17. 熊本地震

 彼方あっちの世界とつながったトンネルを封鎖して以降、以前にも増して、俺は仕事に没頭した。

 先陣を飾る梨ビジネスであるが、将来的な現地栽培の候補地を、台湾南部に所在する嘉義県竹崎郷に定めた。

 彼の地では、原産種の横山梨を台木にして、日本の豊水や幸水を穂木ほぎとする接ぎ木方式により、玉観音のブランド名を冠した新品種を栽培していた。玉観音はてのひらに乗り切らない程の大きな梨で、甘く、シャキシャキした食感が台湾の消費者に人気だそうだ。

 反面、“梨”の漢字は、中国語の発音が“離”と似ており、験担ぎの性向が強い人達の間では敬遠され勝ちだ。やはり台湾の消費者の間では桃やメロンの人気が高い。

 そうは言っても、もう1つの実態として若い人達を中心に無頓着な消費者が増えていて、梨の人気がじわじわと浸透し始めた背景の1つに高級烏龍茶の存在も挙げられるのだった。

 烏龍茶の中でも標高の高い高山で栽培された茶の葉は、高山烏龍茶として重宝されている。中でも、台中県和平郷の梨山で収穫される茶葉は、鉄観音よりも更にフルーティーな香りが特徴で、梨山茶としてのブランド名を轟かせていた。

 茶葉とは全くの別物だが、“梨”の漢字繋がりから、果物の梨に対する拒否感情も薄れ始めていた。

 元来、梨には大きく赤梨と青梨の2種類がある。日本では、赤梨としては豊水や幸水、青梨としては二十世紀が代表例として挙げられる。

 ところが、豊水や幸水自体は日本の改良品種なのだが、赤梨自体は既にアジア各地で盛んに栽培されており、日本からの輸出を試みれば熾烈な価格競争に晒される。

 一方の青梨は収穫時期が赤梨に比べて遅く、最盛期の夏場に間に合わない。中秋節に限定して、つまり、御月見の御供え物としての贈答需要を当て込んで、台湾や香港等の限られた地域に輸出するばかりであった。自然と輸出規模も頭打ちになってしまう。

 そう言う状況下、収穫期の早い赤梨の産地として地歩を固めたのが嘉義県竹崎郷であった。

 俺は1月に義父ちちを連れて現地を視察し、土壌なんかの栽培条件も確認して、現地栽培地としての可能性に太鼓判を押してもらっていた。

 次なる行動として、少人数ながら義父の梨園で働く技能実習生を、嘉義県竹崎郷の周辺地域での募集を決断した。現地の人材派遣会社とも協議し、2月には台湾を再訪して候補者面談する段取りを着けていた。

 ところが、2016年2月6日3時57分。高雄の北東30キロを震源とするM6・6の台湾南部地震が発生したのである。

 最大震度が台南市で震度7の巨大地震であった。嘉義県は台南市に隣接する自治体で、台湾南部地震の影響を少なからず被った。また、候補者の過半は台南市の出身者でもあった。

 予期せぬ天変地異により、俺のビジネスは停滞を余儀無くされる。義父やプロジェクトチームの関係者と協議し、面談時期を3カ月延期した。

 栽培ノウハウを身に着けるには長い研修期間が必要だ。だから、まるっと1年遅らせるのも時間が勿体無い。そう言う事で3カ月後の仕切り直しとした。

 嘉義県を現地栽培の候補地と定めたのも何かの縁だろう。

 俺は、興国商事の社内や、九州の各自治体の間を飛び回り、義援金を集めて回った。元々、九州からの農産物輸出先として台湾の占める割合は多い。そんな事情も手伝って、九州の農業関係者は快く募金に協力してくれた。

 一方で、此のプロジェクトでは他にも課題が山積みだったので、浮いた3カ月の時間的裕度を浪費する事無く、別の問題解決に取り組んだ。

 例えば、現地栽培が軌道に乗るまでの当面の間、九州からの輸出で新たな商圏を開拓する。義援金を届ける傍ら、現地の小売業者の間を東奔西走した。

 此の頃、俺の日常生活では、週の前半を東京で、後半を九州で過ごすパターンが定着していた。

 金曜日の晩に博多での仕事を終え、週末は熊本の実家で過ごす。九州縦貫自動車道を使えば、2時間程度で博多と熊本の間を行き来できる。

 博多と熊本の移動にはバイクを愛用していた。そうだ。梨恵の形見であるホンダの250ccバイク、ネイキッドタイプのVTR250だった。

 俺は、実家の納屋で埃を被っていたバイクを修理に出し、また命を吹き込んだのだ。オイルタンクの凹みと歪んだエンブレムはままだが、ヘッドライトやサイドミラー、排気系統なんかは全て新品の部品に取り換えた。

 金曜日の夜も更けると、時々だが、高速道路の後にも先にも俺のバイクが1台だけ走行している瞬間がある。

 連なる照明灯の光と影が明滅する高速道路を走行している時、後部座席には梨恵が座り、身体を俺の背中に押し付け、腕を俺の腰に回している姿を想像してみるのだった。

 彼女と触れ合った事は無い。でも・・・・・・だからこそ、想像力だけで彼女との再会を夢想できた。非科学的な発想だとは承知しているが、向かい風に逆らってバイクに乗っている時、確かに俺は梨恵の存在を背中に感じていた。


 4月に入ると、熊本の実家では西瓜すいかの苗作りを始める。

 実家の広い中庭一面に苗床を並べ、種を植えていく。その苗床から発芽した芽が或る程度の大きさまで育つと、畑に植え替えるのだ。西瓜の芽の生長に目を細めながら、生き物のエネルギーを実感する。

 義父と義母は、農作業の合間に村外れの鎮守の森を訪れ、小さな祠の前で「今年も豊饒に実りますように」と手を合わせるのを習慣としていた。

 一日の農作業を終え、未だ肌寒さの残る部屋で焼酎を飲みながら疲れを癒していた夜の出来事。

 2016年4月14日、木曜日の晩。21時26分。

 日奈久断層帯を震源としたM6・5の熊本地震が発生した。最大震度は7。九州は地震の少ない地域だと思い込んでいた熊本県民にとっては、寝耳に水の、1回目の大地震であった。

 地震発生時、俺は興国商事の九州支店で残務整理をしていたが、博多でも震度3から4の激しさで揺れた。

 未だ1割程度の従業員が事務所に居残っていたが、執務室の机がガタガタと音を立てて揺れた。壁際の書架からファイルがパサリパサリと立て続けに落ちる。

 東京で何度か経験した揺れ具合だったので、俺自身は大して驚きもせず、パソコンの前に平然と座って、周囲の什器が揺れる様を眺めていた。

 ただ、地元生粋の従業員にとっては驚きだったらしく、男性社員といえどもオワっと軽い悲鳴を上げていた。

――此の程度の揺れならば、福岡市の地下鉄だって止まるにしろ一時的なものだろう――

 俺は(終電までに線路点検等が終わってくれれば良いが・・・・・・)と案じながら、インターネットで地震速報を確認した。そして、震源地が熊本だと知る。

 直ちに実家に電話してみる。そうしないと、時間の経過と共に電話回線がパンクし始める事を、東日本大震災の経験から知っていたからだ。俺自身、あの大震災では帰宅難民と化して、難渋した事を鮮明に憶えている。

 熊本の両親は、梨恵の映像を何度も見返す為、スマホを持ち歩くようになっていた。何度目かの呼び出し音に続いて、義父が電話に出る。

「あっ、御義父さん。健吾です」

「ああ、健吾君か」

其方そっちは無事ですか? かなり震源地が近いようですけど」

「ああ、まずは大丈夫だ。だけんども、地震ば、えらくデカかったんよ。

 こげな大きな地震ば、わしは初めてじゃった」

「今は家の中ですか? 御義母さんも無事なんですね?」

「ああ。こん律子も儂の隣でピンピンしちょる。

 2人して、家の中でテレビば見ちょったけんども、家がゆっさゆっさ揺れてねえ。もしかしてえ、家ば倒れるかと思おたぞ。ほんに肝ば冷やしたあ」

「それで、自宅の建屋は大丈夫なんですか?」

「ああ、大丈夫みたいだあ。

 壁の漆喰しっくいば至る所にひびが入っちょるけど、柱や梁は大丈夫じゃなかかねえ。夜じゃけ、くは分からんけんども。

 先刻さっき、家ん中ば歩いて見て回った感じじゃ、大工さんば呼んだ方が良かごたあるが、夜じゃけねえ。明日以降になるじゃろ」

「私が帰った方が良ければ、今から熊本に戻りますが、如何どうですか?」

「う~ん。そげなこつは、せんでも良かと思うぞ。なんや? 律子」

 義父の横で義母が被害状況を報告しているようだ。

「こん律子が言うには、水道とガスが止まっちょるそうだ。電気は点いちょるがねえ」

 義父は居間に移ってテレビを点けたようだ。受話器の向こうから、アナウンサーの緊迫した声が小さく聞こえる。

「こん周りば畑ばっかりじゃけん、分からんかったが、結構な被害が出ちょるみたいやねえ。ニュースが、そう言うちょるよ」

「大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫、大丈夫。もし、何か有るごたあったら、避難所ば行くけん、心配無か」

「明日は金曜日ですから、私、明日の晩には戻りますから。週末に色々手伝います」

「それで良かよ。あんたが来ちょくれたら、家の片付けも早う終わるやろうて」

「分かりました。それじゃあ電話を切りますが、何かあったら直ぐに連絡して下さいよ」

 俺は義父との電話を切ると、従業員達が不安気にテレビを見ている部屋に合流した。アナウンサーが頻りに「震度7」を連呼していた。

 阪神淡路大震災や東日本大震災と同じ激しさの揺れだ。阪神淡路大震災の時、俺は中学生だったが、高速道路の架橋が薙ぎ倒された映像にショックを受けた記憶がある。

 高層建築物の少ない熊本だからこそ大した被害が無かったのだろうが、(此の福岡で発生していたら?)と思うと、少しゾッとした。

 今回の被害が少ないと思い込んだのは最初の内だけで、ニュース特番は続々と被害映像を映し出して行った。

 活断層の上に建っていた建物の損傷は激しく、土砂崩れに飲み込まれた行方不明者も居るようだった。地震におののいた被災住民が続々と避難所に集まり始めており、大変な状況に成りそうだった。

 明日の夜に熊本に戻る際、日用品を色々と買い込んで行こう、と決心した。


 翌日、俺は定時に事務所から引き揚げた。

 実家が熊本となれば、九州出身者の中でも特別である。事務所内の従業員が何人も俺に「頑張って下さい」と声援を送ってくれた。

 九州新幹線は地震の揺れで車両が脱線してしまい、運行不能に陥っていた。博多駅と熊本駅を結ぶ鹿児島本線の在来線も、線路点検の為に運行を中止していた。

 熊本には自家用車かバイクで行くしかない。レンタカーは運搬能力の面では心強いが、現地の道路状況に不安が中で機動性に不安が残る。だから、バイクで向かう事にした。梨恵のバイクが色々と守ってくれそうな気もした。

 まずは、博多のショッピング街でキャンプ道具を主体に避難生活の足しに成りそうな物資を買い込む。携行食糧の類は社宅近所のスーパーで購入した。社宅に帰ってから、買い込んだ品々を大きめのリュックサックに詰める。昨夜から何度も余震が続いているが、義父を頼みに、俺自身は買い出しに集中すべきだと判断した。

 どうせ、今夜の到着は遅くても構わない。熊本入りの時刻を深夜とすれば、救援物資を運ぶ車両も減って道路渋滞も少ないだろうと踏んだ。そう考えて、荷作りを済ませると、ラーメン屋で腹拵えをした。

 九州縦貫自動車道も植木インターから八代インターまでの間で通行止めとなっていた。中間地点の益城インター周辺で道路に亀裂が走り、陥没していたのだ。

 だから、植木インターで降り、西原村までは一般道を運転する。一般道を走る区間は約20キロの短距離なので、それほど所要時間を長引かせない筈だ。

 夜10時過ぎに社宅を出発する。俺はリュックサックを背負い、梨恵のバイクに跨った。

 金曜日の夜だからだろう。高速道路に入るまでの福岡市内の一般道は混雑していた。隣の県は大災害に遭ったと言うのに、普段と大して変わらない日常の生活が此処には有る。

 混乱に右往左往する場所と普段通りの暮らしを続ける場所が、大して離れずに隣り合っている。東日本大震災の時もそうだったが、地震被害とは不思議なものだった。

 深夜11時頃、福岡インターから九州縦貫自動車道に入った。

 機能している植木インターまでの道中、俺の予想に反して、多数の物資運搬車両が行き交っていた。工事車両も多かった。日本全体で復旧活動に取り組んでいるのだ。それらの車両を追い抜く度に、俺の胸に熱いものが込み上げる。

 植木インターを降りてからは、国道3号線が渋滞していた。植木インターから熊本市街地まで15キロ程度と言った距離の所為せいもあるだろう。トラックや工事車両に加えて、自衛隊や警察、消防の車両も数多く出動していた。

 俺は脇道の県道に逸れた。途端に、街灯の数が疎らとなり、路面の状態が荒れてくる。

 アスファルトに亀裂の走った部分や隆起して波打つ部分が増え、ヘッドライトの照明で前方を注意深く確認しなければならない。自然と走行スピードが落ちたが、植木インターを降りてから1時間強で、熊本の実家に辿り着く事が出来た。

 深夜1時過ぎ、俺は西瓜すいか畑の脇を這う農道を進み、実家の門柱前でバイクを停める。

 ヘルメットを脱ぎ、首を回して肩の凝りを解した。ハンドルのグリップを握り続けた腕が軽く痙攣している。左足を軸に右足を大きく回すと、バイクから降りた。ヘッドライトを消す。

 辺りに街灯は無いが、半月はんげつよりも1日分だけ膨らんだ上弦の月が夜空に煌々と輝き、付近の畑を照らしている。実家の家屋は、外観を見る限りにおいては、普段と変わりが無い。

 ペットボトルの水を飲み、喉の渇きを癒した。そして、ふうっと長い溜息を吐く。強張った腰に力を入れて中庭に進入する際、音を立てずにバイクを押したつもりだったが、義母が玄関口に立っていた。

「済みません。起しちゃいましたね」

「なんも。中々寝付けんかったけん、梅酒でも飲もうかと悩んどったと。

 あんたのバイクの音ば耳にしたもんで、こうして起き出したんよ。

 博多から、こげん遅い時間に。ご苦労じゃったねえ」

 そう声を掛け合った時だった。

 16日深夜1時25分。布田川断層帯を震源地としたM7・3の大地震が再び牙を剥く。1回目から僅か28時間後の災禍であった。

 大地が激しく揺れた。記録した最大震度は7と同じだったが、1回目よりも今回の方が大きかった。

 俺は思わずハンドルグリップを握る手を放してしまった。バイクの車体が右側の向こうに、ゆっくり、ガチャリと倒れた。ヘッドライトの暗窩が天頂を向く。

 俺は義母の身体を抱き支えた。2人して抱き合い、揺れる地面に佇むしか為す術が無かった。

 大地よりほとばしる衝撃波は建屋をも激しく揺さぶった。地の底から突き上げる打撃に耐え切れず、柱の1本がバキリと派手な炸裂音を夜陰に響かせた。

 平屋構造ゆえに柱の負うべき荷重は軽い筈だが、瓦葺の屋根だった事がわざわいした。加えて、1回目の地震で構造体が弱っていたのだろう。

 1本目の柱が折れると、2本目、3本目と、残った柱も連鎖反応的に座屈を繰り返す。支えを失った瓦葺の屋根が轟音と共に崩落した。入道雲のごとき土埃が、中庭に植わった大木よりも高い位置まで、モワリと湧き上がる。

 俺の目には崩落の瞬間が緩慢に映ったが、現実にはアっと言う間の出来事だった。

御父おとうさん!」

 義母が大きな金切声かなきりごえを上げた。半狂乱になって崩落した瓦屋根に近付く。直ぐ様、割れた瓦を取り除きに掛かる。俺は義母の後ろ姿に唖然とした。

 一瞬だけは呆気に囚われた俺も、即座に深刻な事態を理解した。其処で寝ていた義父の上に瓦屋根が崩れ落ちたのだ。

 義母に続いて、俺も瓦を取り除き始める。2人して「御父おとうさん」と何度も叫んだ。だが、作業の合間に耳を澄ますが、呻き声の1つも聞こえなかった。

 これでは埒が明かないと判断した俺は、救援を求めてバイクに跨った。一心不乱に瓦を投げ捨てる義母の後ろ姿に一瞥するとエンジンを始動し、来る途中に見掛けた自衛隊や警察の車両待機地点を目指す。

 幾つもの自家発ライトが発光している駐屯所に到着すると、慌しく動き回る自衛隊員達の脇でバイクを急停車させた。

「済みません! 父親が倒壊の下敷きになりました!」

 バイクから跳び降り、振り向いた1人の自衛隊員の野戦服を掴んで懇願した。

「御願いです。父親を救助してやって下さい」

 昨夜の大地震以降、既に救助体制を整えていた自衛隊。テキパキと周囲の隊員に指示し終わった隊長が俺を指揮所まで案内した。

 大きな野戦テントの指揮所中央に並べた長机の上には熊本県全域の地図が広げられていた。何人もの自衛隊員が出入りして、長机の脇に設置されたホワイトボードに被害情報を逐一書き加えている。

「あなたの御自宅はの辺ですか?」

 俺は地図を覗き込み、西原村の一画を指差した。隊長が冷静沈着に指示を出す。

 救援隊員として指名された隊員2人が俺を駐車場に連れて行き、濃緑色のジープに乗り込んだ。助手席の隊員が手にした通信機からは絶えず命令伝達の音声が流れていたが、上の空の俺には馬耳東風だった。

 15分後には実家に戻ったが、人力では本格的な救助活動は展開できないと判断した隊員が通信機で被害状況を報告すると共に、土木作業用重機の出動を要請した。

 約1時間後に重機が到着した。その時点までには隊員数も増え、10名以上の隊員が瓦礫の撤去作業に従事していた。

 義母は「危険ですから」と言われて、納屋の方に連れて行かれた。俺の方は「今は1人でも人手が必要な時だから」と、隊員達に交じっての作業が許可された。

 重機が到着して2時間余りが過ぎた頃。瓦礫の下から義父が発見される。義父の顔色は白く、口から1筋の血を流していた。

「御父さん!」と義母が駆け寄る。

 サイレンを鳴らした救急車が到着し、義父の身体は自衛隊員から消防隊員に引き継がれた。担架に載せられた義父の身体に義母が獅噛しがみ付く。

 無言の消防隊員に急ぐ気配は無く、淡々と担架を救急車に搬入する。義母も救急車に乗り込んだ。

貴方あなたも付き添われますか?」と、救急隊員の1人が俺に質問する。

 救急隊員に背中を押され、俺も義母の後に続いた。

 無音の救急車が向かった先は、病院ではなく、臨時の安置所だった。

 安置所には既に何体かの遺体が運び込まれ、その顔には白い布が被されている。義父の顔にもまた、白い布が被された。安置所のあちこちで遺族のすすり泣く声が侘しく響く。

 検死に訪れた医師は診断結果を俺と義母に説明してくれた。

「恐らくは梁の下敷きとなった事が原因と思われる圧迫死です。

 一瞬の事で、御本人が苦しむ事は無かったでしょう。即死です。

 お気の毒ですが・・・・・・」

 俺は、義父が亡骸となって瓦礫の下から発見され、救急車に揺られている間ずっと、唯一ただひとつの事を考えていた。

――此方こっちの世界で大地震が起こったのなら、彼方あっちの世界でも大地震が起きる筈だ――

――でも、地震発生時刻には時差が生じる可能性が有る。東日本大震災の様に・・・・・・。

 義父の死は残念だけど、起きてしまった悲劇を悔やんでも元には戻せない。

――今は彼方あっちの梨恵の安否を心配すべきだ。もしかして、警告できるかもしれない――

 そればかりを考えていた。

 憔悴する義母の肩を優しく揺らすと、俺は自分の考えを伝えた。

「だから、御義母さんは待っていてくれないか。避難所で。

 東京で警告を伝える事が出来たら、熊本に戻って来るから」

 義母も無言で頷いてくれた。

 俺は頷き返すと、バイクを乗り捨てた場所まで走り出した。

 既に空が白み始めていた。


 熊本空港は閉鎖されていたので、蜻蛉とんぼ返りで博多に戻ると、開港一番で福岡空港の搭乗カウンターでキャンセル待ちの列に加わった。幸いな事に、午前中の便が俺に宛がわれた。

 俺は、既に賃貸中だった世田谷のマンションに急行し、呼び鈴を乱暴に鳴らす。

「どちら様ですか?」

 今の住人の奥方だろう。来客通話機器インターフォン越しの声に警戒心がにじんでいる。

「此のマンションの持ち主です。貸主です」

「そうなんですか?

 我家うちは会社の福利厚生課から社宅として借りているんですけれど、貸主の方が、どの様な御用件で?」

「社宅として貸しているのは重々承知しています。

 ただ、その事とは別の話で、如何どうしても家の中で確認させて頂きたい事が有るんです」

「どの様な事なのでしょう?」

「長い話になるので、中に入ってから話をさせて頂けませんか」

 だが、押し売りっぽい説明に納得する人間は居ない。女性ならば尚更であった。

「不審な方にドアを開ける事は出来ません」

「不審者ではありません。説明するから、ドアを開けて下さい」

 と、誤解を解けないばかりか、不信感を募らせるだけの展開に変わって行った。

「帰って下さい。あまり執拗しつこいと警察を呼びますよ」

 遂には警告を受ける羽目になったが、俺は止めなかった。無意味な押し問答を続けて30分。管轄の交番から派遣された警察官が遣って来た。「事情は署で聞きますから」と柔らかい口調で宥められつつ、だが半ば羽交い絞めされるようにして俺を連行する。

 その後の数時間、俺は世田谷区の警察署の留置所で拘留された。拘留中に警察は身元を確認してくれたようだ。帰宅ラッシュが始まる時間帯に、「世間を騒がす真似は控えるように」と説教されて、釈放された。

 無事に放免されても、あのマンションを再訪しなければならない事情が俺には有る。

 だから、警察官を拝み倒し、「あの奥さんに謝りたいので、どうか一緒に付いて来て頂けませんか」と懇願した。

 社宅マンションの呼び鈴を再び鳴らす。

 覗き穴から俺の顔を確認したのだろう。ヒィっと小さな悲鳴がドア越しに聞こえた。

 奥方の悲鳴は同行した警察官の耳にも届いたらしく、

「奥さん。此の男の身元は我々も確認しました。確かに興国商事の社員でした。

 昼間に騒がせた謝罪を是非にもしたいと本人が言っておりますので、御迷惑かとは私も思いましたが、連れて来る事にしました」

 そう言って、今度は警察官がドアの正面に立つ。

 警察官の制服姿を覗き穴で確認したのだろう。鎖を付けた状態で玄関ドアを薄く開けた。

 隙間から覗いた婦人の姿に、警察官が敬礼する。俺も深々と頭を下げた。

「興国商事の九州支店に勤めている緒方健吾と申します。

 養子に入って名字が変わったものですから、勤め先には旧姓の五十嵐健吾で通しています。

 御主人に確認してもらえば、事実だと確認できる筈です」

 俺が追加情報を与えたものだから、奥方は家の中に引っ込んだ。遠くで旦那と電話する声が聞こえる。

 顔は確認できないまでも、五十嵐健吾なる従業員が九州支店で勤務している事が確認できたので、奥方は鎖を外し、改めてドアを開けてくれた。

 事の展開を辛抱強く見守っていた警察官は、「本官はこれで」と言って敬礼すると、警察署に戻って行った。俺は、もう一度、「お騒がせしました」と言って、警察官と奥方の双方に頭を下げた。

 俺の顎には無精髭が伸び、髪の毛も整えていなかった。顔も憔悴し切っているに違いない。反面、眼は爛々として、鬼気迫る雰囲気を漂わせていたと思う。

「こんな私を招き入れるなんて、有り得ないと思います。

 ドアに鎖を掛けても構いませんから、どうか、私の話を聞いては頂けませんか?」

 そう、お願いした。拘留中に幾分かは冷静さを取り戻していたので、脅迫めいた空気が薄れたのかもしれない。

 奥方は肩を竦めると、「中に入って」と言うジェスチャーをした。後から考えると、肝の据わった女性だったのだと思う。

 居間リビングに案内された俺は、異世界へとつながる壁を見た。トンネルの開通範囲の半分はサイドボードで埋まっていた。


「ちょっと、壁際の一画に近付いても構わないでしょうか?」

 と、俺は奥方に許しを乞うた。

 奥方が頷くと、俺はサイドボードに近寄り、中腰になって耳を澄ませた。数分間、身じろぎもしない。でも、残念な事に、何の物音も聞こえなかった。

 俺がサイドボードを覗き見している、と奥方は勘違いしたようだった。両手を腰に当て、エヘンと軽く咳払いした。

 我に返った俺は「済みません」と謝り、奥方の指し示すテーブルに移動した。俺が住んでいた時と同じ場所にキッチンテーブルが置かれていた。

 俺がテーブルに着いても、奥方は飲み物など何も出さなかった。招かれざる不審者でしかないのだから、それも当然だった。

 奥方が向かいの椅子に座ると、俺は「信じられないと思いますが・・・・・・」と前置きして、事の顛末を説明し始めた。彼女と遭遇してからの一部始終を話すとなれば、長い説明となる。すっかり陽も暮れた。

 でも、奥方は興味を示すどころか、話が進むに連れ、夢中になって耳を傾けてくれた。此の夫婦には子供が居ないらしく、誰も俺の話を邪魔しないのが本当に有り難かった。

 説明し終わると、奥方は「あそこに彼方あっちの世界への入口が有るのですか?」と、サイドボードを指差した。俺は無言で頷いた。

「それで、貴方あなたは私に何をして欲しいのですか?」

「本音を言えば、私自身が1日中、あそこで聞き耳を立てていたい。ですが、それは無理な要求でしょう。

 替わりに、奥様に時々は注意を払って頂いて、何か物音が聞こえたり、違和感の有る映像が浮かんだりしたら、携帯電話で私を呼び出して欲しいのです。直ぐに駆け付けますから」

「その間、貴方は?」

「駅前商店街の一画に小さな公園が有りますよね。其処で待っていようと思います」

「夜は?」

「今でも東京の本社で勤務する時は永福町の独身寮から通勤しています。その独身寮で寝泊まりします」

「そうですか。私も気に掛けておきます。

 だから今日はもう、独身寮にお戻りなさい。明らかに疲労困憊ですよ。貴方が倒れでもしたら、みんなが困るのでしょう?」

「有り難う御座います。

 でも一刻を争うので、今夜も終電の時間までは公園で待機していようと思います。

 だから、何か異変に気付いたら、私の携帯電話に連絡して下さい。是非、宜しく御願いします」

 俺は、テーブルに両手を置き、脂ぎった額を着けた。

「そうですか。分かりました」

 玄関口まで奥方に見送られ、俺はマンションを後にした。

 公園まで来ると、誰も居なくなった滑り台に腰掛け、握り締めたスマホの画面を悄然と見詰め続けた。

 此の日は奥方からの連絡も無く、終電の時間が迫ると諦めて独身寮に帰った。

 翌日も始発に近い時間帯から公園に待機した。俺の様子を伺いに来たのだろう。昼前に買い物姿の奥方が俺に近付いて来た。

「もし、良かったら・・・・・・、やっぱり家の中で待ちませんか?」

 と、躊躇ためらい勝ちに提案してくれた。俺は零れ落ちる涙を止めようがなかった。

 何度も頭を下げ、拠点を居間リビングに移した。サイドボードの前に座って眼を閉じ、一心不乱に耳を澄ませた。

 奥方が「食べませんか」と昼食代わりのパンを差し出してくれたが、俺は愛想笑いを浮かべただけで断った。食欲が全く湧かず、何であれ喉を通る体調ではなかった。

 無心に聴覚を研ぎ澄ませる積りだったが、邪念が次々と疲れた頭に浮かんで来る。

――もう、あのアパートは解体作業に入ったのだろうか?――

 そうであれば、工事現場の音が聞こえても良さそうなものだ。聞こえないと言う事は、奴が転居したまま空き家状態なのだろう。次なる入居者を募集していないのだから、誰かが3畳間に入って来る可能性は絶望的に低かった。

――此の時空と言うか何と言うか、得体の知れぬ運命は、何処どこまで義父の命に執着していたのだろうか?――

 大腸癌の魔手から逃れた義父の命を、今度は地震と言う強硬手段で強奪して行った。

――そうであれば、彼方あっちの世界で梨恵の命を奪う事に関しても、同じ様に貪欲なのだろうか?――

 でも、今回の地震で義母が倒壊した家屋の下敷きに成らなかったのは、庭先まで俺を出迎えに来たからだ。

 彼方あっちの世界であれば、梨恵が出迎えに出た筈だ。そう考えると、梨恵は無事だと言う気がする。

 しかも、彼方あっちの梨恵はたすくを産んだ。此方こっちの世界とは明らかに違う営みだ。

――そうすると、梨恵の運命は、此方こっちの世界とは違って、天寿を全う出来るのだろうか?――

――それとも、やっぱり彼方あっちの世界でも起きる熊本地震で命を奪われるのだろうか?――

 此の俺だって、熊本の実家への到着時間が30分早ければ、家屋の倒壊に巻き込まれていただろう。全ては、紙一重の偶然の結果に過ぎない。

――資は如何どうだろう?――

 資は梨恵の子供であると同時に、健吾の子供でもある。

――将来、俺が結婚して子供を儲れば、その子と同様に資は無事に成長して行くのだろうか? 或いは、此方こっちの世界の運命は、俺の子供の命をも奪う腹積はらづもりなのだろうか?――

 そんな埒も無い考えが俺の頭の中をグルグルと駆け巡る。空回りを続ける思考に頭が疲れ、妄念で心は千々に乱れた。

 眼が落ち窪み、放心した状態で耳をそばだてる俺。奥方はテーブルに広げたパソコンに何やら文章を打ち込みながら、そんな俺を静かに見守っていた。奥方の生業は小説家だそうだ。だから、日昼も自宅に籠っている。

「貴方の話を小説にしても構わないかしら?」と質問されたので、「構いません」と答えておいた。

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