13. 運命への抗い

 翌週の火曜日。俺は、接待の予定も無く、終業時間早々に家路に着いた。

 10月も末になると、陽の落ちる時刻も早い。駅を降りる頃には夕闇が濃くなる。スーパーに立ち寄って弁当を買い、高台のマンションを目指して足早に商店街を抜ける。

 帰宅しても、居間リビングに彼女の姿は見当らない。母親と外出しているのか、隣の8畳間に居るのだろう。

 俺は床上灯フットライトを点けて自分の帰宅を知らせ、テーブルに座って弁当を食べ始めた。テレビを点けたので、番組の音声が彼方(あっち)の彼女の耳に届くかもしれない。

 入浴後の汗を引かせようと、バルコニーから夕餉ゆうげ時の住宅街を眺めていたら、彼女の声が聞こえた。夜風を浴びて肌寒くなった事もあり、寝室で毛織のベストをパジャマの上に羽織ってからトンネルに戻る。

「五十嵐さん。今日は、随分、早かったのね」

 彼女が俺を“あなた”ではなく“五十嵐さん”と呼び始めた事に、暫く前から気付いていた。奴の事は“健吾さん”。俺は自分の立ち位置を徐々に理解し直した。

 それと、もう1つ。奴の隣に座った時の彼女の立ち居振る舞いだ。

 2人は俺の前では決して身体を密着させなかったが、奴を頼り切る風に寄り添う感じが日々濃厚になっていた。そんな事にも俺は自分の立ち位置を再認識させられた。

「まあね。それより、奴は?」

「長野から帰って以降、自分のマンションに戻っているの。此のアパートには御母おかあさんが居るし、3人では泊まれないから」

「そっか」

 母親が彼女に付き添っているのだから、奴としても心配しなくて済むわけだ。加えて、母親が見ている前で甘い時間を過ごすのも無理な話だった。

「ベスト。着るようになったのね? 其方そっちも朝晩は冷え込むの?」

「うん。冷えるね。先週からベストを着始めた」

「そう。先週末は話すチャンスが無かったものね」

「御母さんは? 隣の部屋かい?」

「うん。御母さん。未だ半信半疑らしくて、五十嵐さんの事、もう一度、見たいらしいんだけど・・・・・・。

 でも、御母さんを呼んだら、五十嵐さん。話し辛いわよねえ?」

「俺は全く構わないよ。折角、東京に来てくれたんだ。3人で話そうじゃないか」

 俺が快諾したので、彼女も「そう?」と嬉しそうに応える。

 彼女は、隣室から呼んだ母親を座椅子に座らせ、自身は粒袋椅子フィットチェアを尻に敷いて正座した。

「改めまして。こんばんは」

 俺が挨拶すると、彼女の母親も「ほんに」と会釈した。その後は黙して語らず、もじもじしている。

 俺が目配せすると、彼女が母親に語り掛けた。

「御母さん。五十嵐さんと話したがっていたじゃない?

 如何どうしたの? 変に静かになっちゃって」

 母親は「だけんども」と言った切り、躊躇ためらっている。

 彼女が「如何どうしたの?」と再び催促すると、母親はようやく決心したらしく、

「五十嵐さん。あんたに触っても、良かかねえ?」と、尋ねた。

 彼女は「厭らしかあ」と言って吹き出し、俺はニッコリした。

 俺は「どうぞ」と、母親の方に左手を伸ばした。最初は、俺の左手に怯んで、座椅子の背凭れに背中を押し付けていた。俺が無用に近付かない事を悟ると、やがて前屈みに身を乗り出し、俺の手に自分の手を重ねてみる。

「ほんに不思議じゃのう」

 感想を口にしながら、膝を摺って更に前進し、俺の顔や足にも触ってみる。母親は一切の手応えを感じない筈だ。

 また、「ほんに不思議じゃのう」と呟く。何分か試してみて、母親は得心が行ったようだった。

 得心が行くと、次は熊本の近況を質問してくる。此方こっちでは父親が健在で、農業も続けている。その事を色々ときたがった。

「そいで。御父おとうさんと、そのう・・・・・・奥さんが今週末に東京ばんしゃるんじゃったな?」

「そうです。もう飛行機の切符も買ったそうです」

「そん時に、梨恵も来んしゃるんじゃろか?」

 隣に座る娘を指差しながら、

「こん梨恵じゃなかと、もう1人の別の梨恵の事じゃけんどもな。

 其方そっちじゃ、熊本におりんさるとじゃろ?」

 母親の素直な質問に俺は凍り付いた。彼女も身体を強張らせる。俺と彼女の間に気不味い沈黙が流れたが、何時いつまでも母親を無視する事は出来ない。

 俺と彼女は顔を見合わせ、先に俺が無言で頷いた。

「御母さん。大事な御話が有ります」

 彼女の母親は不思議そうな顔をする。

此方こっちの世界では、梨恵さん。交通事故で亡くなっているんです」

 母親は戸惑いの表情を浮かべて隣を見遣る。彼女が顔を伏せる。母親は視線を俺に戻した。

「だけんども、梨恵は殆ど怪我せんかったとよ」

「先週の事故の話では有りません。別の交通事故に遭って、此方こっちの世界では、梨恵さんが亡くなっているんです」

 猶も母親は理解できないでいる。

「だから、週末も此方こっちに梨恵さんが現れることはありません。・・・・・・残念ですが」


 その週の土曜日。

 梨恵の両親は、羽田まで迎えに行かずとも、俺のマンションまで迷わずに来た。玄関のドアを開けるなり、俺を捕まえて「梨恵は大丈夫なんじゃな?」と問い質した。

 殆ど怪我らしい怪我をせずに済んだ事は電話で伝えている。直に俺から聞いた処で、募る心配を振り払えやしないだろう。それでもかずに居られぬ2人の不安な気持ちが真剣な眼差しに現れている。

 俺は何度も「大丈夫ですから」と2人を慰めたが、泣き笑いの表情を浮かべるばかり。母親はキッチンで黙々と晩飯の準備を進め、父親はバルコニーに佇み、矢継ぎ早に煙草の本数を重ねていた。

 此方こっちの両親と彼女が初めて会ったのは8月下旬。あの親娘の邂逅から2ヶ月余りが経ち、日没も滅法早くなった。夕方5時過ぎにはトンネルでの再会が叶う。

 此方こっちの3人と彼方あっちの3人が勢揃いすると挨拶もそこそこに、父親が切羽詰まった口調で、

「梨恵! お前の元気な顔ば、能~く、わしらに見せちょくれ」

 と、懇願した。真ん中に座った彼女が両手を前に衝くと、上半身を前傾まえのめりに屈める。

「はい、此の通り。安心してちょうだい」

 娘の無事な姿を目で確認し、娘の元気な声を聞く事で漸く、2人とも安堵の胸を撫で下ろす。梨恵の両親は両手を取り合い、「大丈夫みたいじゃな」と喜んだ。

 そんな2人の様子をトンネルの向こうから、彼女の母親が呆けた顔で見ていた。狐に莫迦されたとわんばかりの顔付きである。

「じゃっどん、梨恵。今度は、バイクば、乗っちょらんかったとか?」

「はい。乗っていません。レンタカーに乗ってたとよ」

「それでん、怪我も大したこつは無かったとかな?」

「そうじゃなかかねえ」

「じゃっどん、危なかねえ」

「気ぃ付けるけん。でも、先週だって、私は安全運転しとったとよ。

 だけど、相手の車が乱暴運転ばしよったけん、こげなこつになったと」

 彼女も熊本弁になる。

 熊本弁の会話に加わり易さを感じたのか、彼女の母親が加わった。

御父おとうさん。ほんに御父さんなんじゃね?」

 そういう風にトンネルの対岸から声を掛けられるのは、父親にとっても初めての経験だ。最初は居心地の悪そうな困惑の表情を浮かべていたが、直ぐに思い直したようで、彼女の母親に優しく言葉を返す。

「そうじゃ。わしじゃ。其方そっちの律子も元気そうじゃのう」

「ほんにまあ。御父さんが亡くなった後、どげん寂しか思いば、しよったか」

 彼女の母親の声に涙声が混ざる。此方こっちの母親も分身の哀れさに涙を誘われた。

「律子! 熊本の女子おなごば、気をしっかり持たにゃいかんぞ。

 聞く処に依ると、其方そっちじゃわしは死んでしもうて、律子しかおらんがよ?

 梨恵の事ば、律子がしっかり守ってやらんと」

 梨恵の父親は彼女の母親を励まし、力付けようとする。彼女の母親も目頭を抑えながら何度も頷いている。

「そう言えば、御父さん。御父さんは、大腸癌の手術ば、無事に終わったと?」

 と、横から彼女が質問した。

「ああ、終わった。病院の先生も、大丈夫だって言ってくれちょるとよ。再発の可能性は小さいっちゃけん」

 此方こっちの母親が答えた。

「梨恵の御陰たい。有り難う」

 梨恵の父親も頭を下げる。彼方あっちの母親が此方こっちの父親に尋ねる。

「ところで、御父さん。

 其方そっちの五十嵐さんに聞いたんだけんども、梨恵はどげんしたとかね?」

「どげんしたも何も。バイクば乗っちょった時に転んで、そのまんま向かいの車に轢かれたと。

 わしも、こん律子も、梨恵の死顔を見たときゃあ、ほんに辛かったとぞ。あん思いは二度としたくねえ。

 じゃけん、わしは梨恵に、交通事故だけにゃあ気ぃ付けてもらいたかとよぉ。」

「ほんにぃ。梨恵、交通事故にゃあ気い付けんしゃい」

 父親の説明を聞きながら、彼女の母親は娘に念押しする。そして、

「でも、あんた。事故の遭い易かぁ巡り合わせに生まれたとかねえ?

 それじゃったら、ほんに悪いこつしたなあ」

 と、娘に平謝りだった。双方の世界で自分の娘が交通事故に遭ったと聞けば、母親としては後ろめたい感情を抱いてしまう。

「なあ、律子」

 と、梨恵の父親が、自分の隣ではなく、彼方あっちの母親に声を掛けた。

わし、考えちょったんだけども、梨恵の運の悪さは、もう終わりじゃろうか?」

「どげん意味ね?」

「今度の事故で憑き物が落ちちょりゃあ、安心だけんども、こればっかりは人間に分からんもんねえ。

 今度の事故は悪さば、偶々たまたませんかっただけかもしれんじゃろ? お前は如何どう思うね?」

 梨恵の父親は視線を移し、隣の妻にも意見を求めた。

「そうじゃねえ。不安ちゃ不安やねえ。なんせ、私らの梨恵は、もうおらんけんね。

 毎日、後悔ばっかし、しちょるがや」

「そうじゃろ」

 隣の妻の同意に意を強くした父親は、彼方あっちの母親に向かって1つの提案をした。

「なあ、律子。お前、梨恵ば連れて、熊本ば戻らんかね?」

 父親の提案には、彼方あっちの3人のみならず、俺も驚いた。

 一番驚いたのは彼女だが、

「御父さん。何ば言うちょっと? 熊本ば戻って、どげんして食べて行くとね?

 もう、畑ば、やっちょらんのよ」

 と、早速反論する。父親も負けじと、説得し返す。

「そげんこつ言っても、命には代えられんとよ。東京さぁ車ば多かろう?

 それに、梨恵の仕事は地方でも車ば乗っちょるんやろ? それで、事故ば遭って。

 親としちゃあ、安心できんばい」

 悩ましい問題であった。彼女の人生の危険性が予見できるだけに、無碍には出来ない提案であった。誰もが押し黙り、無言の時間が流れる。全員の心で細波が揺れていた。

 奴からの「晩飯も食わないといけないし、ちょっとだけ解散しませんか?」との提案に全員が頷いた。


 1時間後に6人が再集合した時、事態は俺達の想像しない展開を迎えた。

御義父おとうさん」

 奴の呼び掛けに義父ちちが振り向く。

「何じゃい?」

「此の1時間、梨恵さんと御義母おかあさんと3人で話し合っていました」

「何を?」

「梨恵さんと結婚させて下さい!」

 奴の唐突な発言に、俺達3人は固まってしまった。それはそうだろう。狼狽した父親が腰を浮かせる。

「ちょっと待て!

 そいは急なこつ。梨恵とは未だ、そげんこつ話すほど付き合うちょらせんやろが?」

「はい。御義父さんの言う通りです。未だ半年弱の交際です」

「そげん短い時間で、梨恵との結婚を判断するっちゅうんは、ちょっとり過ぎとちゃうか?」

「そうは思いません」

「そげんこつ・・・・・・。なんで、そげんこつ唐突に言い始めるんよ?」

「私と結婚すれば、梨恵さんは安心して熊本に戻れます」

「だけんども、そいがために結婚するっちゅうんも本末転倒じゃけん」

「それは分かっています。

 ですが、いずれ梨恵さんには結婚を申し込もうと考えておりました」

「じゃっどん。梨恵の気持ちは、どげんよ?」

 父親の問い掛けに彼女は目線を泳がせた。当然の反応だろう。

 プロポーズとは2人切りの状況で男性おとこ女性おんなに申し込むものである。だからこそ、女性は臆面も無く男性の申し出に歓喜し、その余韻に浸る時間を使って自分の気持ちを確かめるのだ。

 ところが、彼女の場合、母親の隣でプロポーズを受け、その1時間後には父親にも報告する急転直下の展開だ。気持ちを整理する余裕なんて全く無かった。

 それでも、彼女は、

「お受けしようと思っています」

 と、消え入りそうな小声で答えた。5人の前で決意表明する事は、彼女にとって気恥ずかしいの一言に尽きた。

 仮令たとえ2人が互いに恋愛感情を抱いていたとしても、父親としては、結論を急ぎ過ぎでは?――との不安を拭い切れない。

「だけんども、五十嵐さん」

 父親の呼び掛けに、奴は「はい」と居住まいを正した。

「梨恵の父親として、五十嵐さんの気持ちはほんに嬉しかあ。感謝しちょります。

 だけんども、父親として心配なんは、五十嵐さんの気持ちが、梨恵に対する憐みとか同情の気持ちから来ちょるんじゃなかかと、そう心配しちょります。

 そうなら、2人の結婚生活は幸せにならんとよ」

 奴は父親の指摘に自問自答し、そして父親の目を見据えて答えた。奴の固い決意が伝わる。

「やっぱり、私は梨恵さんの事が好きです。結婚したいと言う気持ちに変わりは有りません」

 父親は、奴の答えを反芻するように頷いた後、俺の方を見た。何も言わずとも、「分身として如何どう思うか?」と問うているのがく分かる。

「最初、私が彼女に一目惚れしました。恐らく、奴も同じなんでしょう。

 世界が違っても、五十嵐健吾と緒方梨恵の2人は結ばれる運命なんじゃないか、と思います。小指同士が赤い糸で結ばれているんですよ」

 俺の意見にも頷き、父親は腕組みした。

「ほんに有り難いことじゃあ」

 しんみりと独り言を漏らした。閉じた目尻から涙の一筋が流れる。

 彼方あっちの母親に向かい、「律子は良いとか?」と親としての覚悟を問うた。

 彼女の母親は既に同意しており、だからこそ、此の場で話題に挙がったのだ。とは言え、母親1人で判断せざるを得ない処を父親にも吟味してもらい、肩の荷は随分と軽くなっている。

 母親は一言だけ、「良い話じゃと思うちょります」と、賛同の気持ちを表明した。

 父親は次に自分の妻にも意見を求める。隣で話を聞いていた妻にも異存は無かった。

「私も良い話じゃと思うちょりますよ」

 と、同じ様に賛同の気持ちを表明した。そして、目頭を拭いながら心情を吐露する。

「こげな良い日を迎えられて、私らはほんに幸せ者じゃあ。

 梨恵が亡くなってからと言うもの、こげな日が来る事は諦めちょったからに・・・・・・」

 父親は妻の言葉に聞き入り、鼻声で「ほんになあ」と相槌を打った。

 ただ、喜びに浸ってばかりもいられない。父親としては現実的な事も確認せねばならない。

「じゃっどん、結婚ちゃあ、好きの嫌いのだけじゃ、長続きせんけんのう。

 五十嵐さん。仕事は、どないするとか?」

如何どうなるか分かりませんが、会社には九州への異動を願い出ようと思っています」

「そげなこつが出来るとか?」

「分かりません。でも、家庭の事情であれば、会社も考慮してくれる筈です」

 父親は振り向き、俺に意見を求めた。俺も「何とかなると思いますよ」と口添えした。

「そげなこつになれば、ほんに有り難い。

 だけんども、五十嵐さん。未だ五十嵐さんの御両親には話しとらんとやろ?」

「ええ。これからです」

「御両親が梨恵の事を気に入ってくれりゃ、良かばってんが・・・・・・」

「大丈夫ですよ。梨恵の事は必ず気に入ります」

 奴は強い口調で言い切った。

「だけんども、梨恵と結婚するがために、九州に引っ込むとよ。

 五十嵐さんの御両親からすると、筋が通らん話ばい。反対されても、しょんなかたい」

「何とか説得します。それに、私は次男ですから。

 家を継ぐ必要は無いし、私が九州に移っても、何の問題も生じないでしょう」

「五十嵐さんは次男か?」

 奴が「はい」と答えると、父親は何故か俺の方を向いた。俺も黙って頷いた。

 父親は奴の決心が固い事に納得すると、その場に正座し直し、奴に向かって深々と頭を下げた。

「五十嵐さん。どうか、梨恵の事を宜しく頼んます。

 あんたん御両親も、なんとか説得してみてくだせえ。

 ほんとはわしが出向かにゃいかんけども、そいがでけんからなあ・・・・・・」

 奴も正座になり、改めて御辞儀した。

 彼女の母親達は2人して嗚咽を漏らしている。彼女自身も涙目だ。

 辛気臭くなった雰囲気を変えようと、父親がわざと大きな声を出す。

「律子! お前も! 今日は梨恵の結婚相手が見付かった目出度めでたか日ばい。

 そげなしょげた顔ば、しちょったら、あかんばい。

 酒でも飲んで楽しくせにゃあ、五十嵐さんと梨恵に失礼ばい。

 そうじゃ。律子、梨恵。そいでお前も。酒ば買って来んしゃい」

「日本酒やね?」

「しぇからしかあ。何でん良かよ。赤飯も買って来んしゃい。祝い事じゃけん」

 彼女と母親2人は涙を拭うと、「そうね。晩御飯の準備もしなくちゃ」と、その場を立った。後に残った者は俺と奴、父親の3人である。

 こうして、奴は義理の両親への挨拶を済ませた。両親から結婚の承諾を得る事は結婚当事者にとって最も緊張する試練だが、まずは奴が乗り越えたのだ。

 梨恵を福島の実家に紹介する試練が残ってはいるが、奴の事だ。俺は何ら心配していなかった。

 寧ろ、心配事は俺自身に有った。

――彼方あっちの世界で奴が九州に拠点を移したとして、俺は如何どうする?――

 俺が東京に居座ったら、五十嵐健吾を名乗る2人の人間が別々の人生を歩んでしまう事になる。その事実が彼女の運命に如何どう影響してくるのか?――は誰にも予想できないが、何となく気懸りであった。

 俺は自分の抱く懸念事を2人に話した。

「俺が九州異動を願い出ない方が無難じゃないか、と。そう言う事か?」

「そうは言っていない。ずっと離れて結婚生活を送るのも非現実的だろうし」

「じゃあ、お前さんも九州異動を願い出ると言う事か?」

「う~ん。それは無理だろう。

 俺はもう、子会社の興国食糧に出向しているし、その興国食糧には九州支店が無いから。

 自分で気持ちが悪いと言い始めておいて、悪いんだけど。正直に言って、妙案は無いんだ。流石さすが先刻さっきの今じゃ、アイデアも浮かばないよ」

「確かにな。それは、お前さんに考えてもらわなくちゃならないな」

「じゃっどん、五十嵐さん。

 あんたは梨恵と結婚するこつはできんのじゃけん、あんたの人生まで熊本ば、縛り付けるこつはできんよ。

 そこまで考えてくださるんは、ほんに有り難いこつやけど・・・・・・」

「確かに、御義父さんの言う通りだ。

 さっきまで自分の事と勘違いして俺も言っていたけど、お前さんには、お前さんの人生があって当然だからな。

 そこまで考えてくれるのは有り難いが、梨恵に入れ込み過ぎなんじゃないか」

 俺は自問自答してみる。冷静に考えると、彼女に入れ込み過ぎだと指摘されても仕方無い。

 俺にとって現実には、拠点を移すと言う事は興国食糧を辞める事を意味する。九州の見知らぬ会社への転職を意味するからだ。

 でも不思議と、それはそれで良いのかもしれない、と達観している自分が俺の中に居た。

 その心情を俺は素直に2人に告白した。奴と父親の2人に戸惑いの表情が浮かぶ。

「お前さん。何故、そこまで入れ込めるんだ?」

「やっぱり、麗子の事が有るからな・・・・・・」

「信濃麗子?」

「ああ。麗子と離婚した時の後味の悪さは、もう二度と経験したくないからな」

「離婚?」

「ああ、離婚だよ」

「お前さん。信濃麗子と結婚したのか?」

「結婚したのかって・・・・・・。お前、信濃麗子と結婚しなかったの?」

「ああ、結婚していない」

 ここでも2つの世界の間で異なる小さな事実が見付かった。

「そっか。俺の方は信濃麗子と結婚したんだよ。でも、4年で破綻した。離婚したんだ」

「何故?」

「その頃は興国商事本体で勤務していたからね。

 結婚しても毎晩帰りが遅くてな。彼女の寂しさに構ってやれる余裕が俺に無かった・・・・・・。

 一応、俺だってな。上司にも相談したし、会社に我儘を言わせてもらったんだ。興国食糧に出向したのだって、興国商事本体に比べれば、まだ勤務が楽だろうって言う会社側の配慮からなんだよ。

 でも、結局は駄目だった・・・・・・。そう言う事だよ」

「そっか。その点は俺も同じだな。俺の方は、同じ事情で結婚まで辿り着けなかった・・・・・・」

 結婚したか否かは大きな違いだけれど、信濃麗子との仲が疎遠になった経緯は、2人とも容易に想像し合えた。

「それで、信濃麗子との間に子供は?」

「出来なかった。だからこそ、2人の仲が冷めてしまったんだな。

 子はかすがいと言う言葉は正にその通りだと思うよ」

「それで・・・・・・、梨恵とは如何どう繋がるんだ?」

「離婚経験の無いお前に言ってもピンと来ないだろうけれど、一生添い遂げようと誓った相手の人生を狂わすわけだ、離婚は。

 結婚を維持できないから離婚するんだけど、その後悔の気持ちと言うか、後味の悪さは二度と経験したくないものさ」

「お前さんには悪いが、やっぱり梨恵との繋がりが分からない」

「そうか、説明の仕方が悪かったな。

 俺はもう、彼女の事を家族も同然だと思っているんだ。俺自身が彼女と結婚する事は出来ないけれど、気持ちとしては、そう言う事なんだ。

 その彼女が幸せな人生を送れるかもしれないのに、俺が最後の詰めを怠ったばかりに全てを台無しにするのは、もう耐えられないんだよ」

 奴は、俺の説明を聞いた後、もう質問しなかった。俺の言いたい事を理解したようだった。

「でも、気安く九州で転職すると言っても、しっかり生活基盤の築ける転職じゃないと、やっぱり俺とは境遇が違ってくると思うぞ」

「お前の指摘する通りだ。

 だから、そう言う転職が出来ないものか、頭を冷やして冷静に探してみるよ」

 梨恵の父親は俯き加減に黙して耳を傾けていたが、俺達2人が一つの結論に達すると、「五十嵐さん」と呼び掛けた。

 俺と奴の2人が同時に「はい」と返事する。

「五十嵐さんは、長男じゃなく、次男だと言ったなあ?」

 また、俺と奴の2人が同時に「はい」と返事する。

 梨恵の父親は顔を上げると、俺の方を見た。

「あんた。緒方家の養子に入らんか?」

 俺は父親からの急な提案に逡巡した。微塵も考えなかった選択肢だったからだ。

 当惑する俺を見て、梨恵の父親は言葉を足した。

わしらの梨園と西瓜すいか畑。あれでソコソコの生活は出来る筈たい。

 どうせ、緒方家は放っておいてもわしらの代で終わりたい。梨恵が亡くなっちょるからの。

 だったらわしは、五十嵐さん。あんたに継いで欲しかぁ」

「でも、お前さん。農作業の経験は有るのか? 俺には無いけど」

「無い。お前と同じだ」

「農作業は教えちゃるけん、心配なか。もし、農作業が好きにならんかったら、そん時は畑を売りゃ良か。

 夏の盆の時期だけ墓参りしてくれりゃあ、それで十分たい。梨恵も、それ以上のこたぁ望まんじゃろうけ。

 あんたらが梨恵の為に心底親身になってくれとるんじゃ。畑を譲るくらい、何でん無かたい」

「でも、そんな事は御義母さんと相談してからじゃないと・・・・・・」

「そいは分かっちょる。律子が帰って来たら相談するけん、そいは心配なか。きっと賛成するに決まっちょる。

 そいより、五十嵐さん。あんたの気持ちよ、大事なんは」

「有り難い話です。でも、少し考える時間をもらえませんか。

 他に取るべき道が無いものか如何どうか、考えさせて下さい」

「そうしてくれ。あんたん御両親に養子の件を話さなぁならん時は、言っちょくれ。

 確か、福島じゃったな、五十嵐さんの実家は。何時いつでも御挨拶に伺いますけえ」

「ちょっと、光明が見え始めたな」

 奴もホッとしたようだった。梨恵の父親もまた、喉の痞えが落ちたようで、緊張の緩んだ顔付きだった。

 俺の将来に関する会話を3人で済ませた頃、ほぼ同じタイミングで女性陣3人が買い物からアパートに戻って来た。

 早速、女性陣は晩飯の支度に取り掛かり、男達3人はカップ酒で祝杯を挙げ始める。11月の夜は肌寒く、酒を飲むと身体の内側から温かくなる。

 双方の世界で、キッチンから漂う夕餉の香りが幸せな気分を一層強くした。

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