5. プラトニック・ラブ

 黄金週間ゴールデンウィークの入り端に発生する道路渋滞を遣り過ごし、5月1日に俺達は出発した。

 俺の翌日帰宅は予定通りだったが、更に翌日の憲法記念日には、風来坊的な気侭旅きままたびを楽しむと宣言していた彼女までもが戻って来た。

 夜9時過ぎ。トンネルに現れるや否や、開口一番で不意の帰還を弁明する。

「何だか、気持ちが続かなくって・・・・・・」

 自分でも不思議だ――と言わんばかりの表情をしている。一方の俺は破顔した。期せずして再会できた喜びは一入ひとしおだった。

 彼女はライダースーツを脱ぎもせず、ピンク色の座椅子にドッカリと腰を落とした。勢い余って、リクライニング式の背凭れが後ろに倒れ、両脚を投げ出した拍子に浮いた座面が再び畳床たたみどこに着地する。

 天井を仰いで「疲れたわ~」と、虚脱した身体の奥から大きく嘆息する。

 俺に出来る事なら、喜んで彼女の足をマッサージするのだが、「お疲れ様」といたわる位が関の山だ。

 彼女は「足が蒸すわ」と靴下を脱ぎ、ビール缶のプルタブをプシュっと開ける。

 ゴクゴクと勢い良く半分以上を一気飲みした挙句、鯨の潮吹きみたいにプハーっと吐く。

「一応、警告しておくけど、此のトンネル、僅かだけど臭いも通すからね」

 一瞬キョトンとなった彼女は、慌てて持ち上げた右足を自分の鼻に近付けた。

「もしかして・・・・・・臭う?」

 俺は吹き出し、首を振って否定した。事実、臭っていない。

 それでも、自分をさらけ過ぎたか――と反省したようで、「ちょっと待って」と言い残すと雲隠れした。

 彼女の行動を予想できなかった俺は、20分か30分、あるじの居ないピンクの座椅子を手持無沙汰に眺めていた。

 ようやく戻って来た時の彼女は、いつものピンクの部屋着スウェットに着替え、髪の毛をインド人の様にバスタオルで巻いていた。右手には2本目のビール缶を握っている。

 照れ隠しにテヘヘと愛想笑いを振り撒きながら、腰を降ろす。

「ちょっと行儀悪かったわね。バイクを乗り回しているとね、構わなくなっちゃうのよね~」

「早かったんだねえ。黄金週間の最終日にしか君とは会えないんだって諦めていたよ」

「私も、そのつもりだったんだけど。でも・・・・・・何となく、気持ちが乗らなくなったのよね。

 今日も昼過ぎまで、3泊目のホテルまで足を伸ばそうか、如何どうしようかって悩んでいたんだけど・・・・・・。結局、面倒臭くなっちゃった」

 シャワーを浴びた頬が薄紅色に上気している。少しは酔いも回り始めたらしく、眼付きがトロンとしている。

「晩飯は食べたのかい?」

「うん。途中のラーメン屋で食べた。貴方あなたは?」

「俺も食べたよ。例に拠って、スーパーの弁当だけど」

 彼女は「そうなの」と気怠い相槌を打つと、手繰り寄せた粒袋椅子フィットチェアに頭を預ける。舌の根も乾かぬ内に行儀悪く、足で座椅子をトンネル外に押しやる。

 俺も寝転がり、黄金週間前に2人して買い揃えた粒袋椅子フィットチェアを枕に向き合う。お互いにツーリング旅行を報告し合うも、疲労困憊の彼女は睡魔に勝てず、小さな寝息を立て始める。

「ねえ、緒方さん?」

「ん?」と寝惚けまなこでの鈍い反応。

「今日は、もう寝ないか? 君、体力の限界みたいだよ」

 彼女は粒袋椅子フィットチェアから頭を離すと、モソリと座り直した。背伸びをしたり、肩を動かしたりする。

「う~ん。駄目かな?」

 昼寝から起こされた幼子おさなごみたいな声で自問自答している。でも、

「じゃあ、悪いけど。・・・・・・今日は休ませて頂きます」

 と観念するなり、カクリと頭を前に倒した。御辞儀をした積りらしい。彼女は、3畳間の電灯を消し、隣室のベッドに向かった。


 翌日の昼過ぎ、正座して現れた彼女は、三つ指を突いて深々と叩頭ぬかづいた。

「昨日は醜態を晒しまして、失礼致しました」

 わざと他人行儀な言い方をして、茶目気ちゃめっけを匂わせた。

「いえいえ、とんでもない」と笑顔で答える俺に向かい、真顔に戻って確認した。

「確か、昨夜。此のトンネルは臭いを通すって、貴方、言ったわよね?」

「うん。君の化粧の香りが時々漂うよ。微かな香りだけどね。それが如何どうしたの?」

「ちょっと秘密」

 悪戯子いたずらっこの様な笑みを浮かべて誤魔化し、俺の追及を調弄はぐらかした。

「貴方、御飯の準備は済んだの?」

 俺は「ううん」と否定した。「どうせ弁当を買うだけだもん」と付け加えるや否や、「また弁当なの?」と五月蝿うるさい。

「仕方無いじゃないか。俺のキッチンには鍋の1つも無いんだから」

「そろそろ自炊にトライしてみたら? 料理の出来る男性は女性に持てるわよ?」

「自炊なんて億劫だよ。君の様に料理の得意な女性と結婚するから、全く問題無いよ」

「そう言う問題じゃないと思うけどなあ~。まあ、此処で言い争っても栓無いわね。

 それじゃ、私は晩御飯の準備をするから、貴方も外に行ってらっしゃい」

 彼女にトンネル圏外へと追い立てられた俺は(何処で時間を潰すべきか?)と途方に暮れた。俺にとっての最優先事項は彼女との会話を楽しむ事であり、下手に遠出して帰宅を遅らせるなんて考えられない。

――居間リビングに残っていても、トンネルに足を踏み入れなければ、彼女にバレないんだけどな・・・・・・。

 小賢しい悪巧みが頭を去来したが、どうせ「何をしていたの?」と質問される筈だし・・・・・・と、黄金週間に馴染んだ自転車で多摩川流域を散策する事にした。

 時計を気にしながらの気忙しいサイクリングから帰宅した俺は、トンネルとは反対側の壁掛けテレビの前に陣取り、早々はやばやと惣菜をツマミに焼酎を飲んでいた。

 夕方の報道番組で行楽地のニュースや高速道路の渋滞ニュースが流れ始めた頃、背後から彼女が「貴方あなたぁ!」と俺を呼んだ。何だか、新婚夫婦のごとき錯覚に陥る。いそいそと俺は腰を上げた。

 彼女が赤い卓袱台の上に小振りの土鍋を載せて待っていた。

「もう飲んでいるの?」

「うん。休日のささやかな楽しみだからね」

「偶には休肝日を設けなさいよ」

 そんな彼女の新妻気取りが俺には心地良かった。

「明日は禁酒するよ」

「テレビを観ていたの? それっぽい音が聞こえていたけど」

「うん、そうだよ。背中の方にテレビが有る。君が現れたから電源スイッチを切ったけどね」

「うんうん。それでね、此の土鍋に顔を近付けてみて!」

 彼女は、自分から話題を振っておきながら大して関心は無いようで、昂揚感を隠し切れずに俺を督促する。

 キムチ鍋だった。真赤まっかなスープの中に浮かぶ食材は、牡蠣かき浅蜊あさり、豆腐やニラ、モヤシなんか。

 俺は前屈みになって土鍋に顔を近付け、深く息を吸い込み香りを嗅いでみる。唐辛子の刺激臭が微かに鼻孔をくすぐった。

「美味しそうな臭いだね」

 俺の感想を聞いた彼女は喜色満面で、両手を顔の前で合わせる。

「良かったあ~。

 味見は出来ないから、せめて香りだけは届けて上げたいなと思って・・・・・・」

 彼女の心遣いに俺は感無量だった。

「スープから作ったの?」

「正直に白状しちゃうと、市販の鍋スープは使ったの。

 でも、香りが弱いかなあと思って、唐辛子を追加で幾つも入れたの」

 道理でスープが極採色的に赤いわけだ。

――凄く辛口に仕上がったんじゃなかろうか?――

「香りは堪能させてもらったけど、緒方さんって辛党なの?」

 彼女は首を左右に振った。

「味見はしたの?」

 またもや首を左右に振った。

一口ひとくち、飲んでみたら?」

 彼女は恐る恐るレンゲを土鍋に浸した。真赤なスープがレンゲに流れ込む。

 慎重にレンゲを唇に運び、熱い紅茶を啜るようにズズーっと空気を吸い込んだ。立ち所にゲホゲホと咽返むせかえる。

 俺は焦って「大丈夫か?」と彼女の背中を叩いた・・・・・・つもりだったが、素通りした左手が宙を泳ぐ。空しさに指先が縮む。

「ちょっと唐辛子を入れ過ぎた・・・・・・」と、涙目で反省の弁を述べる彼女。

「でも、食べられない事は無いわ。今、水を持ってくる」と、何処までも前向きだ。

 彼女はグラスとピッチャーを、俺は替わり映えのしないスーパーの弁当を卓袱台に並べた。

「これで準備万端よ。さあ、食べましょう!」

 珍しく彼女は終始無言で、食材とスープを黙々と口に運ぶ。無駄口を叩くと集中力が途切れて、辛さに打ち負かされてしまいそうだ。

 汗の玉が額に浮かび、顎から汗の滴が垂れ始めた。湿気を含んだ髪の毛がペタリと頬に貼り付いている。

 彼女がグラスに水を注ぎ、小休止と言わんばかりに飲み干した時、俺は口を開いた。

「緒方さんって、韓国料理が好きなの?」

「ううん、嫌いじゃない程度」

 虫歯治療の麻酔直後みたいな口調で彼女が答える。俺に香りを嗅がせるため、季節外れの5月に激辛の鍋料理を作ったのだ。

「緒方さんって、んな料理が好きなの?」

「滅多に外食しないの」

「外食は嫌い?」との質問には首を横に振る。舌が痺れているのだろう。

 水をグラスに注ぎ、飲み干す。水で満腹になりそうだ。

「1人で外食するのって、寂しいじゃない? 食事の感想を話す相手も居なくて、黙々と食べるのはちょっと・・・・・・」

 突然、「タオルを持ってくる」と、彼女は立ち上がった。5分後に現れた時には、洗顔して髪もかしていた。言葉通り、タオルを首に巻いている。

 気を引き締め直して、キムチ鍋に再トライする。

 俺の方はとっくに食べ終わっていた。焼酎を口に含みながら、緩慢なスピードで食べ続ける彼女の様子を眺めていた。

「ところで、緒方さん。イタリア料理は好きかい?」

「嫌いじゃないわ」

「じゃあ、さあ。今度さぁ、イタリア料理を食べに行かないか?」

 脈絡の無い俺からの提案に、彼女は豆を食らった鳩の様な顔をした。

「勿論、俺達は一緒には行けない。

 でも、同じレストランで食事をして、帰宅後に感想を伝え合う事は出来るよね?」

 彼女の目に浮かんだ戸惑いが納得に変わった。

「面白いアイデアね。毎日、此処で食事していても、変り映えがしないものね」

「賛成かい?」

 彼女は、顔全体に結露した汗をタオルで拭うと、学級会に参加する生徒の乗りで「賛成!」と右手を挙げた。

んな御店にするの? 候補は有るの?」

 身を乗り出す彼女。

「俺は、仕事柄、レストランに小麦粉を納めていると言っただろ?」

 ウンウンと大袈裟に頷く彼女。

「俺の御客の中で、美味しいと評判のレストランにしよう。実は、近所に隠れた名店が有るんだよ」

 内緒話の雰囲気で、彼女に少し顔を近付ける。秘密の共有は心を躍らせる。彼女の目が期待と興奮に輝く。

「それでね、早速なんだけど、“善は急げ”って言うし、明日、行ってみないか? そして、夜、食事の感想を言い合う。・・・・・・如何どう?」

「分かった。了解よ!」と、彼女は二つ返事で賛成した。

 それでは・・・・・・と言う事で、俺は心当たりのイタリアン・レストランを紹介した。


 翌日の日曜日、2人は4時半過ぎに自宅を出発し、くだんのレストランに向かった。

 店舗名は、レストランテ・イタリアーナ。捻りも何も無い。店の主人は、料理の腕に自信を持っており、下手な小細工は必要ないと豪語する強者つわものだ。実際、料理は旨かったし、客足も安定している。

 新規客よりも固定客を大事にするレストランで、家庭の祝い事なんかで贔屓ひいきにしてもらうのが無上の喜びだ――と言うのが主人の口癖だ。現に近隣の地元住民が客層の大半を占めた。だから、長い休日シーズンは予約も不要で、正に穴場的存在だった。

 ピンクベージュのラッフルドレスを身にまとった緒方梨恵の胸元で、マンタの翼を思わせる左右の襟が柔らかく重なり、エレガントな雰囲気を醸している。

 少し低めの黒いハイヒールを履き、手には小さな黒いハンドバック。シルバーの細いネックレスを飾って、セミフォーマルに仕上げていた。、自己主張の強い三十路の女に勘違いされぬよう、飾りの大きいネックレスは避けたのだ――と、出発前に解説していた。

 レストランの壁には白い漆喰が塗られ、角の所々を覆う装飾用煉瓦が乙張めりはりを付けている。屋根は茶色のスレイト葺き。

 上部が丸みを帯びた木製扉を開けると、来客を告げるドアベルがカランと鳴った。

 フロアーを見渡すと、窓側には4人掛けの木製テーブルが2列並び、白いテーブルクロスで覆われていた。反対側の壁には、独り客用のカウンター席が並んでいた。

 夕食には少し早い時間帯である故、本日最初の来店客が緒方梨恵だった。

 白いコック帽を被った髭面のシェフが、白の調理服に全身を固めて店の奥から現れた。白毛の混ざる癖毛と顎鬚あごひげを見て(50歳過ぎかしら?)と品定めした。

 ニッコリと笑みを浮かべたシェフが、「いらっしゃいませ」と挨拶する。

「御一人様ですか?」

 梨恵は愛想笑いを浮かべると、「そうです」と肯定した。

「未だ早い時間帯なので、御客様も他に居ません。窓際の席は如何いかがですか?

 狭いながら、庭のガーデニングが妻の自慢なんです。草花を愛でながら、食事を楽しんで頂けますよ」

 梨恵はシェフの薦めに「有り難う」と返事し、シェフの案内に続いて窓際のテーブルに進んだ。

 革生地のメニュー表を手渡したシェフは、一礼すると厨房に姿を消す。

 梨恵は窓の外を見た。丁寧に刈り込んだ芝生の脇に幾つもしつらえた煉瓦囲いの花壇では、様々な花が綺麗に咲き乱れていた。花の種類を識別する事は叶わずとも、手入れの行き届いた中庭の眺めは梨恵の心を安穏とさせた。

 水を注いだワイングラスと食卓用手器カトラリーを収めた小さな籠を盆に載せて、シェフが厨房から戻って来る。ヨットの帆に似せたテーブルナプキンを梨恵が膝の上に広げると、テーブル脇に控えていたシェフがワイングラスと籠を並べた。グラス表面には水滴が浮かび始めている。

「ご注文は如何どうなさいますか?」

「御薦めのメニューは何でしょうか?」

「御客様のお腹の空き具合に依りますね」

「正直言うと腹ペコです。お昼を満足に食べられなかったので・・・・・・」

 別に忙しかったわけではない。前日のキムチ鍋の所為せいで胃腸の調子が悪かっただけである。でも、もう大丈夫だ。

 含羞はにかむ梨恵に微笑ましさを感じたシェフが笑みを浮かべ返す。

「御客様は多分、当店は初めてですよね?」

 シェフが用心した口調で質問した。梨恵が「はい」と頷く。

「であれば、此の御薦めコースを食べてみませんか?

 パスタかピッザ。主菜料理メインディッシュはラム肉の赤ワイン煮です。スープとサラダも付きますので、お腹一杯になると思いますよ」

「でも、それだけの量を食べ切れるでしょうか? 食べ切れなくて、残すと悪いわ」

「大丈夫です。当店の御客様は殆どが女性の方です。

 勿論、男性の連れ添い客もいらっしゃいますが、その様な方はパスタの大盛りを御注文なさいます」

「安心しました。では、その御薦めコースにします」

「パスタかピッザの選択は?」

「マルガリータを」

「畏まりました。

 ところで、御客様は何方どなたかの御紹介でいらっしゃったのですか?」

「もしかして、会員制のレストランだったのですか?」

「会員制ではありません。お越し頂く方は何方どなたでも大歓迎です。

 いえね、住宅街の奥まった場所でしょう? 飛び込みの、しかも女性客に来て頂くのは珍しいのです」

「ええ。実は友人が美味しい店だと薦めてくれたので、今日は思い切って参りました。興国食糧の五十嵐健吾さんが、御宅に小麦粉を納めているとかで、御縁が有るそうです」

 興国食糧の名前を耳にしたシェフは、「はて?」と怪訝な顔をした。

「私も老齢としですねえ。失礼ながら、御友人の御名前に思い当たりません。材料の仕入れはもっぱら妻に頼っているものですから。

 御来店頂いた御客様なら、こうして私自身が御挨拶しますので、殆どの方を把握しているのですが・・・・・・」

「いいえ、気にしないで下さい。

 仕入先も多いでしょうから、御主人の記憶に無くても当然でしょう」

 温和なシェフは一礼すると、厨房に戻って行った。


 その夜、「如何どうだった?」と、俺の方が得意顔で彼女に感想を求めた。

「とっても美味しかったわ」

「そうだろ!」と俺は気を良くした。

「あの店の主人はねぇ、佐々木健助さんって言う名前なんだけど。イタリア料理を本場で長く修行していたんだって。だから、味付けがもう、完全にイタリア人なんだよ」

「それでなのね。

 何処どこ如何どうってハッキリは言えないけど、今まで食べたイタリア料理とは微妙に味が違うなって、食べながら感じていたのよ。

 ピザに塗ったケチャップも何か違ったもの。甘さが控え目って言うのかしら? トマトソースも手作りなんでしょうね」

 料理好きらしい感想を彼女は口にした。

「それでね、奥さんとはイタリアで知り合ったらしいよ」

「もしかして、奥様はイタリア人?」

「違うよ。日本人。久子さんって言うんだけど、健助さんと釣り合いの取れた肝玉きもったま母さんタイプだよ。

 旅行中の奥さんとレストランで出会って、御主人の方が一目惚れしたって、俺に惚気のろけた事がある。如何どうやって帰国した奥さんとの交際を続けたか?――まではいてないけど」

「そうなの。異国で恋に落ちるなんて、ロマンチックねぇ。

 奥様とは御目に掛かってないけど、きっと鴛鴦おしどり夫婦なんだわ。だって、夫婦で切り盛りしているみたい。奥様が仕入れ担当だって、御主人が言っていたわ」

「そうなんだ。小麦粉の注文は奥さんから受けるね。健助さん、料理の腕前は名人級なのに、パソコンが全く駄目なんだもん」

「でも、ラム肉のワイン煮は美味しかったわ。ラム肉って臭いがキツイって思い込んでいたけれど、ワインで煮ると臭みが全く無くなるのねえ。今日は勉強になったわ。

 まあ、和食でも料理酒で臭いを消すから、洋食でも同じ原理なんでしょうけど・・・・・・。

 でも、安い料理酒と違って、ワインを料理に使うのは気が引けるわよね。だって、高いもの・・・・・・。

 でも、ラム肉なら安いから、小瓶を買えば、トータルでは足が出ないのかしら?」

 彼女は頭の中で算盤そろばんをパチパチと弾きながら、ブツブツと独り言を言う。「でも」「でも」を連発し、目紛めまぐるしく考えを巡らせる彼女。俺は、わざと意地悪を言って、彼女を現実に引き戻した。

「セコイなあ。食材をケチると、美味しい料理は作れないよ」

「賢い主婦って言いなさいよ。限られた給料で家計を遣り繰りするのは大変なんですから」

「君は未だ独身生活を謳歌している筈だろう? 今から貧乏性を発揮していたら、人生、楽しくないぞ」

「アリとキリギリスって童話を知らないの? 若い頃に苦労しておけば、きっと後で楽になるんだから。

 それに女だったら、何時いつでも結婚できるように、心の準備はしているものなの!」

「もう三十路だもんね」

「煩い!」

 梨恵は粒袋椅子フィットチェアを俺に投げた。身を捩った俺の頭を透過し、直ぐ後ろでクシャリと小さな衝突音を立てた。粒袋椅子フィットチェアのビーズ玉が擦れる音だ。

「乱暴だなあ。やっぱり、君って邪々馬じゃじゃうまだ」

 彼女は肩を怒らせて腕を組み、プイッと横を向いて膨れっ面をした。


 レストランテ・イタリアーナで予行演習を済ませた俺達は、その後もレストラン巡りを続けた。映画館に足を運んだ事もある。遊園地なんかは、帰宅後に体感を共有するのが難しいので、行かなかった。美術館巡りも、展示物の数が多過ぎて憶えていられないので、足が遠のいた。

 メインイベントは別々に経験せざるを得ないが、本物のデートだって喫茶店に入って感想を言い合う。俺達の場合、感想を伝え合う場所が自宅と言うだけで、デートを重ねていると言えなくもない。

 俺は、彼女の姿を少しでも鮮明に映し出す為、演劇の舞台装置を真似て簡単な仕掛けをしつらえた。

 具体的には、手芸店で購入した2メートル四方の黒い生地を居間《リビング)の壁に垂れ下げている。また、天井の照明は点けず、壁際の床に置いた2つの床上灯《フットライト)からの柔らかい光で照らし上げる風にしていた。彼女も3畳間の照明を消して床上灯フットライトの光だけにすると、恋人達が焚火を囲む様な、ムード感に溢れた空間を演出できる。

 平日は会ったり会わなかったりだった。もっぱら俺の帰宅が遅いのだが、偶には彼女が遅い夜もある。

 俺の帰宅が午前様になったら、彼女は3畳間の灯りを点けたままで就寝し、卓袱台の上には“おやすみなさい”と置き手紙を残していた。置き手紙を見た時は空虚で物悲しい気分になる。


 8月27日、俺の誕生日。火曜日だったが、仕事帰りの俺を待っていた彼女が卓袱台に小さなデコレーションケーキを飾った。長い蝋燭と短い蝋燭が3本ずつ、クリームの雲面に並んでいる。

 彼女は誕生日の歌を口遊くちずさみ、次なる反応に戸惑う俺を「一緒に吹き消しましょう!」と促した。「せーの」で6つの炎が掻き消され、トンネル内は心地良い暗闇に包まれる。

 プレゼントの受渡しは叶わぬ夢だ。俺達は代わりに、スマホを掲げ、自撮りし合った。2人が微妙に前後して並ぶ写真をスマホの待受け画面とした。

 就寝までの一刻ひとときが、俺の人生で最も感激した誕生会となった。


 暑く長い夏が重い腰を上げ、足早に秋が駆け寄ると、ハロウィンの喧騒が街に溢れる。10月31日の木曜日。半日年休を取得した2人は仮装に初挑戦して、渋谷の歩行者天国に繰り出した。勿論、道路を闊歩する群衆には独りで混じった。

 短い秋を追い遣って、昔ながらの冬が到来する。何時いつしか通勤にはコートが欠かせなくなった。夜の街頭にはイルミネーションが輝き、クリスマスソングが流れ、楽しげながらも何処どこ沈寂しめやかに2013年の終わりを告げ始める。

――梨恵と出会えた2013年は、本当に良い年だった・・・・・・。

 去年までとは違い、肩を寄せ合うカップルを横目で眺める事もしない。俺達2人の関係が現状止まりだと言う厳然たる真実は十分に承知している。それでも、俺は仮初かりそめの幸福に浸っていた。

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