15. 結婚

 彼女が熊本に戻ってから、奴は逆単身赴任の生活を始めた。週末には熊本を訪れ、出勤日ウィークデイは彼女のアパートに住む。早晩、自分の荷物を熊本に送り、マンションは賃貸する予定だった。

 彼女の話では、此処と同様、奴のマンションも独り暮らしには広過ぎるらしい。隣の8畳間からは既に家具が搬出され、ガランとしているそうだ。その内、奴のベッドが搬入されるらしい。

 トンネルを通じて俺と奴が交わす会話は、得てして仕事関係に落ち着く。

「お前さん、会社と九州移住を両立させる算段を考えるって、言ってたよな? 妙案を思い付いたのか?」

「ああ。近々、社内ベンチャーの公募に応じるよ」

「社内ベンチャー?」

 無く気炎を揚げる俺の回答に不意を衝かれ、奴が素頓狂すっとんきょうな声でく。

んな?」

「技能実習制度を知っているか? 外国人労働者を受け入れて色んな現場で作業させる入国管理制度」

「聞いた事がある。でも、詳しくは知らない」

「結構な人数の外国人労働者が技能実習制度を使って農作業に従事しているらしい」

「ふ~ん、そうなんだ」

「一方でさっ、九州の自治体や農業団体がアジアへの農産物輸出を奨励しているって、知ってた?」

「知らない。でも、中国にしろ、東南アジアにしろ、経済発展が著しいからなあ。

 九州の人間が地の利を活かして農産物の販路拡大を試みる動きは、俺でも理解できるよ」

「そうなんだ。緒方家で栽培する梨もそうだし、イチゴや柿なんか、色々トライしているらしいよ」

「そうなんだ」

「まずは現地の富裕層をターゲットに、航空便を使った販路開拓を目指しているらしい」

 奴が「ふ~ん」と相槌を打つ。

「でも、そんな遣り方では大きな商売にならないと思うんだ、俺は。

 だって、そうだろ? 運賃の嵩む飛行機で運んでいたら、安い価格じゃ売れないからね」

「そりゃそうだ。だったら、如何どうするの?」

「現地栽培だよ。日本の農産物は確かに品質が良いらしいよ」

「だからか! 技能実習制度を使ってノウハウを積んだ外国人労働者を、現地栽培に投入するんだな?」

「その通り!」

「でも、如何どうやって農地を確保するつもりだ?

 日本に比べれば土地の値段も安いだろうけど、面積が広いだけに金額が張るだろう?

 土地を買う金の有る奴が日本まで出稼ぎに来るとは思えないなあ」

「その資金を融資するんだよ。商社機能の1つは金融だろ?」

「確かにな」

「日本の農家なり商社に不足しているのは現地の土地勘だと思うんだ。どの土地が何の栽培に適しているか?――って言う鑑識眼だな。

 その土地勘が有って、農業を志している貧乏人を、日本に呼ぶんだよ。

 販路開拓は商社の得意分野だから、其方そっちは問題無いと思うんだ」

「シナリオとしては面白いな。でも、日本の農家にとってのメリットは何だい?」

「まずは労働力だよな。何処どこだって高齢化しているだろ? 緒方家もそうだし」

「でも、何年か経ったら帰国するんだろう?」

「その時はフランチャイズ制にすれば良い。日本の農家はノウハウを換金するんだ」

「商社のメリットは色んな手数料って言う事か?」

「そう。何なら、現地の農業法人に出資しても良い。規制の多い日本では中々難しいけど、海外なら帰省の緩い国が幾つも有るだろう。

 此のビジネスモデルは農業以外にも転用できると思うんだよね。基本は自動車メーカーが全世界で現地生産を展開して行ったのと同じだから。具体的なアイデアは未だ無いけど・・・・・・」

「そうかもしれない。でも、考えてみると不思議だよな。何故、誰も遣ろうとしないんだろう?」

「多分、キッカケと言うか、糸口が無いんだと思うぞ。緒方家の養子になる俺なら、此のアイデアを実行に移せる。

 農家の人達は、言っちゃ悪いけど、グローバルな発想に乏しい。こんな事を熊本の御義父おとうさんが考えるなんて、お前も想像できないだろ?」

「確かに」

「だから、俺が先鞭を着けてみる。実験場とする緒方家の畑は棚ボタだ。失っても俺は何ら困らない。挑戦し易いんだよ、この俺は。

 社内公募で認められると思わないか?」

「お前さんって色々考えているんだなあ。自分の分身だとは思えないよ」


 以前、3人での会話を懐かしんだ俺が「彼女は元気か?」といた事がある。男同士なので、「ああ」「そっか」の短い遣り取りだったが、奴は気に掛けていたようだ。

「今度なあ。熊本と此処をインターネット回線でつなごうと思うんだ」

「それで?」

「動画通信さ。大画面のパソコンを置けば、お前さんも梨恵と会話できるだろ?」

 奴はトンネル空間の一部を両手の人差指で四角く囲った。

其方そっちでも綺麗に梨恵の画像を見れるのか如何どうか、多少は不安だけど・・・・・・」

「それは嬉しいね」

「だろっ! 俺の帰宅が遅くなったら、お前さんと梨恵の2人で話をしていれば良い。パソコンの電源は入れっ放しにしておくから。

 梨恵だって気を紛らわせると思うんだ。熊本に引っ込んじまったら、やっぱり周囲が物寂しいからな」

 彼方あっちの世界では畑を売却しており、実家周辺の状況が俺には分からない。いきなり宅地開発が進んだとは思えないので、今でも誰かが農作物を栽培しているのだろう。


 男2人の会話は基本的に盛り上がらない。それでも俺達は、就寝前の短時間にしろ、時間が合う限りトンネルで交流した。

 そんな俺達の間でゲームの様な会話が生まれた。一方の世界では不遇の死を迎えたけれど、他方の世界では天寿を全うした人物を探す事だった。平凡な俺達が探す対象は有名人に限られる。情報不足の一般人を人生比較するなんて実行不能だ。

 彼女と知り合って間も無い頃、2つの世界を比べての間違い探しに興じたが、俺達の始めたゲームも一種の間違い探しだ。

 就寝前の疲れた状態で下らない話題を繰り出していた或る日。

「お前、“明日への遺言”って言う日本映画を観たか? 藤田まこと主演の」

「無いなあ。んな映画なの? やっぱり時代劇?」

「いや、終戦後に捕虜虐待の罪で裁かれた軍人の話」

「藤田まことって、時代劇だけの俳優なのかと思っていたよ。それで、その映画の見所は?」

「捕虜殺害を命じた事は事実なんだけど、連合軍だって日本を無差別爆撃したじゃないか――って軍事裁判で反論した人物のドキュメント映画」

「何だか身勝手な日本人の独りがりな物語ストーリーみたいだなあ」

「俺の説明が悪かった。

 藤田まことの演じる将校が、自分1人で罪を償うから部下の責任は問わないでくれって嘆願したり、その将校の態度が正々堂々としていたので連合軍の将校も脱帽したとか、そう言う人道的物語ヒューマン・ストーリーだよ」

「ふ~ん。それで最後は如何どうなるの?」

「やっぱり死刑になるんだけどね。あっ、そうそう。その将校の名前は岡田たすくって言ったな」

「オカダ、タスク?」

「そう。原作者は大岡昇平だよ」

「どっかの戦場で敗退中の兵隊が仲間の人肉を喰ったって小説の原作者?

 確か“野火”だったかな。小学校だか中学校の時の推薦図書の1つだよな?」

「そう。一度、観てみろよ。良い映画だったぜ」

 その日は話が終わったのだが、後日、間違い探しゲームで探し求めていた唯一無二の事例だと判明した。

 俺が推薦した映画を奴が探し切れず、大岡昇平の著書を調べるも該当する作品が無いと奴が気付いた。半信半疑の奴が「念の為だけど」と前置いて、主人公の将校の名前を俺に質問した。

 2人同時にインターネットで調べてみるに、岡田たすくの運命は2つの世界で違っているようだった。

 此方こっちの世界では、名古屋大空襲の際にB29爆撃機から脱出した米兵搭乗員を、岡田資の命令で殺害していた。その罪で彼は戦争犯罪人として処刑されている。

 ところが、彼方あっちの世界では、名古屋大空襲は発生していたが、B29爆撃機から米兵搭乗員が脱出した事実に行き当たらなかった。そして、少なくとも岡田資の名前はインターネットでヒットしなかったのである。東京裁判での処刑者リストにも含まれてなかった。

 俺達2人は歴史上の齟齬を発見して狂喜乱舞した。缶ビールを既に1本空けた就寝前の状態だったが、冷蔵庫から2本目の缶ビールを取り出すと、大声を上げて乾杯した。

 彼女を勇気付ける1つの実例を見付けたのだから。


 約束通り、奴がトンネルの対岸に大画面のパソコンを設置した。1月下旬の出来事だった。

 奴は熊本を訪問すべき週末を犠牲にして設置作業に没頭した。パソコン設置に加えて、インターネットの接続、動画通信ソフトのインストールと山積みの作業が続く。朝から始めたのだが、作業完了時には陽が随分と傾いていた。

 物理的に手伝えない俺は、奴の作業を見守ったり、時々は外出したりと、気儘な日昼を過ごした。

 奴にとっては、俺が声援を送るよりも余程、彼女の声援の方が遣る気を奮起したに違いない。繋ぎっ放しのスマホの動画アプリの向こうから、彼女が奴の作業を見守っている。

 奴が苦労した甲斐が有って、夕刻には久しぶりに3人で会話する体制が整った。

 パソコン画面に映る彼女の姿も、事前に懸念した程には悪くなく、奴の見え方と大差無い。元々トンネルを通じた映像が若干ぼんやりしているので、パソコン経由だからと言って、画質の劣化は殆ど感じなかった。

「緒方さん。此方こっちから君の顔がはっきりと見えるよ。今度、熊本から両親を呼ぶからね」

「本当! 良かったわ」

 映像が鮮明な事になのか、此方こっちの両親との再会になのか、どちらを評した反応かは微妙だったが、彼女は朗らかに応えた。

「私の方でも五十嵐さんの姿が今までと同じ様に見えるわ。

 机の椅子に座っているだけ、今までよりも楽なくらいよ」

「今日は健吾の熊本行きを邪魔して御免よ」

「ううん。毎週欠かさず九州に来るのは大変だわ。正直な話、健吾さんの体調を心配していたの」

 そして、奴に向かい、

「だから、健吾さん。無理しないでね」と、奴を気遣った。

其方そっちの生活には慣れたの?」

「うん。慣れるも何も、昔の生活だからね。寧ろ、遣る事が無くて、凄く退屈。

 週末に健吾さんが帰って来るのが、唯一の楽しみかなあ」

 そう惚気のろけた直後、失言に気付いた彼女は、

「あっ。でも、何度も言うけれど、無理しなくて構わないからね。スマホでも話せるし」

 と、前言を少し修正した。

「俺は、健吾より少し帰宅時間が早いから、出勤日ウィークデイでも話し相手に成れるよ」

 と、俺も助け舟を出した。

 そんな感じで始まった俺達3人の会話は夜更けまで続いた。

 俺と彼女が話し込んでいる間に、奴は食事に出掛けた。俺も奴とは外食時間をズラして退出し、2人切りの時間を彼らに楽しんでもらった。


 彼女との2人切りの会話が再開してから、約2カ月が経った。そろそろ春一番の強い風が吹きそうな3月半ば。

 彼女は神妙な面持ちで1つの喜ばしい変化を告白した。

「あのね、五十嵐さん」

「何?」

「私、出来ちゃったみたいなの」

「何が?」

「赤ちゃん」

 俺は突然の告白に吃驚びっくりした。短い遣り取りの何と間抜けな事か・・・・・・。

 でも、妊娠に繋がる行為とは無縁な俺としては、自然な反応だろう。当事者の奴にしたって、気の利いた反応が出来たか如何どうか・・・・・・。

「もう産婦人科で診てもらったの?」

「ううん。生理が来ないから、薬屋さんで買った検査薬を使ってみたの」

「そうしたら?」

「妊娠の赤い印が出たの。病院には明日、行こうと思っているわ」

「奴は知っているの?」

 ううん、と彼女は首を振った。

「未だ御母おかあさんに伝えただけ。健吾さんとは今日、話せていないし・・・・・・」

「奴。今夜は早く帰ると良いね」

「うん」

「でも、御義母さんは喜んだだろうなあ」

「うん。初孫になるからね」

 彼女は自分の腹部を擦りながら、恥ずかしそうに言った。

 俺は改めて「おめでとう」と祝福を伝えた。彼女が「有り難う」と答える。

「もう、赤ちゃんの性別って、分かるのかな?」

「未だだと思うよ」

何方どっちだろう。男の子と女の子、何方が良い?」

「何方でも構わないわ。元気な赤ちゃんだったら、それで良いの」

 幸せそうに話す彼女を眺め、俺は「もうすっかり母親だな」と感じ入った。

 信濃麗子との間に子供は出来ず、俺には父親となった経験が無い。

――もし自分が妻から妊娠を告げられたら、一体どんな気持ちになるのだろうか?――

 奴と彼女の子供ならば、遺伝的には俺と彼女の子供と言っても過言ではない。そう考えると、嬉しくなるし、単純に楽しい。でも、それは(父親の心境とは違うんだろうな)とも思う。

「でもねえ。これで私達。出来ちゃった婚になっちゃった」

 照れ隠しなのか、茶目っ気を帯びた口調で彼女が言う。

「結婚式って、6月だったよね?」

「うん」

「もう、お腹。大きく成っているのかなあ?」

「未だでしょ。でも、結婚式の時に悪阻が激しかったら、厭だなあ~」

 俺は「そうだね」と相槌を打ったものの、悪阻の辛さなんて全く想像できない。「女性は大変だな」と同情の念を漠然と寄せるだけだ。


 翌朝、トンネルの対岸に現れた奴を捕まえ、俺は陽気に揶揄からかった。

「梨恵さん、御目出度なんだってな。昨夜、聞いたよ」

 俺の冷やかしに、奴は「いや~」と何度も頭を掻いた。

 点けっ放しにするとパソコン画面が焼けるので、就寝前には電源を落とす。でも、奴の帰宅時間は遅いので、毎朝こうやってパソコンの電源を入れ、動画通話のソフトを立ち上げてから出社するのだ。出勤前の慌ただしい日課だから、長々と話している余裕が無い。

「まあ、お前よりも先に報告されたから、その点は少し心苦しいけどな。

 兎に角、おめでとう。良かったな」

 とだけ言った。奴も「有り難う」と答え、2人して自宅を出た。


 その週末、早速、梨恵の両親が上京した。入れ替わりとは言えないが、熊本に行った奴がパソコン画面を通じて俺達と会う。

 パソコンだけがトンネルで出迎える状況は、奇妙と言えば奇妙だった。でも、そんな事に俺達3人は頓着しない。

 彼女がパソコン画面に現れるや否や、義父ちち義母ははが、

「梨恵。赤ちゃんが出来たんだってな。五十嵐さんから聞いちょるよ」

「ほんに目出度かこつよ。ねえ、御父おとうさん」

 と、口々に喜びの気持ちを吐露する。彼女が照れ隠しに、

「御父さんも、御母さんも、そろそろ畑の仕事が忙しいっちゃないの?

 こんなに早く、急いで来なくても良いのに」

「何を言うちょるか。今がギリギリじゃっど。もう少ししたら逆に畑が忙しくなって、れんくなるわい」

「そいで、病院には行きよったと?」

「うん。ちゃんと診てもらった。妊娠2カ月だって。

 お医者さんから「少し早く見付かりましたね」って言われた」

「そいで、男の子か? 女の子か?」

「御父さんも気が早いわねえ。未だ分からないわ」

「じゃっどん。名前ば考えるんは早うした方が良いけえ。

 悩んでいる内に、時間なんぞ、アっちゅう間に過ぎるけん。なあ、律子」

「ほんに。あんたん時も、御父おとうさんは悩み続けてのう。

 結局、時間切れで、梨恵なんて普通の名前に落ち着いてしもうてから」

「梨恵っちゅう名前の何処どこが悪かや? 良い名前じゃなかか。のう、梨恵?」

「そうね、御父さん。私も気に入っています」

 義父と義母は我先にとパソコン画面を覗き込むようにして娘に話し掛ける。

 話の流れが赤子の名前に触れたので、奴も会話の輪に加わった。

「御義父さん、御義母さん。良ければ、女の子の名前を考えてくれませんか。

 男の子の場合は、もう決めているんです」

「なんや、もう男の名前は決めちょるがかあ。五十嵐さんも気が早いのう。

 それで、どげん名前にすると?」

「タスクです。資源とか資本の一文字目、“資”の漢字です」

「中々難しか名前やねえ。だけんども、何でげな難しい名前にすると?」

「その理由は、其方そっちの健吾に説明してもらう方が良いでしょう」

 奴の振りを受けて、俺が此方こっちの両親に岡田たすくを巡る伝奇的な経緯を説明した。

 同じ戦後生まれでも俺達より30年早く生まれた両親は、幼少期に岡田資の存在を多少は教えられており、直ぐに事情を理解した。

「緒方たすくかあ。良か名前じゃなかか。なあ?」

 と、隣に座る妻に意見を求め、妻も「ほんに」と賛同する。

 義父の呟く「緒方資」の言葉で思い出した俺は、奴に質問した。

「そう言えば、お前達。入籍は・・・・・・やっぱり結婚式の時?」

「その予定だったんだけど・・・・・・」

 奴が決まり悪そうに言葉を濁す。

「そうすると、現時点で此の子は私生児みたいになるだろう?

 残り数カ月の短い間だけど、それはそれで不憫に思うから、入籍だけ前倒そうかと悩んでいる」

「そうだな。入籍だけ済ませちまえよ」

「そうした方が良いかなあ?」

「絶対にそうすべきだよ」

 奴の決断にホッとした義父が、俺の方を振り返って確認する。

「じゃっどん、五十嵐さん。あんたの養子入りは何時いつにするね?

 彼方あっちの五十嵐さんと似た様な時期にした方が良かとじゃろ?」

「そうですね。来月にでも養子縁組の手続きを済ませて仕舞いましょう」

 急な展開に慌て、今度は彼女が俺にく。

「そう言えば、健吾さんから聞いたんだけど、社内ベンチャーの試験を受ける話は如何どうなったの?」

「うん、それねえ。実は公募に合格したんだ。俺の提案が通ったんだよ。

 だから、4月1日付で興国食糧から興国商事に戻る人事異動の内示を受けた。

 新設される農事海外展開プロジェクト準備室って言う長い名前の部署の初代室長に任命される予定。部下も1人付く予定なんだけど、未だ誰とまでは決まっていない」

「凄いじゃないか! 良かったな。

 その仕事が動き始めたら、お前さんのサラリーマン人生を賭けた大仕事になるな」

 奴が大袈裟な歓声を挙げて喜んでくれた。

「此のプロジェクトの行方ゆくえは全く見通せないよ」と謙遜する俺に、彼女も「頑張ってね」と無邪気な声援を送ってくれる。

「五十嵐さんがわしに相談しちょった、あの件かね?」

 と質問する義父に、俺は「そうです」と頷いた。義父も「目出度いこつは、続くのう」と大はしゃぎだ。


 6月半ばの週末。彼方あっちの世界では、五十嵐健吾と緒方梨恵の結婚式が執り行われた。

 戸籍上は既に緒方夫妻と相成っていたので、セレモニーとしての結婚式と、事後報告の披露宴であった。幸い、大陸性高気圧の抵抗に遭って梅雨前線は関東に到達しておらず、雨は降っていないらしい。

 九州の両親は前日から俺のマンションに泊まり込み、娘の結婚式に備えていた。

 翌朝、トンネルの対岸に現れた娘の姿を認めるや、泣き笑いの表情で「おめでとう」と伝える。

 目を凝らして彼女を見れば、お腹のぽっちゃり具合が妊娠の事実を告げていた。でも、ウェディングドレスを着る分には問題ない程度だった。

 身重の彼女は、仕来り通りに此方こっちの両親の前に正座すると、

「今まで育てて頂いて、有り難う御座いました」

 と、三つ指を突き、腹を圧迫しない程度に頭を下げた。昨夜の内に、彼方あっちの母親にも同じ事をしたのだろう。此方こっちの両親は「なんも」とだけ反応して目頭を抑えている。

 花嫁の儀式が終わると、トンネルの外で見守っていた奴が現れて手を差し出し、立ち上がる花嫁を脇から手助けした。その後、彼女の正座していた場所にパソコンを動かすと、電源を入れる。

「お前さん。其処に居るんだろ?」

 俺が「ああ」と応える。婚儀に臨む彼女の挨拶を、奴と同様、俺も少し下がった場所から見守っていたのだ。奴は動画通信ソフトの起動を確認する。

「結婚式と披露宴の様子は此のパソコン画面に映るから。ちょっと待っていろ」

 彼らの結婚式と披露宴を此方こっちの世界でもリアルタイムで観られるよう、奴が粋な所計はからいを段取ってくれたのだ。

 ハンディタイプの撮影機とのネット接続を完了すると、パソコン画面に3畳間の戸口が映る。床に置かれた撮影機はレンズを戸口の方に向けていた。

し。ちゃんと映るな」と、奴が安堵する。

「そう言えば、お前さん。お前さん達が如何どう見えているのか、知らないだろう? 今、見せてやるよ」

 奴が撮影機を手に取り、レンズを此方こちらに向けた。

 押入の中で鎮座する俺達3人を上から俯瞰した映像がパソコン画面に映った。成程、こう言う風に見えていたわけだ。

「どうせなら、後ろも映してくれよ。その3畳間が如何どうなっているのか、見た事が無いんだ」

 パソコンの画像が急反転する。押入の左右両面には漆喰の白壁、正面には格子の入った窓。

 窓の外はアパートの住民が行き交う廊下になっている。防犯上、独り暮らしする女性なら四六時中、窓の雨戸は閉め切るだろうから、湿気の籠り易い部屋だったのだろう。

ついでに他の部屋を見せてやるよ」

 奴が撮影機を手に移動を始めた。彼女の脇を擦り抜け、水回り、キッチン、8畳間と実況中継する。

 既に彼女の荷物は取り払われ、奴の持ち物が占有している。

 それでも、安物の丸い蛍光ランプの下がった天井、古びた冷蔵庫が小じんまりと置かれたキッチン、窓のカーテンは彼女の暮らした時と同じだ。

 俺達3人は「こんな部屋に梨恵は住んでいたんだ」と感慨に耽った。

 彼方あっちの母親が奴のベッドに腰掛けていた。撮影機のレンズを前に、母親がひょっこりと頭を下げた。

「じゃあ、結婚式場に移動するまでは一旦、電源を落とすからな。

 でも、充電器も持って行くし、式場に着いたら披露宴が終わるまで、ずっと映像を見られると思ってくれ」

 右に左にとアングルを動かしながら映る8畳間の映像に、奴の声が割り込んで来る。3畳間に戻る奴に俺は確認した。

「誰が撮影してくれるんだ? まさか、お前じゃないだろ?」

「勿論だ。ちゃんと撮影する人を手配しているから、心配するな」

 俺達に中継放送する撮影機と録画用の撮影機の2台が結婚式場を動き回る手筈だった。だから、此方こっちの世界の居間リビングが第2の親族席だった。

 上京できない新婦側の親族にもリアルタイムで映像を見せたい。だから、最初から最後まで新婦中心に撮影してくれ、と中継放送用の撮影機を手にした者は指示されていた。

「そろそろアパートを出ましょう。梨恵の髪型を整える美容室の予約時間も迫ってますから」

 撮影機の電源を切った奴は、直ぐ傍に立つ彼女と隣室に控えた母親を促した。

 ちなみに此方こっちでも、義父はビデオカメラを回す準備に余念が無い。2つの世界に跨った結婚式の始まりを待つばかりの体制だった。



 結婚式はホテル併設のチャペルで行われた。

 ミサの無い土曜日だからだろう。早い時間に登場した神父は、結婚式の開始時間まで、何くれと2人の相談なり疑問に付き合った。

 通例だと花嫁の父親が祭壇に控えた花婿の脇まで連れて来るものだが、梨恵には父親が居ない。神父も「大事なのは2人の気持ちですから。些細な事を気にしないで下さい」と優しく説教する。

 だから変則的だが、ワーグナーの結婚行進曲の調べに合わせ、チャペル入口から祭壇まで伸びた赤絨毯の上を2人して歩む事にした。健吾の曲げた左腕に梨恵が両手を掛ける。壇上で待つ神父を目指して、ゆっくりと2人は歩みを進める。

 純白のウェディングドレスに身を包み、レースのベールを頭から被った梨恵。但し、ブーケの前面は上げられ、梨恵の顔を露わにしている。俺達3人への配慮からだった。

 ふわりと柔らかい感じで裾の広がったウェディングドレスに袖は無く、肩と二の腕を露出させている。肘から指先までを隠した白く長いグローブは、指輪を嵌める段になると煩わしいのだが、梨恵の憧れるデザインだった。

 梨恵は小さな笑みを浮かべた口元に余裕を感じさせていた。幸せの瞬間に身を委ねている事を、夢見心地の表情が雄弁に語っている。

 一方、白いスーツを身にまとった健吾。梨恵と同じく正面を向いてはいるが、前方を凝視する顔は無表情。緊張に身体を硬直させ、儀仗兵の行進を思わせるギクシャクとした足取りで梨恵を伴った。


 中継放送者の動きは機敏で、チャペル階段を上る2人を入口から見降ろすアングルで撮影すると脇に逸れ、チャペルに足を踏み入れる2人の側面を撮影した。祭壇に辿り着いた2人の撮影時には神父の後背に陣取ったので、俺達3人は参列者の誰よりも間近に健吾と梨恵の姿を観続けた。

 2人は神父の先導で婚儀の誓いを宣言し、指輪を交換した。参列者は席を立って讃美歌を歌い、2人の結婚を祝福した。

 九州の両親は鼻をグスグスと鳴らしながら、一連の様子に目を凝らして見入っていた。俺自身も2人と大差無い状態だった。

 結婚式を無事に済ませてから披露宴までは小一時間の休憩となる。

 休憩時間も中継放送者は休まず、新郎新婦や親族の待機する控室の映像を俺達3人に見せてくれた。

 当然ながら俺達が控室での会話に加わる事は出来ないが、パソコンから聞こえる音声を耳にすると臨場しているように錯覚する。

 彼女も時々は撮影機のレンズに向かって微笑んだ。ただ、奴の両親にはトンネルの怪現象を見せずじまいだったので、俺達3人に話し掛けたりはしない。

 披露宴は60人から70人くらいの規模だった。基本的な式次第は変わらず、華やかで、それでいて親密な雰囲気が感じられ、俺は(良い披露宴だ)と、そう思った。

 乾杯を済ませ、ケーキカットを済ませ、料理が運ばれる段になると、新郎新婦が御色直しに中座する。

 控室に戻った梨恵がウェディングドレスを脱ぐ。

 途切れない中継映像から推察するに、女性の撮影者を起用したのだろう。

 下着姿になった梨恵を見ると、お腹の膨らみが余計に目に付いた。結婚式とは別の意味で、赤ちゃんが順調に育っているんだな、と感慨深い。

 2度目の着衣は着物の晴れ着。妊娠中の腹部を圧迫してはいけない、と慎重にさらしを巻く着付師。長襦袢を羽織らせ、振袖に腕を通させる。

 振袖の柄がパソコン画面に映った時、義母が思わず声を上げた。

「御父さん。あれを見ちょくれ。私が嫁入りする時ば着ちょった、あん着物だよお」

 目を凝らした義父も、妻の指摘を認めると、追憶と愛惜の嘆息を漏らす。

「そうじゃの。あれを梨恵に着させるんが、お前の夢じゃったけんのう」

「ほんに。彼方あっちの律子さんも、同じじゃったんやねえ」

 世界が違えども、子供を想って何かを託したがる親心に変わりは無い事に気持ちを温められ、また流れ出した涙を拭う。

「じゃっどん。お前も、未だ持っちょるんか?」

「持っちょりますよ。熊本の自宅ば、ちゃあんと仕舞っちょります」

 健吾は白黒ストライプの袴に黒い羽織姿。奴に比べると、彼女の方は愈々いよいよグルグル巻きにされた感が有る。俺は、あんな格好を妊婦にさせて大丈夫なのか?――と、ハラハラした。

 和服姿に着替えた2人の支度も仕上がり、再び連れ立って披露宴会場に戻る。

 雛壇に座る新郎新婦を余所よそに周囲では数々の余興が繰り広げられ、そして、新婦が感謝の手紙を読み上げる最後のイベントを迎えた。

 健吾が梨恵の手を取って、披露宴会場の出入口近くの下座に誘う。指定の場所まで移動すると、梨恵が帯の中から手紙を取り出す。

「御父さん、御母さん。今日の此の日まで、私を大切に育ててくださり、本当に有り難う御座いました」

 梨恵には母親しかいないと言う事に気付いた者は、ほんの一握りの出席者だけだった。更に此方こっちの世界の父親に向けた言葉だと知っていた者は、その内の極めて限られた人間だけだ。

「今日、私は健吾さんの妻になりました。健吾さんと2人で幸せな家庭を築いて行きます。

 それと、今、私のお腹の中には新しい命が育っています。だから、もうすぐ、3人の家庭です」

 梨恵はそう言うと、手紙からお腹に視線を移し、帯の上を擦った。

「御父さんと御母さんが私を愛してくれたのと同じ様に、私も精一杯、此の子に愛情を注いで育てようと思います。どうか安心して、私達の事を見守っていて下さい。

 それから、五十嵐家の御義父おとうさん、御義母おかあさん。

 今日から私は、あなた方の娘になります。至らぬ処が多々あるでしょうが、どうか、宜しく御願い致します」

 手紙を読み終えた梨恵は深々と頭を下げた。会場から大きな拍手が湧く。

 梨恵が朗読している間、俺の隣で義父と義母は泣きじゃくっていた。思わず俺も貰い泣きしてしまった。


 披露宴も恙無つつがなく御開きとなった後、奴と彼女、母親の3人はアパートに帰って来た。披露宴を終えても、彼女だけが着替えずに打掛姿のままだった。

如何どうでした? 結婚式と披露宴の一部始終、ちゃんと見えましたか?」

 トンネルの対岸に現れた奴が、俺達に確認した。

「五十嵐さん。有り難う。梨恵の綺麗な姿ば見られて、わしも律子も、もう思い残す事は無かよ」

 満ち足りた口調で御礼の言葉を口にする義父に、耳聡い奴が間違いを指摘する。

御義父おとうさん。私は、もう、五十嵐じゃなくて、緒方の姓ですよ」

「おお、そうじゃった、そうじゃった。

 最近、あんたとは話しちょらんけんねえ。未だ慣れてないとよ」

 義父ちちの頭を掻く様子が笑いを誘う中、奴はトンネル対岸の床を片付けると、粒袋椅子フィットチェアの上に梨恵を座らせた。

「此の格好じゃ、凄く暑いの。もう着物の下は汗でビッショリよ」

 奴が団扇を探して来て、溜息を吐く彼女を横から扇いでいる。反対側の隣には母親がチョコンと座っている。

「じゃっどん。その着物ば着ちょくれって、御母さんが頼んだがか?」

「うん」

「そうかい。此方こっちでも、こん律子が梨恵に着せたがったとよ。

 律子ん考える事は、此方こっちでも其方そっちでも同じじゃなあ」

 そう言って義父が笑うと、2人の義母も釣られて笑った。

 笑い声が納まると、義父は立ち上がり、

「そうじゃ。お前の姿ばビデオに撮っとかんといけん。写真の方が良かばってんが、カメラが無いきにぃ」

 と、ビデオカメラの電源を入れた。遅ればせながら機転を利かせた俺が全員を整列させた。

「スマホで撮っておきましょう。カメラと同じくらい、綺麗に撮れますから。

 ちょっと、みんなで並んで下さい」

 彼女は粒袋椅子フィットチェアから動かず、奴と義母ははが中腰になって顔の高さを彼女に合わせた。その前に熊本の両親が座る。

 俺は、カーテンを閉めて部屋を暗くし、床上灯フットライトを点灯する。

「撮りますよぉ。はい、チーズ」と、何枚も撮った。構えるアングルを微妙に変え、ストロボをオンにしたりオフにした。

 撮影した画像をスマホ画面で確認すると、どれも綺麗に撮れていた。ストロボを使わない方が、前列の両親と後列の3人の色調が似通って、自然な写真に見える。

 彼方あっちの世界に此の写真を転送できれば良いのだが、それは無理な相談だった。

「そんじゃあ、梨恵。着物ば脱ぎんしゃるかねえ? 今日は疲れたじゃろ」

 と、此方こっちの義母が娘を労わる。

「そうじゃねえ。私が手伝っちゃるけん、脱ぎんしゃい。着物ば、重たかけんねえ。

 御父さんは男やけえ、見ちゃいかんよ。もう梨恵は健吾さんのお嫁さんやけえ」

 と、彼方あっちの義母が同調した。

 3畳間の奥に移動すれば彼女は視界の外に出るのだが、義父は俺をバルコニーに誘う。

「そうじゃの。そんじゃ、わしは外で煙草でも吸っちょるばい。健吾君、一緒に外ば出よう。

 彼方あっちの健吾君が結婚したばってん、今度はあんたん番やぞ。

 儂が熊本で探しちゃるけん、あんたん女性の好みを儂に教えちょくれや。

 梨恵とそっくりやったら、それで良かとね?」

 俺は赤面するだけで、何も言えなかった。残る4人が、そんな俺達を見て、クスクスと笑った。

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