11. 両親の上京

 夏休み最後の土曜日。

 久しぶりに3人で会うと言う事で、彼女と奴はデートにも出掛けず、俺の帰りを待ち侘びていた。

 日没までには間が有るが、俺と奴はビール缶を開けて飲み始めていた。彼女は隣の部屋で晩飯を準備している最中だ。

 分身同士だから俺達2人に気兼ねは無用なのだが、此の日、俺達は2人とも寡黙で、愚図愚図し合っていた。

 痺れを切らせた奴の方が先に口を開く。

「なあ。お前さん」

 俺は手元のビール缶を見詰めたまま、「ん?」と生返事を口にする。

「お前さんに言っておく事が有る。お前さんに隠し事をするのは嫌だからな」

 妙な言い回しに意識を引き戻された俺は俯き顔を上げた。

「梨恵とキスした」

 無駄な情報を削ぎ落した短い台詞せりふ。奴としては、踏ん切った上での発言なんだろう。

 何時いつの間にか、彼女を呼び捨てにしている。“梨恵”の2文字が2人の仲の進展を物語っていた。それは喜ばしい事だ。本音で、そう思う。

 でも、これから俺は、そんな慶事を吹き飛ばす不吉な話を奴には告げなくてはならない。

 俺は奴の告白に無反応で答えた。

 表情を変えない俺に不安を感じたのか、奴が「怒っているのか?」と、心配そうに問う。

「そんな事は無いさ。目出度いと思っているよ」

 俺は淡々と奴の疑念を否定する。軽く眉根を寄せる奴。正直、今の俺には奴を気遣う心の余裕が無かった。

 猶も宙ブラリンの状態に奴を放置していた俺は、新月の夜に断崖絶壁から海原に飛び込む様な気持ちで、言い淀んでいた事実を伝えた。

「彼女なあ。亡くなっていた」

 一瞬、奴は自分の耳を疑ったみたいだ。俺の言葉を理解すると、両目を大きく見開き、口をポカンと開けた。

 俺は力無く頷いて、「そうなんだ」と肯定の言葉を重ねた。

「此の事実は、今日まで彼女には伝えず、延ばし延ばしにしてきた。

 昨日まで誤魔化してたんだが、今日は逃げずに、告げないといけない」

 奴に話すと言うよりも、俺自身に向けた奮起の言葉だった。

 木曜日の夜遅くに世田谷に戻った俺は、意識して居間リビングの灯りを点けなかった。昨年4月に知り合って以降、初めて、彼女と会う事を避けた。

 昨夜は彼女と短い時間だけど会話した。「見つかりそう?」と尋ねる彼女に、俺は「なんとかね」とだけ言って口を濁していた。

何時いつ、九州から帰ったの?」との質問には、「今日の昼だよ」と嘘を吐いた。

 そして、「何だか疲れが溜って、身体がだるいんだ。だから、今夜はもう寝る。明日、奴と一緒の時に顛末を話すから」と早々に居間から引き揚げていた。

 昨夜、俺と別れた後、恐らく、彼女は釈然としない思いを抱いただろう。

「お前には先に話しておく。傍で彼女を支えてもらわないといけないから」

 俺は奴の顔を凝視した。奴も俺の顔をじっと見返す。

「それと、もう1つ。此方こっちは彼女にとって良い話だ。

 替わりに、緒方梨恵の父親は生きていたよ。元気だった。肉体的にはね。でも、娘を亡くして憔悴していたよ。

 だから、来週、緒方梨恵の両親を世田谷に招待している。彼女に会いたいと強く希望したのでね。是非会ってもらいたい、と俺も思っている」


 彼女が出来上がった晩飯を3畳間に運んで来た。

 2品の皿を長方形の卓袱台に並べる。もう一度キッチンに戻り、今度は2人分の御飯茶碗と味噌汁腕のセットを持って来た。俺の方は相変わらずの弁当だ。

 奴の隣に座った彼女がエプロンを外し、「食べましょう」と元気良く言った。俺と奴は「そうだな」と箸を持つ。

 彼女は箸を料理皿に伸ばす奴を見守り、「美味しい?」と尋ねた。奴が大きく頷き、笑顔を見せる。

 俺の不在時に自炊料理を何度か振る舞っていたらしく、彼女の表情に不安の気配は無い。単なる惚気の様に俺には見えた。

 俺は素直に微笑ましいと思った。俺が緒方梨恵と経験する事は決して有り得ない光景だったが、妬む気持ちは起きなかった。日々に重ねる些細な幸せの貴重さを肌身で実感していた。

 奴は彼女との会話や態度に恋人として自然な親密さを漂わせていた。反面、俺に対しては緊張を帯びた距離感を保っている。当然だ。

 俺も、奴ではなく、彼女に向かって話した。九州に滞在中の天気や阿蘇山の風景、そんな時候の挨拶みたいな話題を意図して選んで時間を稼いだ。

 ただ、女性の感性は鋭い。

 俺と奴との不自然な態度に気付き、「私が料理している間に何か喧嘩したの?」と藪から棒にいてきた。俺も奴も動きが止まる。そして、2人同時して「そんな事ないよ」と慌てて首を振った。

 彼女は、同じ反応を示した俺達を見て、「双子みたいね」と笑った。

 此の瞬間が永遠に続けば良いのに・・・・・・と思ったが、そろそろ本題に入るべき頃合いだった。

「緒方さん」

 俺は改まって、彼女に呼び掛けた。その固い口調に、彼女が思わず居住まいを正す。

「君の御父おとうさん。此方こっちの世界では元気だったよ。亡くなっていなかった」

 彼女は目を見開くと、両手で口を覆った。ポロポロと大きな涙を流し始める。

「勿論、御母おかあさんもだ。御両親とも健在だった。だから、来週末になるけれど、東京に来てもらおうと思う」

「構わないよね?」と念押しする俺に、彼女は両手で口を覆ったままで、大きく何度も頷いた。

 奴が無言で彼女の肩を擦っている。彼女は脇に置いたエプロンを掴んで目元を押さえる。嬉し涙が止め処なく溢れ、仕舞にはエプロンに顔を埋めた。彼女が落ち着くまで、俺達は黙然と待った。

 しばらく経って何とか興奮を宥めた彼女が、それでも鼻声で「畑は?」と一言だけく。

「ちゃんと西瓜すいか畑も梨園も有ったよ。西瓜の収穫は終わっていたけど、梨の方はこれからと言う感じ。

 俺も小さな梨の実に紙袋を被せる作業を手伝って来たよ」

 再び彼女の大粒の涙が溢れ始める。俺達は彼女がむせび泣くに任せた。

――これから俺が告げる内容が一番重要なんだ――

 それは奴も分かっていて、彼女の肩を擦り続ける最中にもチラチラと俺を盗み見た。

――承知しているさ・・・・・・。これは、俺の役目だ。お前に押し付けたい気持ちは山々だけど・・・・・・。

「緒方さん」

 俺は鼻の回りを赤くした彼女に呼び掛ける。泣き腫らした顔に軽やかな笑みを浮かべる彼女。

「もう1つ、大切な話が有るんだ。

 気持ちをしっかりって、聞いてもらいたいんだ」

 背筋を伸ばし直す彼女を見据え、俺は深呼吸した。

此方こっちの世界ではね、緒方梨恵さんは・・・・・・交通事故で亡くなっていたんだ」

 彼女は今までよりも大きく目を見開くと、両手で口を覆った。

 今度は驚愕のあまり、直ぐには涙が出ない。だが、唖然とする彼女の顔からサァっと血の気が引いて行った。

 座っているから傍目には分からないが、もし彼女が立っていたら、膝をガクガクと震わせ始めたのではないか。

「死んだ?」

 両手の奥から漏らす確認の声に、俺は弱々しく頷いた。瞠目した彼女の瞳を見詰め返す事しか、今の俺には出来ない。

何故どうして?」

「バイク事故だそうだ」

何時いつ?」

「2年半前だそうだ」

「私は?」

 俺は「分からない」と首を振った。

「でも、御父さんは逆に生きていらっしゃる。此方こっちの世界と其方そっちの世界は同じじゃないんだ。

 だから、此方こっちの緒方梨恵が死んだとしても、君が死ぬとは限らない」

 俺は強く主張した。彼女だけでなく、俺自身にも言い聞かせるように・・・・・・。

 それでも、彼女の動揺を抑える事は出来なかった。自分の分身が死んだと聞けば、運命がガラガラと音を立てて崩れ落ちる気がするに違いない。

 隣に座る奴に向けた彼女の顔には、唖然とする表情の合間に縋るべき支えを探す感情の揺れが窺えた。そして、嫌々と駄々をねるように首を振る。

 彼女の後頭に両腕を回した奴が、自分の胸に彼女を抱き寄せた。奴の胸から嗚咽が漏れ始める。

 トンネルの此方こっち側で、俺は傍観者に甘んじるしかない。

 奴は、泣き止まない彼女の両耳に手を添えると、彼女の頭を自分の胸から優しく引き離した。見詰め合い、彼女の唇に口付けした。力強い口付けに彼女が目を閉じる。

 もう一度、彼女の頭を胸に固く抱き締めた。それでも、彼女の肩は小刻みに震え続けている。

 此方こっちに首を巡らせた奴の視線を受け止め、俺は無言で頷き返した。それを合図に、奴は彼女を抱き支えて立ち上がる。

 隣の8畳間に移動する奴の足取りは頼もしく、彼女の足元は覚束無かった。俺の視界には卓袱台だけが残された。


 翌朝、俺は早めに起きて、居間リビングの床に座り続けた。

 彼女の事が心配だったからだ。2人が3畳間の灯りを消さずに俺の視界から立ち去った後、夜半に目を覚まして居間を覗いたら、トンネルは暗闇に満たされていた。多分、奴が3畳間の灯りを消していったんだろう。

 でも、彼女は如何どうなった? それが気懸りだった。

 10時頃になって、俺の前に奴が1人で現れた。

「梨恵は未だベッドで寝ているよ。泣き疲れたんだろう」

「お前?」

「ああ。此処に泊まった。梨恵を抱いたよ」

「そっか」

やましい気持ちからじゃないぞ」

「分かっているさ」

「俺。今日から梨恵のアパートに住むよ。梨恵の事が心配だからな」

「うん。それが良いだろう」

「今日、自分のマンションに行って、当座の荷物を持って来る。

 だから、今日はお前さんと話せない」

「それは構わないさ。お前のマンションに行く間、彼女は独りぼっちなのか?」

「いいや。梨恵が目覚めてから、一緒に行くつもりだ」

「それが良いだろう」

 奴の事を頼もしく感じた俺は、一も二もなく首肯した。自信たっぷりの雰囲気を漂わす奴だが、当然ながら気懸りな事も抱えるわけで、その一つを俺に問うて来た。

「お前さん。ホテル・クローバーって知っているか?」

 奴の質問を耳にした俺は1年余り前の記憶を手繰り寄せた。出会ったばかりの頃、彼女が北陸出張で訪問した取引先の一つだった。

「思い出した。それが何か・・・・・・?」

「経営が立ち行かず、閉鎖されたそうだ」

――それもあって、昨夜の彼女は激しく動揺したのか・・・・・・。

 双方の世界が全く同じ筈はない。そう安心していた俺と彼女だったが、ホテル・クローバーの閉鎖を聞き及んだ彼女は、プロセスが違えども同じ顛末に帰着するのだ、と一種の運命を感じていたのだろう。だからこそ、昨夜の彼女は激しく動揺したのだ。

 俺の解説を神妙に受け入れた奴は、「分かった」と一言だけを呟き、秘かな決意を固めた風だった。

「おい」と呼び掛ける俺に、奴が「何だ?」と振り返る。

「彼女の事。宜しく頼みます」

 自然とこうべが下がった。胸を張って奴が応える「当たり前だ。任せておけ」との声に、感極まった俺は顔を上げる事が出来なかった。


 それから1週間。

 俺か奴か、仕事帰りの早い方が彼女の相手をした。

 奴が帰宅すれば、「よう!」「やあ!」と声を掛け合い、その日の会話は御仕舞だった。奴は彼女と隣の8畳間で夜を過ごす。俺も無粋な真似はしない。

 俺の帰宅が一方的に遅い時、居間リビングは真っ暗だった。そんな時は(奴の帰りが早かったんだな)と納得する。俺もシャワーを浴びて、早々にベッドに向かった。

 奴の帰宅が遅い時は、今まで通り、彼女と会話した。

 此方こっちの緒方梨恵の話題は避けるように心掛けたが、完全に黙殺する事も難しかった。彼女本人も事情を探りたいとの気持ちを抑え切れない。

 俺は、彼女の表情を注意深く見ながら、言葉を選んで断片的な話をした。彼女が冷静さを取り戻す一助いちじょにはなったように思う。


 次の週末。俺は梨恵の両親を迎えに羽田空港まで出向いた。

 これまでも梨恵の両親は農閑期に娘の住まいを訪問していたらしく、特に母親の方は上京したからと言って、右往左往する風でもなかった。

 それでも、彼らにとって俺の自宅は初めての訪問先なわけで、素直に俺からの道案内の申し出を受け入れた。

 マンションに到着すると、部屋全体がガランとした雰囲気の居間リビングに彼らを案内する。生前の娘が住んだ賃貸アパートに比べると広い間取りに、梨恵の両親は「ほう」と感じ入った。

 農作業は終盤ながらも繁忙期は続いており、滞在予定は僅か数日に過ぎなかったが、俺は2人に合鍵を渡した。俺が出勤する間、2人には自炊してもらう。

「いつも、此の手前に梨恵さんが現れますから」とバルコニーそばの壁に貼った黒い幕を指し示すと、梨恵の両親は壁の周辺を一生懸命に検分した。

 残念だけど、幾ら検分しても、明るい時間帯に彼方あっちの世界を映像として垣間見る事は叶わない。

 彼女の登場は夜と決めており、話し終えた深夜に梨恵の両親をホテルまで移動させるのは躊躇ためらわれる。だから、物置ものおき状態だった2部屋の荷物を整理し、空けた1部屋に泊める事にした。

 旅行用の荷物を置いた梨恵の両親を誘い、駅前商店街まで買い物に出掛ける。

 2人とも「何時頃に梨恵は現れるのか?」と待ち遠しさを堪え切れない様子だったが、「陽が沈む頃です。未だ現れませんから、安心して下さい」と俺は宥めた。

 買い物から戻ると、割烹着姿に着替えた母親が早速、晩飯の準備に取り掛かった。

 包丁すら無かったキッチンなので、買い揃えた調理器具を取り敢えず棚に整理する。俺は、母親が「これは何処どこに仕舞うかね?」と問う度に頭を掻き、恐縮の態でキッチンに佇んでいた。

 父親はバルコニーで寛ぎ、空いたビール缶を灰皿にして煙草を吸っている。

 母親が食材を調理し始めると、俺は風呂を掃除し、給湯機の電源スイッチを入れた。ピッピッと給湯完了の合図を耳にし、まずは父親に風呂を勧めた。

 父親の次に俺が風呂に入った。母親は鍋の煮物を味見している。

 風呂上がりの父親は熊本の電器店で購入したビデオカメラの設定に余念が無い。三脚をつなぎ、壁にレンズを向けた。

 トンネルに現れる彼女は、黒い幕を背景に床上灯フットライトからの柔らかい光で照らされる。彼女自身も、透明感を保ちつつほのかに発光しているので、妖精のごとき雰囲気を漂わす。梨恵の両親は幽霊だと見紛みまがうに違いない。

 夕方6時頃には食事の準備も整い、3人で普通にテーブルを囲んだ。小さな卓袱台に3人分の食膳を並べる余地は無く、彼女の登場を待って一緒に食べる事は無理な相談だった。

 娘との再会に胸を高鳴らせ、梨恵の両親は食事中も上機嫌だった。特に父親は微酔ほろよい気分で、熊本での初対面時に比べて饒舌だった。

 食後に「梨恵さんが現れる前に入っておかなきゃ」と俺が催促すると、上映開始前の客が映画館に駆け込むがごとく、母親は風呂場に消えた。

 俺がキッチンで食器洗いを始めると、父親はビデオカメラの試し撮りを再開した。

 そんな感じで準備万端整えた俺達の前に、彼女と奴が現れた。

 自宅にも拘らず、彼女は小洒落たワンピースを装い、奴もジャケットを着用している。恋人の実家を訪ねて交際の許しを請う前に抱く緊張。それが奴の心境なのだ。反面、俺は黒のパジャマ姿だった。

 俺は居間のカーテンを閉め、天井の照明を消した。彼女と奴の映像だけがほんのりと浮き上がり、映画館の様になる。

 床上灯フットライトを点けた。彼女も両親の姿を見易くなっただろう。

 彼女の姿を認めるや否や、両親は「おおう」と声を上げた切り、動かなくなった。2人とも口をパクパクさせている。

 俺はそっと彼らの後ろに回ると、ビデオカメラのアングルを確かめ、録画ボタンを押した。

御父おとうさん、御母おかあさん。梨恵です・・・・・・」

 そう言っただけで、彼女も声を詰まらせ、何も言えなくなった。

 両親の方でも、再び「おおう」と感無量の声が漏れる。

 母親は堪え切れずに、膝をガクンと折り、崩れ落ちた。そして、「梨恵っ」と叫んで、彼女に抱き付こうとした。

 だが、彼女には実体が無い。勢い余って重心を崩した母親が両手を床に着く。母親の姿と重なった彼女が悲しそうな表情を浮かべて俯く。

 母親は訳が分からないと言う風に、キョロキョロと空間を見回す。自分の背中に生えた彼女の上半身に気付くと、急いで姿勢を戻し、膝立ちする。

 もう一度、手を伸ばす。そして、一生懸命に彼女の身体を掴もうと藻掻いた。残念ながら、母親の両腕は空しく宙を彷徨さまようだけだった。

 それでも・・・・・・と、半狂乱になって子供を思う母親の姿が其処に有った。俺も奴も涙を流して見守っていた。

 居た堪れなくなった父親が、妻を背中から優しくかかえる。そして、静かに寄り添った。

 気丈夫に理性を保っていた父親も、やはり大粒の涙を流していた。

「元気そうじゃの。元気じゃったら、それで良いんじゃ」

 と鼻声で、何度も大きく頷いた。

 彼女に触れる事を諦めた母親も、父親の横で涙を拭いながら頷いている。

 かなり長い時間、俺達5人は無言で座り込んでいた。心を落ち着けるには時間が必要だった。

 ようやく冷静に話を始められそうになった頃、おもむろに奴が口を開いた。

御義父おとうさん、御義母おかあさん。五十嵐健吾と申します。

 今、梨恵さんと交際させてもらっています」

 既に俺と面識が有る梨恵の両親は奴の挨拶に一瞬だけ戸惑った。しかし、目の前に座る娘が異世界の人間だと思い知らされたばかりなので、直ぐに奇妙な構図にも理解を示す。

――どの世界に居ようが、梨恵は自分達の娘だ――

 親としての気持ちは揺るぎなく、

「どうか、梨恵の事を宜しく御願いします。

 わしらじゃ、もう如何どうしようも無いけん。あんただけが頼りなんじゃあ」

 娘の恋人に向かって、2人とも丁寧に頭を下げた。

「でも、御父さん。身体は大丈夫なの?」

 と、彼女が父親に心配事を尋ねる。

 俺は、彼方あっちの世界では彼女の父親が亡くなっている事実を、此方こっちの両親には伝えていない。その冷徹な事実を取り急ぎ両親に伝えた。父親本人よりも寧ろ母親の方が驚いた。

「なんで、御父さんは亡くなったと?」

 真剣な眼差しで問う。

「大腸癌だったの。発見した時は既に手遅れで、手術はしたんだけど駄目だったわ」

 彼女は伏目勝ちに説明した。でも直ぐに顔を上げ、大きな声で母親に懇願する。

「だから、御母さん。

 御父さんを直ぐに病院に連れて行って、精密検査して欲しいの。早期発見で癌は治るんだから」

「分かった、分かった。熊本に戻ったら、直ぐに病院ば連れて行くけん。梨恵は心配せんでええ」

 母親が娘の願いを力強く引き受ける。今度は父親が娘に質問した。

「梨恵。もしかして、お前。バイクば乗っちょらんじゃろうな?」

「アパートの下に停めてある」

 彼女が申し訳なさそうに父親の質問に答える。

「何ばしよっとか! 絶対にバイクなんか乗っちゃいかん」

 彼女の返事を聞いた父親が激昂し、雷の様な大声を張り上げた。

 その横で母親も、「梨恵。バイクにゃあ、乗らんじょくれ。頼むから」と哀願した。

「そちらの私がバイク事故で死んだって、五十嵐君から聞いたわ。

 私も怖いから、もう乗るつもりは有りません。だから、どうか安心して下さい。バイクは処分します」

 娘の返事に両親が胸を撫で下ろす。

 願い事が続いた流れで、彼女が次なる御願を父親に投げた。

「御父さん」

「何じゃ?」

此方こっちの御母さんにも会ってもらえないかなあ? きっと喜ぶと思うの」

 父親と母親は顔を見合わせた。

「勿論、御母さんが良ければ・・・・・・なんだけど。

 私の御母さん、御父さんが亡くなってから熊本で1人、寂しく生活しているのね。

 もう一度、御父さんの元気な姿を見る事が出来たら。・・・・・・きっと喜ぶと思うの」

 彼女が気を利かせて付け加える。

「なんの。遠慮なんて必要ねえ。夫婦なんじゃけえ、旦那に会いたいのは当たり前だ。

 私に気ぃ使うこたぁねえよ。其方そっちの私に、そう伝えちょくれ」

「そうじゃの。わしらも、また梨恵に会えるけんのう」

「農作業が一段落すれば、ずっと此のマンションに泊まれば良いですよ。

 そうすれば、私も御義母さんに食事を作ってもらえますしね」

 俺も横から同調した。今日、初めてみんなが笑った。

 その笑いを機に、俺達は楽しい思い出話に花を咲かせた。俺と奴はもっぱら聞き役だ。家族の会話は深夜まで続いた。

 翌日も明るい内から、つまり彼女の姿が薄くしか見えない時間から、5人は会った。

 姿形すがたかたちはかなくとも話し声は明瞭だ。梨恵の両親は朝からずっと、テーブルで食事を摂る以外はずっとトンネルに陣取り、娘と一緒の時を過ごした。


 月曜日の朝。

 会社勤めの俺は、羽田空港までいて行けない事を2人に詫び、「大丈夫だ。心配は要らねえ」の言葉に甘えた。

 母親は「百姓は朝が早いから何の苦労も無いわさあ」と早くに起きて、俺に朝食を作ってくれた。朝食を食べ終えた俺は、「ゆっくりしていって構わないから」と母親に伝え、返却しようと俺に差し出した合鍵を握り直させた。

 梨恵の両親は仲良く並んで、スーツに着替えた俺を玄関口で見送ってくれた。

「あんたが金持ちだっちゅう事は分かっちょるけんども、態々わざわざ布団まで買い揃えてもらったんだけえ、私らの気持ちだあ。どうか貰ってくだせえ」

 と、折り畳んだ1万円札を何枚か俺の手に滑り込ませる。梨恵の両親を家族同然に感じていた俺も素直に受け取った。

 父親が「五十嵐さん。本当に有り難う」と頭を下げた。俺は「次に何時いつ会うか。電話しますから」と言って、玄関のドアを閉めた。


 熊本に戻ってから早速、母親は父親を大学病院に連れて行き、医療ドックでの精密検査を受診させたそうだ。特に大腸癌の検査を重点的に。すると予想通り、初期の大腸癌が見付かった。幸い、直ぐに手術すれば再発の可能性は低いらしい。

 だから、農作業の繁忙期は続いていたが、農協を介して別の農家に応援を求め、父親を入院させた。

 若者ならば日帰り入院でも大丈夫な程の簡単な手術らしいが、梨恵の父親は60歳を超えた高齢者だ。用心して1週間、入院する事にした。

 同時に精密検査を受診した母親の方には異常が見付からず、極めて健康だと診断された。

 電話で母親から報告を受けた俺は、2人の診断結果を彼女に伝えた。

「早速、もう入院しているそうだよ。

 御母おかあさん。「梨恵に礼を言ってくれ」って何度も繰り返していたよ。御父おとうさんの命を救ってくれて、有り難い、有り難いって」

 彼女も大いに喜んだ。彼女の母親が此方こっちの父親と会う時期は少しだけ先送りとなったが、瑣末な事だった。

 奴は・・・・・・と言えば、彼女の母親が上京する際に挨拶しようと考えていた予定を改め、近々、週末を使って彼女と一緒に熊本を訪れるそうだ。

 奴は「予行演習を遣ったから全く緊張していないよ」と俺に白状した。俺は「其方そっちじゃ優しい御義母おかあさんだけで、雷を落とす御義父おとうさんが居ないからな」と奴を揶揄からかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る