14. 誓い

 彼女の父親と母親2人が熊本に帰った後、俺達は「相談事が有る」とだけ伝えて、自分の兄を東京に呼んだ。

 田圃たんぼだけでは喰って行けず、実家は兼業農家だ。田圃の収穫作業を終えたとは言え、兄は勤務先の休業日にしか移動できず、週末に上京してくる約束をした。

 健吾以上にガッシリとした体躯をしている兄は、農作業で鍛えた節榑立ふしくれだつ手で小さなボストンバックを掴むと、不慣れな東京駅に降り立った。赤茶色に日焼けした顔や襟首の肌は実年齢以上に老けている。

「やっぱり、さぁずねぇ街じゃのう。東京エギさぁせわしない場所とは、頭では分かっていたども、実際にホームに降りると全然違うきのう。

 にしゃに迎えに来てもらわんと、迷子になっちまうわ」

 兄は地元大学の農学部に進学した。早くから農業を継ぐと決めたので、生活費の嵩む東京の大学に進学する必要は無いと判断したのだ。

 その替わり、田圃を相続できない健吾には「自分の人生を切り拓けるように準備しろ」と、東京の大学への進学を躊躇ためらう背中を押した。

 健吾にとって兄は第二の父親的な存在であったが、福島原発の事故以降の苦境を目の当たりにすると、愈々いよいよ頭が上がらない存在となった。

 様々な苦労の連続だが、兄も福島での稲作を悲観しているわけではない。いずれ風評被害は沈静化する筈であり、それまで実直に田圃と向き合うだけである。東北人特有の粘り強い姿勢で日々を過ごしていた。

 決して浮足立たない兄の姿勢に健吾は感嘆の念を抱いていたし、兄を精神的に頼もしく感じてもいた。

「折角の東京だけど、今日は会ってもらいたい人が居るんだ。

 だから、俺のマンションで作る有り合せの食事だ。悪いな、兄ちゃん」

「そんなことは、さすけねえ。それよりか、にしゃ。誰か良い人が出来たんじゃないか? 去年の3月さぁ、様子がおがしねかったっしょ」

「残念ながら、そんな人は居ないよ」

「じゃあ、誰よ? おらに会わせたい言うん人は?」

「まあ、何も言わずに俺のマンションに来てくれよ。来れば、分かるから」

「そんな事ぉ言ってもよ。心の準備さぁ必要だぞ。へでねえ真似さぁ出来んからな」

「その心配も無用だよ。安心してくれ」

 帰宅してからも、特段の準備は必要無い。暗くなれば、トンネルの向こうに彼女と奴、そして彼方あっちの兄の3人が現れる手筈だった。

 その段取りを知らない此方こっちの兄は当然ながら不安になる。「先方とは夕方に会う」とだけ説明した後は「ゆっくりしていてよ」としか言わない俺の態度を不審に思い始めた。

 俺と向かい合ってテーブルに座っている間、説教じみた物言いで煩い。

「健吾。如何どうなってるんだ? こんな暇だれしといて大丈夫なのか?」

「まあ、待っていてくれよ」

「待つんは良いが、何の準備もしないのか? あの壁の布っ切れは何だあ? みったぐねえ。

 あんな真似しとったら、へでねえぞ。あんくらいはキっとした方が良くはないか?」

「これで良いんだ」

「一体、誰と会うんだ? 誰と会うにしたって、失礼の無いようにせんといかんぞ」

「兄ちゃん、気を遣わせて御免よ。

 でも、事前に話すより、直に会った方が誤解を招かないんだ。“百聞は一見にかず”だから、兎に角、我慢してくれ」

 ソワソワし続ける兄の気を紛らわそうと「今年の収穫は如何どうだ?」とか「未だ風評被害は続いているのか?」と、俺も話題を振り撒いて時間稼ぎに努めたが、会話が長くは続かない。

 落ち着かぬ2時間弱が過ぎ、すっかり部屋の中が暗くなった頃。

 俺は、お茶ばかりを飲んでトイレの近くなった兄を尻眼に、床上灯フットライトの照明を灯してスタンバイする。以上で準備は完了だ。

「健吾。天井の灯りさぁ点けねえのか? もうだいぶ暗ぐなって来たが・・・・・・」

「うん。もう、そろそろだから」

「そろそろなら余計に準備を始めねば・・・・・・」

 兄の不審は疑念へと深まり、眉間に皺を寄せる。

 でも、本当にもう間も無くだ。居心地の悪さを我慢してもらうしかない。

 兄の我慢も限界か――と俺が気を揉んでいる処に、奴が現れた。厳密には、3畳間の灯りを点けた。

「おい! お前さん、居るのか?」

 兄が、何処どこから声が降って来るのか分からずに、辺りをキョロキョロする。兄の背中越しに彼方あっちの灯りを確認すると、俺はテーブルを離れ、トンネルの通じる部分に膝を突いた。

「随分前から首を長くして待っていたんだ。兄ちゃんも此処に居るよ」

 壁に向かって話し始めた俺の後ろ姿を、兄はテーブルの椅子に座ったまま、いぶかし気に眺めている。

「おい、健吾! にしゃは一体、誰と話しているんだ?」

 兄の追及に振り向いた俺は、四つん這いの体勢で「此方こっちに来てくれないか?」と手招きする。

 状況が理解できない兄は、ブツブツと文句を言いながらも、俺の隣まで寄って来た。

「おい、健吾。ちょっと顔を見せてくれるか?」

 途端に壁から奴の顔がニュ~ッと生える。実物の俺と比べると幾分は不鮮明だが、部屋は十分に暗くなっている。

 兄は予期せぬ奴の出現に思わず後退あとじさり、両手を後ろに尻餅を着いた。

「何とな?」と呟いた切り、奴の顔から視線を逸らさず、目を白黒させる。

「兄ちゃん。驚かせてしまって申し訳ないが、奴が会わせたい者の1人だ」

「きてぇだべした。これは手品だべ?」

「いや、そんなものじゃない。見たまんまなんだ。信じられないのも無理は無いけど・・・・・・」

 身動きすらしない兄には構わず、俺は奴に指示した。

其方そっちの方も、兄ちゃんを連れて来てくれ。多分、同じ反応だろうがな」

 奴が「分かった」と言って姿を消す。その間、俺は兄をトンネル中央部に誘導する。

「兄ちゃん。悪いが、もう少し此方こっちに寄ってくれるか?

 其処に座っていると、彼方あっちから兄ちゃんの姿が見えないんだ」

 未知なる存在への接近に尻込みする兄に向かい、俺は「大丈夫だから」と手引きする。兄が恐る恐る近寄って来る。

 タイミング良く、彼方あっちの兄も奴に先導されて3畳間に足を踏み入れた。2人の後ろに彼女が続く。俺と同じ様に、奴が無防備な兄を勧誘する。

「兄ちゃん。此の座椅子に座ってくれないか。其処に座って、押入の奥を覗いて見て欲しいんだ」

 上半身を前傾まえのめらせていた兄が息を飲み、彼方あっちでも軽く翻筋斗もんどり打って腰を抜かした。「何とな?」と呟いた反応まで同じだった。

 俺と奴、そして彼女の3人はしばらくの間、兄同士が放心の態で互いを眺めるに任せた。此方こっちの兄の方が、2度目の体験だけあって、怪現象に慣れるのが早かった。

「にしゃは、誰だ?」

 と、此方こっちの兄が問い掛ける。ビクっと身体を震わせた彼方あっちの兄は、目をすがめると改めて自分の分身を検分した。

「にしゃは、おらか?」

 再度、彼方あっちの兄に問う。

 俺達3人は、自分達の遭遇や彼女の両親の時の遭遇場面を見ているので、兄達が慣れるのにも時間が必要だとわきまえていた。

 童話みたいに鏡の中の自分と話す事に成ろうとは、誰しも想像できないのが自然である。

「おらは、五十嵐稔だ」

「おらも同じく、五十嵐稔だ。一体全体、どいごった?」

 ようやく鏡の中の自分と話し合うまでに雰囲気が和らいだ。もう一歩、俺は兄達の背中を押す事にした。

「悪いが、兄ちゃん達。

 お互いに自分の手を相手に伸ばしてくれないか? 心配は要らない。大丈夫だから」

 2人は震える手を伸ばし始めた。指先が触れ合ったと思った刹那、2人とも同時に手を引き、そして、再び伸ばし始めた。指先が触れ合わない事を確かめる。

 双方の世界で兄達は、俺と奴の顔を見ると、「何とな?」と質問した。俺と奴は兄達に頷いた。

「見たまんま、此の部屋で2つの世界が交差しているんだ。彼方あっちの稔兄ちゃんと五十嵐健吾は、彼方あっちの世界でチャンと生きている。

 そして、彼方あっちの世界からは俺達が同じ様に見えている。幽霊みたいにね」

 口を真一文字に結んだ此方こっちの兄は、俺の説明に相違無いか?、と彼方あっちの兄に確認した。彼方あっちの兄が此方こっちの兄に頷く。

 彼方あっちの兄が奴に質問した。

「緒方梨恵さんも彼方あっちに居るのか?」

 奴と彼女が無言で首を振って否定した。

「健吾。此方こっちの兄ちゃんには何も話していないんだ。

 まずは、お前から彼女の事を紹介し直してもらえないか?」

 俺の指図に応じた奴は、此方こっちの兄に向かって「兄ちゃん」と呼び掛ける。

「此の緒方梨恵さんと結婚したい、と俺は思っている。彼女の御両親には結婚の意思を既に伝えた。

 此方こっちの兄ちゃんには、つい先刻さっき、話したばかりだ」

 奴に紹介された彼女が此方こっちの兄に会釈する。。

「それは目出度めでたい事だ。だが、これは一体、如何どう言う事なんだ?」

 此方こっちの兄は辛うじてぎこちない会釈を彼女に返すも、予想外の展開に未だ戸惑っている。

「これが普通の結婚話なら、俺達も目出度いと喜んでいれば済んでしまう。

 だけど、ちょっと話は複雑なんだ。ところが、その複雑な話を理解するには、2つの世界の存在を信じてもらう必要が有る。

 だから、兄ちゃんを驚かす様な真似をしたんだ。御免よ。

 今から順を追って、俺が兄ちゃんに説明するから。良いかい?」

 俺は此方こっちの兄に心の準備を問うた。そして、彼方あっちの兄にも声を掛ける。

「まとめて俺が説明するけれど、其方そっちの兄ちゃんも一緒に聞いていて欲しい」

 両世界の兄達が同じ様に緊張の面持ちで頷いた。


 1時間ほどの時間を掛けて顛末を説明し終えた俺は、今後の身の振り方をも2人に伝えた。

「そう言う訳で、彼女との結婚を機に、奴は会社に九州への異動願いを出す。

 俺の方は此方こっちで緒方家の養子に成ろうと考えている。奴と同じく、九州に引っ込むつもりだ。

 もう此の年齢で出向したし、サラリーマンとしての展望は望めないだろう。

 まあ、逃げるわけじゃないが、緒方家から誘われた養子入りは人生の良き転機だと思っている。

 親父と御袋に俺の養子入りを説得する際、兄ちゃんには手伝って欲しいんだ」

「分家するほど裕福な農家でもないしな。にしゃの養子入りは別に揉めんだろうが・・・・・・。

 だけんじょも、魂消たまげたな」

 彼方あっちでも、奴が兄ちゃんに助太刀を頼み始める。

「俺も結婚を機に九州に引っ込む。それと、俺もアイツと同じ様に、婿養子に入ろうと考えているんだ。その方が、俺とアイツの人生が似通ったものになるから、安心なんだよ。

 それに、梨恵の御義母さんが熊本で一人切りひとりっきりだしね」

「お前も緒方家に養子入りするのか?」

 奴から事前に聞かされていなかった俺は、驚きの余り、少し裏返った声で尋ねた。

「ああ。梨恵とも話し合ったんだ。どうせ九州に引っ込むのなら、五十嵐の名字に拘る必要も無いからな。

 お前さんが親父と御袋を説得するなら、俺も同じ様に、此方《こっち)の親父と御袋を説得するさ」

 彼方あっちの兄は奴の発言に異議を唱えない。

 1人で弟から相談を受けたなら、長男として何らかの反論を繰り出したかもしれない。でも、此方こっちの兄が既に代弁していたし、分身の前で肩肘を張った処で詮無いと考えたようだった。

「にしゃ達の気持ちなり、覚悟は分かった。おらも親父と御袋を説得するわい」

 と、彼方あっちの兄が胸を張って自分の役割分担を引き受ける。

 次の瞬間には――肝心な事を聞き忘れた――と言わんばかりの表情で「ところで、梨恵さん」と、彼女に話し掛ける。「はい」と返事する彼女を前にして、軽く咳払いし、確認を求めた。

「梨恵さんは此の男と結婚する事で構わんとかよ?

 兄としては、へでなしな弟としか思っていながったどもぅ・・・・・・」

「はい。私の様な女を妻として娶って頂けるのであれば・・・・・・」

 彼女が小声で言う横から、奴が力強く、

「俺は、自分の妻になる女性は梨恵しかいない、と思っている」

 と、宣言した。

 彼方あっちの兄が「にしゃは聞かねぇ性格たぢだかんな」と応じたが、弟の結婚に異存は無かった。

「したっけ、目出度い話は早く進めた方が良いわな。明日、おらは福島に帰るが、にしゃ達も早めに福島さい。

 親父と御袋には巧く話さぁしておくから。流石さすがに、自分の幽霊を見たとまでは、正直に言わんにぃ」

 兄にしては珍しい剽軽ひょうきんなコメントに気が緩んだ一堂は軽快な笑い声を上げた。


 双方の兄を交えて結婚の話をしてから約1カ月後。いよいよ2014年の年の瀬が押し迫る。

 年末年始の休暇を利用して、五十嵐健吾は緒方梨恵を実家に連れて行った。勿論、新幹線で。

 元々マイカーは持っていなかったが、レンタカーを借りる事なんて一切考えない。交通事故に遭うリスクは極力回避すべきだった。

 実家に到着してからも、方々に外出する事は控えた。もっとも、冬の福島は大雪に覆われており、出歩く先も限られる。

 健吾が梨恵を連れ出した先は初詣で参拝した地元の神社だけで、実家を訪問してきた親族や知り合いの相手をして休暇の殆どを過ごした。

 話題の少ない田舎では噂が噂を呼び、連日の様に誰かが訪れては、陽気に酔った赤ら顔で2人の婚約を祝福した。

 健吾の両親が諸手を挙げて梨恵を歓迎した事は言うまでもない。説得に当たった兄は「造作もねかった」と淡白な反応を返すだけで、寧ろ素気無い程だったそうだが、意外に旧習意識の強い両親の説得には手古摺ったに違いない。

 九州出身の梨恵にとって、東北の家庭で交わされる言葉は外国語と変わり無く、口腔の中でくぐもった発音には苦労した。同世代の言葉遣いは東京と大差無いが、兎に角、聞き取り難い。明瞭に発音する九州言葉に慣れ親しんだ梨恵には一種の文化的衝撃カルチャー・ショックだった。

 健吾の横で愛想笑いするしかない梨恵の反応を周囲の者は好意的に評価してくれ、「五十嵐さんとこの息子は、めんこい嫁をもらったな」と井戸端会議で言い合ってくれた。

 此の1カ月を振り返ると、両親を説得したとの報告は早くに届いたので、梨恵は年末を以ってエンジョイ・ジャパン社を寿退社した。

 ツアー企画の中核を担う梨恵に対し、エンジョイ・ジャパン社は「共働きの可能性は?」と慰留に努めたが、

「老いた母親が介護を必要とし始めていますし、私自身も結婚しますので」と家庭の事情を告げられると、上司も引き下がるしかなかった。

 梨恵は、失業手当が切れる迄の半年を目途に最後の独身生活を楽しみ、夏には入籍する予定だ。彼らの場合、婿養子に入る健吾の方が“入籍する”と表現するのが正確なのかもしれないが。

 独身生活を楽しむとは言え、交通事故のリスクを考えると、早めに熊本へと戻って身体を休める事ぐらいしか選択肢が無い。

 幸い、阿蘇山周辺には数多くの温泉が湧いており、年寄り臭い行動ではあるが、ゆっくり母親と温泉巡りをするつもりだった。三十路直前での結婚に一種の安堵を感じる一方、既に若くは無いとの自覚も有った。

 健吾もまた帰郷前に上司報告を終えた。彼の場合、婚約報告と同時に、九州支店への異動をも願い出た。健吾を高く買っていた直属上司は「外れる覚悟は有るのか?」ときながら言外に叛意を促したが、健吾の決心は揺るがなかった。


 俺自身も、緒方家への養子入りを両親と話し合う必要が有ったから、年末年始は帰省した。

 兄の根回しが背中を押したのか、拍子抜けする程の呆気無さで両親は了承した。両親の述懐に拠れば、風評被害に悩まされる農業に次男までも縛り付けよう、等とは元々考えていなかったらしい。

 それに、緒方家も同じ農家だ。養子縁組は赤の他人から田畑を財産分与されるも同然だ、と肌感覚で理解できた。間違い無く、息子にとって良い話だと思ったそうだ。

 俺は、実の両親の賛同を得ると、熊本で吉報を待ち侘びる義理の両親に電話を入れた。義父ちちも多少は心配していたらしく、俺の報告に「これで良か正月を迎えられる」と喜んでくれた。

 養子入りの時期は、義理の両親が福島まで挨拶に出向いた時に両家で話し合う。ただ、養子入りしたからと言って、会社を辞める選択肢は俺の念頭に無かった。

 信濃麗子との結婚生活が破綻しかけた際に配慮を示した会社への恩義もる事ながら、興国商事の看板を使ったビジネス構想を描いていたからだ。

 事業の成否は分からないが、果敢に挑戦してみるつもりだった。脱サラを判断する時期は、その結論が出てからでも遅くない。


 双方が福島への帰省を無難にこなして東京に戻って来た晩、俺達は久しぶりの再会を祝した。

 それなりに厳かな気分で祝杯を交わすと、「2015年も宜しく」と異口同音に言い合った。まずは、双方の帰省報告。談笑は深夜まで途切れない。

 とは言え、明日は仕事初めの出勤日。そろそろ尽きぬ話を切り上げよう――との雰囲気になった時、彼女が奴に居残りを願い出た。

「健吾さん。私、五十嵐さんと少し話したい事が有るの。先に、お風呂に入ってくれない?」

 俺は「何だろう?」と訝しんだ。奴は気にも留めず、「そうかい」と言うなり部屋を出て行った。

 3畳間の入口の引き戸をそっと閉め、戸口から戻った彼女は畳の上に正座する。

 考えてみると、俺が彼女と2人切りで最後に話したのは半年以上も前だった。奴を探し当ててからは、3人で会う時も専ら俺と奴の2人で話し、彼女は相槌を打つ感じだったのだ。特に最近は。

 最初は「邪々馬じゃじゃうま娘だな」と感じた彼女だったが、奴との交際を深めるに連れ、何事にも控え目で楚々とした雰囲気を醸し出していた。現実には違うのだが、暫く前から彼女には家庭に入った女性の気配が漂い始めていた。

 それだけ、奴に惚れているのだろう。

 その彼女が俺の目の前で正座して控えている。俺は少し速まる心臓の鼓動を自覚した。

如何どうしたの? 改まっちゃって」

「私、来週末には熊本の実家に戻ります」

「うん。知っているけど・・・・・・?」

「来週末はもう、ゆっくり、貴方あなたと話すチャンスが無いかもしれないから・・・・・・」

 そう言うと、彼女は先を言い淀んだ。

「私、自分の事を幸せな女だと思います」

 ポツリと心情をこぼし始めた彼女を俺は黙って見詰めた。

「だって、同時に2人から愛されているんですもの。健吾さんと、貴方に」

 彼女の口から漏れ出した述懐の余韻が俺の耳に残る。

「でも、貴方とは触れ合えない」

 厳粛なる事実だ。今更、俺が相槌を打つ必要も無い。

「だから、私の姿を貴方の目に焼き付けておいて欲しいの。

 此方こっちの世界で私と言う人間が生きていたと言う現実を、貴方にもずっと憶えておいて欲しいの」

「大丈夫だよ。君との出会いは死ぬまで忘れないさ」

 彼女は俺の唇の前まで人差指を伸ばして発言を封じた。そして、舞台女優みたいに落ち着いた仕草で立ち上がる。

 展開を読めぬ俺は受け身に甘んじ、彼女の姿を見上げた。彼女の頭はトンネルの範囲外に突き出てしまい、今は首の辺りから下の姿しか見えなかった。

 彼女はカーディガンを脱ぎ、床にハラリと落とした。

 次に、ブラウスのボタンを外し始めた。彼女の両手が順繰りとボタンを解き放し、上半身を艶めかしく揺らして両肩からブラウスを滑らせ、床に落とした。

 白地に淡い花柄のブラジャーが現れ、2つの膨らみと逆三角形を描く一端には小さな楕円形の臍が窪んでいる。柔らかい曲線を描き、程好く引き締まった彼女の腹部が俺の目の前に迫る。

 地味で型苦しい蛹の殻を脱ぎ捨て、半透明の瑞々しい身体をした蝶が折り畳んだ羽根を必死に広げようと藻掻く様に似ていた。幻想的な光景は終わらない

 彼女の手は猶もうごめき、スカートのフックを外すと、左手でスカートのファスナーを押し下げる。両手を差し込んで腰元を広げ、鈍重なるスカートの自由落下を許した。

 ブラジャーと同じ柄のパンティーの薄い生地からは黒い陰毛が透けて見える。引き締まった太腿を内股加減に摺り寄せ、腰を僅かに捩じっている。

 やおら両腕を背中に回すと、ブラジャーのフックをも外した。掴んだブラジャーを胸の谷間から臍下まで這わせると、伸び切った右手が御役御免とばかりにブラジャーを手放した。スカートの上に重なったブラジャーが軽く跳ねる。

 落下物を追った目線を上に戻すと、両方の乳房を隠す左腕が落ち着き処を探っている。でも、彼女のてのひらは乳房を隠すには小さ過ぎ、指の間からは乳首が覗いしまう。ピンク色をした綺麗な乳首だ。

 ブラジャーを手放した右手が新たな対象を定め、パンティーの内側に指先を潜り込ませむ。乳房を隠そうと試みた左手も加勢に動き、潜らせた手の甲でパンティーの生地を押し広げる。彼女は腰を屈めると、俺の前でパンティーを脱ぎ始めた。

 彼女の顔が俺の間近に迫り、一瞬だけ彼女の視線と俺の視線が絡んだ。哀愁を感じさせつつも毅然とした眼差しを、俺は記憶に留め続けるだろう。

 一糸まとわぬ姿となった彼女が、背筋を伸ばし、真っ直ぐに立つ。

 臍の下で合わせた両手で陰毛を隠したいのだろうが、陰毛の上端を指先が触っているに過ぎない。

 逆三角形に組んだ両手の上腕が、乳房を左右から軽く挟み込む。隆起する乳房。ピンク色の乳首が突き出ている。

 淫靡な雰囲気は微塵もなく、仄かに内面から発光している彼女の裸体は、寧ろ神秘的でさえあった。

 俺は茫然として眼前のビーナス像に見惚《みと)れてしまう。数分の出来事だったのだろうか。

 直立していた彼女は、ゆっくりと嫋(たお)やかに足を折り、膝立ちとなった。頭頂部までの全身像がトンネル内に映し出される。

 彼女は含羞はにかんで目を伏せ、顔を僅かに左下へと傾げる。揺れる髪の毛の隙間から右耳が覗く。初めて出会った時には短かった髪の毛。今は鎖骨の窪んだ部分まで伸ばしている。今更ながらに、俺は髪型の変化に気付いた。

「少し、恥ずかしいわ」と、呟く彼女。

「部屋の電器を消しても良いかしら?」と、恥じらいながら懇願した。

 俺は生唾を飲み込み、「ああ」と気圧された声を漏らした。

 彼女がトンネルの範囲外に消え、部屋の灯りが消えた。そしてまた俺の目の前に戻り、先刻さっきと同じく膝立ちの姿勢になる。

 両手を頭の後ろに回し、少し伸びた髪の毛を梳かし直す。乳房が吊り上がり、乳首が揺れた。

 床上灯フットライトの柔らかな光が、真っ暗な空間の中に独り佇む彼女の全身像を照らし出す。今や彼女の裸体から一切の影が消えていた。

 もし彼女の背中に羽根が生えていたなら、天使そのものだった。神々しい光景だった。陳腐な言葉だが、それ以外に俺は表現の仕方を知らない。

 俺は前屈みになり、彼女の両の肩を包もうと手を伸ばした。だが、空しく宙を泳ぐだけだった。まるで彼女が何かの液体で出来ており、その水面に浸すかの如く両腕を更に伸ばす。

 俺も膝立ちとなり、彼女と相対した。彼女の瞳を覗き込む。

「綺麗だ・・・・・・。本当に・・・・・・、綺麗だよ」

 俺は感嘆の小声を上げた。彼女が上目使いに俺を見上げ、茶目っ気を帯びた微笑を浮かべた。

 乳房の表面をかたどり直すかのように両の掌で2つの球面を描く。彼女の鳩尾みぞおちを隠す位置で合わさった両の掌。無駄な仕草と承知していても、御椀を形作った両手で何かを掬い上げる事が出来ないかと手探りする。

「背中も見せてくれないか?」

 願い通りに彼女が向きを変え、後ろ姿を晒した。うなじから肩甲骨の盛り上がりへ、そして背骨伝いに臀部おしりまで、俺は熱い視線を這わせる。

 彼女のボディーライン沿いに両腕を滑らせ、爪先立ちで正座する姿勢に屈む。足先までをも隈無く記憶しておこう。その一念で俺の茫漠とした頭の中は一杯だった。

 万遍無く目を彷徨さまよわせていると、特徴的なホクロを左膝の裏に発見する。会って2日目の夜、パジャマの裾から覗いていた、愛くるしいホクロの二連星だ。

 俺が射止める事は絶対に無いと最初から分かっていたハートマーク。懐かしくなって指先を近付けるも、俺の人差指はホクロを透き通ってしまう。無性に切なくなった。

 俺の視界が大粒の涙に歪む。金色の脚が揺らぎ始める。

 その時。彼女が小さなクシャミをした。

 我に返った俺は幻影に溺れる愚かさを悟り、慌てて言った。

「御免よ。寒いだろう? 直ぐに服を着てくれ。もう十分、俺の瞼に君の姿を焼き付けたから」

 彼女は無言で頷き、脱いだのとは逆の順番で1つ1つ身に着け始める。

 元の姿に戻った彼女は正座して、再び俺と向き合った。

 彼女の瞳からも涙が溢れ、一筋、二筋と頬を伝った。彼女の涙を拭《ぬぐ)ってやろうと、俺は手を伸ばす。でも、叶わない行為だった。

「健吾さんと結婚すれば、私は、あの人のものになるわ」

 彼女の涙声を耳にした途端、抑えていた無念の気持ちに負けそうになる。でも、異世界の俺には抗えない。自分の境遇を憾《うら)むしかなかった。

――彼女の運命は奴に委ねるしかないのだ――

「だから今夜、貴方には私の生まれたままの姿を見ておいて欲しかったの」

「有り難う」

「熊本に戻ったら、貴方とは2度と会えないかもしれないわ」

「そうだね」

「でも、貴方の愛も一緒に。私、幸せになります」

 精一杯の宣誓だった。

 俺は涙に濡れた顔で、「うん、うん」と何度も頷く事しか出来なかった。

 彼女も大粒の涙で頬を濡らしていた。

――俺は一生、此の夜の事を忘れないだろう――

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