですよ。大阪のおばちゃんは節約民族ゆえに自己主張が大変激しく、豹のように凶暴らしいので、怒られますよ。あと、『これまけてーや』という呪文を唱えて値切り魔法を使うらしいです。あのお方達、きっと通天閣界隈へ行くのでしょうね」
マズアンとバルルートは思わず笑ってしまった。
終点で下車し、改札を抜けた後、
「大阪の人って、教科書の説明の通り本当に歩くのが速いね。地下鉄梅田駅の乗り場まで辿り着くの、すごく難しそう。地図あるけど絶対迷っちゃうよ」
「迷路のように入り組んでて、さらにこの人混み。どう攻略すればいいのかしら?」
大阪の観光ガイドに記載されてある、梅田駅構内案内図を眺めながら困惑していたクリュカとマズアンに、
「ここはわたしにお任せ下さい。道しるべ魔法を使いますから」
バルルートはそう伝えて、鞄から色紙を一枚取り出した。そしてそれに地下鉄梅田駅と黒の筆ペンで書き記す。さらにそれで、紙飛行機を折った。
「この紙が導く方向についていけば、辿り着けますよ」
「さすがバルルートお姉ちゃん、頼りになるよ」
「やるわね、わが妹」
「いえいえ、それほどでもないです」
照れくさそうに言って、紙飛行機を飛ばす。それは確かに落ちることなく飛び続けた。
三姉妹はそれのあとを追うように歩いていく。
その最中、
「あっ、ごめんなさい」
マズアンはぺこんと頭を下げて謝る。
通行人にぶつかってしまったのだ。
四〇代くらいの、中肉中背でスーツ姿のサラリーマン風の男性だった。
「……」
そのお方はマズアンをぎろっと睨みつけ、足早に立ち去っていく。
「こっ、怖いわ。あのおじさん」
マズアンはカタカタ震える。
「マズアンお姉ちゃん、前をよく見て歩かなきゃ」
「そっ、そうね。紙飛行機にとらわれ過ぎちゃったわ」
「感じの悪い人でしたね。おそらくお仕事でストレスをかなり溜めておられるのでしょう。日本のサラリーマンは過酷な出世競いに追われ、成果主義、重労働のわりに安月給、さらにはリストラの心配も常に付き纏いますから」
バルルートは憐憫の眼差しで彼の後姿を見送った。
「日本の大人社会が競争主義的だから、学校教育もおのずとそうなっちゃうのよね」
マズアンは苦い表情を浮かべた。
「バルルートお姉ちゃーん、あの紙飛行機、見失っちゃったよ」
クリュカが袖を引っ張って伝えてくる。
「あら大変、あれがないと困りますのに」
「こうなったら、案内所で行き方を聞いた方が良さそうね」
マズアンはこう提案する。
「そうですね。そうしましょう。でもそのためにも案内所の場所を探さなければです」
バルルートが困惑顔で呟いたその時、
「あの、日本語分かるみたいね。どちらへ行きはるん?」
とある七〇歳くらいに見える老婦人が話しかけてくれた。
「地下鉄の、梅田駅です」
バルルートがやや驚いた様子で答える。
「うちもそちらへ行くので、一緒についていってあげますよ」
「本当ですか! 誠にありがとうございます」
バルルートは嬉しそうに礼を言う。
「おばちゃん、いや、お姉さん。ありがとう!」
「ありがとうございます。とっても助かるわ」
他の二人もこの老婦人に感謝の意を表した。
「いえいえ、大阪の人は困った人見かけたら助けたくなる本能持ってますさかい。ホホホ」
老婦人は謙遜気味に言い、三姉妹を快く地下鉄梅田駅の乗り場まで案内してくれた。さらに親切なことに海遊館の最寄り駅、大阪港までの三人分の乗車賃も全額このお方が負担してくれたのだ。
本町駅中央線ホームで別れを告げた後、
「飴ちゃんも貰えたし、すごく親切な大阪のおばちゃん、いやお姉さんだったね」
「大阪人の優しさに感動したわ」
「人の優しさから来る感動は、どんな魔法も敵いませんね」
三姉妹はとても幸せな気分に浸る。
目的地まで、ここからはもう乗り換え無し。三姉妹はほどなくしてやって来たコスモスクエア行きの電車に乗り無事、終点一つ手前の大阪港駅に辿り着くことが出来た。
※
午後0時十一分頃。桜豊高校、一年四組の教室。
「今日の活動内容についてだけど、スズムシさんを取りに行こう。虫かごも持って来たんだ」
「いいねえ。ちょうど今最盛期やし」
「姉ちゃんに百パー嫌がられるだろうけど、スズムシの飼育観察も生物部の活動の一環だからな」
お昼休みが始まってすぐ、生物部の三人でこんな打ち合わせをし合う。
同じ頃。あの三姉妹は、
「ジンベエザメさん、こんにちは」
「とってもかわいいです。海遊館の目玉といえば、やはりこの子ですね」
「このサメは癒し系ね。なでてみたいわ」
海遊館内を楽しく観賞中。
「水族館の社会は素晴らしいですね。水族館の生き物さんは、自然界の生き物さんとは違って過酷な生存競争とは無縁ですし」
「そうね。行動の自由は少ない代わりに、天敵に食われる心配もないものね。動物園にも同じことが言えるわね」
「ここの生き物さんたち、みんなのびのびとして楽しそうだよね」
三姉妹は朗らかな気分で、太平洋の生物が優雅に泳ぎ回る大水槽を眺めていた。
そんな時、
「水族館巡りなんて、暢気やねー」
三姉妹の背後からこんな声が――。
「あなたは、ジルフちゃん。どうしてここに?」
バルルートはすぐに振り返って驚き顔で尋ねる。
ジルフマーハはナップサックを背負い水筒を肩に掛け、赤い野球帽を被って紫系の縞柄サマーニットと水色プリーツスカート紺のハイソックス姿。まるで遠足モードだった。
「あんた達のお母さんから様子見に行って来てって頼まれたんよ。カヤロンも連れて行こうと思ったんだけど、日本は今の時季蒸し暑いし、危ないから嫌だって。あの子はゴーダチーズとかヨーグルトとか乳製品が大好きだし、未だ乳離れが出来てなかったりして。あんた達のお母さん、日本の学校視察を命じたのにサボって暢気に観光地巡りなんかしてって怒ってはったよ」
「観光するつもりはなかったんだけどね、つい行きたくなっちゃって。日本には、この大阪の狭いエリアに限ってもカナヨト王国と比べ物にならないくらい魅力的な観光施設がいっぱいあるし」
マズアンは堂々と言い訳する。
「ジルフマーハお姉ちゃん、あたし達が海遊館にいること知ってからカナヨト王国出たんでしょ? 日本の着くの早過ぎじゃない?」
クリュカは不思議そうに突っ込む。
「そりゃぁ最高時速二万キロの超高速飛行船で海遊館の側までアタシのパパに送ってもらったもん。三〇分足らずで着いたよ。あんた達の利用した電車くらいの速度しか出ないジュニア用ののろのろのとは圧倒的に速さが違うからね。そんなことよりバルル達。重大な忘れ物してはるで。ほらこれ」
バルルートは手帳のようなものを三姉妹に一枚ずつ手渡した。
「あっ! すっかり忘れていました。ありがとうジルフちゃん」
「自家用機だから、フリーパスで日本へ入国出来たもんね」
「わたくし達、不法入国で捕まっちゃってたかもしれなかったわね。危なかったわ」
三姉妹は苦笑いを浮かべた。
ジルフマーハがさっき渡したのは、パスポートだったのだ。
「EU圏外出る時は、気をつけんといかんで。そんなことよりバルル、アタシ、新しい魔法覚えてん。今から見せたげる」
「ダメですよジルフちゃん、こんな不特定多数の人々がいる場所で魔法を公開したら」
バルルートは困惑する。
「この子の得意技は、風だったわね」
「そうやっ! 風魔法が得意中の得意やねん。バルル、アタシが攻撃したら、バルル得意の氷のシールドで防いでね」
マズアンに問われるとジルフマーハは得意げな表情でそう伝え、ナップサックから富士山が描かれた扇子を取り出した。
「砂塵嵐! えいっ、えいっ、えいっ!」
バルルートに向けて、大きく仰ぐ。
「あれぇ? 発動しない……あっ、この魔法は室内じゃ出来ないんだった。恥ずかしいーっ。ひとまず退散!」
ジルフマーハはそう捨て台詞を吐いて、どこかへ走り去っていった。
「ジルフちゃんの魔法空振り癖は、相変わらずです」
「バルルートお姉ちゃん、無傷だね」
「ジルフマーハちゃんの仰ぐ仕草、かわいかったわ」
三姉妹は見送ると館内をさらに奥へと歩き進む。
それから約一時間後。
ジルフマーハは、耕平達の通う学校の正門近くに移動していた。
「ここが、バルル達と和気藹々としてた子達が通ってる学校か。カナヨト王国の学校よりも校舎ぼろいね。府立ということは、公立ということか。そりゃぼろいわけだ」
正門を通り抜けようとしたら、
「誰やおまえはっ? うちの学校に何の用や?」
大柄な男の先生に話しかけられた。
「きゃぁっ、恐ろしいお顔」
ジルフマーハは思わず本音を漏らす。
「わしの顔は確かに恐ろしいってよう言われるわ。特に女子から」
そこにいたのは、あの力丸先生だった。今体育の授業中で、サッカー試合中の生徒達の監視をしていたさい彼女の姿に気付いて近寄って来たのだ。
「おじさんは魔王ですか?」
「誰が魔王やねん! ごく普通の体育教師やっ! それよりおまえ、みょうちくりんな髪して」
「ちょっと、とある生徒に用事がありまして」
「それじゃぁまずその髪の色、地毛に戻してこい。というか、部外者立ち入り禁止や。用あるんやったら放課後に学外で会え」
「あーん。それじゃ意味がないんですよ。それよりおじさん、これが地毛なんですよ」
「おまえと同じような色に染めとる奴は、みんなそう言うねん」
「おじさん、アタシの名前、ジルフマーハって言うの。日本人から見たら外国人なんよ。アタシの出身地ヨーロッパじゃこういう髪の色の人も多いねーん」
ジルフマーハはにこにこしながら主張した。
「いくら外国人でも、地毛が赤のやつはおらんやろう! せいぜい金か銀や」
力丸先生はますます険しい表情へ。
「広い地球、こういう髪の色の民族もいるということを知らないなんて、先生は世間知らずですね。さすが体育教師。脳ミソ筋肉」
ジルフマーハはあははっと笑って、忠告など無視して通り抜けようとすると、
「こら待てぇ。この門は通さん!」
後ろ首襟をガシッと掴まれてしまった。
「きゃぁっ、痴漢。誰か助けてぇーっ!」
ジルフマーハは咄嗟に悲鳴をあげる。
「誰が痴漢や、バカタレッ」
力丸先生は焦り気味にジルフマーハを片手で軽々と持ち上げ、正門前の歩道上へぽいっと放り出す。
「あれ? 日本人男性をたじろがせる魔法の呪文が利かない」
「訳の分からんこと言うとらんと、帰れっ!」
「あーん」
ジルフマーハの主張通じず、リアルに門前払いされてしまった。
(あのおじさん、怖過ぎるよ。日本刀で百人以上は斬りつけてそうな顔だよ。正攻法での突入はダメか)
体育座りで嘆くジルフマーハ。すぐに立ち上がってとぼとぼ歩きながら、対策を練る。
「こら平等、谷森、ぼけーっと突っ立っとらんとボール奪いにもっと積極的に動けぇっ! 今日はこのあとリフティング何回出来るかテストするからなっ。十回以下のやつはその場で腕立て伏せ五十回やっ!」
そんな彼女をよそに体育の授業は何事もなかったかのように進行する。
それから約五分後、
(ようやく入り込めたよ。日本人高校生達の学校生活の様子を、廊下からこっそり垣間見せねば。っとその前にお手洗いを済ませとこうっと。おしっこ漏れそう。さっき水分補給にメロンソーダドリンクとスイカ味のかき氷食べ過ぎたせいだな)
ジルフマーハは、誰もが思いつくであろう裏門から入る方法で見事校舎内へ侵入成功。まずは最寄りの女子トイレへ駆け込む。
まだ授業中のようで、彼女以外に誰もいなかった。
「んっしょっと」
五つ並んであるうち真ん中の個室に入ると、マスカット柄のショーツを膝下まで脱ぎ下ろしスカートを捲り上げ、便座にちょこんと腰掛ける。
(そういえば群れを成せない日本の学生さんには、便所飯っていう習慣があるみたいだけど。こんなアンモニア臭い所でごはんを食べるなんて、理解出来へんわ。あともう一つ理解出来んのは、日本の学生は学校でう○こすることがタブーになっとることやね。小学生の男の子は特に。無理に我慢してみんなの前で漏らしちゃう方がよっぽど恥やと思うねんけど)
顔をしかめ、用を足しつつこんなことを思い浮かべる。彼女の通う学校で使われている道徳の教科書掲載の『北島、便所で飯食うってよ』、『男子トイレの個室は禁足の地』というタイトルの小説から得た知識らしい。
前者は日本の高校、後者は小学校が舞台で、カナヨト王国在住の教育学者によって書かれた独自の物語だ。
「ふー、すっきりしたぁ。日本のトイレは無駄に高性能やね。でも洋式に座ってばかりだと足腰弱っちゃうぞ。まあアタシも洋式派なんやけどね、くつろぎやすいし、和式は手がにゅって出て来そうで怖いもん」
用を足し終えると、足をパタパタさせながらほっこりした表情で呟く。
ちょうどその時、チャイムが鳴り響いた。
(授業終わっちゃったか。部外者のアタシが生徒さんや先生に見つかると面倒なことになりそうだし、このまま次の授業が始まるまで篭っておこうっと。でも、ずっと入ったままだとかえって怪しまれるかもしれないし、あーん、どっちがいいんだろう? まさに今、葛藤状態やねアタシ)
こう悩んでいると、
「耕平くん、今日も力丸先生に注意されて、かわいそうだったよ」
「本当、同情するわ。コウヘイくん絶対ショック受けとるんやないかな」
女子生徒が二人入って来た。絵美と里乃だった。
(これが、連れションっていう日本文化か。尿意便意を感じるリズムなんて人それぞれ違うんだから、合わせる必要なんてないのに。日本の女子学生さんはそうしないと友人関係にヒビが入っちゃうらしいから大変だね。排便っていうのは孤独な活動なのだよ日本の女子学生さん)
ジルフマーハはフゥっとため息をついてやや呆れる。こちらも道徳の教科書掲載、『どうして連れションしなきゃいけないの?』というタイトルの小説から得た知識だ。
舞台は日本の中学校。とある一人の女の子が親しい友人達から一緒にトイレに行こうと誘われたけど断ったためにその後、仲間はずれ、物隠し、陰で悪口などの陰湿な嫌がらせを受けるようになった。というあらすじ。こちらもカナヨト王国在住の教育学者によって書かれた独自の物語だ。
「バルルートちゃん達の通う学校の体育でも、サッカーやバレー、ソフトボールの試合をやることがあるけど得点は付けないらしいよ。耕平くんが言ってた」
「そうなん? カナヨト王国の学校はスポーツ試合も平等なんやね。そういうやり方は素晴らしいわ。和泉先生もそこまではやらんよ」
こんな会話を聞き、
(この子達、バルルの知り合いなの? ちょうど良かった。バルルのこと、もっと詳しく聞かせてもらおう)
ジルフマーハは思わずにやっと微笑む。
絵美と里乃は都合よく、バルルートのいる両隣の個室に入ってくれた。
(パンツも汗でべとべとやー。替えたい)
「んっしょ」
二人とも同じようなタイミングでハーフパンツとショーツを一緒に脱ぎ下ろし、里乃は洋式便座にちょこんと腰掛け、絵美は和式便器にしゃがみ込んだ。
(ありゃま、会話止まっちゃったよ。代わってトイレ用擬音装置の音が聞こえてきたよ。日本人女性は排泄音を他人に聞かれるのは恥の文化と考えてるって社会科の教科書に書かれてあったけど、その通りなのね。もう少し日本人から見たバルルの印象教えて欲しいのに。まあ、離れてるし無理はないか、独り言みたいになっちゃうもんね)
ジルフマーハは耳をそばだてつつ、けっこう残念がる。
そんな時、
「あっ、ここ紙ないや。困ったな。お尻までびちゃびちゃになっちゃったし」
絵美のこんな声が聞こえて来た。
(前にいる子が困ってる。バルルの情報を少しは教えてくれたし、アタシの方からも助けてあげなきゃね。互いに助け合う、互助することはカナヨト王国民としての義務だもん)
ジルフマーハはトイレットペーパーをカラカラ引いて、四〇センチほどの長さに千切り取った。そして、
「どうぞ! お使い下さい」
大きな声でこう伝えて仕切り下僅かな隙間に手を通し、差し出した。
「あっ、どうも。ご親切に、ありがとうございます」
絵美は振り返って礼を言うと、お尻丸出ししゃがみ姿勢のまま四歩下がって、ほんの少しだけ背を反らし、右手を後ろに伸ばして受け取る。
「これだけで足りますか?」
「はい、小の方なので大丈夫です」
もう一つされた質問に、絵美は機嫌良さそうに答えた。濡れた恥部からお尻にかけて拭き拭きし、ショーツとハーフパンツを同時に穿くと、水を流して個室をあとにする。
「あつい、あつい。トイレにもクーラー付けて欲しいわ~」
ほぼ同じタイミングで里乃も個室から出て来た。
「長時間はいないから、私は必要ないと思うけど。それより里乃ちゃん、わたし、さっき紙無くてちょっと焦ったよ」
「そりゃ災難やったね。たま~にあるよね、そんなこと」
「うん、でも今回は後のお方が譲ってくれたおかげで助かったよ。あのう、本当にありがとうございました」
絵美はジルフマーハのいる個室扉の前でもう一度お礼を言っておく。
(日本人は粗暴なんが多いって聞いたけど、カナヨト王国民に劣らんくらい優れた人間性を持った子もおるんやね)
ジルフマーハは便座に腰掛けたまま大いに感激していた。
「トイレットペーパー、補充しとかなきゃ。確か掃除用具置き場にあったね」
絵美は取り出した新品のトイレットペーパーを、きちんとホルダーにかけておく。
(次に使う子のことも考えてるなんて。ますますええ子や)
ジルフマーハは改めて感激。
「次は化学かぁ。睡眠タイムや」
「里乃ちゃん、どんな授業でも先生のお話しっかり聞かなきゃダメだよ」
「分かっとるけど、どうしても眠くなっちゃうねん」
「気持ちは分かるけど。そういえば、中の子まだ出て来ないけど大丈夫かな?」
絵美は手を洗い終えると、
「あのう、失礼かもしれませんが長いですよね? お腹の調子悪いんですか? それだと紙たくさん使いますよね?」
もう一度ジルフマーハに個室扉横から話しかけた。
「あっ、気を悪くしてしまったら申し訳ございません」
余計なことを言ってしまったかな? と、罪悪感に駆られる。
(心配してくれてダンケシェン。アタシがしたのは小だけやから大丈夫よ。めっちゃいい子や。あの子ならカナヨト王国に招待しても大丈夫そう)
ジルフマーハはむしろ歓喜していた。
二人ともトイレから出て行くと、
(あまりバルルの有益な情報は得られなかったのは残念。さてと、やっぱり出ることにしましょう。この場所、臭いし。長時間いたら服ににおいが染み付いちゃう。よぉし、今がチャンスね)
ジルフマーハはカチャリと鍵を開け、扉をそっと二センチくらい引いた。
するとほどなく、女の子同士でおしゃべりしている声が聞こえてくる。その子達は案の定、このトイレに入って来た。ジルフマーハは見つからないように扉をそっと閉める。
(またお友達同士か。日本人の連帯感は異常やなぁ。またさらに何人か一緒に入って来たよ。ひっきりなしに入ってくるわね。こうなったら、テレポート魔法を)
ジルフマーハは「自身転送!」と小さな声で呪文を唱えた。
見事移動に成功し、
「超便利♪ マスターした甲斐があったよ」
ジルフマーハは得意げに笑う。
次の瞬間、違和感を覚えた。
「ありゃ?」
ジルフマーハのあまりふくらみのないおっぱいが、誰かの背中に引っ付いていたのだ。
「ん?」
その子が感づいた瞬間、
「きゃぁっ! Oh,mein Gott.」
ジルフマーハは思わず日本語とドイツ語で悲鳴をあげる。彼女が移動した場所は――耕平達の所属する一年四組の教室だった。まさに今、男子が体操服から制服へと着替え中。上半身裸、トランクス姿も者も多かった。
「ん?」「えっ!」「うゎっ!」「うぉっ!」
男子生徒達の驚き声がこだまする。バルルートの第二次性徴真っ只中のすっぽんぽんにナップサックを背負った姿を何名かにばっちり見られてしまったのだ。つまり服と靴はテレポート出来なかったわけだ。
「転送!」
ジルフマーハは大声でこう呪文を唱えて、パッと姿を消した。
「こっ、耕平。今、何かアニメキャラみたいなのがいたよな?」
「あっ、あー。確かに。俺、もろに触られたし」
守也と耕平は我が目を疑う。しかしすぐに、
(ひょっとして、さっきの子、バルルートちゃん達の仲間か? そしてあれは魔法?)
耕平はこう冷静に考え直してみた。
その後もしばらく他の男子生徒達はざわついていたが、結局ありがたい幻だろうという結論に落ち着いた。
「あれ? 落とし物?」
あの女子トイレの個室には、ジルフマーハの服と靴だけが残っていた。次に使った子は不思議そうにそれを眺めていた。
(男の子の目の前で裸を晒してしまったぁ。日本人の、しかも十代半ばの男の子は性欲がかなり強い生き物らしいし、アタシ、絶対夜のおかずにされちゃうよぅ。装着物の移動に失敗するなんて、まだまだ精進あるのみ。ちょうどジャージがあったし、これ借りちゃおっと。かなりでかいけど、まあいいや)
とある一室に移動したジルフマーハは深く反省し、側に置かれてあった黒のジャージ上下を着込み、ついでに三十一センチサイズの運動靴も拝借して、
(下着付けてないからチクチクするよ。ユ○クロ寄ってぴったりの服と靴買わなきゃ)
再びテレポート魔法を用いる。今度移動した場所は、小さな公園だった。一度の呪文で半径二百メートル以内しか移動出来ないため、何度も唱えて学校から遠ざかっていく。
五回目を唱えた直後、
「そこぉっ! 揃うとらんやないかぁ。何べんやったら揃うねん。特に一年六組の男子、名前は言わんけどおまえ一人のために、みんな入場する所からやり直しやっ!」
こんな怒声を拡声器越しに聞き、
「うわぁっ、びっくりしたぁ」
ジルフマーハはびくーっと反応した。彼女が移動した先は、どこかの中学校の敷地横の路上だったのだ。
(これは、体育祭の行進の練習やな。日本の学校、怖いよう。こんな厳しいことさせてるんだから、不登校になっちゃう子が出てくるはずだよ。しかもさぁ、たった一人が出来てないだけで関係ない他の子達にもやり直しさせるっておかしくない? 日本人の思考は理解出来んわ。あんなことさせたら絶対人間関係に亀裂が生じるよ。おまえのせいやとかって。それがやがていじめにも発展すんねん。教師も間接的にいじめに加担してるねんで。でかい声でしきりに叫んでるあいつは十中八九、体育教師やろうね)
恐怖心からか、顔を引き攣らせながら、しばらくの間こっそり眺めていた。
さらに何度かテレポートして辿り着いた別の中学校側では、
「体操の隊形に、開けっ!」
『やぁっ!』
「掛け声が全然揃うとらんがな。声も小さいし、もう一回やり直しやっ!」
こんな怒声をマイク越しに聞いた。
(ここも体育祭の練習かぁ。日本の九月は体育祭シーズンやもんね。男の子ばっかり。組体操かな? アタシはさっきのでもじゅうぶん上出来やと思うねんけど、あの先生、耳おかしいんとちゃう)
ジルフマーハは憐憫の眼差しで眺める。
午後三時頃、桜豊高校。
「わしのジャージが、のうなっとる! 誰のイタズラや? 靴もないしのう」
体育教官室にて、力丸先生は怒り心頭に発していた。
犯人はもはや説明するまでもなく、ジルフマーハである。
放課後、耕平達三人は昼休みに打ち合わせたとおり、スズムシ採集のため学校近くの大きな公園へ向かった。
「思ったよりたくさんおるね」
「コオロギさんもついでにとっておこうかな」
「俺はやめとく。コオロギ持って帰ったら姉ちゃんに殺されそうだ。ゴキブリに似てるからついうっかりと」
「コウヘイくんのお姉ちゃん、コオロギがゴキブリに見えちゃうなんてかわいそうや」
「コオロギさんとゴキブリさんは全然似てないよね。香子ちゃんの心眼をなんとかしてあげたいよ」
「姉ちゃんはカブトムシもパッと見、ゴキブリに見えるって言ってたな」
茂みにいるスズムシ達を、傷付けないように慎重に手掴みしていく。
その最中、
「ん?」
絵美は茂みの中に、ある物体を発見した。
「エミちゃん、どないしたん?」
里乃はいったん手を止めて問いかける。
「あれって、力丸先生のジャージと靴じゃない?」
「ほんまや。リッキーのがなんであんなとこに落ちとるんやろ? 届けた方がええんとちゃう?」
「そうだね。でも、私は怖いから、持って行きたくない」
「コウヘイくん、リッキーんとこ持って行ってあげたら」
「俺も嫌だな。おまえが取ったんかって疑われそうだし」
「あっ、ジャージに犬のうんちが乗っかってる」
絵美が近寄って確認すると、
「リッキー、いい気味や。天罰が下ったね」
里乃は大笑いした。
「見なかったことにして、放っておこう」
耕平はこう提案する。
「それがいいよ、力丸先生もこんなの二度と使いたくないだろうし」
「それにしても不思議やね」
三人は見てみぬフリをして、スズムシ採集を再開した。
事前に市販の鈴虫マットや木片、エサとなるりんごやなすびなどを詰めたプラスチック製の虫かご一箱に四、五匹程度入れて、鞄に詰めて持ち帰る。
「ただいま」
午後六時半頃に耕平が帰宅し茶の間に向かうと、
「おかえりーっ、耕平お兄ちゃん、あたし達今日ね、海遊館へ行ったんだ。海のお魚さんがいっぱい見れて、すっごく楽しかったよーっ」
クリュカが駆け寄って来て嬉しそうに報告してくる。
「海遊館か、懐かしい。幼稚園から小学校の頃、家族でよく行ったな。絵美ちゃんや瀬木さんもたまに誘って」
「あの、耕平お兄さんの鞄から、スズムシさんの鳴き声がしていますね」
バルルートは中腰になり、不思議そうに鞄を見つめる。
「今日は生物部の活動の一環で、スズムシを取って来たんだ」
耕平がスズムシの詰められた虫かごを取り出してかざすと、
「わぁー、本物のスズムシさんだぁっ!」
「お土産ありがとうございます、耕平お兄さん。日本の秋の風物詩ですね」
「耕平ちゃん、気が利くわね。わたくし達が住んでる所じゃスズムシはいないから、とっても嬉しいわ」
三姉妹はとても喜んでくれた。
だが、
「耕平、なんてもの持って帰るのよ」
やはり香子に嫌がられた。リーン、リーンでお馴染みの涼しげな鳴き声を聞いて、気になって茶の間にやって来たようだ。
「スズムシくらいいいだろ」
耕平はにこっと笑う。
「音は確かに素敵やねんけど、スズムシの姿がちょっとね」
「そんなに嫌なら中見なけりゃいいだけだろ」
「虫かごから飛び出してくるかもしれないし。クリュカちゃんが蓋を開けて」
そう言って香子はクリュカをニカッと睨みつける。
「香子お姉ちゃん、あたし、そんなことはしないから」
クリュカは若干怯えながら誓った。
「ほら、クリュカちゃんもそう言ってるし」
「蓋しっかり閉めといてね。それにしても、あんた達、ジンベエザメやペンギンのぬいぐるみとか、いろんなお菓子とかその他グッズ、いっぱい買ったのね」
香子は、茶の間に置かれていたそれらを眺め、眉をくいっと曲げる。
「申し訳ございません香子お姉さん。今日は土産物類を買うだけで二万円近くも使ってしまいました」
「ついつい買い過ぎちゃったの。ごめんね」
「あたし達の住んでる国じゃ、手に入らないレアな物ばかりだったもんね」
三姉妹は笑みを浮かべ、決まり悪そうに伝える。
「あんた達、立場分かってるの?」
香子はやや険しい表情でため息をついた。
「まあまあ香子、せっかく観光に来たんだから、思う存分楽しんだっていいじゃない」
「お母さんがお金渡し過ぎるから、この子達、こんなに無駄遣いしたんよ」
「香子も人のこと言えないでしょ。お部屋見るたびにいろんなグッズがどんどん増えてきてるし」
千賀子に笑顔で突っ込まれると、
「そっ、それは……」
香子は反論出来なかった。笑ってごまかす。
「姉ちゃんも部屋飾りの雑貨とかマンガとかラノベとか、けっこう無駄遣いしてるよな」
耕平も笑いながら突っ込む。
「耕平お兄ちゃん、このスズムシさん、あたし達の泊まってるお部屋に置いてもいい?」
「うん、もちろん。じっくり観賞を楽しんで」
クリュカのお願いを、耕平は快く承諾。
「よかった。今夜も安心して耕平のお部屋で寝れるわ」
香子はホッとしたようだ。
「姉ちゃん、頼むから自分の部屋で寝てくれ」
耕平は呆れ顔になる。
そのあと七時半頃から、昨日と同じく応接間にて夕食会。今夜のメインメニューは秋らしく、きのこ鍋と石焼きイモだった。
「見て見て、金魚掬い」
お玉を使って具材をかき回して遊んでいたクリュカに、
「クリュカちゃん、お汁が跳ねてやけどするよ」
香子は呆れ顔で優しく注意。
すぐ横で、
「このさつまいもさん、すごく美味しいですね。わたし達の出身地では寒冷なためさつまいもの栽培は難しく貴重食なので、食べられて嬉しいです」
「甘くて最高ね」
バルルートとマズアンは幸せそうに石焼きイモを味わう。
こんな風に平等宅で団欒を楽しんでいた頃、ジルフマーハは、
「一泊六千円もするわりに、狭いなぁ。これが島国日本のホテルか」
JR大阪駅近くのビジネスホテルにいた。シングルルームに入っての第一印象である。
☆
夕食後。耕平は、この家では二日振りの入浴。
広々とした湯船に浸かってゆったりくつろいでいたところへ、
「耕平お兄ちゃん、一緒に入ろう」
「耕平お兄さん、ご一緒しますね」
「お邪魔するわね、耕平ちゃん」
三姉妹がいきなり入り込んで来た。クリュカはすっぽんぽん姿で。
「うわっ!」
バルルートとマズアンは肩から膝の辺りまでバスタオルを巻いていたものの、耕平は当然のように慌てる。
「耕平ちゃん、わたくしとバルルートは、ちゃんと気を遣ってクレープみたいにタオル巻いてるんだから、そんなに慌てなくてもいいじゃない。それに、家族同士は男女の区別なく一緒に入浴するのが普通でしょ? わたくし達も平等家の一員だから」
「いつから俺の家族になったんだよ?」
耕平は呆れ返る。
「昨日からよ。カナヨト王国ではお客さんも家族の一員として扱うのが通例なの」
「ここは日本だ」
「まあまあ耕平ちゃん、かたいこと言わずに。なにより耕平ちゃん一人で入るには広過ぎるでしょう?」
マズアンはにこにこ顔で問いかける。
「それはそうだけど、いつも俺一人で入ってるし」
耕平が困っていたところ、
「ちょっと、ちょっと、あんた達、耕平に何しようとしてるのよ」
香子も入り込んで来た。彼女はクリュカと同じくすっぽんぽんだった。
「裸のお付き合いよ」
マズアンはすかさずこう答えた。
「裸のお付き合いよ、じゃないわよっ!」
香子は怒りに満ちた表情でマズアンのおっぱいを両手で押し、壁際まで追い詰める。
「あっ、あのう、香子ちゃん、どうして、そんなに、怒っていらっしゃるのかしら?」
マズアンはやや怯えながら、不思議そうに問いかける。
「耕平に不健全なことしようとしたからやっ!」
香子は険しい表情でこう答えた。
(俺の目の前でも平然と裸になる姉ちゃんの方が、よっぽど不健全なような……)
耕平は壁の方を向いて、心の中でこう思う。
「艶やかな体さらけ出してる香子ちゃんの方がずっと不健全だと思うわ」
マズアンも彼と同じような考えだった。香子の腰の辺りをガシッと掴む。
「マワシ無しのお相撲ごっこだぁーっ! のこった、のこった!」
クリュカは嬉しそうに大声で叫ぶ。
「日本の伝統文化、相撲はわたし達の住む街でも子ども達の間で流行っていますよ。ただ、日本とは違い勝ち負けという概念はなく、技や土俵入りの所作の見せ合いが主流となっていますよ。いわば歌舞伎のような芸術ですね」
バルルートはにっこり微笑んだ。
「うちの裸は耕平が赤ん坊の頃から見せ慣れとるねんっ! せやから耕平にとっては全然性的なものじゃないねん」
「そうかしら? 耕平ちゃん、とっても気まずそうにしてるわよ。クリュカも行司さんごっこ始めたし、この体勢になったことだし、わたくしと技比べしましょう」
「望むところやっ!」
「強気ね。さすが日本人、大和魂。香子ちゃん、わたくしよりは体格がいいけど背が低い分軽そうだから、吊り上げちゃおうかな」
「確かにうちはマズアンちゃんより軽いと思うわ。けどたぶんうちを持ち上げるんはあなたには無理やで。出来るもんならやってみぃ」
香子は鼻で笑う。
「分かったわ。ふんっ」
マズアンは香子の両腰をつかみ、吊り上げようとした。
しかし、香子の体は全く動かず。
「あら? どうして?」
マズアンはぽかんとなる。
「踏ん張っとるからやっ! 日本人の足腰は強いねん。うちがマズアンちゃん吊り上げたるわ。そりゃぁっ!」
香子はマズアンの腰を両手で掴むや高々と吊り上げ、ぶんっと放り投げた。
「嘘ぉ! きゃっ!」
マズアンは湯船にぼっちゃーんと突っ込む。
「香子お姉ちゃん、力すごーい。マズアンお姉ちゃんよりずっとちっちゃいのに軽々と投げ飛ばしちゃったぁー。ただいまの決まり手は……吊り落としかなぁ?」
「見事な技ですね」
クリュカとバルルートはにっこり微笑み、パチパチ拍手した。
「……」
耕平の頬がカァーッと赤くなる。
マズアンの巻いていたバスタオルが解け、すっぽんぽんになった状態をばっちり見てしまったのだ。
さらにマズアンの唇が、耕平の頬に直撃していた。
「ごめんね耕平ちゃん、ファーストキス、奪っちゃった? それとももう絵美ちゃんと」
マズアンはゆっくりと自分の唇を耕平の頬から離し、にやけ顔で質問する。
「こっ、耕平の唇が、マズアンちゃんに!」
香子は怒りに満ちた表情だ。握りこぶしも作る。
「香子ちゃんがわたくしを投げ飛ばしたせいでしょ。自業自得よ」
マズアンはくすっと笑った。
「否定は出来へんけど、こうなったら……んっ」
すると香子は、大胆な行動をとった。
その瞬間、
「ねっ、姉ちゃん、何てことを……」
耕平の頬はさらに赤くなった。のではなく、逆に瞬く間に蒼ざめた。
香子は今しがた耕平の唇に、チュッとキスをしたのだ。三秒ほど。
「あらぁ、禁断の恋」
マズアンはにやける。
「耕平お兄ちゃんと香子お姉ちゃんの唇と唇とが完全非弾性衝突だぁ!」
クリュカも嬉しそうに笑う。
バルルートはこんな状況にも惑わされず、風呂椅子に腰掛け髪の毛を洗っていた。
「これでおあいこや」
香子はマズアンを睨みつけながら言い、風呂椅子にどかっと腰掛ける。
「汚なっ」
耕平は湯船に接する水道の蛇口を捻り、唇をすすぎ始めた。
「ちょっと耕平、失礼よ」
香子はむすーっとなる。
そんな時、浴室の扉がガラガラッと開かれた。
「賑やかそうにしてたから、来たよー」
そしてこんなのんびりとした声が――。
「えっ、絵美、ちゃん……」
耕平は咄嗟に目を覆う。
「あらっ、絵美ちゃん。いらっしゃい」
「絵美お姉ちゃんだぁーっ、いらっしゃーい!」
「絵美お姉さん、こんばんはです」
「いらっしゃい。わたくし達の騒ぎ声、絵美ちゃんちまで聞こえてたのね」
他の四人は温かく歓迎した。絵美は昔から時たま、平等宅のお風呂を頂きに来るのだ。
「はい、丸聞こえだったよ。私、ちょうど入ろうとしたら、みんなの声が聞こえて来て、楽しそうだったから」
ちなみに平等宅の浴室と、山鳥宅の浴室は低い塀越しに向かい合っていて、双方の窓が開いていれば互いの浴室をなんとか覗けるようにもなっている。
「絵美ちゃん、来るなら俺が入ってること確認してから」
耕平は湯船から飛び出し、浴室から逃げて行こうとするが、
「耕平お兄ちゃん、待ってぇー」
クリュカに通せん坊され阻止された。
「……」
まだつるぺたな幼児体型だが、耕平は目にした途端思わず視線を逸らしてしまう。
「大丈夫だよ、私、タオルでしっかり隠してるもん。耕平くんだって前隠してるでしょ。一緒にプールに入ってるようなものだよ」
絵美は耕平の下半身をちらっと見て、にこやかな表情で主張した。
「そういう問題じゃないって」
それでも耕平は居た堪れなく感じ、クリュカの横をさっと通り抜け浴室から出て行った。
「あーん、逃げられちゃったよ」
クリュカは舌をぺろっと出した。
「耕平くん、なんでそんなに恥ずかしがるのかなぁ? んっしょ」
微笑み顔の絵美は風呂椅子にゆっくりと腰掛ける。耕平がいなくなったということで気兼ねすることなくバスタオルを外し、すっぽんぽんになった。シャンプーを出して髪の毛を洗っている最中に、
「絵美ちゃん、この子達、淫乱だから気をつけて」
すぐ隣にいる香子は真顔で警告する。
「香子ちゃん、そんな言い方したら失礼だよ。かわいそうだよ」
絵美は髪の毛を擦りながら、困惑顔を浮かべた。
「ねえねえ香子お姉ちゃん、淫乱ってなぁに? 教えてー」
クリュカが顔を近づけて質問してくる。
「そっ、それはね」
香子が返答に困っていると、
「クリュカはまだ知る必要のない難しい日本語ですよ」
バルルートが慌てて説明。彼女はその単語の意味を既に知っているようだ。
「絵美お姉ちゃん、一緒に遊ぼう」
クリュカが水鉄砲を差し出して誘って来る。
「もちろんいいよ」
絵美は受け取って、快く誘いに乗ってあげた。
「絵美お姉ちゃん、くらえーっ!」
「きゃあっ、やられたー。クリュカちゃん強い。私も負けないよ」
「あーん、絵美お姉ちゃん、わきの下はくすぐったいよぅ」
楽しそうに一緒に撃ち合う。
「絵美ちゃん、ご迷惑かけてごめんね。この子、小四のわりには幼くて」
マズアンは申し訳無さそうにしていた。
「いえいえ。私、ちっちゃい子どもは大好きですから」
絵美はじゅうぶん楽しんでいるようだった。
同じ頃、
「疲れが取れるどころか、くたびれたー」
耕平は自室に入って、椅子にどかっと座り込んだところだった。とりあえず化学の教科書をぼーっと眺めてしばらく過ごしているうち、
「耕平お兄ちゃん、バルルートお姉ちゃんがスズムシさんを使って、面白い魔法を見せてくれるよ」
クリュカがノックはしたが許可は取らずにすぐに入り込んでくる。
「一体どんなんだろ?」
耕平はクリュカに手を引かれ、三姉妹の泊まるお部屋へ連れて行かれた。
「今日はごく自然な室温だね」
「はい、スズムシさんのために、わたし達は我慢しなきゃです。今からスズムシさんの鳴き声を操って、一曲演奏しますね」
そう伝えるとバルルートは指先を虫かごに向け、くるくる回し始めた。トンボの目を回すやり方とほぼ同じだった。
次の瞬間、スズムシの鳴き声の音色で、ある曲が流れ始めた。
「『虫のこえ』、日本で古くから歌われて来た名曲です」
バルルートは紹介する。
「音程ぴったりだ。すごいな」
耕平は少し驚いた。
「このお歌、あたし二年生の時、音楽の授業でも習ったよ」
「わたくしも小学校で習ったわ」
「私も小学校の頃に習ったよ。カナヨト王国でも歌われてるみたいで嬉しいな。秋にぴったりのとってもいいお歌だよね。私のスズムシさんにも出来るかな?」
絵美もその音に気付き、向かいから叫びかけた。
「もちろんですよ」
バルルートが自信を持って答えると、
「それじゃ、この子達も演奏させてあげて」
絵美は虫かごをベランダに移動させた。
「はい」
バルルートはさっきと同じような仕草を取る。
すると絵美の持っている虫かごの中のスズムシ達も、たちまちあの曲に合わせ演奏し始めたのだ。みんなその美しい音色に深く聞き入る。
演奏終了後、
「スズムシさんの大合唱、すごく癒されたよ。それじゃ、おやすみなさい」
絵美は満足げな表情で伝えて、虫かごを自分のお部屋に戻し窓を閉める。
「スズムシさん、お疲れ様。しっかり休んでまた聞かせてね。耕平お兄ちゃん、今から百人一首で遊ぼう! おウチから持って来たんだ」
「悪いんだけど、今日は勘弁して。俺、明日の朝、ちょっと早いし」
「部活の早朝練習ですか?」
バルルートはきょとんとした表情で尋ねる。
「いや、明日は体育祭があるんだ」
耕平は疲れ切った様子で答えた。
「体育祭かぁ。あたしの国の学校でも行われてるよ。日本の学校みたいに勝ち負けや順位付けはしないけど」
「耕平お兄さん達の通う高校の体育祭は、やはり順位付けされるんですよね?」
「うん、個人競技やリレーの記録や順位でクラス毎に点数付けて、優秀なクラスは表彰されるみたいなんだ」
「やはりそうでしたか。そんなことをするとおまえのせいで負けたとかって因縁をつけられケンカになったり、仲間はずれにされたりして人間関係に亀裂が生じるケースだってあると思われます」
「心当たりある」
「事前の練習もかなり大変だったですよね?」
バルルートは心配そうに質問する。
「いや、俺の通ってる桜豊高の体育祭は陸上競技大会のようなもので、綱引きや応援合戦や組体操や騎馬戦をやるような本格的なのじゃないから、事前の練習は無かったよ。このことは入学前から知ってたから、第一志望を桜豊に決めたんだ」
耕平は苦笑いしながら伝えた。
「それは良い選択ですね。日本の一般的な体育祭は戦争ですもんね。耕平お兄さんはどの種目に出られるのですか?」
「クラス対抗7×百メートルリレーだけだよ。一番楽そうなやつ」
「耕平ちゃんらしい選択ね」
「全員、どれか少なくとも一つには出なきゃいけないんだ。たくさん出る子は全部で十近く出るみたい」
「そうですか。皆さん、耕平お兄さんが明日ばてないように、早めに寝かせてあげましょう」
「はーい。耕平お兄ちゃん、おやすみー」
「耕平ちゃん、体育祭前夜だからってあまり興奮し過ぎないようにね。おやすみ♪」
「おやすみ」
就寝前の挨拶をして、耕平は自分のお部屋へ戻る。
それからさらに数分のち、
「姉ちゃん、今夜もやっぱり俺の部屋で寝るつもりなのかよ」
「うん、まだ安心出来んねんもーん」
香子が昨日と同じく耕平の自室に布団一式を運んで来た。
「俺はもう寝るから。明日の朝早いし」
耕平はそう伝えて椅子から離れ、布団に潜る。
「そういえば、体育祭だったわね。うちがスタミナの出るお弁当作ってあげよっか?」
「いらないって。食堂で食うし」
「あーん、頼りにして欲しいのに。それじゃ、おやすみ。うちはもうしばらくしてから寝るから」
香子はこう伝えて自室へと戻っていく。
夜十一時半頃。
「こんばんはー、香子ちゃん」
香子の自室に、マズアンが入り込んで来た。
「何よ? うち今原稿作業で忙しいねん」
「ちょっと、頼み事が……あの、人物デッサンのモデルになって。美術の宿題になってて」
「嫌っ! 恥ずかしいことさせんといて」
香子はマズアンからぷいっと顔を背け、原稿作業に戻る。
「香子ちゃん、ヌードデッサンかと思ったでしょ?」
そんな仕草を見てマズアンはくすっと笑った。
「……そっ、そんなことは、ないわよっ!」
「もう、照れなくっても。丸分かり♪」
「とにかく、あなたの描く絵のモデルになんかにはならんからねっ!」
「あーん、残念。それじゃ、代わりに、わたくしを膝枕して」
「なんでよ?」
香子は眉をくいっと顰める。
「わたくし、長女ゆえにバルルートとクリュカの面倒見てばっかりで。甘えさせてくれるお姉ちゃんが欲しかったの。ほんの数秒だけでいいので」
マズアンにきらきらとした瞳で見つめられると、
「……しょうがないなぁ」
香子は十秒ほど悩んだのち、嫌々ながらも引き受けてあげた。
「ありがとう、香子ちゃん、おやすみなさい」
マズアンは香子のお膝にぽすっとお顔をうずめる。
「こらこら、寝たらあかんよ」
香子は不愉快そうな表情を浮かべながらGペンの先端でマズアンの後頭部をこちんっと叩く。
「あいてっ。ごめんなさい。あまりに気持ち良くって。それにしても香子ちゃん、とっても強いわね。わたくしがあんなに軽々と投げ飛ばされちゃうなんて。ひょっとして、柔道やってた?」
マズアンがくいっとお顔を上げて質問すると、
「うん、中学まで、部活で。高校でも授業でやったんよ」
香子は照れくさそうに打ち明けた。
「そっか。香子ちゃんが強いはずだ。弟の耕平ちゃんとすごく仲良さそうね。香子ちゃんがわたくし達に敵意を持ってるのは、耕平ちゃんを素性の知れないわたくし達から守ってあげたいって思う気持ちが強いからなんでしょ?」
マズアンにしつこく問い詰められると、
「そりゃぁ、うちのかわいい弟なんやもん」
香子はさらに照れてしまう。
「そっか。わたくしもバルルートやクリュカを守ってあげたいって思う気持ちは強いから、香子ちゃんの気持ちは良く分かるわ。それじゃ、香子ちゃん、おやすみ♪」
マズアンは香子の体から離れると就寝前の挨拶をして、割り当てられたお部屋へと戻っていった。
(不覚にも、あのマズアンちゃんって子に添い寝したいなと思っちゃったわ。ってインクが原稿にこぼれとる。完成しかけの一ページ台無しやー。やっぱりあの子は許せへんわ、耕平にキスしたし、いや、あれはうちのせいやぁー)
香子はどこに怒りをぶつけていいのやら分からない心境に陥ってしまった。頭を抱え、机に突っ伏してしまう。
ビジネスホテルいるジルフマーハは同じ頃、バルルートから受けたスマホのメールで耕平達の通う学校で明日、体育祭が行われることを知った。
「日本の体育祭は、学力テスト以上に競争主義的な学校行事らしいね。絶対見に行かなくては」
こう呟いて、電気を消し、ベッドに寝転がる。
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