8. 彼氏との出会い

 緒方梨恵は年休を取得し、2番目の作戦として、五十嵐健吾の勤務先である興国食糧を訪問した。

 3畳間に収めた洋服のレパートリーは少なく、今日も独身寮の訪問時と同じ服装だ。梅雨入り後には珍しい晴天だったので、フリル付きの白い日傘を手にしている。

 平日だが、スーツ姿で興国食糧を訪問すると一見いちげんの飛込み営業と勘違いされかねないので、失礼に当たるかとも少し躊躇したが、私的な理由プライベートなので此の服装に決めた。

 梨恵は、登戸駅で小田急線をJR南武線に乗り換え、大田区に向かった。

 興国食糧は京浜地区の物流倉庫街の一画に在る。敷地内には2棟の大きな倉庫を擁し、正門を潜った直ぐの場所にプレハブ2階建ての事務所棟を構えている。

 その事務所棟まで難無く辿り着けると梨恵は油断していたのだが、現実は甘くなかった。

 梨恵は、正門で入構手続きをする際に、訪問相手は『営業部の五十嵐健吾』だと素直に申告した。

 警備員らしい制服に身を包んだ守衛は60歳前後の老人で、とても人懐っこい性格のようだった。とは言え、社内規程に従い、事務所棟に内線電話を掛けて社外者の来訪を知らせる。

「御嬢さん。五十嵐健吾なる従業員は在籍していませんよ」

 守衛の返答を聞いた梨恵は途方に暮れた。守衛も申し訳なさそうな顔をする。

「困ったわぁ。

 興国食糧さんの営業部には、興国商事さんからの出向者が居る筈なんです。その方に御話を伺う事は出来ないでしょうか?」

 梨恵は喰い下がった。

「守衛の私にはく分かりませんが、親会社からの出向者が居るのかもしれません。

 でも、立場上、御紹介する事は出来ませんし、此処を通す事も出来ません。申し訳有りませんが・・・・・・」

 梨恵は守衛の前で、「困ったわ」を連発した。

 事務所棟を目前にして立ち往生する状況に腹立たしくなり、ちょっと泣きそうな顔になる。守衛の前を行ったり来たりする。

 そんな梨恵の様子に同情したのか、守衛が質問する。

「御嬢さん。その五十嵐さんとやらとは、如何どう言う関係なのかね?」

 梨恵は守衛の方に向き直った。

「五十嵐さんからは確かに「此処に勤めている」って聞いているんです!」

 此方こっちの世界では事実と異なるのだが、それしかようが無い。梨恵が徒手空拳で主張する言い訳を守衛は深読みし始めた。

「御嬢さんと、その五十嵐さんとやらは、恋人なの?」

 セクハラっぽい質問だが、好々爺の守衛に卑猥な意図は全く無い。それに、守衛の指摘は概ね的を射ている。但し、相手は此方こっちの五十嵐健吾ではないが・・・・・・。

 丁度その時、梨恵は、祈るようにハンドバックを握り締めていた両手を、胸から僅かに下げた。へその辺りに。偶然の所作だったが、守衛は、梨恵が妊娠しているのだ、と早合点した。

――きっと、男に騙されて妊娠した彼女は、今後の事を思い悩んで駆け付けて来たのだろう。彼女の必死な面差しを見れば一目瞭然だ。世の中には酷い男が居るもんだ――

 メロドラマの見過ぎだ――と第三者が指摘したくなる守衛の誤解だったが、梨恵には窺い知れない。

「分かった。御嬢さん」

 踏ん切ったように宣言する守衛を、梨恵は驚いて見詰めた。

――何が分かったのだろう?――

 梨恵が黙っていると、守衛が優しく話し始める。

「御嬢さんを構内に通す事は出来ないが、間も無く昼休みだ。

 事務所棟の社員は、昼飯を食べにゾロゾロと出て来るよ。此処には社員食堂なんて洒落たものは無いからねえ。

 その時に、私が知り合いの社員に頼んで上げよう」

 梨恵の為に守衛が尽力してくれる事は、何となく理解できた。でも、具体的な内容は分からない。梨恵は猶も黙っている。

「興国商事からの出向者が事務所棟に居るなら、その人に声を掛けてくれと、私から頼んで上げるよ。

 五十嵐とやらに辿り着ければ目付物めっけものだし、男が偽名を騙っていたとしても、それはそれで御嬢さんも諦めが付くだろう。

 兎に角、御嬢さんは前に進まないといけないんだから」

 予期せぬ展開に、梨恵の表情はパっと明るくなった。守衛が口にした台詞せりふの後ろ半分は意味不明だったが、前半の台詞は梨恵にとって朗報である。

 梨恵の表情の変化を見て、守衛も嬉しくなった。

「有り難う御座います」

 梨恵は元気な声を出すと、守衛に深々と頭を下げた。そして、手提鞄ハンドバックから自分の名刺を取り出した。立った状態で丁寧には書けないが、裏面に『五十嵐健吾』と手書きした。

「此の名刺を、その方に渡して下さい」

 守衛は老眼なのだろう。梨恵から受け取った名刺を遠目に確かめている。

「緒方梨恵さん? 御嬢さん、旅行会社に御勤めなんだね」

 守衛は名刺を胸ポケットに仕舞いながら、梨恵の後背に顎をしゃくる。

「承知したから、御嬢さんは守衛所の中で座っていなさい。こんな暑い所に吊っ立っていたら、赤坊あかんぼうに悪いよ」

 梨恵は守衛の言葉にキョトンとした。明らかに勘違いしているわ・・・・・・。

 守衛の誤解を解いた事で流れが暗転しても困る。梨恵は黙って守衛の指示に従った。

 30分も経つと、構内には12時を告げるサイレンが鳴り響く。事務所棟に限らず倉庫棟からも、巣穴から這い出る蟻の様に従業員がゾロゾロと溢れ出る。

 守衛は、昼食に向かう従業員の流れが止むまでは、いつも正門の脇に立っているようだ。顔見知りの幾人かとは挨拶を交わしている。

 人群れの中に初老の男性を認めた守衛は、「待ってました」とばかりに手招きして呼び寄せる。

「ちょっと悪いんだけどさあ。興国商事からの出向者って、事務所棟に居るかなあ?」

「何人か居るけど」

「何人も居るの? 困ったなあ」

「何?」

「いやね。あそこの御嬢さんと恋仲の男性を探しているんだ。五十嵐って言う男らしいんだけど」

 守衛の指先に誘導された男性の視線は、守衛所の中で控える梨恵を捉える。

「五十嵐って言う人、居ないよ」

「そりゃ、分かっている。だからさっ、親会社の方に五十嵐って言う男が居ないか如何どうか、それを知りたいんだよ」

「30歳前後の男性社員って言う事だよね?」

「多分」

「五十嵐の下の名前は何て言うの?」

「名刺の裏に書いてある」

 守衛は男性に名刺を渡した。

「分かったよ。同年代の出向者に頼んでみるよ。でも、今日は外出しているよ」

「それじゃ、事務所に居る時にいてみてよ。恩に着るからさあ」

「それでさあ、分かったら、如何どうするの?」

「名刺の勤務先に連絡してやって欲しいのよ」

 男性が昼食を食べに立ち去ると、守衛は梨恵に顛末を報告した。

「だからさっ、赤坊あかんぼうの為にも、今日の処は帰りな。何か分かったら、御嬢さんに連絡が行くから」

 親切な守衛に梨恵は何度も御辞儀した。


 その日の夜、彼女が俺に昼間の成果を報告する。

「これで、私の方は2つ種を蒔いたわ。芽吹くか如何どうか、しばらく待ってみるつもり」

 俺は「そうだな」と首肯した。

「でも、此方こっちの健吾さんの勤務先が興国食糧じゃないって知った時は、頭が真っ白になったわ。別の会社に出向しているのかしら?」

「その可能性は有る。

 興国商事の食糧事業部は手広く食糧を取り扱っているからね。小麦以外の穀物だってあるし、穀物以外にも海産物とか色々。商品毎に子会社が存在するよ」

「総合商社だものねえ」

 彼女は嘆息した。こんな事で総合商社の巨大さを実感するとは、俺自身も想像しなかった。

「そもそも、其方そっちの五十嵐健吾が食糧事業部に所属しているとは限らない」

 俺は自分に言い聞かせるように言った。

如何どう言う事?」

「興国商事は食糧以外にも取り扱っているからね。金属とか何やら。

 それを考えると、出向先は無数に有るよ。是非とも、独身寮と今日の線で辿り着きたいけどなあ」

 俺は後ろ手を組み、壁時計を見上げた。未だ午後10時だ。

 彼女は今日も座椅子に座って足の裏を合わせ、カエルのポーズでストレッチをしている。背中を曲げて前屈しながら、「本当よねえ」と、今度は先刻さっきよりも深い溜息を吐いた。

 それでも、彼方あっちは五十嵐健吾探しの戸口とばぐちに立ったのだ。多少は楽観できる。

 問題は此方こっちの緒方梨恵の探索だった。

り暗礁に乗り上げちゃったからね。何か糸口は無いかなあ?」

 彼女は背筋を伸ばして頭を背凭れに預け、「そうねえ」と思案顔で天井を見上げた。

「最後は、梨恵の実家を訪ねようと思っている。でも、君の実家って、熊本だっけ?」

 彼女が頭を起こして、「そう」と答える。

「週末に九州まで飛んでも、殆ど探し回れないだろうな。夏期休暇まで待つしかないね」

「そうよねえ」

 今夜は俺の居間リビングでジャズ音楽を流している。躍動感の富んだPOP系も良いが、「雰囲気を変えてみないか?」と提案したのだ。俺の提案に彼女は「貴方あなたの部屋にはステレオが有るの? だったら早く言ってよ。此方こっちはラジカセしか無いんだから」と小言交じりに賛成した。

「ねえ、貴方」

 気怠けだるく静かな音楽に浸って放心していた俺は、彼女の呼び掛けで我に返った。

「私と貴方。どちらが先に相手を見付けるかしらね」

「そうだね。運を天に任せるしか、俺達に出来る事は無いからね」

「私ね・・・・・・。このまま見付からなくても構わないかな、って思っているの。

 貴方の考えにはいて行くけど、(今の時間を貴方と一緒に過ごせれば十分に幸せだ)と思う自分が、心の片隅に居るのね」

 心情を吐露する彼女を、俺は本当にいとおしく想った。でも、だからこそ、是が非でも五十嵐健吾を探し当て、彼女を現実の世界で幸せにしたいとの思いを強くしていた。


 案ずるよりは産むが易し。期待したよりも早く、緒方梨恵の蒔いた種は芽吹いた。

 梨恵が興国食糧を訪問した翌々週。五十嵐健吾が梨恵の職場に電話を寄越したのだ。

 梨恵は、検討中のツアー工程について、何処どこの観光スポットに何時なんじ到着、次の観光スポットに何時到着と予定時間をパソコンに打ち込んでいる最中だった。

 首から吊り下げた携帯電話が鳴る。会社支給の安いガラ携の液晶画面には、見覚えの無い電話番号が表示されている。03始まりなので仕事の電話だろう、と思って通話ボタンを押した。

「私、五十嵐健吾と申します。緒方梨恵様でしょうか?」

 心の準備をしていなかったので、耳から離したガラ携をマジマジと見詰めた。フッと我に返り、慌てて耳に当て直す。

「はい、はい。私が緒方梨恵です。ちょっと間延びしてしまって、済みませんでした」

「いえいえ。独身寮と興国食糧の2つのルートから、貴女あなたが私を探していると伺ったものですから」

「そうなんです。貴方を探していたんです。連絡を戴けて、凄く助かっています」

「それで・・・・・・。独身寮で預かった手紙を拝見しますと、信濃さんからの言付ことづけが有るとか?」

「そうなんです。そうなんですよ」

「彼女は、今?」

「はっ?」

「彼女は今、如何どうしているんでしょうか?」

「あっ。信濃麗子さんですね。彼女、実家に戻って地元の方と結婚しています」

「そうですか・・・・・・。そりゃ、結婚しているでしょうね」

 此方こっちの信濃麗子の人生は知らない。出任せを口にする自分に、少し後味の悪さを感じた。

「それで・・・・・・。彼女は幸せにしているんでしょうか?」

「はい。幸せそうです」

「そうですか。・・・・・・そりゃぁ良かった」

 五十嵐健吾は、胸のつかえが取れた――と言いたげだった。

「それで。言付とは何でしょうか? 今、此の電話で伺えますか?」

「いいえ、それがちょっと・・・・・・。実はですね、彼女からの預かり物を渡したいんです」

「重いんですか?」

「いえ。そんなに重くはないです」

「では、御都合の良い日を指定して頂ければ、私が緒方さんの勤務先まで取りに伺います。如何いかがですか?」

「いえ。重くはないんですけど・・・・・・、嵩張るから、満員の通勤電車に乗って持ってくるのは、何だかなあと言う感じで・・・・・・」

 五十嵐健吾に手渡す物なんて無いので、梨恵の返答もムニャムニャと小さくなる。

「分かりました。私の自宅住所を伝えますので、御面倒ですが、宅急便で送って頂けませんか? 勿論、着払いで」

「それがぁ・・・・・・。宅急便で送る程には嵩張らないんです」

 何だか不得要領ふとくようりょうな説明である。

「その預かっている物とは何ですか?」

「さあ。包んであるので・・・・・・。私も預かる時に「絶対に中を見ないでくれ」と釘を差されまして・・・・・・」

「そうですか。一体、何だろう?」

 五十嵐健吾は素直に悩んでいる。

「それで、ですね。五十嵐さん」

 梨恵の呼び掛けに、五十嵐健吾が「はい」と返事する。

「私のアパートまで取りに来て頂けませんか。今週末にでも。それが一番良いと思うんです。世田谷区なんですけど」

「分かりました。土曜日と日曜日の何方どちらが良いですか?」

何方どちらでも。あっ、でも、土曜日の方が良いかなあ」

「分かりました。では、土曜日に伺います。昼過ぎの時間帯が一番ご迷惑にならないでしょうねえ?」

「そうですね」と相槌を打った途端、明るい時間帯ではトンネルの像が薄い事を思い出した。慌てて、言い直す。

「いえいえ、五十嵐さん。夕方にして下さい。夕方6時前。いや、7時前で御願いします」

「分かりました。それでは住所を教えて頂けますか?

 お嫌ならば、最寄駅を教えて下さい。ちょっと迎えに来て頂かなくてはなりませんが・・・・・・」

 梨恵と五十嵐健吾は住所を教え合った。

 案の定、梨恵のアパートから近い住所だった。とは言え、世田谷区の住宅密集地で、手掛かりも無く探し出すのは不可能な話だ。


 その日の夜。トンネルで会うや否や、彼女は興奮して「来たわよ、来たわよ」と騒ぎ立てた。

「一体、何が来たの?」

貴方あなたよ!」

 珍しく、俺の方がキョトンとする。

「五十嵐健吾さん。此方こっちの」

 彼女の科白せりふの意味を了解した途端、俺にも彼女の興奮が伝播した。思わず、声が大きくなる。

「そうなの? 本当に喰い付いて来たんだぁ!」と、ガッツポーズを取る。

 彼女が昼間の顛末を俺に報告する。

「今週の土曜日に奴が来るんだね?」

「そうよ」

し。じゃあ、事前に打ち合わせた作戦通り、その3畳間に案内してよ。俺の姿を見たら驚くだろうなあ」


 実際、俺を見た彼方あっちの五十嵐健吾は酷く魂消たまげて、腰を抜かしそうだった。

 1年中で最も陽の長い時期だから、7時近くでも外は明るい。照明を点けず、雨戸も閉め切っていたので、3畳間は真暗まっくらだった。暗室状態にしないと、俺の姿の透明度が高くなるからだ。

 アパートの呼び鈴を耳にした梨恵は「は~い」と応え、足音をドタバタ言わせて玄関に向かった。

 彼女は「どうぞ、どうぞ」と彼方あっちの五十嵐健吾を招き入れ、狭くて短い廊下を先導した。そして、3畳間に案内する。五十嵐健吾に向かって、

此方こちらの部屋です。左手の押入に預かった物が有ります」

 と、襖の引手を指し示した。

 五十嵐健吾は、梨恵が妙に緊張していているな――と感じたが、(初対面の男を自宅に上がらせるのだから当たり前か)と思い直した。

 3畳間は壁を隔てて玄関と隣り合っている。初対面の客ならば、最も手前の部屋に招き入れるのが普通だ。だから、梨恵に言われる通り、五十嵐健吾は自分で襖を右にスライドさせた。

 真暗まっくらな部屋だが、直ぐ左手の床の方から弱い光がにじみ出ている。

 五十嵐健吾は正体を確かめようと前屈みで近付き、その光源を覗き込んだ。そして、俺と視線を合わせる。

 俺は、ニッコリと笑顔を浮かべ、右手を挙げて「やあ」と挨拶をした。五十嵐健吾にとっては、ワっと脅かされたのと同じだった。奴は「ヒィ~っ」と小さな悲鳴を上げて後退あとじさった。

「驚かして、御免なさい。でも、五十嵐さん?」

 五十嵐健吾は硬直した表情で梨恵を凝視する。

「貴方に見せたかった物は、これなの」

 途方に暮れた五十嵐健吾は視線を左右に泳がせた。ただ、意識しているのだろう。俺から顔を背け続けた。

――我ながら、不甲斐無い奴だ。俺と彼女は、最初に会った時、そこまで狼狽しなかったぞ――

 俺は奴との直接対話を諦め、彼女に介添えを頼んだ。

「緒方さん。彼も直ぐには事情を飲み込めないだろう。

 それに、此処じゃあ落ち着かないと思う。隣の部屋に連れて行って、君から粗方説明してくれないか?」

 彼女は五十嵐健吾に向かって「此方こちらにどうぞ」と、隣の8畳間にいざなった。美女に従うサーカスの熊みたいに、五十嵐健吾は梨恵の後をいて行く。


 8畳間の正面には東向きの窓が開けてある。

 丘の中腹に建つアパートの窓からは住宅密集地の屋根群が臨めた。窓から身を乗り出して右手を向けば、駅前商店街と小田急線の駅が視界に入る。

 部屋の入口に立つ五十嵐健吾の目には、住宅街の屋根の上に広がる夕暮れ時の空が映った。何処にでもある普通の風景が不安を和らげる。

 右手にはシングルベッド。西瓜すいかをプリントした白いシーツで覆った掛け布団。頭部板ヘッドボード側面枠サイドフレームは窓側と南側の壁に接しており、足部板フットボードと手前の壁の間には背の低い整理ダンス。整理ダンスの上には液晶テレビが置かれていた。

 反対の左手はキッチン。狭いキッチンの上には、切り刻まれた晩御飯の食材がボウルに仕分けられて、仕込みが終わっていた。炊飯器からは湯気が立ち上り、米の炊き上がる香りが部屋に漂っている。

 手前の壁際には小さな2人用テーブルが置かれていた。テーブルとセットの椅子は1つだけ。丸い座面の折畳み椅子だ。

 梨恵の勧めに応じ、五十嵐健吾が折畳み椅子に座る。壁を背後にする事で部屋全体を視野に入れ、無意識に警戒している。梨恵は、五十嵐健吾の緊張した面持ちを見ながら、「仕方無いわねえ」と呟いた。

 単身者用の小さな冷蔵庫から麦茶の瓶を取り出すと、2つのコップに注ぎ、その1つを五十嵐健吾に手渡す。五十嵐健吾は礼を言って受け取るが、飲まずにコップをテーブルの上に置いた。

 梨恵はベッドに腰を降ろすと、五十嵐健吾と斜めに向かい合った。

「驚いたみたいね」

「ああ。・・・・・・驚いた」

 五十嵐健吾が放心の態で梨恵の言葉を繰り返す。

「あれは、一体、何?」

 五十嵐健吾は、両手を膝の上に置き、まるで卒業式に臨む小学生の様だった。

「あれは、貴方あなた

「僕?」

「そう。貴方」

如何どう言う事?」

「彼は異なる世界の貴方なの。にわかには信じられないと思うけど・・・・・・」

 瞠目した五十嵐健吾は右を向き、そして左を向いた。何処どこかに現実的な答えが隠されているのではないか?――と探る感じで、首を緩慢に巡らせ部屋中を見回した。

 梨恵は、初めてトンネルの存在に気付いて以降の出来事を、掻い摘んで五十嵐健吾に説明した。

 黙って梨恵の話に耳を傾ける五十嵐健吾。時々は口元にコップを運び、息苦しく感じる喉をうるおす。

 梨恵が話し終わっても、五十嵐健吾は顔を上げず、膝上に載せた両手の親指を弄び続けている。

貴女あなたと彼とは、如何どう言う関係なんですか?」

 五十嵐健吾の素朴な疑問を梨恵は反芻してみる。これまで彼の探索で気を紛らせていたが、接触できた今日以降は、梨恵自身が改めて対峙しなければならない根源的な疑問だった。

――自分は如何どう彼方あっちの健吾と向き合えば良いのだろう?――

「説明できないわ。・・・・・・一言では」

 梨恵は、フウっと長い息を吐き出すと、憂いの表情を浮かべた。

「もう一度、隣の部屋に行けるかしら? もう落ち着いたならば・・・・・・だけど」

 梨恵の問い掛けに、五十嵐健吾はずと頷いた。


 今度は先に彼女が3畳間に入って来た。

 彼女は座椅子を奴に勧め、自分は粒袋椅子フィットチェアの上に座る。奴は座椅子を引き寄せ、入口近くに陣取った。奴の左膝の一部が俺の視界の外に残っている。

「緒方さん。部屋の灯りを点けてくれないか?」

「分かったわ」と答え、彼女は立ち上がると部屋の灯りを点けた。俺の姿が少し薄くなった筈だ。

如何どうだい? 少し薄くなっただろう?」

 珍しい見世物を目にした子供みたいな顔で奴が頷く。恐怖心と好奇心との相克が如実だった。

「見ての通り、俺には実体が無い。お前からすると、幽霊みたいなもんだ。

 今度は、俺の手を握ってみな」

 俺は右手を奴の方に伸ばした。おっかなびっくりで奴も右手を伸ばしてくる。

 触れ合う直前で、奴の指先が止まった。自然な心理として警戒心が頭をもたげたようだ。

「心配するな。大丈夫だ。何も起きやしないから」

 不安げな顔を巡らせて確認を求める奴に対し、彼女が無言で頷き返す。

 決心したようだ。再び伸ばし始めた指が交差する。奴はてのひらをひらりひらりと泳がせた。何度やっても透過する。

「分かっただろ? 俺は幽霊みたいなもんだ。でも、生きている。但し・・・・・・、此方こっちの世界で」

「お前さんと信濃麗子とはんな関係なんだ?」

「お前を呼ぶ為の方便として、彼女の名前を使っただけだ」

 奴は「そうか」と短く呟いただけで、未だ掌を泳がせている。そして、右手を踝の上に戻した。此の不思議な現象を受け入れたようだった。

「俺と会って、如何どうしたいんだ? 一体、俺に何をさせたいんだ?」

――りストライクど真ん中の質問を投げて来やがる――

「その前に、お前。彼女の事、如何どう思う?」

如何どうって言われても・・・・・・。初対面で如何どう思うも何も、無いだろう?」

「もう一度、く彼女を見てみろ!」

 俺の強い口調に促され、奴が気後れしつつも、彼女の横顔を眺める。彼女は無表情を保っていたが、奴の視線に耐えかねて少し目を逸らした。

「彼女の事、如何どう思う?」

 俺からの同じ質問に、奴は「素敵な女性ひとだと思うよ」と小さな声で答えた。

 俺の場合、バルコニーで初めて彼女に会った時から、一目惚れだった。奴の場合、一目惚れとは行かないようだ。

――やっぱり、状況が状況だからか? それに、第三者の俺が間近に居れば、色恋沙汰の感情も湧き難いだろう――

 俺は腕組みしてしまった。

「これは何かのテストなのか?」

 痺れを切らせた奴が質問する。

「いや、テストなんかじゃない」

「それじゃあ、何だ?」

「説明するのは難しい。・・・・・・一言では」

「何だ? 先刻さっきの彼女と同じ事を言っているじゃないか」

――そうか、彼女も同じ事を言ったのか――

「何だか、全く事情が呑み込めないぞ」

 つい1時間前に抱いていた恐怖心を忘れ、奴は俺と普通に話している。

「お前に相談が有るんだ。相談と言うか・・・・・・、提案だな」

「はあ?」

「今日から俺達、ダブルデートをしないか?」

「はあ?」

「お前、今日から彼女と付き合ってみないか?

 まあ、今は頭も混乱しているだろうから、明日からでも」

「そんなポン引きみたいな事を言われたって・・・・・・。彼女の気持ちは如何どうなんだよ?」

「彼女とは既に話し合った事なんだ」

 駄々子だだっこを諭す父親の様に、俺は奴を黙らせようとした。

「じゃあ、何故、彼女が俺に直接言わない? 彼女は押し黙っているぞ」

 そう言うと、彼女を指差した。奴も引き下がらない。

「俺達2人は触れ合う事が出来ないんだ! 見ただろ! こうするしか無いんだ!」

 思わず大声で感情を爆発させてしまった。その場が凍り付く。

「俺だって、彼女をお前になんかに紹介したくないさ。でもな、俺では彼女を幸せに出来ないんだ」

 今度は小さな声で言い訳する。

「俺なら彼女を幸せに出来るかなんて、分からないんだぞ。

 その前に、彼女が俺を好きになるのか、それさえも分からないんだぞ」

 俺の気持ちを察した奴は、穏やかな声で冷静に指摘する。

「お前ら2人に恋愛感情が湧かなかったら・・・・・・。その時は、別れたら良い」

 俺の声音が更に弱くなる。少し投げ遣りな感じも滲む。

「お前さん、それで良いのか?」

「気持ち良いわけがない。でも、他の男と梨恵が付き合うよりは、お前の方が遥かに我慢できる」

 此の状況を考えれば、奴だって同じ結論に辿り着く筈だ。

先刻さっき、ダブルデートって言ったよな? と言うことは、其方《そっち)にも彼女みたいな女性が居るのか?」

「居る筈だ。でも、此方こっちの緒方梨恵を探しあぐねている」

「つまり?」

「だから、今は居ない」

「つまり、お前さんは俺達の仲人をしただけ?」

「そう言う事だ」

 10分か15分だろうか。猶も奴は頭の中を整理しようと努めていた。俺達3人は無言のままだった。

 だが、俺達の事情に納得した奴は、彼女の方に振り向き、彼女の方に座椅子を引き摺った。

 彼女が膝の上で組んだ両手に、奴が右手を柔らかく重ねる。幾ら渇望しても俺には実現できない。絶望と嫉妬が心の奥底でうごめく。

 でも、如何どうしようも無かった。現実世界で彼女を支える者が必要だった。

「改めまして。五十嵐健吾です」

 彼女がコクリと頷く。緊張で身体を堅くしている。

 奴は腰を浮かせ、彼女にもっと近付いた。そして、左手も添えて彼女の両手を優しく包み込む。

「先の事は分からないけど、焦らず、少しずつ知り合いになって行きましょう」

 俺は鼻の奥がツーンとなるのを感じた。

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