12. 交通事故

 秋の連休シーズンが終わり、とは言え、紅葉には少し早いという10月後半。

 束の間のオフシーズンを狙って、梨恵はホテル開拓の出張に出た。今度は信州北部である。

 長野駅までは新幹線で移動し、其処でレンタカーを借りる。白馬村、小谷村と北アルプスの裾野を通って、糸魚川に抜けた後、日本海沿いの上越市から長野駅まで南下する周回コースだ。

 2泊3日の出張で訪問した都合3軒のホテルの3軒ともで、首尾良く来年のツアー旅行に組み込めそうな料金交渉に成功した。梨恵は出張成果に大満足で、陽も沈み暗くなった長野市街に戻って来た。此の時間帯に長野市街まで戻れば、東京に戻る新幹線には十分間に合う。

 梨恵は安全運転を心掛け、不慣れな長野市街を制限速度でゆっくりと進む。カーナビの誘導に従い、交差点を右に曲がり、左に曲がっていた。

 レンタカーの営業所が所在する長野駅に近い交差点。黄色から赤色に変わりそうな信号機を認め、梨恵は早々に停車した。

 目の前の横断歩道を渡る歩行者の姿をぼんやりと眺めながら、交差点の最前列で青信号を待つ。ピッポ、ピッポとリズムを刻む視覚障害者用の誘導音が途絶え、点滅し始めた信号に急かされて最後の歩行者が駆け足で横断歩道を渡る。

 遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。

 交差する車線の信号機が黄色に変わり、赤色に変わった。梨恵はアクセルペダルに右足を置く。

 目の前の信号機が青色に変わる。梨恵はアクセルペダルを徐々に踏み込んだ。そろりとレンタカーが前進する。

 その時である。

 左側から1台の黒い乗用車が猛スピードで交差点内に進入して来た。黒い暴走車がレンタカーの鼻先に突っ込む。

 ガシャーン!

 派手な衝突音が交差点内に響き渡る。レンタカーのフロントガラスが砕け、粒状のガラス破片が隕石群の如く右方向に飛び散る。

 ハンドル中央部からエアバックが噴出すると同時に、両サイドのドア内側からも白いエアバックが飛び出す。

 梨恵の上半身はシートベルト一杯まで前方につんのめった。頭部の殆どはエアバックが捉えて守ったものの、

 レンタカーが時計回りに回転し、梨恵の身体を乱暴に振り回す。右隣の車線で信号待ちしていたミニバン車の横っ面に、レンタカーのボンネット右側が玉突く。

 ガチャン!

 1度目に比べれば幾分は穏やかだったが、それでも強烈な金属の衝突音が大きく響いた。

 梨恵の頭部はエアバックに挟まれた状態で再び強く揺すられた。

 暴走車は、レンタカーに衝突しただけでは勢いが止まらず、ミニバン車の正面に躍り出る。レンタカーの衝突した弾みにアクセルペダルを踏み込んでしまった運転手がミニバン車を暴走車の右側面に追突させる。

 ガチャン!

 3度目の衝突音。3台の車がトライアングルを形作る。

 黒い暴走車は車体の重い3ナンバーの改造車だった。梨恵の乗るレンタカーは、3台の中で最も小さく、衝突エネルギーを強烈に食らっていた。

 サイレンを鳴らして暴走車を追跡中だったパトカーが直ぐに到着する。運転席に座る警察官が無線で救急車の出動を要請し、助手席の警察官が降車して3台の破損状況を確認して回る。

 3台ともボンネットと前輪部分はグチャリと変形しているが、暴走車の運転者も含め、事故に遭った全員がシートベルトを着用していた。

 経験上、死亡事故には成らないと判断して、警察官は少し安堵した。オイルタンクからガソリンが洩れている兆候も無く、二次災害も無さそうだ。

 長野駅に近かった事が不幸中の幸いで、5分も経たない内に、ピーポーピーポーと救急車のサイレンが聞こえて来る。

 事故現場に急行した救急車は3台。最初の救急車から降りた救急隊員たちが、損壊の最も激しいレンタカーに担架を寄せる。幸運にも運転席のドアは変形しておらず、ドアを開けた救急隊員は素早く梨恵の外傷を確認し始める。

 梨恵は意識を失い、エアバックの上に突っ伏している。ハンドルで打ったと思われる額の一部が裂傷を負って出血し、シートベルトが擦った右肩には赤い帯状の擦過傷が付いていた。それ以外に目立った外傷は無い。

 救急隊員の1人が右腕を車内に差し込み、梨恵の頭部を二の腕で抱き支えた。別の救急隊員がカッターでシートベルトを切断する。梨恵の身体を抱き上げた救急隊員は、次に背負い込み、背中にうつぶせとなった梨恵の身体を車外に救い出す。

 脇に控えた救急隊員が梨恵の両脇に手を差し込み、背中から梨恵を降ろした救急隊員が振り返って梨恵の太腿を持った。意識不明の梨恵を担架に横たえる。

 梨恵を収容した救急車は最初に事故現場を離れ、最寄りの県立総合病院に急行した。


 五十嵐健吾が交通事故の知らせを受けたのは、翌日だった。

 事故当日、警察はレンタカー会社に事故の連絡をし、レンタカー会社は梨恵の勤務するエンジョイ・ジャパン社への連絡を試みたのだが、生憎、エンジョイ・ジャパン社の従業員は全員退社していた。

 翌日、エンジョイ・ジャパン社は梨恵の交通事故を知り、梨恵の母親に連絡した。

 動転した梨恵の母親は五十嵐健吾に電話した。五十嵐健吾が母親からの電話を受けたのは翌日の昼近くだった。

 此の段階では2人とも交通事故の事実しか知らず、梨恵の容態に関する情報は皆無だった。

 母親の動揺は激しく、スマホの向こうで涙声を詰らせる母親を健吾は必死で宥めた。

「此処で私達が電話で話をしていても、何の解決策にも成りませんよ。だって、そうでしょ?

 まずは長野の病院に行きましょう。私もこれから長野に向かいますから。

 御義母さんも、そうして下さい。良いですね?」

 スマホの通話停止ボタンを押した健吾は、直ぐ様、上司の机に向かった。

「課長。済みませんが、緊急の御願いが有ります」

 切羽詰まった健吾の表情に只ならぬ気配を感じた上司は、社内会議用の小部屋に健吾を連れ込んだ。

「実は、婚約者が長野で交通事故に遭いまして。これから休暇を頂きたいのです」

 上司とすれば、五十嵐健吾が婚約していたと言う処からが初耳であった。自分の実家に相手を連れて行ってもいない現時点で婚約者と呼ぶのは早過ぎる。でも既に、緒方梨恵は婚約者も同然である。

 身内の交通事故を前にして、婚約者か否かは些事に過ぎず、上司は「それは大変だ。今すぐ長野に向かいなさい。後は何とかするから」と慌しく健吾を送り出した。

 職場の同僚達も、不幸な出来事よりは「五十嵐さんが婚約中だった」と言う事実の方に驚いたが、そんな火急の事態に手助けを渋る者は居ない。皆、気持ち良く、健吾を送り出した。

 健吾は、丸の内のオフィスビルから目の前の東京駅に向かうと、手提げ鞄一つの出勤スタイルで長野新幹線に飛び乗った。

 約2時間の移動時間、持参したタブレットで同僚に業務を簡単に引き継いだ。そして、車両の連結部分に移動すると、梨恵の母親に電話した。梨恵の母親は熊本空港に向かうタクシーの中だった。

 生憎、熊本空港から北陸の地方空港への直行便は無い。羽田空港まで飛行機で移動した後、東京駅からは新幹線で長野駅に来るのが最速ルートだ。

 つまり、健吾の方が圧倒的に早く長野に到着する。だから、「先に病院で待っています」と母親に伝えた。


 健吾は長野駅を降り立つと、ワンメーターかもしれないとは思ったが、タクシーに乗り込んで「県立総合病院に御願いします」と行き先を告げた。

 運転手の方もわきまえたもので、病人を見舞う乗客に対して嫌な顔を一切見せなかった。短距離の乗客に当たったとは言え、身内が入院する不幸に比べれば何ともない。

 健吾は「釣りは要りませんから」と千円札を渡すと、急いでタクシーを降りた。

 病院の受付カウンターで「緒方梨恵さんは4階の個室に入院しています」との案内を聞くや否や、エレベーターに駆け乗った。

 エレベーターの扉が開くと、目の前のナースセンターで看護師を捕まえる。

「緒方梨恵の親族の者です。此方こちらに入院しているのですが」

 看護師が入院患者リストを繰る。

「ああ。交通事故に遭われた方ですね?

 奥から2番目の個室です。1時間前に夕食を片付け終わったばかりです」

「容態はんな感じなんですか?」

 詰め寄る健吾に気押されつつも、看護師が冷静に答える。

「安定していますよ。御安心ください。もう意識も回復されて、心配いりませんよ。

 患者さんに会って頂くのが一番早いでしょう。面会時間外ですが、交通事故ですし、偶々空いていた個室に入院されていますから。でも、長居は御遠慮くださいね」

 看護師の優しい物言いに健吾は何度も礼を言った。恐縮しついでに、

「実は、彼女の母親が熊本から此方こちらに向かっていまして。あと3時間ほどしないと病院には辿り着けません。

 どうか、母親には今日中に一目会わせてやりたいのですが・・・・・・」

 と、憐みを求める表情を浮かべて御願いした。

 看護師も無碍には断れず、少し困惑した顔をしながら、

「仕方ありませんね。夜勤シフトの看護師に申し送りしておきます」と言ってくれた。

 健吾は、ぺこり、ぺこりと頭を下げつつ、足早に梨恵の個室に向かった。

 右手奥の部屋の入口に“緒方梨恵”の名札を認めた。引き戸をノックし、静かに部屋の中に入る。

 梨恵は、ベッドの上で横になっていたが、目をパッチリと開けて入口の方に顔を向けていた。額に大きなガーゼを絆創膏で貼っていたが、他に異常は見当たらない。

 健吾はベッド脇まで近寄ると丸椅子に腰掛けた。梨恵が「大丈夫よ」と合図するように微笑んだ。

如何どう? 診断結果は?」

「追突された時に脳震盪を起こしたみたい。

 昨夜、救急車で搬送された時には意識を失っていたんだけど、夜中には意識も戻ったの」

「今は?」

「何ともない。今日はMRIで頭の中を調べたんだけど、脳内出血も無いし、大丈夫だろうって」

「そっか。それは良かった。他には?」

「此処と此処だけ」と、梨恵は額のガーゼを指差した後、入院着の襟元を少し開けた。右肩から左胸に掛けての素肌を健吾に見せる。シートベルトと同じ幅だけ、赤く内出血したアザが一直線に伸びていた。

「痛いの?」

「ううん。押さえると痛いけど、触らなければ別に痛くないわ」

「骨折とかはしなかったの?」

「うん。相手の車は猛スピードだったみたいだけど、私の方は青信号に変わったばかりで、スピードを出していなかったから」

「そっか。それは良かった。不幸中の幸いだったね」

 梨恵は「本当」と相槌を打つと、掛け布団の下から左手を伸ばし、健吾の掌を軽く握った。健吾も両手で梨恵の左手を包み返すと、強く握り締めた。

何時いつ頃、退院できそうなの?」

「明日の朝にも診察を受けるんだけど、今夜、吐き気や目眩に襲われなければ、明日中にも退院できるって。

 紹介状をもらって、東京の病院で経過観察する必要は有るんだけど・・・・・・」

「そっか。東京で病院の当ては有るの?

 当てが無ければ、会社に戻って、名医を教えてもらうけど?」

「大丈夫みたい。病院なりのネットワークが有るらしいわ。

 出身大学とか、医者の世界特有の繋がりが有るんじゃないのかな?」

「そっか。そう言えば、御義母さん。今、此方こっちに向かっているよ」

「飛行機で?」

「うん。羽田まで飛行機で。東京で新幹線に乗り換えるから、未だ2時間以上は掛かるよ」

「そう。御母おかあさんが来るのは夜中になっちゃうわね。

 もう、今夜のホテルは予約したの?」

「ううん、未だ。

 でも、御義母さん。今夜は此の部屋に泊まりたがるんじゃないかな?」

「そうね。でも、此の病院、見舞客が泊まっても良いのかしら?」

「分からない。駄目かな? 個室だし、誰の迷惑にもならないよね。ちょっと、看護師さんにいて来るよ。

 その足で、御義母さんにも電話してくる。

 梨恵の容態について何も知らされていないからね。心配しているよ、きっと。俺もそうだったけど、集中治療室にでも入っているんじゃないかって、心配で堪らなかった」

「大袈裟ね」

「大袈裟じゃないよ。

 お昼に旅行会社から聞いた話じゃ、交通事故に遭ったとしか分からなかったからね」

「そうなの? それじゃあ、心配しても当然ね。御母さんへの電話を宜しくね」

「分かった」

「そうそう。御母さん。私の健康保険証を忘れてないかしら?」

「いや。梨恵のアパートには寄らないからね。俺も思い出さなかったな。

 でも、健康保険証は無意味な筈だよ」

「何故?」

「交通事故での治療には健康保険証が適用されないって、以前、誰かが話していたよ」

「何故? 普段は健康保険証が利くのに?」

「俺も詳しくは知らない。でも、交通事故の治療費は特別料金で高いんだってさ」

「何故、高いの?」

「知らない。保険会社が負担するからじゃないの?」

「ふ~ん。変な話ね」

「そうだね。

 御義母さんに電話したら、ホテルも探して来るよ。ビジネスホテルに何処どこか空きが有るだろうから。

 それと、下着とかの着替えは必要無いの?

 御義母さんが着替えを持って来なけりゃ、今の内に何か買っておかなきゃ」

貴方あなたが女性用の下着を買うの?」

「仕方無いだろ? 御義母さんの到着を待っていたら、店が閉まっちゃうよ」

「でも、私のサイズまで分かるの?」

「まあ、何度も触っているからな。駄目かな?」

 健吾は梨恵の目の前で10本の指を何度も屈伸させた。梨恵は眉を寄せ、悪戯子いたずらっこを叱る母親みたいな表情をした。確かに悪戯子だ。

 梨恵は健吾に自分の下着サイズを教えた。


 駅前商店街の全てがシャッターを降ろし、営業しているのは飲食店や水商売の店舗だけとなった時刻。ようやく梨恵の母親が到着した。

 県立総合病院の正面玄関まで、健吾が母親を迎えに行く。車寄せに進入して来た1台のタクシーが降車ドアを開くと、大きなボストンバックを抱えた梨恵の母親が転げ出るように姿を現した。

「五十嵐さん! 梨恵は?」

 駆け寄る母親を健吾は正面から抱き止めた。

「安心して下さい。電話でも言った通り、梨恵さんは大丈夫ですよ」

 そう言われても、母親としては全く落ち着かない。健吾は気の急く母親を梨恵の病室まで連れて行った。

「梨恵!」

 就寝時間を過ぎた他の病室に気兼ねしての小声だったが、引き戸を開けるや否や、母親は娘を呼んだ。

「御母さん」

 娘の無事な姿を確認した母親は、ベッド脇につかつかと歩み寄りながら、涙を流し始めた。

「あんた。心配させよってからに・・・・・・」

 梨恵はベッドの上で上半身を起こし、壁側の柵に背中を預けた。

「もう大丈夫よ。心配しないで。

 派手な交通事故だったらしいけど、怪我も殆ど無くて、医者が驚いていた」

「そうかい。じゃっどん、そのオデコの傷は?」

「掠り傷よ。ちょっと前髪を切られたのが残念だけど」

「何ば言っちょるの。髪の毛くらい。そげんこつは如何どうでも良か」

 梨恵は、健吾に報告したのと同じ様な話を繰り返して、母親を安心させた。

 丸椅子に座る母親が落ち着きを見せると、梨恵は足下で見守る健吾を呼んだ。

「何?」

「ちょっと部屋を出て行ってくれるかな? 御母さんも来たし、下着を交換したいの」

「それはそうだね」と口籠りながら部屋を出る健吾。

 梨恵がベッドの上でモゾモゾと入院着を捲り上げる。ブラジャーが露わになると、目敏く一筋の赤いアザを見付けた母親が声を上げた。

「これ何ね? 痛いんね?」

「大丈夫よ。シートベルトの痕。シートベルトをしとったけん、怪我が無かったとよ」

 母親は他にも色々と言いたそうだったが、娘を気遣って大人しくなった。

「そこの袋に入っちょる下着ば、出して。五十嵐さんが買って来てくれよったとよ」

「あん五十嵐さんがかや?」

「そう。近くの百貨店で。恥ずかしかったじゃなかかな。後で、御母さんも御礼ば言うとってよ」

 買物袋を開け、中から取り出した下着を梨恵に手渡す。梨恵が脱ぎ捨てた下着を受け取ると、自分のボストンバックに仕舞った。

「五十嵐さんにはほんに世話になったがね」

「そうよ。御母さん。ホテルの手配もしてくれたとよ。

 こん病院は家族が泊まっちゃいけんだって。だから、五十嵐さんが近くのホテルば予約してくれちょるとよ」

「そうかい」

「うん。だから、今日はホテルでゆっくりしたら?

 もう、遅いっしょ。御母さんが倒れたら、明日、一緒に帰れんよ」

 来たばかりなのに「もう帰れ」とは薄情つれない娘である。母親はオチョボくちになった。

「それに、今日は私も疲れちょるんよ。

 朝から病院の検査やら警察の事情聴取やら。これでも結構、忙しかったんよ」

 そう畳み掛けられると、母親としては何も反論できなくなる。確かに娘は疲れているのだろう。

「ねっ。明日、ゆっくり話そう。どうせ新幹線の中じゃ、何もでけんけん」

 小煩くなる前に帰ってもらおうと、梨恵はベッドの上から母親を急き立てた。仕方無くと言う風に母親は背中を丸め、丸椅子から立ち上がった。

 母親が病室の引き戸を開ける。てっきり部屋に招き入れてもらえると信じていた健吾も、ベッドの上で母親に手を振って別れを告げる梨恵に戸惑い、「えっ?」と声に出した。

「梨恵が、ホテルに帰れ、じゃと」

 不貞腐れて呟く母親を見ると、健吾としても「そうですか」としか言えない。

 2人して病院を出ると、トボトボとホテルに向かった。

「御義母さん。食事は済ませました?」

「うんや。心配で喉も通らんかった」

「私もです。案外、梨恵さん。私達に「早く食事をしろ」と言いたかったのかもしれませんね」


 俺は更に1日遅く、彼女の交通事故の顛末を聞く事になった。

 彼女と母親、そして奴の3人が彼女のアパートに戻ってからである。

 止むを得ない事だが、俺はトンネルに彼女が現れないので、「今週の奴は仕事が楽なんだな。まあ、早く帰れると言う事は良い事だ」と単純に思い込んでいたのだ。

 まず、奴が1人だけでトンネルに現れた。

 俺の方は普段通りに興国食糧に出勤していたし、奴は何度も押入の中を覗いて俺の帰宅を確認したようだった。

「おい、お前さん。待っていたんだぞ」

 俺は奴の発言の趣旨が分からず、「何故?」といた。

「一昨日、梨恵が交通事故に遭ったんだ。出張先の長野で」

 奴の答えに俺は吃驚びっくりした。

如何どう言う事だ? 彼女は? 無事なのか?」

 と、大声を出した。奴は暴れ馬を宥める風に両手を胸の前に軽く上げ、俺の動揺を抑えた。

「心配するな。梨恵は大丈夫だから」と最初に言い、昨日からの顛末を丁寧に説明してくれた。

「だから、梨恵の母親が今、隣の8畳間に居る。梨恵と一緒だ」

 俺はようやく事情を飲み込めた。

 考えてみると、彼女の母親は、奴が何もする事が無い3畳間から中々戻って来ない事を不思議がってやしないだろうか?

 その疑問を奴に指摘すると、

「それは今から俺が誤魔化す。まずは、お前さんに状況説明しないとな」と答えた。

「それは、どうも。有り難う」

「それでだ。仕事から帰ってばかりのイキナリで申し訳ないんだが、梨恵の母親に会ってやって欲しいんだよ。折角だから・・・・・・」

「・・・・・・彼女の母親は、俺の事を知っているのか?」

 奴が首を横に振る。

「俺と会わせる事に関して、彼女と相談はしたのか?」

 今度は首を縦に振る。

「そっか。何時いつかは会わないといけないしな。熊本の御義父おとうさんとも会ってもらわないといけないし」

 奴が無言で何度も頷き、俺の独り言に相槌を打つ。

「でも、シャワーくらい浴びさせろよな。30分後で如何どうだ?」

「分かった。そうしよう」

 俺は風呂場に向かった。シャワーを浴びてサッパリする。髪も梳かす。見えないとは思ったが、念の為、髭も剃った。

 真っ更なシャツを着て、クリーニングから戻ったばかりのスーツを着た。パジャマ姿で彼女の母親と会うのは非常識だろうと憚られた。流石さすがに靴下だけは履く気にならない。素足は勘弁してもらう。

 俺は少しの間、居間リビングの床の上に正座して待つべきか否か、悩んだ。どうせ直ぐに足が痺れる。粒袋椅子フィットチェアに腰掛けて3人の来訪を待った。

 いつもの場所には何も映らず、3畳間の灯りを消しているようだ。

 約束の30分を待たずして、奴が様子を伺いに現れた。

「もう、上がったな」

「ああ」と俺が返事する。

「じゃあ、梨恵の母親を連れて来る」と、奴は襖を閉めた。また映像が消える。間も無く、

御義母おかあさん。ちょっと此方こっちに来てもらいたいんです」

 と言う奴の声がした。足音が小さく続く。

「この椅子に座ってもらえますか。ええ。襖の方に向いて。

 梨恵も御義母さんの隣に座って」

「何だい?」と戸惑う言葉に続いて、「よっこらしょ」と腰を下ろす母親の声が聞こえる。

「じゃあ、良いですか。御義母さん。御義母さんに見てもらいたい物が押入の中に有るんです。

 最初、驚くと思うんですけど、見ても驚かないで下さい」

 何だか良く分からない説明する奴が、そうっと襖を開けた。

 母親は俺の存在を気にも留めなかったようだ。俺自身も動かなかったから、ぼんやり輝いている何かの置物だと思ったに違いない。

「初めまして」

 俺は胡坐を組んだまま、頭を軽く下げて挨拶した。

 俺が動いた途端、梨恵の母親は驚いて軽く後ろに仰け反った。リクライニング式の座椅子に座らせた奴の判断は正しかった。

「私、五十嵐健吾です」

 梨恵の母親は、左に座る娘の顔を見、そして、反対側に正座する奴の顔を見た。

 2人は、母親と目が合うと、無言で頷いた。此の遣り取りでは梨恵の母親の疑問が何一つ解決しない。

御母おかあさん。不思議な話だけど、聞いて欲しいの。

 此方こっちの五十嵐さん。私達とは別の世界の五十嵐さんなの。

 何故どうして、こうなったのか、私達にも分からないの。

 でも、私は其方そっちの五十嵐さんと初めて会って、それから此方こっちの五十嵐さんと出会ったの」

 彼女の説明は簡潔で的を射ていると俺も思ったが、年配者の理解を得るのは無理そうだった。

「御義母さん。ちょっと見ていてもらえますか」

 奴は俺の方に右手を伸ばし始めた。奴の意図を察した俺も前屈みに右手を伸ばす。

 俺と奴のてのひらが交錯する。ひらひらと宙を泳がせた俺の指が奴の掌の右に左に透過する。

 母親の目には不思議な光景に映った事だろう。未だに俺だって不思議に思う。ただ慣れたに過ぎない。

「こりゃあ、生きちょるのけ?」

「はい。生きています。但し、此方こっちの世界での話ですが」

 自分の問い掛けに反応した俺に母親は瞠目した。

「びっくらこいた・・・・・・。カラクリ人形かと思った」

 素直な感想を口にした母親は、「長生きはするもんじゃの・・・・・・」と小声で呟いた。

 予想に反して冷静を保つ母親の反応に安堵した彼女が、次なる事実を伝えた。

「実は、御母さん。彼方あっちの世界ではね、御父おとうさんが生きているの」

 彼女の発言は母親の理解の域を超えていたようで、呆気に取られた表情で娘の顔を凝視している。

 もう一度、彼女は繰り返した。

「不思議な話だけど、彼方あっちの世界ではね。御父さんが未だ生きているの。大腸癌を患っていないのよ。

 私も一度、彼方あっちの御父さんと会ったわ。つい2カ月前よ」

 母親がまぶたを大きく見開いた。にわかには信じ難いだろう。

「だからね。御母さんも御父さんに会ってみようよ!」

「今からけ?」

「ううん。今日じゃないわ。

 御父さんには改めて上京して貰わないといけないから」

何時いつ?」

彼方あっちの五十嵐さんが段取ってくれるわ」

「御父さんは幽霊になって出て来なさるんか?」

「ううん。幽霊じゃないわ。

 でも、彼方あっちの世界の人。私達からは其処そこの五十嵐さんみたいに見えるの」

 彼女の説明内容は何となく伝わったようだが、狸に化かされた風に呆けた母親の表情は変わらない。

何時いつ頃、御義父さんを呼んだら良いのかな? 其方そっちの都合は?」

「私、来週一杯、福祉休暇を使って会社を休むわ。紹介された東京の病院にも行かなくちゃいけないし。

 御母おかあさんも暫くは此処に泊まる予定。もう、熊本での農作業も無いから」

「じゃあ、来週なら何時いつでも構わないんだな。

 でも、平日は俺が居ないかもしれないけど、大丈夫?」

「そりゃあ、2回目だから大丈夫だけど・・・・・・。でも、週末にして」と、彼女が提案した。

「俺も参加したいから、そうして欲しいな」と奴も同調する。

「じゃあ、明日にでも熊本に電話してみるよ」

 此方こっちの緒方梨恵が亡くなっている悲嘆すべき事実は、未だ母親に告げていない。

 横に座る娘本人とは別人だと説明しても少なからずショックを受けるだろうし、一度に色々な事を伝えても母親を困惑させるだけだろう。

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