血は水より

次の日の朝、私は開かずの間に前にいた。

札が新しくなっている、恐らく3人が入った方の部屋だ。

私は伸びた爪でその札を再び丁寧に剥がし始めると、頭の中で様々なことを思い返していた。



「この世界は不条理なんだよ。」

「それはお前が一番良く知っているんじゃないのか?」

「「なぁーー

〝これはきっと、お前の人生の証明だ。〟」」


……証明なら、

この世界が不公平であることの証明なら。

もうとっくに、



「…何をしている」

びくっ、と体が震えた。

不機嫌そうな、疑うような低い声。

何かいけないことをしていることを理解していただけに、冷や汗が流れ出る。

「あ…いや、その…

調べ物、を……」

「………」

気持ち悪い汗が背中をつたい、

強い違和感を感じた。

待てよ………

この汗と違和感、何処かで

「がっ!!」

思い出した瞬間押し倒され、私は目を丸くした。

私の腹の上に馬乗りになり首に手を掛ける男………誰だ。

記憶力には自信がある、特に人の名前と顔は。

疎遠の従兄弟の顔と名前、その両親の顔がわかったのも少なからずそのお陰だ…でも…!

この人は、知らない。

にいっ、と男の口が半月を描いて犬歯がこちらを覗いた。

「…!?…かっ、くぅ…ぅぅ!!」

首を、

それも感じたことのない強い力でしめられ、私は痛みと辛さに声を上げた。

知っている、この感覚は知っている。

「ははは、ははははっ…

あははははははははははははは!!」

〝ははははは……はははは!!〟



ーーーーー



この家ほどではないが比較的裕福な家庭で育ったお母さんは、父と駆け落ちをして私を産んだ。

でき婚だったらしい。

この辺りの家とのお見合いで夫婦になるという家の規則を破った父は、当然一族の嫌われ者となった。

同じ血を引くものとしての恩恵と苦労が消え失せ、代わりにやって来たのは嫌がらせの数々。

就職するにも進学するにも手回しをされ、金はなくなり人脈は崩壊し家庭には徐々に亀裂が入っていった。

考えれば当然だ、伝統を大切にする彼らが一家の恥晒しを許すはずがない。

けれどずっとそのぬるま湯に慣れ切っていた父は、常人よりずっと早く耐え切れなくなる。

そして、やがてお母さんと私を嫌な目で見るようになった。

お母さんをは離婚届を出そうとしたが、狂い始めた父はそれすらも汚点となると考える。

腐った脳味噌でまともな解決策が思いつくはずもなく、結局父は大祖父に泣きつくしかなくなった。

私が物心ついたときには、すでにこの状態。

最も古い記憶は、父が実家から帰りお母さんに暴力をふるう描写。

それでもお母さんは、私には何も言わず笑顔で接してくれた。

私はお母さんを助けたくて、馬鹿な頭を使って電話や交番に行くことで警察を呼んだ。

でも、結局最後にはお母さんに暴力が倍になって帰ってきた。

お母さんがいない間は、父から逃れるために大型ショッピングセンターや図書館や公園にいった。

私は、逃げることと見ていることしかできなかった。

虐待されても、当時の私なら受け入れただろう。

なのに、お母さんは。

掛け持ちしたパートで忙しいのに、夜遅く変えると必ず

「ごめんね、今ご飯作るから」

と一人分だけ夕飯を作り、

「お母さんは?お母さんの分は?」

と聞くと

「お母さんはお腹空いてないから」

と青白い顔でそう言って笑うのだった。

きっと、コツコツと私の教育費を貯めていたのだろう。

私のために、自分を差し置いて。

殺し続けた。

そんな生活が、長く続くわけがない。

机に突っ伏し身体を曲げて声を殺し泣くお母さんを、私はやはりただ見つめることしか出来なかった。

ある日、父がまた帰らなくなった。

お金と助けのあてはないのに、取られるあてだけはある。

学校から帰ってきたら、また怒声が。

「ーーー金、ーー金金金金金金金金金金金金金金」

聞き飽きた言葉だけが、やけに鮮明に聞こえてくる。

そしてその後に、悲痛なお母さんの声が続く。

「ごめんなさい、お金はきっと用意しますから…今日のところは。」

「もう少しなんです、あと少しだけ待ってください…!」

「お願いします…!どうか、どうか!」

言葉なんて意味がない、

懺悔したって聞いてくれないわけがないのはわかっている。

けどこうすることしかできないのも、わかっていた。

どうしてこの世界は、

優しいだけでは駄目なんだろう、

愛だけでは生きていけないんだろう、

強く願っても想いは届かないんだろう、

借金取りの一言に、お母さんは始めて人前で泣き出した。


「娘を、売ればいい」


そして、簡単に絶望した。

絶望した世界に大切な娘を取り残そうとするほど、お母さんは楽観的でも無責任でもなかったらしい。

丸く縛られ吊るされた縄を後ろに、お母さんは私の首に手をかけた。




ーーーーー




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