7. 相手探し

 5月も半ばになると、落ち着きを取り戻した2人の間には、在宅時も含めて以前と同じ暮らしが復活する。

 俺はグラスの氷をカランと言わせながらウィスキーを舐め、彼女はハーブティーの入ったマグカップを口にして、就寝前の最後の時間を過ごす事が多くなった。焦って話題を続けなくても、彼女の3畳間から流れるPOP音楽ミュージックを黙って聞いているだけで心が和んだ。

 ところが、安穏とした空気を壊しかねない決意を、俺には秘かに思い抱くようになっていた。トンネルが開通して以来、ずっと悩み、考え続けた果てに決心した結論だった。

 水曜日の晩。「何時いつまでも先送りするべきじゃない」と意を決した俺は、一つの提案を静かに話し始めた。

「ねえ、梨恵」

「なあに?」と、彼女が生返事する。

「俺・・・・・・。此の数週間、考えてきた事が有るんだ」

「なあに?」と、再び彼女が返事する。今度は俺の言葉に注意を向けている。

「俺の世界にも梨恵が居る筈だし、梨恵の世界にも俺が居ると思うんだ」

 彼女は要領を得ないらしく、黙って俺を凝視している。

「俺の世界でも君とは別の緒方梨恵が暮らしている筈だし、梨恵の世界にも俺とは違う五十嵐健吾が暮らしていると思うんだ」

 言葉の意味だけは得心したと双眸が告げるも、その先の内容を想像できないので、彼女は押し黙っている。

「お互い、別の自分達を探してみないか?」

 やっぱり彼女は口を開かない。小さな音量でラブソングが流れている。

「梨恵の事が好きだ。好きで、好きで、如何どうしようもない」

 彼女の両目が少し潤んだ。笑みを浮かべると、軽く頷いた。頷いた弾みで、左目から一筋の涙がこぼれ落ちる。

「でも、俺達は・・・・・・決して触れ合う事が出来ない。

 それだけじゃない。トンネルの存在がはかないものだって言う真実を思い知らされた」

 彼女の右目からも涙が流れた。

「俺達はもう良いとしをした大人だ。虚構の世界に安住していたんじゃ、・・・・・・駄目なんだ。

 現実の世界で結婚して、子供を産んで育てる事だって、考えなくちゃいけない。

 分かってくれるよね?」

 膝の上で両手を強く結んだ彼女は、躊躇ためらった挙句に弱々しく頷いた。

「だからね。如何どうだろう? お互い、別の自分達を探してみないか?」

 もう一度、同じ言葉を繰り返した。

「身代わりを探そうって言う意味じゃないよ。

 君と此方こっちの緒方梨恵は同じ人間だと思う。俺と其方そっちの五十嵐健吾も同じ人間の筈だ。

 だから、別の自分達を探し出して、ダブルデートしないか?」

 依然として、彼女は黙して語らない。

「このままじゃ、俺達。・・・・・・先に進めないよ」

 彼女は2度も頷いたが、俺の提案に賛成したと言うよりも、自分を納得させる為に頷いた感じだった。

 彼女の頭上に架かった壁時計が、踊るカラクリ人形を吐き出すと、軽快なメロディーで深夜12時を告げる。

「今日は、もう寝よう。

 今直ぐに返事を聞きたいわけじゃないんだ。気持ちの整理も必要だろうし・・・・・・」

 俺だって少しは後ろめたく思う。反面、状況が状況だけに、背信の感覚にも釈然としない。俺だって気持ちの整理は着いていないのだ。

 でも・・・・・・、無為無策に手をこまねいていては、先の展望が見通せないのも事実だ。俺達2人が袋小路にはまっている構図は否定しようが無い。

「梨恵にも考えて欲しかったんだ。突然、言い出したりして、御免よ」

 彼女は首を横に振って、俺の謝罪を受け流した。

「じゃあ、お休み。梨恵・・・・・・」

 彼女はコクリと頷いた。俺は床上灯フットライトの灯りを消して、立ち上がる。

 立ち去り際にトンネルを振り返ったら、彼女は両膝を抱え込み、顎を膝に載せて座り続けていた。一点を見詰める瞳には何も映っていないだろう。


 翌朝、普段通りに俺達は出勤前に顔を合わせた。彼女は、一見すると元気な様子だったが、空元気からげんきを装っていたに違いない。

 昨夜の相談事には一言も触れない。慌ただしい朝に話す事柄でもない。彼女の雰囲気から察するに、土曜日まで熟考したがっているようだった。


 目覚めたくなかった土曜日。双方の世界で朝から雨が降り始めていた。曇天に遮られた日光は薄暗くしか届かず、トンネルには陰鬱な空気が漂う。

 俺達は口数も少なく食事を終えた。今から、忌むべき話題に向き合わなくてはならない。昨夜までは目を背け、浅薄な会話に逃げ込んでいた。でも、延々と先送りは出来ない。そんな阿吽の呼吸を俺達は共有していた。

如何どうかな?」

 俺は静かに口火を開いた。

 彼女はフウッと長い息を吐く。そして、無言で一度頷く。まるで自分を勇気付ける様な仕草だった。

「私。貴方あなたの事が好きよ」

 彼女は俯いたまま、ポツリと言った。

「貴方の事が好き」

 もう一度、呟いた。

「でも、貴方と一緒に暮らせない事も理解している・・・・・・。残念だけど・・・・・・」

――俺と人生を伴に歩めない事が残念なのか、その事実を否定できない事が残念なのか。恐らく、その両方だろう。俺だって同じ気持ちだ――

「だから、貴方の提案はもっともだと思う。頭では納得しているの。でも、怖いのね」

「何が?」

此方こっちの五十嵐健吾さんが、貴方と同じ男性なのか如何どうかって言う事」

如何どう言う事?」

「だって、そうでしょ? 同姓同名でも、貴方と同じ人格だとは限らないわ」

「会ってみて、相性が合わないと思えば、接触を断つんだ」

 俺は力強く言った。

「もし、もしもよ。貴方と全く同じ男性ひとだったら?」

「そいつを好きになれば良い」

 俺は力強く断言した。

「でも、貴方への気持ちは如何どうなるの? 私の心は2つに切り裂かれるのよ!」

 彼女は、小さい声だったが、叫ぶように声を絞り出した。

 俺は少し間を置いた。そして、「緒方さん?」と、改めて呼び掛けた。

 彼女が顔を上げる。

「梨恵は今までに誰かと付き合った事が有るかい?」

 彼女は首を縦に振って、肯定した。

「結婚を前提とした交際だったの?」

 今度は首を横に振って、否定した。

「そうか。それじゃ、想像するのが難しいかもしれない。

 でも、梨恵が誰かを好きになって、結婚したくなった状況を想像してみて」

 俺は諭すような優しい口調で言った。彼女が涙目で頷く。

「その時にさっ。梨恵は自分の御父おとうさんを嫌いになると思うかい?」

 彼女は何度も首を横に振って、強く否定した。

「同じ事さ!、それと」

 彼女は俺を見詰めたままである。

「梨恵と俺とは、もう家族も同然だ! 少なくとも精神的にはね。

 だから、梨恵が別の男性と家庭を営んでも、俺の事を兄貴だと思えば良いんだよ」

 彼女を励ましつつ、俺は(自分に残酷な事を言っているな)と思った。そんな事は偽善だ。

「貴方。如何どうして、そんなに割り切って考えられるの?」

「俺は梨恵を愛している。だから、梨恵が幸せになる道を探りたい。ただそれだけだよ」

 自分でも寂寥感の滲む声音だと思った。でも、本心だ。

 観浄寺の住職に教えを受けた御蔭で心境が変化し、梨恵との邂逅かいこうは自分の魂の撚糸よりいとになっているんだ――と、信じられたのも大きな一因だった。

 彼女は目に溜った涙を拭うと、「五十嵐君って、大人なのね」と、言った。


 自分達の分身探しを決心した後、俺達は具体的な作戦会議を始めた。小手先の問題に頭を巡らせば、根本的な悩みから逃避できる。

 手始めに、電話を掛け合ってみた。でも、俺が梨恵の電話番号に掛けると、別の女性が応えた。梨恵が俺の電話番号に掛けると、「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」の音声メッセージが流れた。俺達は肩をすくめた。

「異世界でも電話番号が同じだなんて、そんなに都合良く展開しないよね」

――次に出来る手段は何だろう?――

「ねえ。ラインは如何どうかしら?」

「ライン?」

 世間一般の人が使いこなしている通信手段だとは知っていても、俺自身は使っていない。

「そう。私、学生時代の同級生とかにはラインで近況報告しているのよ。仕事の遣り取りでも使うし。試してみて!」

 彼女の指南でアプリをダウンロードした。苦労の末にようやくダウンロードに成功すると、交流相手の検索欄に“緒方梨恵”と打ち込んでみる。何人かの候補者が表示されたが、居住地から類推するに、彼女とは別人のようだ。

 その後、彼女からハンドルネームの候補を教えてもらい、幾つも試してみたが、1つもヒットしなかった。

 残念な気持ちと、ホッとした気持ち。何方どっち着かずの気持ちになる。

 気を取り直して今度は、彼女のスマホで五十嵐健吾を探したが、それっぽい相手は見付からなかった。俺自身がラインと無縁だから、不発に終わった結果に大して落胆しなかった。

 ライン以外の交流アプリも試してみたが同じ顛末を迎え、俺達2人は腕組みをした。

「こうなると、実際に足を運んで調べるしか無いみたいね」

 彼女の意見に俺も同調した。相手を探り当てる可能性の高い訪問先は、お互いの職場だ。但し、2人とも勤め人の境遇だから、直ぐには平日に時間を割けない。

 しばらく思案した末、一つのアイデアが閃いた。俺の呼び掛けに、彼女が「はいっ?」と返事する。

「明日の日曜日。俺が住んでいた独身寮を訪ねてみないか?」

「マンションを買わずに、今も住み続けているのかしら? 此方こっちの世界では」

「分からない。多分、退寮していると思う。

 でも、寮の管理人が何か教えてくれるんじゃないかな?」

「そうね。独身寮から手繰って行けるかもね」

「興国商事の独身寮は杉並区の永福町に在る。下北沢駅で乗り換えるだけなので簡単だ。一応、住所を言っておくと・・・・・・」

 彼女は一旦トンネルから姿を消し、隣室からメモ紙を持参する。住所を書き写す彼女を見ながら、俺は深呼吸する。

「それと、突然の訪問者である君が不審者扱いされかねないよね?」

 頷く彼女。自分で指摘しておきながら、俺は次の台詞せりふを言い淀んだ。でも、彼女には伝えておかねばならない。

「だから、信濃麗子の友人だと自己紹介するんだ」

「誰?」

「実はね・・・・・・、俺は離婚経験者で、元妻の名前が信濃麗子なんだ」

「結婚していたの?」

 微塵も想像してなかった彼女は、俺の告白に瞠目した。無理も無い。俺は過去の経緯を彼女に打ち明けた。

 5年前に恋愛結婚したが、多忙な商社マン生活に追われて妻を顧みず、夫婦の間に擦れ違いが生じた事。冷め切った結婚生活を復元しようと、子会社への出向を願い出るも、とき既に遅し。結婚生活は3年で幕を閉じた。独身寮に戻るくらいなら・・・・・・と、世田谷のマンションを購入したのだ。

「だから、男女愛は脆い。でも、大事に家族愛まではぐくめば強くなる――って、そう思うんだ」

「でも、此方こっちの五十嵐健吾さんは結婚生活を続けているんじゃ・・・・・・?」

「その可能性は否定できない。一方で、俺と似た人生を歩んでいるなら、既に離婚している可能性だって有る。

 少なくとも、信濃麗子の名前を出せば、其方そっちの五十嵐健吾は君に関心を示す、と思う」

 口元を引き締めた彼女の表情から察するに、俺の告白に困惑と神妙な感情を抱きつつ、今後の指針に了察と不安の入り混じった覚悟を固めたようだった。

「分かったわ。それで、信濃麗子って、んな漢字を書くの?」

「長野県を意味する“信濃”に、綺麗の“麗”。最後は子供の“子”だ」

 メモ紙に“信濃麗子”と手書きすると、「これで良いのね?」と俺に確認を求めた。俺が「そうだ」と首肯する。

 曲げた膝に顎を載せた彼女は、両脚を抱えた掌の中にメモ紙を凝視している。メモ紙を折ったり伸ばしたりと、細い指でもてあそんでいた。

「麗子さんって、名前の通りに綺麗な女性ひとだったのかしら?」

 俺はドキリとした。

――何て答えるべきなんだろうか?――

 俺が答えあぐねていると、彼女が畳み掛けてきた。

「私に麗子さんの面影を重ねているなんて事、無いわよね?」

「それは無い! 梨恵は、梨恵だよ。彼女とは全く違う」

 俺は梨恵の懸念を強く否定した。「良かった」と彼女が呟く。この短い遣り取りを経て、彼女は気持ちを事務的な方向に切り替えたようだった。

此方こっちの健吾さんを探す為に勉強しなくちゃいけないから質問するのよ。勘違いしないで。嫉妬の気持ちからじゃないのよ」

 長い前振りを言う彼女に、俺は「何?」と先を促した。

「麗子さんとは、如何どうやって知り合ったの?」

「仕事で接点が有った。彼女が取引先で働いていたんだ」

「年下?」

「うん。俺より1つ年下だった」

「出身は?」

「山形県。福島県と山形県は隣同士だから、意気投合し易かったんだな。今から考えると・・・・・・」

 大半はアンケート的な短い問いだった。俺も淡々と彼女の質問に答え続けた。

「他に何か知っておきたい事が有るかい?」

 彼女からの質問が途切れたので俺が確認すると、躊躇していた疑問を言い難そうに口にした。

「2人の間に子供は?」

「いいや」と、俺は首を振って否定した。心做こころなしか、彼女が安堵したように見えた。

――どうやら、梨恵は、心のわだかまりが氷解したとは言わぬまでも、落ち着いて来たようだ――

 一連の問答を通して頃合いを見計らっていた俺は、「そう言えば」と場違いに大きな声で話題を元に戻す。

「梨恵って、何処どこかの独身寮に行った経験って、有る? 大学の学生寮でも構わないけど・・・・・・」

 唐突な質問だったから、彼女は目をパチクリとさせた。首を振って、「経験が無い」と告げる。

「独身寮とは言うなれば、女に飢えた男共の巣窟だからな。あんまり綺麗な格好をして行くんじゃないぜ。

 其方そっちの五十嵐健吾に君を横取りされるのは我慢するけど、他の男に奪われるのは真っ平ご免だからな」

 俺の剽軽ひょうきん台詞せりふに、彼女は小声ながら声を上げて笑った。決意の夜に初めて発した笑い声だった。


 翌日曜日。緒方梨恵は興国商事の独身寮におもむいた。

 白地に紺の細い横ラインの入ったボーダープルオーバーに、紺色で七分丈のワイドパンツ。

 五十嵐健吾の警告に従ったつもりも無いが、カジュアル過ぎる第一印象で管理人に警戒心を抱かせては逆効果だと思い、素肌の露出は控えた。

 一方で、今日も雨が降ってジメジメしている。袖口の開いた服装ならば、カジュアル過ぎず、お洒落過ぎず、丁度良い塩梅あんばいだ。

 赤いパンプスを履き、赤地に黒玉が乗った天道虫テントウムシ模様の傘を差すと、店舗の商品展示窓ショーウィンドウに薄く映る自分の姿を横目に確かめ、(我ながら決まっているじゃないの)と満足した。

 独身寮の正門を通り、建物の中に入る。

 広い玄関口の脇には“管理人室”のプレートを掲げた窓口が有ったが、管理人の姿は見当たらない。

 梨恵が閑散とした玄関で佇んでいると、1人の入寮者が新聞を小脇に抱えて通り過ぎる。

 梨恵に「済みません」と声を掛けられた寮生は立ち止り、首だけを梨恵の方に向けた。

「管理人さんは、いらっしゃるでしょうか?」

 寮生が、無愛想な態度ながら、管理人室をノックして「おばちゃん、お客さんだよ」と大声で呼ぶ。梨恵が「有り難う御座います」と頭を下げると、彼は片手を上げて応え、去って行った。

 入れ替わりに、普段着にエプロン姿の中年女性が「はいはい」と忙しそうに姿を現した。

 梨恵は御辞儀をして、「緒方梨恵と申します」と自己紹介した。

 寮母は「はい」と生返事したまま、梨恵が要件を切り出すのを待っている。

「実は、此処に住んでいた五十嵐健吾さんの事で、訪ねて参りました。私は彼の知人です」

 過去形で“住んでいた”と言い切っても大丈夫か?――と不安だったが、まずは言い切った。そして、慌てて付け足した。

「正確に言うと、五十嵐健吾さんが交際していた信濃麗子さんの友人なんです」

 間接的な自己紹介に、寮母は「はあ」と間の抜けた声を返した。

「信濃麗子さんは今、実家の山形に住んでいて、此の寮に来られないものですから、私が代理で伺いました。メッセージを伝えて欲しいと、彼女から頼まれているんです。

 五十嵐健吾さんは既に退寮なさっているとは聞いているのですが、彼の連絡先を教えて頂けないものでしょうか?」

 回りくどい説明を畳み込んでおけば、万一、五十嵐健吾が独身寮に居ても誤魔化せる筈だ。

「五十嵐健吾さん?

 ちょっと待ってね。入寮者の入れ替わりが早いものだから、直ぐには名前が思い出せなくて。

 だって、これだけ大きな独身寮でしょ? 結構な人数なのよ」

 世話好きの女性みたいだ。そうじゃないと、寮母は務まらないのだろう。それに、総合商社の独身寮だけあって、女性の訪問客にも驚かないようだった。

 彼女は、念仏の様に「忙しい、忙しい」と唱えながら管理人室に引き返すと、5分程で梨恵の元に戻って来た。

「五十嵐健吾さんね。3年前に退寮しているわね」

「御結婚を機に・・・・・・ですか?」

「どうでしょうね。個人的な事情は詮索しないように心掛けているから」

 奮起して探りを入れた割には収穫がゼロだった。

 梨恵としては(五十嵐健吾と信濃麗子が結婚してませんように)と、祈るしかない。(他人の不幸を願うんじゃないのよ)と、自分に釈明しながら・・・・・・。

「それで、五十嵐さんの連絡先は、教えて頂けるものでしょうか?」

「それがねえ~」

 寮母は額の小皺こじわを寄せた。

「それって個人情報でしょう? 会社から禁止されているのよね。見ず知らずの方に教えるなって。

 貴女あなたは五十嵐さんの御友人なんでしょうけど、私には確認しようがないから・・・・・・。御免なさいね」

「いいえ、とんでもない。そうかな、と思っていました」

 そう言うと、梨恵は自分の赤い手提鞄ハンドバックから1通の白い封筒を取り出した。

「此の封筒に五十嵐さんの連絡先を書いて、ポストに投函して頂けるでしょうか?」

 切手を貼っただけの封筒には、梨恵の名刺と短文の手紙を入れてある。その手紙には、

『私は緒方梨恵と申します。

 信濃麗子さんからの言付ことづけを預かっています。御渡ししたい物も有ります。

 ですから、私に御連絡頂けないでしょうか』

 と、書き留めている。

 寮母は梨恵の依頼を快く引き受けてくれた。これで1つ目の作戦が動き始める。

――此方こっちの五十嵐健吾はいぶかしむに違いない。短いメッセージからは殆ど何も読み取れない――

――そもそも、五十嵐健吾と信濃麗子との結婚生活が続いていたら、この作戦は万事休すだ――

――逆に、此方こっちでは五十嵐健吾と信濃麗子との間に面識が無い可能性だって考えられる――

――念の為、五十嵐健吾の勤務先も訪問すべきだろう――

 梨恵は、アパートに帰る道々、徒然つれづれと思案を巡らせた。


 俺の方は、職場訪問以外に妙案を思い付けず、最初から緒方梨恵の勤務先を訪問した。

 梨恵の勤務先、エンジョイ・ジャパン社は、新宿駅東口から徒歩15分程の雑居ビルで5階フロアーを借り切って営業している。

 顧客訪問から自宅直帰の日、新宿駅で途中下車した俺は、雑居ビルの小さなエレベーターに乗り込んだ。

――もし、緒方梨恵と行き成り鉢合わせしたら、如何どうしよう?――

――開口一番、何て言えば良いだろう?――

 鈍重な速度で昇って行くエレベーターの中で、俺は階数を刻む電光表示を凝視しながら、ロケットの発射管制官さながらに緊張した。

 ガクン。目的階への到着を知らせる振動音を合図に開いたドアの先には、廊下ではなく、エンジョイ・ジャパン社のオフィスが広がっていた。目の前には接客用カウンターがしつらえてある。

 執務机の数から類推するに、60人程度の従業員が働いているようだ。大半の従業員が外出中で、見渡した限りでは10人ちょっとの従業員しか残っていない。

 女性従業員の1人が椅子をクルリと回転させ、俺に営業スマイルを振り撒く。

「いらっしゃいませ。どうぞ、此方こちらへ」

 女性の手引きに従い、俺はカウンターの椅子に腰を下ろした。

「どちらに御旅行ですか?」

 女性は旅行会社の社員として当然の質問を投げ掛ける。私的な理由プライベートで押掛けた俺は、恐縮して猫背になり、囁き声で来店目的を告げた。

「お忙しい処、済みません。実は、此の営業所で働いている緒方梨恵さんに用事が有りまして・・・・・・」

 今度は、俺が卑屈さを漂わせた愛想笑いを浮かべ、彼女が背筋を伸ばした。

「緒方梨恵、ですか?」

 女性は不審がっている。俺は慌てて、

「私、中学時代の同級生なんですが、同窓会の幹事から「勤務先は分かったけれど、電話番号が分からない。だから、彼女と会ってこい」と命令されまして・・・・・・。ヘヘヘっ」

 能面“増女ぞうおんな”の如き無表情を保つ女性が“般若はんにゃ”の形相に変わらぬよう、俺は矢継ぎ早に言葉を継ぐ。

「どうも、彼女。実家とは疎遠らしく、大学卒業時に就職先は教えたものの、転居先を伝えるのは怠っているようでして・・・・・・。

 携帯電話の会社を乗り換えた際に電話番号も変わってしまい、御両親とは音信不通なんです」

 依然として、女性の表情は変わらなかった。

――もしかして、俺を訪問販売の営業マンと勘違いしているのか?――

 俺は「申し遅れました。私、こう言う者です」と名刺を差し出し、弁解じみて言う。

「ですから、何かを緒方梨恵さんに売り突けようとか、そう言う類では決してありませんから」

 女性は、俺の名刺を受取りはするが、表情を崩さない。名刺と俺の顔を交互に見比べながら、やおら口を開いた。

「緒方梨恵と言う名前の社員は、当営業所に居りませんが・・・・・・?」

 思わず「えっ!」と奇声を上げてしまった。俺の困惑した反応を見て、女性の表情に人情味が戻る。

「何かの間違いじゃないでしょうか。此方こちらの営業所で合っていますか?」

 緒方梨恵の探索が頓挫するか否かの瀬戸際だ。俺は必死で考えた。

「それは・・・・・・、緒方梨恵がエンジョイ・ジャパンさんに就職していない、と言う意味でしょうか?」

 俺は恐る恐る質問した。

「そこまでは分かりません。今日現在は在籍していないと言う事です。

 お辞めになったかもしれないし・・・・・・」

此方こちらはエンジョイ・ジャパンさんの本社ですよね?」

「そうです。本店です」

「であれば、昔、彼女が働いていたか如何どうか、分からないものでしょうか?」

「人事なら把握しているでしょうが、社員情報を部外者に教えられませんよ」

 ガックリと肩を落とした俺は、謝礼の言葉を呟くと、腑抜けた足取りで辞去した。

 エレベーターに乗り込む直前、もう一度フロアーを振り返った。10名前後の従業員の殆どは若い女性だった。緒方理恵が数年前に退職していたなら、年齢的に彼女と同僚だったとは考え難かった。

 外出先から戻る古株社員を待ち伏せするにしても、誰がエンジョイ・ジャパン社の従業員なのか?――を、雑居ビルの出入口で識別するすべが俺には無かなかった。

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