10. 梨恵の故郷

 夏休み休暇を控えた8月初旬の週末。俺は2人に宣言した。

「緒方さんの熊本の実家を訪ねてくる」

 俺が彼女から実家周辺の情報を仕入れている最中、傍聴者に徹していた奴は、会話の一段落した小休止を捉えて口を開いた。

「なあ、お前さん」

「何だ?」

「お前さんの留守中、彼女をドライブに誘っても構わないか?」

「別に構わないさ。なんで改めて俺に断りを入れるんだ?」

「ドライブに行けば、帰宅時間だって遅くなるだろ?」

 奴が頭を掻きながら――照れ隠しだろう――、打切棒ぶっきらぼうに言う。そして、慌てて二の句を継ぐ。

「でも、日帰りだからな。誤解するなよ」

 奴の提案は彼女も初耳だったらしく、少し驚いていた。

――本来なら、俺じゃなくて、彼女に許しを請うのが筋だろう?――

「お前。車を持っていたんだな」

「いや、レンタカーを借りるさ。マンションの駐車場が空いているし、何日か借り続けようと思う」

 そして、奴は彼女に振り向いた。

んな車が良い? 君の好きな車を選ぶよ」

 人差指を顎に付け、暫く思案する彼女。

「風を感じられる車が良いわね。でも、オープンカーなんて、借りられるのかしら?」

 バイク好きらしいリクエストだ。奴は嬉しそうに彼女の要望を引き受けた。


 夏休み。俺は飛行機で熊本空港まで飛んだ。週末便には予約が殺到しており、日曜日の最終便だ。

 梨恵の実家探しが順調に行くとは限らず、東京には新幹線で戻る。3年前に九州新幹線が全線開通しており、最悪は指定席を諦めさえすれば、何とか東京に帰り着く。

 月曜日の朝、熊本市街地のビジネスホテルを出発した俺は、現地でレンタカーを借り、阿蘇山を目指して東に向かった。

 道中の景色は夏真っ盛りのそれだった。

 木々は濃緑の葉々を威勢良く茂らせ、先端の枝々を夏の微風に揺らせていた。窓を開けて運転していると、吹き込む熱風に乗って、忙しない蝉の煩い声が迫ってくる。

 東京に比べれば遥かに人影は疎らだが、それでも道路脇の歩道には、日傘を差して井戸端会議に熱中する御婦人やら、虫網を振り回しながら走る子供達の姿を幾人も見掛けた。未だ昼前なので暑さも程々で、タオルを首に巻いて散歩中の老人も目に付く。

 熊本市と益城町の境界を知らせる標識を通り過ぎると、街中の景色がやがて、緑の稲穂が風に揺れる田園風景に切り変わる。前方には雄大な阿蘇山の山裾が見えてくる。

 緒方梨恵の実家は、益城町の東隣、阿蘇の外輪山の裾野に在る西原村だった。緑に覆われた西原村は、カーナビの目印となる人工物に乏しく、大きな牧場とゴルフ場が幾つか点在するのみだそうだ。

 外輪山の裾野斜面が始まると、土壌の質が変わるのだろう。田園風景が途切れる。彼女からは「畑が目立ち始める辺りが実家だ」と聞いていた。

 俺は村役場を訪ねた。夏休み中の村役場に出勤している者は少なく、愈々いよいよ閑散としている。

 応対に出た初老の女性は親切な人で、急ぐ仕事は何も無いと言う風な態度で俺の相手をしてくれたが、梨恵の実家の手掛かりは掴めなかった。

「緒方って名字は熊本じゃあ多いいけんのう。その緒方さんは農家を遣っているのけ?」

「ええ。西瓜すいかと梨を栽培していたらしいのですが、今は廃業したと聞いています」

「そっけえ、それは残念な事で。今も続けていなんしゃれば、農協に行ったら分かるかもしれんがのう」

 他に行く当ても無いので、西原村支部の所在地を教えてもらった。

「そうじゃのう。誰か、年寄りなら知っちょるかもしれんけんねえ。まあ、行ってみんさい」

 女性は何度も「見付かると良いのう」と言いながら、辞去する俺を見送ってくれた。俺も車に乗り込むまで頭を下げ続ける。

 農協支部は村役場から車で10分程度の場所に在った。

「緒方さんですかあ?」

 俺の相手をする若い女性職員はしばらく考え込んでいたが、自分の人脈では埒が明かないわ――と匙を投げると、奥に座る年嵩の先輩職員にいてくれた。

此方こっちの東京の人。緒方さんって人を探しとるんだって。

 以前、梨と西瓜を遣っとったんじゃけど、今は遣っとられんっち。

 誰だか、知っちょるかね?」

 どうやら興味津々で聞き耳を立てていたらしく、すぐさま会話に加わった。

「何年前に止められたんかのう?」

「さあ、詳しくは・・・・・・。でも、5年くらい前だと思うんです」

「そんじゃ、あんまり昔でもないのう。

 そんな最近に畑ば止めた人なんか、おったかのう?」

 と、隣の男性職員にく。男性職員も首をかしげながら、「いやあ、知らん」と頭を振る。そして、

「今も続けとる緒方さんなら、ほれっ、あそこにおるがのう」

 と、別の心当たりを口にする。

 最初の若い女性職員が最も冷静で、俺に追加情報を提供させようと質問した。

「その緒方さん。下の名前は何て言うんですか?」

「緒方大作さんと緒方律子さんです。大作さんの方はお亡くなりになっているそうですけど・・・・・・。

 ああ、それと、緒方梨恵さんと言う娘さんが居ます」

 それを聞いた年嵩の職員が2人して「ああ」と大声を出すなり、手槌をパチンと打った。

「なんじゃあ。大作さんと律子さんけえ。2人とも達者で未~だ畑ば続けちょるど。

 あんさんの情報も好い加減さねえ」

 彼女の世界とは違う現実が俺の世界では流れていた。

 そんな釈明を此処でしても詮無いので、俺は素直に梨恵の実家の所在地を教わった。

 最初の若い女性職員が「見付かって良かったですねえ」と言い、年嵩の職員2人も「そうさのう」と相槌を打った。俺達4人は軽く笑い合った。長閑のどかである。


 期待以上のトントン拍子で事が進み、俺は相当に上機嫌だった。

 彼女から「父親は亡くなっている」と聞いていたが、此方こっちでは違った。その齟齬については「目出度い事実なんだから」と深く考えない。

 それよりも、有力な手掛かりに辿り着いた喜びの方が大きかった。

 緒方家を目前にすると、まず広い畑が現れた。西瓜すいか畑だ。既に収穫を終えた様で、畑には黄色く枯れた葉を数珠繋じゅずつなぎに結んだ長いつるが幾重にもしなび果てていた。

 緒方家を挟んで反対側には、青い防虫ネットに囲われた果樹園が広がっていた。梨園だろう。

 肝心の緒方家は、石垣を積み上げた擁壁にグルリと四方を囲まれて、内側には広い庭が広がっている。収穫物の仕分け作業や出荷作業を行うのだろう。擁壁の始点であり終点でもある正門には、大きな石柱が2つ立てられ、“緒方”と彫った御影石の表札が掲げられている。

 俺は、正門前の農道に車を停め、中庭に足を踏み入れた。

 途端に、鎖でつながれた柴犬が吠え始める。侵入者を威圧する唸りではなく、警戒して恐々と吠えている感じだ。猛犬の面影は微塵も無い。

 それでも頻りに吠える柴犬を遠巻きに避け、玄関に辿り着くと呼び鈴を鳴らした。

 家の中でブザー音が聞こえる。ところが、誰も出て来る気配が無い。追加で2回、呼び鈴を鳴らしてみたが、やっぱり誰も出て来なかった。

 俺は手持無沙汰に玄関口で座り込んでいた。風も凪いで一切の物音が途絶え、時が止まったようだ。晴れ渡った空を見上げると、翼を広げたとんびが旋回している。今は柴犬も日陰に寝転んで居眠りをしている。

 此処で暇を持て余していても埒が明かないと思い直した俺は、立ち上がると、家の前の農道に戻った。

――梨園を覗いてみよう――

 俺は、熊本市街とは正反対の阿蘇山に向かって、梨園の脇を歩き始めた。

 等間隔に行儀良く植わった梨の樹が、2メートル程の高さに設《しつら)えた平棚に枝を這わせている。青々と生い茂った葉々の合間を仔細に観察すると、白い紙袋で梨の実を1個ずつ丁寧に包んでいる。夏のクリスマスツリーだな、と思った。

 梨園の奥行きは結構あって、防虫ネットの細かいメッシュ越しでは十分に見通せなかった。

――梨恵の両親は、外出していなければ、此の梨園で農作業している筈だ――

 農道沿いには出入口が無さそうだと諦めた俺は、家の前まで引き返した。

 2度目の来訪者に柴犬は吠えず、片目を開けて俺を一瞥するだけだった。呼び鈴を鳴らしてみる。依然として、反応が無い。

 仕方無く、俺は母屋と納屋の間の細い通路を通って、裏手に回った。

 梨園への出入口を見付けた。俺は、麻のスーツの上着を小脇に抱え直し、園内へと歩み入る。

 少し歩き、腰を屈める。立った状態では樹々の葉に邪魔されて見通せなかった向こうに、作業着姿の夫婦を見付けた。腕カバーを巻き、日除け帽を被っている。あの2人が梨恵の両親だろう。

 はやる鼓動。俺は背筋を伸ばし、ゆっくりとした歩調で2人の方に歩み始めた。

 剪定鋏でチョキチョキ遣っていた母親の方が俺に気付いた。俺は「こんにちは」と大きな声で呼び掛ける。

 父親も俺の方を振り返る。作業の手を止め、黙って俺を観察する。スーツ姿の見知らぬ男が畑に現れたら、誰でも不審に思う。

「私、緒方梨恵さんの知り合いです。彼女を訪ねて参りました。御二人は彼女の御両親ですよね?」

 俺は歩みを止める事なく近付いて行き、大声で来訪の目的を告げた。

「あんりゃあ、そうだったとですか」

 警戒の表情を解いた母親が、日除け帽の首紐を解きながら、俺の相手をする。

御父おとうさん。私、家の中に案内して来るわ」との母親の声に父親は頷き、作業を再開した。

 母親が「どうぞ、どうぞ」と言いながら、俺の脇を通り過ぎ、出入口の方に向かう。俺は「お仕事の邪魔をして済みません」と頭を下げ、母親の後に続いた。

 母屋に戻ると、畳敷きの応接間に通された。玄関を上がって直ぐの部屋だから応接間なんだろう――と想像したが、畏まった雰囲気は無い。同じ様な畳敷きの部屋が幾つもつながり、襖で部屋を仕切るだけの典型的な田舎の家屋だ。

 母親は俺に座布団を差し出すと、長い縁側のサッシ窓を次々に開けていき、家の中に風を通した。案内された時に少し蒸し蒸しと籠っていた熱気が霧消する。風鈴が涼しげな音を立て始めた。庭からの微風が吹き出た汗を撫でて行く。

 母親が盆に載せた麦茶を「どうぞ」と勧める。ガラスコップの中に浮いた氷がカランと音を立てた。

 俺は正座したまま、「有り難う御座います」と頭を下げた。そして、

「五十嵐健吾と申します。初めまして」

 と、もう一度、頭を下げた。

「五十嵐さんかえ。今日は、どちらからんしゃったとですか?」

「東京から参りました」

「そうですかあ。そげん遠か所から態々わざわざ、こげん暑い日に・・・・・・。

 有り難う御座いました」

 爪先立ちに正座した母親は、両手で持った盆を膝の上に添えると、深々と御辞儀した。

「最近は、梨恵を訪ねて来んしゃる方も、めっきり減りました。久しぶりの御客さんです」

 彼女は東京で暮らしているのだから、そりゃそうだろう――と思ったが、俺は「そうですか」と話を合わせた。

「そんで、梨恵とは?」

 俺の素性を尋ねる母親の発言は自然な反応だった。だが、真実を話した処で、にわかに信じられる筈も無い。

――付き合っている、と言うか?――

 それは嘘だ。彼女と交際している男は彼方あっちの五十嵐健吾だった。

――じゃあ、「付き合っていた」と過去形で言うか?――

 それでは、縁りを戻しに実家まで押し掛けて来たのか?――と無用の誤解を招きかねない。そもそも、母親から当の緒方梨恵に話をつないでもらうのだ。俺が交際相手でない事は直ぐに露呈する。

「はい。ちょっと複雑なのですが、我慢して私の話を聞いて下さい。

 此の度、私の男友達と緒方さんの女友達が結婚する運びとなりました。新婦が、是非とも緒方さんには結婚式に出席して欲しい、と希望していまして。でも、連絡が取れないんだそうです。

 そこで、偶々、九州に旅行する予定だった私に白羽の矢が立ちまして、実家を訪ねて、緒方さんに連絡を取って欲しいと。そう言う事なんです」

 煙に巻かれた母親は「はあ」と生返事した。案の定、理解できなかったらしい。

「だから、先程、緒方梨恵さんの知り合いと申しましたが、直接ではなく、間接的な知り合いなんです。

 不正確な事を申し上げまして、どうも済みません」

 俺は畏まって叩頭こうとうした。そして、折畳んだ上着のポケットから名刺を取り出すと、母親に差し出した。

「お母様は興国商事を御存知ですか?」

「ええ。有名な会社じゃけんの。名前だけは知っちょります」

「私の勤務先は、その興国商事の子会社なんです。

 興国商事に就職したのですが、現在、名刺の子会社に出向しております」

 俺自身に信用が無いので、まずは会社のネームバリューを遣わせてもらう。

 農家の人が“出向“なんてビジネス言葉に馴染んでいるとは思えないが、“興国商事”と連呼しておけば、胡散臭い人間ではなさそう――と警戒心を解くに違いない。

「そうですかあ。その娘さん、・・・・・・御結婚なさるんじゃのう」

 母親は端から俺の素性を疑っていないようだった。俺の素性よりも、寧ろ“結婚”の言葉に反応した。

「その娘さん。梨恵とは同い年の方なんかのう?」

「ええ。大学の同級生だと伺っています。確か28歳でしたか」

「そうかえ。梨恵も28歳に成っとったかえ」

 母親は庭の方を見遣ると、思い出すように呟いた。俺は居心地の悪い違和感を覚えた。

――もしかして、此方こっちの世界では緒方梨恵が実家と疎遠なんだろうか?――

 両親ですら娘の所在地を知らないとなると、探索が行き止ってしまう。俺は不安になった。

 不安になったが、次の話題も思い浮かばず、黙して母親を見詰め続けた。

「もう、そろそろ昼時じゃけん、お昼を一緒に食べて行かんね?

 大したもんは出せんが、御父さんも仕事を切り上げて来るじゃろうし。如何どうかね?」

 俺は「有り難う御座います」と頭を下げた。

「そうじゃった。その結婚なさる娘さんは、何ちゅう御名前かのう? 梨恵に報告せん、ならんけん」

「信濃麗子さんです」

 咄嗟とっさの出任せで乗り切れたと安心したのもつか、先々の展開を考えると、彼女から女友達の名前を教わらなかった落ち度に少し焦った。

――緒方梨恵と信濃麗子に接点は無い。不審に思う筈だ――

――でも、新婦と面識の無い俺が名前を誤認した可能性までは否定できまい。名刺を渡しているんだ。此方こっちの緒方梨恵が連絡して来たら、何とか誤魔化そう――

 そんな俺の胸算用には御構い無しに、母親は俺の名刺を添えた盆を手に「じゃあ、待っちょって下さい」と立ち上がった。

 30秒ほど経った頃だろうか。奥の部屋から仏壇のりんを叩く音がチーンと響いた。


 俺は、正座で痺れた足を崩し、庭を向いて寛いでいた。微風が風鈴をチリンチリンと鳴らしている。手持無沙汰に過ごす俺を、母親が「こっちに来んしゃい。お昼の準備がでけたけえ」と呼びに来る。

 案内された先は仏間だった。仏壇が有るだけで、同じ様に広い畳敷きの和室。

 部屋の中央には大きな座卓が置かれ、素麺の入ったガラス製ボウルが載っていた。座卓の手前奥には、作業服を脱いで上半身を下着姿にした父親が胡坐を組んでいる。

 俺は上座にポツンと置かれた座布団に正座した。

「素麺くらいしか無くてねえ。若い人には物足りんと思うけんど、まあ、食べてくだせえ」

 俺は「いえいえ」と恐縮した。父親が箸を取るのを待って、自分も素麺に箸を延ばした。

 素麺をズルズルと啜る音だけが重なった。父親は無口なタイプのようだ。勝手に押し掛けているので、文句を言えた義理ではないのだが、変に緊張する昼食だった。

 無言の食事が終わると、父親は畳の隅に放置された灰皿に手を伸ばし、煙草に火を点けた。父親が煙草の箱をヒョイと軽く上げて客人の嗜好をただしたが、俺は首を振って断った。

 父親は深く息を吸い込み、そして、ファーっと白い煙を吐き出した。ちらり、ちらりと母親が父親を盗み見ている。

「五十嵐さん」

 野太い声で父親が俺を呼んだ。俺は「はい」と座布団の上で居住まいを正した。

「梨恵は、友人の結婚式には出席でけんけえ。残念じゃが」

 父親が庭の方を向き、苦虫を噛み潰した様な表情で言った。

 親子関係が断絶状態だとは言え、娘本人に確認もせずに断るとは、偏屈な父親だなあ、と俺は呆れた。

 しかし、「はい、そうですか」と引き下がっては、緒方梨恵を探す手掛かりが潰えてしまう。

如何どう言う事でしょうか?」

 俺の問いに、父親は右腕を水平に挙げて、梨園と西瓜すいか畑の境目辺りの方向を指差す。

「梨恵は其処そこに居るんじゃ」と、短く言った。悲痛な想いを吐露したような、妙に哀切を感じさせる口調だった。

――近隣の農家に嫁いだと言う事か?――

 残念な事だけれど、緒方梨恵が人妻ならば、もう俺は付き合えない。

――でも、何故、友人の結婚式に出席できないのだろう?――

彼方あっち”と言わず、“其処”と言った事にも少し引っ掛かったので、俺は念押ししてみる事にした。

「お隣さんに嫁いでいらっしゃるなら、御出席頂けるんじゃないでしょうか? 何か、農作業で忙しいとでも?」

 父親は再び右腕をプルンと振ると、同じ方向を指差した。そして、少し鼻声で、

「梨恵は、もう。おらんのじゃ」と、僅かに声を荒げた。

 居ると言ったり、居ないと言ったり、く分からない。

 俺が戸惑っていると、母親が割烹着の裾で目尻を拭いながら、

「梨恵は死んだとです」と小さな声で告げた。

 俺は首を巡らせた。緩慢に首を動かすも、視線を父親から離そうとしない。直視したくない現実から目を逸らす、せめてもの抵抗だった。

 父親の指差す方向には仏壇が有った。

 俺の頭の中は真っ白になった。混乱してポカンと口を開けたまま、何も考えられなくなった。

 唖然として仏壇から目を転じると、人生の惨事に遭った傷心を癒やし切れず、悲嘆に暮れる2人の姿が有った。

 やがて、深呼吸した母親が静かに言った。

「これも何かの縁だと思いますけえ。

 五十嵐さんが直接の知り合いじゃねえとは分かっとるけんど、梨恵も喜ぶと思いますけえ、線香を上げてやっちょくれませんか?」

 俺は両腕を気忙しくバタバタさせ、正座した座布団を引き摺りながら仏壇ににじりり寄った。

 仏壇の中央には緒方梨恵の遺影が掲げられており、彼女が朗らかな笑みを浮かべている。モノクロ写真だが、初めて彼女の鮮明な笑顔を見た。

 5分か10分。俺は彼女の遺影を食い入るように見詰め続けた。

 此方こっちの緒方梨恵とは会った事が無い。でも、もう、彼女を赤の他人とは思えない自分が居た。

 そんな俺の後ろ姿を見て、彼女の両親は驚いたんだと思う。母親の「五十嵐さん」と呼ぶ声に振り返った時、彼らの顔には戸惑いの表情が浮かんでいた。

 俺は自分が涙を流していた事に気付き、シャツの袖で頬を拭いた。

「済みません。ショックだったものですから」

 激しく落胆した俺に父親が尋ねる。

「五十嵐さん。あんた、梨恵とは一体、如何どう言う関係なんじゃ?」

 俺は座布団を掴んで元の席に戻ると、スーツの上着ポケットからスマホを取り出した。そして、録画映像の開始ボタンをタッチすると、その画面を両親の方に向けた。

御母おかあさん。元気かしら? 私は元気にしています。

 私と五十嵐さんの関係って言うのは、ちょっと複雑で、此の動画で説明するのは難しいです。詳しくは、五十嵐さん本人にいて下さい。

 説明すればするほど頭が混乱すると思うけど、今は此方こっちの五十嵐さんと交際しています。

 御母さん達の目の前にいる五十嵐さんじゃないから、ややこしいんだけど。

 兎に角、私は元気にしています。そちらの梨恵にも早く会いたいけど・・・・・・。

 でも、こんな説明したら、余計に分からなくなるわね。

 兎に角、五十嵐さんの話を聞いて下さい』

 1分弱で動画は終了し、彼女が微笑んだ静止画となった。

 彼女の両親は、ほぼ同時に、スマホ画面から俺の顔に視線を移した。

「長い話になります。それに、俄かには信じて頂けない話です。

 それでも、私の話を聞いて頂けますか?」

 俺の言葉に2人は頷いた。

 トンネル越しの映像なので、ピンボケしたトリック映像かと疑われても仕方のない代物だった。

 それでも、2人には衝撃だったのだろう。或いは、霊界からのメッセージだと勘違いしたのかもしれない。

 俺は彼女と初めて会った日から今日までの顛末を話し始めた。長い時間、俺は話し続けたが、2人は一言も口を挟まなかった。

 語り終えた時には、だいぶ太陽が傾き、遠くでヒグラシが鳴き始めていた。

「その梨恵には、東京に行きゃあ、今夜にでも会えるんけ?」

 母親が我慢し切れないと言う風に尋ねた。俺は無言で頷いた。

 母親は、父親の作業ズボンの生地を鷲掴みにすると、

御父おとうさん! また梨恵に会えるんだよお」と、取り乱したように涙声を上げた。

 父親の方は幾分冷静であったが、半信半疑の状態から抜け出せないからだろう。理性が理解を拒むのだ。

「だけんども。・・・・・・あの仏さんの梨恵は、確かに死んだんだ」

 自分に言い聞かせるように父親が呟く。俺は「その通りです」と、認めたくはない事実を追認した。

「だけんども。梨恵は梨恵じゃろ? 私らの梨恵じゃろ?

 梨恵に会いに行こう! 会いに行かんにゃ」

 母親は駄々子の様に、父親の身体を大きく揺らした。父親は放心したように、揺らされるがままだった。


 結局、俺は梨恵の実家に泊まる事にした。

 父親もることながら、母親が俺と話をしたがった。俺自身も未だ2人と話し足りないと感じていた。

 そうと決まれば――と、母親の気持ちの切り替え方は早かった。

「晩飯の準備をしなくちゃ」と立ち上がったものの、「五十嵐さんの口には合わないわね」と勝手に早合点し、「それじゃ、御寿司を頼みましょう」と出前の予約をした。

 空いた時間で、俺の寝る布団の準備だ、風呂の準備だと、忙しなく母親は家の中を行ったり来たりした。

 父親と俺は、涼しくなった夕暮れの縁側に並んで座ると、団扇で扇ぎながら梨恵の話を続けた。

 当り障りのない話題を一通り済ますと、俺は気になっていた事を父親に質問した。

何故どうして、梨恵さんは亡くなったのですか?」

「交通事故じゃった。

 バイクに乗っとった時、道端から子供が急に飛び出して来たんだと。子供を避け損なって、梨恵はけちまってなあ。子供の方は無事じゃったんだが、生憎、梨恵の方は・・・・・・。

 運悪く、道が曲がっとったらしくて、対向車に轢かれたらしい。

 そう、警察ん人が説明してくれよった」

 淡々と事故の顛末を語る父親の口調が余計に哀れだった。

「そうじゃ。五十嵐さん。此方こっちに来んしゃい」

 そう言うと、父親は縁石に載ったサンダルに足を入れた。

 女性用サンダルでは俺の足が入らないかと気付いた父親は、「ちょっと待っちょりなさい」と言うと、履物を探しに行った。下駄を手に戻って来る。

 俺は、カラン、カランと下駄を鳴らしながら、父親の後を追った。

 父親は納屋まで来ると、建付けの悪い木戸をガタガタと鳴らして開けた。

 中に俺を招き入れると、「これが梨恵の遺品じゃ」と寂しく言った。

 梨恵の乗っていたバイクがうっすらと埃を被っていた。ホンダの250ccバイク。赤いフレームに、赤いオイルタンク。シートは黒だった。

 右に傾いて横転したらしく、右ミラーは支柱から折れて無くなっていた。ヘッドライトのガラスも砕け散って剥き出し状態。オイルタンクも浅く凹み、HONDAのエンブレムが変形している。マフラーも楕円形に歪んでいた。

 俺は、梨恵の愛車の横にしゃがみ込むと、オイルタンクの窪みを優しく撫でた。此のバイクに跨った梨恵を感じ取れる気がした。


 出前の寿司が到着すると、俺達は仏間の座卓を囲んだ。

 母親が、梨恵の好きだったと言う赤身とエビの握りを2貫、小皿に取ると仏壇に添えた。線香を上げ、りんを鳴らして、母親が手を合わせる。

 昼間は動転してしまった俺も、改めて仏壇に向かった。同じ様に線香を上げ、りんを鳴らすが、梨恵の遺影を見ると、手を合わせる事は出来なかった。仏壇前の座布団に正座した状態で放心していた。

 線香の細い煙の揺らぐ先で、梨恵が微笑んでいる。その笑顔を見ると、視線を外せなかった。止め処なく涙が流れ出る。そんな俺を、両親は急かしもせず静かに待っていた。

 気を落ち着けた俺が座卓に向かうと、父親は黙って焼酎の水割りを作り、その1つを俺に差し出した。乾杯はせず、勝手に呑み始める。少し饒舌になった母親が、梨恵の幼い頃の思い出話を色々と語ってくれた。

 食事を済ますと、母親がアルバムを持ち出して来た。俺の隣に座り、アルバムのページを捲りながら、其々それぞれの写真のエピソードを嬉々と説明してくれた。

 父親は「風呂に入る」と誰にともなく言い、部屋から出て行った。

 アルバムは何冊も有ったが、母親は一生懸命に説明してくれた。幼少期の写真が大半で、成人してからの写真は無い。成人式の振袖姿の写真が最後だった。その成人式の写真が遺影として使われている。

 東京の大学に進学すれば、家族と一緒に写真を撮る機会も少なくなる。それに、梨恵はスマホで写真を撮るようになっていただろう。便利だけれど、こういう状況になると両親の手元には写真が残らず、(残酷だな)と俺は思った。

 全てのアルバムを見せ終えた母親は、俺に「もう一回、携帯に映る梨恵を見せてもらえんかのう」と頼んだ。俺は母親にスマホの操作方法を教えた。

 母親は、何度も何度も繰り返し、動画を再生していた。そして、ポロポロと涙を流し始めた。俺は、母親に背を向け、アルバムの写真を眺め直す。

 そんな時、下着シャツにステテコ姿の父親が風呂から上がって来た。母親がスマホを握り締めた手を父親に見せる。スマホ画面を覗き込んだ父親も無言で見入った。

 俺は「お風呂、頂いて来ます」と小声で言うと、静かに立ち上がった。


 翌日、梨恵の両親が俺を村の共同墓地に連れて行ってくれた。

 2人暮らしの梨恵の実家には定員2人の軽トラックしかない。だから、朝早く、父親が隣の農家から軽自動車を借りてきた。俺のレンタカーで行くのが手っ取り早いのだが、父親は「細い道じゃけん」と言って、寂しく笑った。

 阿蘇の外輪山の裾野、村全体を見渡せる見晴らしの良い場所に共同墓地は有った。

 外輪山を背にして眺めると、視界を遮る物は何も無く、熊本平野の向こうには有明海が霞んで見えた。夏の青空が頭上に広がっている。ヒバリか何かの野鳥がさえずる声が遠くに聞こえる。

 梨恵の遺灰を納めた墓石の正面には“緒方家之墓”と彫られていた。先祖代々の遺灰と一緒ならば、梨恵も寂しくはないのだろうと思った。

 梨恵の両親は頻繁に墓参りをしているらしく、線香の燃え滓と朽ち果てた花束を除けば、墓の周りは至って綺麗だった。

 持参した箒で掃き、柄杓で墓石の頭から水を掛けた。白と黄色の菊の花束を改めて供え、線香を上げた。

 父親と母親に続いて、俺は墓前にしゃがむと、手を合わせて梨恵の冥福を祈った。

――梨恵とは生きている内に会ってみたかった・・・・・・。

 残念に思う渇望の情が俺の胸に込み上げる。

 母親が俺に小さな声で「有り難う御座いました」と頭を下げた。続いて、父親が俺に問い掛ける。

「五十嵐さん。あんたは直ぐ、東京ば帰らんといかんのね?」

「いえ。別に予定は有りません。会社の夏休みも9日間ですし」

「そっか。そいじゃあ、もう少し泊まって行かんね。

 明日の盆の夜、隣の御船町で精霊しょうろう流しが有るんよ」

「そいは良か。五十嵐さん。是非、そうせんね?」

「梨恵がね。小さい頃、精霊流しが好きじゃったとよ。綺麗じゃって。

 じゃけん、初盆じゃなかばってんが、わしらは今年も隣の御船町まで精霊流しを見に行くつもりなんよ。

 何じゃか、梨恵が其方そっちにも戻って来ちょるんじゃなかかと思ってな」

 だから、俺は梨恵の実家に3泊した。

 遣る事も特段無かったので、日昼は梨園の作業を手伝った。果樹園での作業経験は無かったが、無心に手を動かしていれば、余計な事を考えなくても済む。梨恵の両親が一心不乱に農作業に没頭する気持ちが、く理解できた。

 御船町の精霊流しだが、初盆を迎えた死者の数だけ精霊船が川に浮かべられ、それを引手が川下に曳いて行く。昔は海に流していたそうだが、今はそれも出来ず、数百メートルだけ川面を流すと引手が精霊船に火を点けるのだ。

 梨恵の両親と俺は、他の遺族と一緒に川辺かわべりを歩き、精霊船の灯篭の灯りを追った。そして、終着点で引手が火を点け、精霊船が真っ暗な川面に浮かぶ篝火かがりびとなる迄の一部始終を見届けた。

 一昨年は梨恵の初盆で、あの中に梨恵の精霊船が有ったのだ。

 篝火が消えて辺りが真っ暗になると、何処どこからともなく、蛍の群れが舞い始めた。死者の霊が蛍の光になって舞い戻って来た様な光景だった。その1つが梨恵の魂なのかもしれない。

 長崎県では盛んな精霊流しだが、熊本県で行う地域は御船町くらいだそうだ。東北出身の俺自身には無縁の風習だったが、幼い梨恵が厳かな沈魂の儀式を好きになった事に得心する。まさか自分が送られる方に回るとは、夢にも思わなかっただろうが・・・・・・。

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