16. 転機~別れ~

 俺の方は・・・・・・と言えば、2人の結婚式の時には既に忙しかったのだが、益々多忙を極めるようになった。

 興国商事に戻って新部署を立ち上げたのみでは何も変わらない。自分自身が飛び回り、物事を1つ1つ動かさねばならない。

 最初は、法務省に出向いて外国人労働者の入国管理の仕組みを学んだ。それからコンサルタントを雇い、外国人労働者を受け入れてくれる農業法人を探す体制を整えた。勿論、農協での義父ちちの人脈を頼った組織化も目論んでいた。

 でも、目的はアジアマーケットの開拓だから、九州各地の広域連携組織が何を輸出したがっているのか――と言う視点も考慮すべきだ。自ずと福岡を拠点とした九州全域に活動範囲が広まる。

 反面、現地栽培に着手する手前には農作物を輸出するステージが有るわけで、各自治体が既に輸出に取り組んでいる農作物と、その輸出先での栽培に適した土地の探索と言う業務課題も俎上に挙がる。

 現地栽培に適しているか否かは、その農作物を栽培している人間にしか判断できない。

 だから、自治体なり農協を行脚して此のビジネスモデルが掲げる共存共栄の理念を説明し、協力を御願いして回る必要があった。

 次に、現地栽培の候補地周辺で外国人労働者を募集しなければならないが、それは回り回って、最初の外国人労働者の受入れ体制の軌道修正と言う形で跳ね返ってくる。

 一連の大きな業務サイクルが回るように、言い出しっぺの俺自身が段取る事になる。しかも、何の土俵も無いグリーン・フィールドからだ。自分が仕掛けた事の大きさを自覚させられ、目が眩む様な不安に怖気付きそうになる。

――でも、諦めて、途中で投げ出すわけには行かない――

 俺が根を上げると、彼方あっちの健吾と梨恵の人生が暗転するかもしれないのだ。

 俺が成功すれば、奴だって同じ様な仕組み造りに着手し易くなるだろう。そうすれば、此方こっちの世界と彼方あっちの世界とで相乗効果が生まれるかもしれない。

 そう自分を鼓舞して、俺は遮二無二働いた。

 毎晩の帰宅は深夜になり、週末も出張の移動日に当てる事が多くなった。だから、奴なり彼女と会話する機会は、めっきり少なくなった。それでも奴は、パソコンの電源を入れたり消したり、毎日の日課を欠かさなかった。

 結果的に頻度は激減したが、少なくとも俺がマンションに居る週末は3人での会話を絶やぬよう努めながら、月日を過ごした。


 そうやって、奴と彼女の結婚式から5カ月が過ぎた2015年の11月下旬。

 無事、男の子が生まれた。以前に奴が宣言した通り、緒方たすくと命名された。

 熊本での農作業が一段落した10月以降、義父ちち義母ははは俺のマンションで生活するようになっていた。流石さすがに月に何度かは熊本に戻って自宅に風を通して来るようだが、基本は東京住まいとなった。

 俺自身は時間の余裕が無く、もっぱら義父と義母がパソコン経由の彼女との会話で心を和ませていた。

 臨月を迎え出産予定日が近付くと、ほぼ毎朝、義母が出勤前の俺に彼女の近況を報告した。義母の報告に拠ると、彼女は、予定外の破水に見舞われる事無く、出産予定日の前日に産婦人科の病院に入院したそうだ。

 初産だから陣痛の継続時間は長かったらしいが、母子共に健康な状態で出産を果たした。退院日にも俺は彼女と会えなかったが、翌朝には義母から報告を受けた。

 彼女が資の姿をパソコン画面に映すようになると、義父は音の出る玩具を買って来て、「たすくちゃん。お爺ちゃんですよ~」とガラガラ鳴らせているらしい。

 彼女の方でも1日中、赤坊あかんぼうを抱いていると腕が疲れるので、今では揺り籠ベビーベッドに外付けカメラを固定している。義父はパソコン画面越しの育児に余念が無い。

 一方の資は、パソコンではなく、回転木馬の様にクルクルと回る玩具を見上げている筈だ。だから、頭上の玩具が義父の声を発しているのだ――と思い込んでいるだろう。

 それでも、自分の声にキャッキャと資が反応する度に、義父は凄く喜んでいた。資の脇で、彼女と義母が音声だけの会話を弾ませている。

其方そっちの健吾さん。すっごく忙しそうじゃねえ」

「そうじゃのう。私らも健吾さんが倒れやせんかと心配しちょるんよ」

「でも、今は御母おかあさんが御飯を作っちょるんでしょ?

 少し前まではスーパーの弁当ばっかり食べよったから、栄養に関しては安心っちゃね」

「そうじゃのう」

「そう言えばね、御母さん。

 此方こっちの健吾さん。九州支店ば異動できそうなんじゃって」

「そうかい。そいは良かこつじゃ。そんで、何時いつね?」

「1月1日付じゃなかかって、健吾さんが言うちょったわ」

「そいじゃ、年の瀬には引っ越しじゃのう?」

「そうなるわねえ」

「忙しか年の瀬になるんやねえ」

「そうねえ」

「でも、正月からは、あんたと一緒に暮らせるっちゃろ?」

「そいがね。会社の近くでアパートば借りるつもり。熊本の此処からじゃ、博多まで通勤できんでしょ?

 私も一緒に福岡で暮らせれば良いっちゃけど・・・・・・」

 資に向かって玩具を鳴らしながら、聞き耳をそばだてていた義父が娘に釘を刺す。

「そいは絶対に止めちょけよ。車の多い町ば、絶対に住んじゃいかん。

 何の為に、2人の健吾君がお前んために苦労しちょるんか、分からんくなるけんのう」

「うん。分かっちょる。

 だから、健吾さんも福岡で単身赴任の生活ばするつもりなの。

 そんでも、週末に帰って来易きやすくなるっちゃけ、大助かりだって、言ってくれちょうがよ」

 パソコン画面の中で揺り籠ベビーベッドに仰向けに寝た資が、両手を天井の方に上げてキャッキャと騒いでいる。

「梨恵・・・・・・。良か旦那さんと結婚したな」

「うん。本当にそう」

 パソコンから彼女の独白めいた小声が漏れた。


 至る所で鳴り響くクリスマスソングが人々を高揚させ、世間は楽しげなムード一色に染まっている。

 LED電飾イルミネーションで着飾った街頭では、肩を寄せ合う恋人達が白い息を吐きながらデートを楽しんでいるのだろう。

 幼い子供を連れた家族は商品展示窓ショーウィンドウを覗き込み、子供の耳元で「サンタさんに何を御願いするの?」と夢を抱かせる。

 そんな12月の或る日。珍しく俺と奴の日程が合い、随分と久しぶりに俺達家族は6人で会った。いや、今は揺り籠ベビーベッドで眠るたすくを入れての7人だ。

 家族団欒だんらんの場であるべきだったが、7人の間に浮かれる雰囲気は全く漂わない。奴の九州支店への異動が決定し、今後の事を話し合う必要があった。

「お前、九州支店への異動が決まったんだってな」

「ああ」

何時いつ?」

「1月1日付」

「部署は?」

「農畜産物課。今の職場の延長だからな。穀物に限らず、農産物なら何でも有りみたいだ」

「九州支店に異動できるなら、兎に角、良かったよな」

「ああ」

 淡々と事実確認を終えた後、俺は、訊きたくはないが、訊かざるを得ない質問を口にした。

「それで、九州支店に異動したら、そのアパートを引き払うんだろ?」

「ああ。そうなる」

 俺達2人には如何いかんともし難い問題であった。自然と仏頂面での遣り取りになる。

「どうやら、大家さんが此のアパートを建て直したがっているそうなんだ。

 だから、九州に転勤しなくても、いずれ立ち退きを迫られていたんだ」

 俺だけが一言「そうか」と呟く。此処に集う6人全員が覚悟していた現実。

 俺と奴の事務連絡っぽい会話だけが流れ、残りの4人は黙り込んで自分の足元を凝視している。

「トンネルを通じた会話時間も残り僅かだな・・・・・・」

「そうなるな・・・・・・」

 しばし無言の時間。空気が重苦しい。

「お前さんの方は如何どうするんだ? そのマンションで暮らし続けるのか?」

「いいや。俺の方も引き払おうと思っている。1人で暮らすには広過ぎるしなあ」

 俺は居間リビングを眺め回した。部屋の広さが問題なのではない。壁を見る度に彼女を思い出す事が嫌だった。

「それで、お前さん。如何どうするんだ?」

「此処の荷物は熊本の実家に移そうと思っている」

 横を向いた俺に向かって、義父が頷き返す。

「仕事の関係で言えば、東京と福岡の両方に拠点が有るんだ。今も頻繁に往来している。成田から海外出張もするしな。文字通り、飛び回っているよ。

 だから、特例で永福町の独身寮に入れてもらおうと考えている。

 福岡の方は九州支店の社宅を借りるんだろうなあ。所帯の小さい支店に独身寮なんて無いから、もしかして、お前と同じ建物に住むのかもしれないな」

「そうだな。ひょっとして、部屋まで同じだったりしてな」

「そう考えると、不思議だな。

 部屋に俺1人で居る時でも、お前と向かい合っているかもしれないんだからな」

 同じ場面を連想して、俺と奴は小さく笑い合った。残りの4人は黙って耳を傾けている。

「そのマンションは如何どうするんだ? 空けたまんまにするのか?」

「いやあ、それも勿体無いからなあ。住宅ローンも残っているし・・・・・・。誰かに貸すと思うぞ」

「そっか。・・・・・・寂しくなるな」

 奴の隣で彼女が涙ぐんでいる。此方こっちでも義母が目頭を押さえ始めた。

 俺は「おい」と奴に声を掛けた。「んっ?」と、奴が顔を上げる。

「彼女の事。頼んだぞ。必ず幸せにするんだぞ」

「言われなくても、分かっている。俺は、お前さんだぞ。心配するな」

 親指を立てた奴は、ニヤリと口角を上げた。


 クリスマス・イブの日。

 俺は台湾行きの飛行機に乗っていた。外国人労働者のコンサルタントと一緒の海外出張で、現地の人材派遣会社との打合せが目的だ。

 最終目標が現地栽培なので、農作物の栽培に適した地域を中心に技能実習生を募集する。そうすれば、里帰りした彼らを現地栽培スタッフとして活用できる。

 最初は、緒方農園で試行錯誤してみる。養子となった俺の実家なら、色々と融通を利かせ易い。よって、第一弾の農作物は梨と定めていた。年明けには改めて、義父ちちと一緒に台湾のあちこちを視察する予定だった。

 一方で年内は、義父には満足の行くまで彼女と話してもらいたい。悔いが残らぬよう、一日一日を大切に過ごして欲しかった。だから、義父を連れての台湾視察は年明けに予定していた。

 義父と義母はトンネルの入口に座り、今日も彼女達と会話している。

 梨恵と孫のたすくはパソコン画面の中だ。クリスマス・イブが出勤日ウィークデイなので、彼方あっちの健吾はアパートに居る。健吾も異動前の残務整理と送別会とで忙しいみたいだが、「イブの今夜だけは」と送別会を断り、早々に帰宅していた。

 梨恵は腕の中でサンタクロースの格好をした資を抱き揺らす。隣の母親がニコニコしながら孫の様子を見ている。部屋にはクリスマスソングが流れていた。

「もう、乳はやったとか?」

「つい先刻さっき。そろそろゲップが出ると思うんだけど・・・・・・」

 そう言いながら、梨恵は資の背中を優しく擦る。そして、

「連日の送別会で身体が疲れているんじゃないの?」

 と、夫を気遣った。

「今日は休肝日だし、送別会も残り1回だけだ。もう峠は越えたよ」

「そう言えば、其方そっちの健吾さんも宴会で忙しいんでしょうね。

 私が「休肝日を作りなさい」って言っても、お酒を飲む量は変わらなかったみたいだけど」

「じゃっどん、今日は台湾ば行っちょるからな。まあ、彼方あっちでも宴会ば、有るんじゃろうが」

「そうだったわね。彼方あっちでお酒を控えていると良いけど・・・・・・」

「まあ、男じゃけんのう。断れん付き合いも有るじゃろうて」

「健吾さんは、晩御飯、もう食べたの?」

「うん。スーパーで弁当を買ってきた」

「クリスマスなのに、また弁当なの?」

「うん。追加でローストチキンだけは買って来た」

其方そっちの健吾さんもそうだったけど、スーパーの弁当が好きねえ」

「別に好きじゃないけど、手軽だからねえ」

「じゃけん、梨恵。健吾君が九州ば行ったら、栄養の有る物をたくさん食べさせにゃいかんぞ」

「分かっています」

「御義父さん、御義母さん。私、隣の部屋で弁当を食べてきますから、先に梨恵と話をしていて下さい」

 健吾は軽く頭を下げると、トンネルから姿を消した。

「じゃっどん、梨恵。其方そっちのアパートは何時いつ、引っ越しするとね?」

「先週、引っ越ししちゃっとんのよ。

 だけん、此方こっちのアパートば、殆ど空なんよ。健吾さんの荷物が少~し有るだけっちゃ」

「そうかい。準備ば、着々と進んで行きんさるねえ」

 しんみりとした父親の独白に、梨恵も「そうねえ」と未練有り気に同調する。

 此方こっちの母親が甲斐甲斐しく梨恵に話し掛ける。

「梨恵。身体ば、気い付けてな。あんたが健康なら、私らは何も言わんけん」

「分かっちょります」

 梨恵の腕に抱かれた資が小さな手を伸ばし、梨恵の顎を触っている。梨恵が口をパクパクさせて、資をあやす。

「律子さん。梨恵の事、頼みますねえ。私らは、な~んも、でけんけん。」

「ええ、ええ。分かっちょりますけん」

 梨恵の母親もパソコン画面に乗り出して来て、此方こっちの母親に答えた。


 年末、仕事納めの日。

 世間のサラリーマン達は1年の仕事に目途を付け、家族団欒の時間に入る。田舎の有る者は帰省ラッシュに身を投じ、親族一堂や同郷の友人達との再会を楽しむ。

 新幹線や飛行機に乗る者、自家用車で帰省する者。正午を過ぎると、「良い御歳を」と挨拶しては、三々五々に職場を後にする。

 俺も早々に職場を離れた。

 久方ぶりの再会に胸を躍らせる周囲の者とは反対に、俺の場合は、今生の別れを告げねばならない。

 それを考えると、マンションに戻る足取りも重たくなるが、道草を食えば、彼女達との最後の時間を無駄に削る事にしかならない。

 俺は、意識して何も考えず、機械的に両足を交互に繰り出して家路を急いだ。JRの中央線に乗って新宿駅へ。電車の吊り革を握り締め、車窓の景色を漫然と眺める。

 新宿駅でホームに降り、小田急線を目指す。これで通勤電車の前半が終わる。

 JRと小田急線の連絡通路には、相も変わらず、通勤客と思しき老若男女が行き交っている。リュックサックを背負った子供連れの母親の姿も目に付いた。母親自身も旅行用のトランクを曳いている。

 小田急線では、快速電車を避け、各駅停車の電車に乗った。

 窓際横一列に並んだ座席の1つに座る。午後も早い時間帯ゆえ吊り革を握って立つ乗客も疎らで、反対側の車窓の向こうに郊外の景色が流れている。

 背の低い住宅街の合間を抜ける電車。住宅の屋根の上に広がる冬空。空高く澄み渡った冬空の色合いは、暖房の効いた車内に座っていても、冬の寒さを感じさせる。俺は寂寥感を募らせていた。

 電車が停車駅を出発する度に、自分の降車駅までに残った駅名を頭の中で諳んじる。暗唱する駅の数が1つずつ減る。今生の別れに至るカウントダウンだった。

 カウントダウンは気持ちを滅入らせたけれど、俺は繰り返し暗唱をし続けた。無心で暗唱していた。観浄寺で座禅を組んでいた時と同じ心境だったかもしれない。

 ゼロとなったカウントダウンに重い腰を上げさせられた俺は、降車駅で車両から降りた。ホームに降り立つと冷気が身体を包み始める。俺はコートの襟を立て、両手をポケットに突っ込んで歩き始めた。

 上りと下りのホームをつなぐ渡り階段を昇り、そして降りる。改札を出た目の前には、マンションに通じる小路が真っ直ぐに伸び、両側には商店街が軒を連ねている。

 背中を少し丸め、猫背になって商店街を通り過ぎる。ふっと雑貨店に目が行く。「赤い卓袱台を買ったなあ」と、彼女と会ったばかりの頃に想いを馳せた。

 自宅マンションに辿り着き、玄関のドアを開ける。「ただいま」と、玄関口で靴を脱ぐ。

 奥から「お帰り」と、義母ははが出迎えた。もう一度、「ただいま」と義母に言った。

御父おとうさんと一緒。梨恵と話しちょったとよ」

 そう報告する義母の声も、幾分沈んだものだった。

――そうだ。今日が最後の日なのだ――

「健吾さんは未だ帰って来ていないのよ」と、義母が訴える様に伝える。

 異動で職場を去る奴は、夕方ぎりぎりまで帰宅しないのだろう。

 俺は部屋着に着替えた。黒いシルクのパジャマの上に丹前を羽織った。此のパジャマも、彼女と初めて会った時に来ていた物だ。

 居間リビングの床に座り込んでいた義父に「今、帰りました」と挨拶する。義父が「お帰り」と応え、パソコン画面の中から彼女が「お疲れ様」と労いの言葉を投げてくれた。

此方こっちは寒いよ。風は無いんだけど、冬の寒さが身に沁みる。其方そっち如何どう?」

 ストーブの効いた部屋は暖かい。でも、自分が暖かさを感じるようになるとは思えなかった。

此方こっちも外は寒いみたい。でも、私と資《たすく)は家の中から出ないからね。暖かくしています」

たすくちゃんが風邪を引いては大変だからね。気を付けなくちゃ」

「そうね。有り難う」

 時候の挨拶を済ませると、何を話せば良いのやら、考えが思い浮かばなかった。床に座り込んだは良いが、しばらく黙ってしまう。

 残り少ない時間、彼女を見ていたい。でも、俯いた顔を上げられず、床の一点を見詰めてばかりいた。

 義父も義母も2人とも黙っている。俺が帰宅するまでも、言葉少なに時間が過ぎ去ったのだろう。

「健吾さんのお仕事、上手く進んでいるの?」

 と、気を取り直した彼女が質問してくれた。固縛の魔法を溶かす呪文を聞いたみたいに、やっと俺は彼女の顔を見上げ、笑顔を浮かべた。

「うん、何とかね」

「大変なんでしょ?」

「うん。でも、自分で提案した仕事だから。遣り甲斐は大きいよ。俺自身も大きく成長できると思う」

「そっか。良かったわね」

 すっかり母親の表情になった彼女の顔を、俺はじっと見る。子供を産んでからの彼女は落ち着き払っていて、「強くなったな」と感じる。

「明日、奴は熊本に行くのかい?」

「ええ。不動産屋さんに部屋をあらためて、アパートの鍵を渡したら、熊本に戻って来るって」

「そっか。年末年始は一緒に過ごせるね」

「そうね。今年はたすくも一緒。・・・・・・家族水入らず」

 そうだ、今は年の瀬だ。彼女の言葉に、少しだけ、俺も今年1年を振り返ってみる気になった。

「此の1年、色々と有ったな。君も奴と結婚したしね」

「そうね。一番大きかったのは資《たすく)の誕生だけど」

「そうだね。たすくが大きくなったら、俺達の事を教えてやってくれよ。

 信じてもらえるか如何どうか、分からないけど・・・・・・」

 自信無げに頼む俺に向かって、彼女は力強く言った。

「うん。絶対に教える。貴方あなたのお陰で御父さんと御母さんは知り合ったのよ、って」

 俺は嬉しくなった。彼女が息子に俺の事を伝えたら、俺も彼方《あっち)の世界で存在できるのでは?――と錯覚してしまう。

貴方あなたの方は、御父さんに誰か紹介してもらったの?」

「いいや、未だ。今は仕事で手一杯だからね。女性と交際している余裕は全く無いよ」

「年末年始に熊本で、お見合いなんてする予定はないの?」

「無いよ」

「それじゃあ、年末年始は如何どうするの? 福島の実家に帰るの?」

「いや、ずっと東京に居るよ。折角だから、此のマンションの引っ越しを準備する計画なんだ。御義父さんと御義母さんには悪いんだけど、折角だから、荷造りを手伝ってもらうんだ」

「そうなの。御父さん、頑張り過ぎて、ギックリ腰にならなきゃ良いけど」

 横から義父が「農作業で鍛えちょるけんのう。若い奴には未だ負けんよ」と笑った。

其方そっちのマンションから引っ越すのは何時いつ?」

「1月中には不動産屋に預けるよ。不動産屋経由で興国商事の社宅として貸し出すんだけどね」

「あら、健吾さんと同じ事をするのね」

「うん。興国商事の社宅として使われるんなら、色々と安心だから」

「そうね」

「お互いの住人が入れ換わっても、此のトンネルは続くのかしらね?」

如何どうだろう。何時いつトンネルが通じたのかも定かじゃないけど、未来永劫って言う事はないんじゃないか?」

「それはそうよね」

 俺も彼女も「だから、別れの日を迎えるのは避け難い事なんだ」とは言わなかった。口には出さなかったが、此の遣り取りの先に続く言葉がそうなんだと言う事は、2人とも痛い程に理解していた。

 俺と彼女だけでなく、双方の両親もそうだったらしく、義父が、

「それにしても、健吾君は遅いのお」

 と、少しも待ち遠しいとは思っていないのに、話題を軌道修正した。

「そうね。そろそろ、帰って来るとは思うけど・・・・・・」

 此方こっちの義母が「晩御飯、先に頂きましょうか」と提案した。

 晩御飯と言っても、お握りと漬物なんかの簡単なメニューだった。キッチンカウンター脇のテーブルに準備してあった。彼方あっちの熊本でも同じだ。奴は、今日も変り映えのしない、スーパーの弁当を買って来るのだろう。それが俺達の最後の晩餐だった。

 義母がキッチンに行き、味噌汁を注いだ御椀を盆に載せて持って来た。お握りと一緒に丸い卓袱台に載せる。卓袱台を使うのも随分と久しぶりだった。

 アっと言う間の晩御飯を済ませ、義母が食後の御茶を淹れている最中に、奴が「ただいま」と帰宅した。3畳間の引き戸を開け、パソコンの横に座る。「遅くなって済みません。お待たせしました」と会釈した。

「私達、もう晩御飯を頂いたの。健吾さんを待っていようとも思ったんだけど、何時いつ帰ってくるのか?、分からなかったから」

「ううん。全然構わないよ。じゃあ、俺も隣で食べて来るかな」

「スーパーの弁当?」

 奴は「うん」と言って、買い物袋を見せた。

此方こっちで一緒に食べたら?」

みんなの前で1人だけ食べるのも落ち着かないから、やっぱり隣で食べて来るよ」

 と言った奴は、トンネルから姿を消した。

 奴が隣に行っている間、誰も口を開かない。居間リビングの壁時計だけが無情に時を刻んでいる。

 会話が再開しないので、義母が「先にお風呂でん、頂きましょうかね? もう、沸かしちょるけん」と、提案した。

「そうじゃの」と義父が同調し、「健吾君。あんたが先に入って来んしゃい」と俺に勧めた。俺は頷き、腰を上げた。

 湯船に浸かり、俺は何度も顔を洗った。1人になると止め処なく涙が溢れ出た。

――彼女達と会っていられるのも、残り数時間。風呂を上がれば、またカウントダウンの数字が1つ減る――

 そう考えると、中々湯船から出られなかった。バスタオルで頭を拭きながら居間に戻ると、義父に風呂の順番を譲った。

 俺の入浴中に一旦は戻った奴も、もう一度消えて、シャワーを浴びているそうだ。

 義父に続いて、義母も風呂に入った。風呂上がりの義母は、目を真っ赤に腫らしていた。俺よりも激しく湯船で滂沱の涙を流していたんだと思う。

 義母が風呂に入っている間に資が泣き始めたので、彼女は授乳のためにパソコン画面から消えた。俺と奴、義父の3人は無言でビール缶を傾け続けた。

 話すべき事は全て、此の数カ月で語り尽くした感があった。残るは名残を惜しむ気持ちだけである事を、全員が自覚していた。

 会話にならない時間が過ぎ、壁時計が23時の時を打った。音楽と共に文字盤から人形達が踊り出て、カラクリが始まった。それが合図だった。

「そろそろ、ですか・・・・・・」

 やおら奴が別れのときを宣言した。

「そうだな」と俺が同意し、義父も「そうじゃな」と項垂うなだれた。義母が堪えていた嗚咽を漏らし始める。

 俺は奴に手を差し出した。握手できない事は承知している。それでも、自分の分身を鼓舞する気持ちを精一杯に示したかった。俺の掌に奴の掌が重なる。

「頑張れよ。彼女の事、頼んだぞ」

「ああ。お前さんも頑張れよ」

 俺の横で、義父が頭を下げる。

「健吾さん。娘の事を御願いします」

 口元を抑えた義母も義父の横で叩頭した。

「梨恵。もう良いかい?」

 奴がパソコンの中の彼女に振り向いた。彼女の頬は涙で濡れてクシャクシャになっていた。

たすくちゃん。お爺ちゃんとお婆ちゃんにバイバイって言ってちょうだい」

 そう言うと、かかえた息子の小さな右手を掴み、左右に振った。母乳を飲んで満腹になった資が、機嫌の良い表情に不思議がる眼差しを浮かべ、母親の為すがままになっている。

 その横で、彼方あっちの義母が何度も頷いている。

たすく! サヨナラじゃの。強くなって、御母おかあさんをウ~ンと手伝うんじゃぞ」

 義父と義母が泣き顔で、両手をバイバイと一生懸命に振っている。

 奴が立ち上がる。奴の顔が視界から消えた。胸から下の奴の身体だけが眼前に映っている。頭上から奴の声が降って来る。

「皆さんの事は決して忘れませんから。梨恵とたすく、3人で幸せに生きて行きますから」

 奴は押入の引手に手を添え、敷居を滑らせた。居間リビングの壁には何も映らなくなる。

「だから、どうか安心して下さい」との最後の言葉を、襖と小柱の密着する乾いた小音が締め括った。

 ただ、「御父さん! 御母さん!」と押し殺したように叫ぶ梨恵の声が2度、耳朶を打った。

 パソコンの電源を切る音がプツンと小さく響き、3畳間の出入口の引き戸をスライドさせる微かな物音が続いた。

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