4. 交際中・・・・・・の積り
彼女と遭遇してからの初めての週末。
俺は土曜日の昼に起き出してからずっと、ワクワク、ソワソワして落ち着かなかった。木曜日と金曜日を独りで過ごしただけなのに、彼女との再会が無性に待ち遠しかった。1週間前には、彼女の存在さえ知らなかったと言うのに、だ。
彼女は「東京には夕方に戻る」と言っていた。夕方まで特段の用事も無く、ラーメン屋で腹を満たした俺は暇潰しに駅前商店街を散策した。
普段は素通りする商店街の一画に雑貨屋が有り、初めて足を踏み入れた狭い店内を物色してみると、赤く丸い
直径50センチ弱の小ぢんまりした大きさで、折畳み式の脚が3つ付ついている。
――そうだ! 彼女と会う時には、これを真ん中に置こう。何となく、2人で会っている雰囲気が味わえる筈だ――
足取りも軽く帰宅すると早速、
床に胡坐を組んだ
「どうせ暇だし・・・・・・、ネット通販で適当な椅子を探してみよう」と、俺はキッチンカウンター横のテーブルに座り、携帯パソコンに電源を入れた。頬杖を突きながら、通販サイトの画面をクリックしたりスクロールする。
1週間後の週末にしか宅配便を受け取れないが、俺は赤い
陽が沈む頃、俺は卓袱台に惣菜弁当を広げた。ビール片手に料理を
「あら! 可愛い卓袱台ね」
と、俺の姿を見降ろしながら、赤い卓袱台を指差した。
「良い感じだろ?」
「うん。もう食事は済んだみたいね。私は、これから作るけど」
「これから? 自分で作るの?」
「そうよ。女なんだから、自炊して当然でしょ?」
「じゃあ、
彼女は俺からの提案を少し吟味してみたが、
「やっぱり、向こうで食べてくるわ。床に食器を並べて食べるなんて、行儀が良いとは決して言えないものね」
と、呆気なく却下。それでは
「それにしても、此の卓袱台は良いアイデアね。私も同じ大きさの卓袱台を買ってくれば、2人で食事できるわねえ」
「なっ! 良いアイデアだろう? 明日にでも買って来なよ」
「
「駅前の商店街」
「そっか。私も明日、見に行くわ。
でも、こうやって一緒に家財道具を揃えるなんて、何だか私達、新婚夫婦みたいね」
――でも、2人が触れ合うことは出来ない――
閉塞必至の事実を思い出し、2人して急に押し黙った。その沈黙を誤魔化すように、俺が空元気な声を上げる。
「次は何を揃えるかな? 俺は
「フィットチェア?」
「ああ。赤い奴。長く座っていると、お尻が痛いからね」
フローリングの床を軽く小突く俺に、彼女は「思い出した。夕御飯を作らなくちゃ」と退場の前触れを告げる。
「作って、食べて・・・・・・、だから、1時間くらいで戻るわ。その間に御風呂に入ってなさいよ。他に遣る事、無いんでしょ?」
「ああ」
引き止め
実際には繋がった
本当に1時間後、彼女は再び現れた。
「早かったねえ。ラーメンみたいに簡単な食事だったの?
それとも、出来上がった料理を皿に盛らず、行儀悪く鍋から食べたのかい?」
俺が意地悪く
「貴方って、失礼な発言を次から次に繰り出せるわねえ。まあ、それだけ賢いんでしょうけど」
「君の作る料理に興味を持って当然だろ? だから、一緒に食べないかって提案したんだから」
「分かったわ。明日を楽しみにしてらっしゃい! 私、料理は得意なんだから」
彼女は両手を腰に当て、勝気に胸を反らせて俺に宣言した。
「今日は
「肉と野菜を炒めた料理と煮た料理。それに、味噌汁と御飯よ」
「何だか
「
俺は「分かった、分かったよ」と両手を少し上げて、降参のポーズを取った。
「ところで、昨日の出張は
「聞いてよ。もうクタクタなんだから。朝、家に帰ってから、夕方の4時までベッドの上で倒れていたんだから」
勿体振って
出張報告の中身は
最初は座って耳を傾けていた俺だが、「ちょっと待って」と中座を願い、寝室から持ち込んだ枕に肩肘を突いて寝そべった。
長い出張報告を終えた彼女は、フーっと深い息を吐き、
「そう言えば、もう直ぐ、
君みたいに旅行会社で働いている人は、今更、旅行には行かないんだろうねえ。やっぱり、家でグダグダする予定なのかい?」
彼女の
「そんな非生産的な過ごし方をするわけないじゃない?」
「へえ~。どっか、行くんだ!」
「行く
「
「未だ決めてない」
「でも、黄金週間だから、ホテルは予約無しで泊まれないんじゃないか?」
俺の指摘に、彼女は背筋を伸ばし、
「まあ、普通の人ならばね。私は旅行会社の人間よ。特別の
フフンと鼻息を鳴らしたように見えた。
「その秘密を教えてくれよ。
「
「良いわ。教えて上げる。それはねえ、従業員用の仮眠室」
予期せぬ答えに、俺は目をパチクリさせた。
「ホテルは24時間営業なのよ。当然、従業員の誰かが宿直するわ。私は宿直者用の仮眠室に泊まるの。
勿論、素泊まりだけど、お風呂には入れるわ。だって、料金は払うんですもの」
「それでも、急に押し掛けたら、ホテル側だって迷惑だろう?」
「そりゃあそうだけど、仕事仲間だもの。私の知り合いは先方の責任者だからね。そこは“持ちつ持たれつ”よ」
「ふうん。どの業界にもアングラの世界が有るんだなあ。
でも、交通機関は
「バイクだもの」
「バイク?」
「そう。私の趣味はツーリング」
「ふう~ん、そうなんだ。きっと、君って
「何よ! 邪々馬って。本当に失礼しちゃうわねえ」
「だって、そうじゃないか。こうやって話していても、そんな感じだぜ」
「私の悪口ばかり言ってないで、貴方は
俺は憐れみを請う表情で「悪口じゃないって」と弁明した。寝転んだ姿勢の釈明では宥める効果も期待薄であったが・・・・・・。
「俺は多分、自宅でグダグダしてる。だから、君との会話が楽しみだったんだ、正直に言うと・・・・・・」
俺の残念がる本音に感じ入ったのか、彼女の口調が少し憐憫を帯びた。
「本当に
「多分」
「貴方、趣味とか楽しみって、何か無いの?」
「アウトドアを楽しむ趣味は持ち合わせて無いなあ。
精々ビデオ屋で借りた映画を
「呆れた」と、彼女が目を丸くする。
「貴方、外を出歩かないと
「残念ながら、そうじゃない。君の方は、もしツーリングに行くとしたら、
「恐らく、信州の方角でしょう。ライダースーツを着ていても、東北は未だ肌寒いと思うし・・・・・・」
「見せてよ」との頼みに「良いわよ」と速攻で返事した彼女は、軽やかに起立して襖を閉めた。左の方からゴソゴソと荷探しの音が微かに伝わる。
直ぐに襖が開き、「ジャ~ン」と
全身の基調は深紅に染めた革製品。肩から袖、脇から腰、そして
彼女と一緒だったら、もう一度バイクに乗っても良いな――と、俺は思った。学生時代にはバイクで
「
「ホンダのVTR250。ネイキッドタイプのバイクよ。オイルタンクは、勿論、赤。
順序としては、バイクの色に合わせて、ライダースーツも赤い奴を選んだんだけど」
「結構、飛ばすのかい?」
「いいえ、安全運転よ。私は、バイクも好きだけど、遠乗りが好きなの」
「だから、旅行会社か。海外にも行ったりするの?」
「海外旅行は未経験。裕福じゃないし、英語も話せないしね。
貴方には海外経験が有るの?」
「学生の頃にリュックを背負った貧乏旅行を何度か。『地球の歩き方』ってノウハウ本を知ってる?」
彼女は「名前だけ」と首を横に振りながら、リクライニング式の座椅子に腰を降ろした。ライダースーツをポイっとトンネル外に投げる。
「
「物価の安い国さ。タイやインドだね。興国商事に入社してからは、何度かアメリカに出張して、小麦を買い付けて来た」
「へえ。それじゃあ、英語、話せるんだ!」
俺は自慢気に頷いた。
「総合商社に入社する人は違うわね。大学は
「また今日も御見合い路線の質問になっているぞ」
初めて真面に交わす俺達の
俺の求めに応じて、今度は襖を閉めなかった。でも、3畳間の電器を消した途端、トンネルが断絶したようになった。
彼女に生活改善を促された俺は、翌日曜日の午前中に新宿まで出向き、自転車を物色した。手始めに、
夕方、自宅に帰ると、彼女の現れた痕跡が残っていた。新たな卓袱台が
卓袱台にはノートの1ページを破り取った紙切れが置かれ、紙面には『家事』と大きく書かれていた。
午後3時過ぎ。俺はパソコンを開くと、黄金週間の旅程候補をインターネットで探し始めた。
運動不足が祟って、直ぐに筋肉痛になるだろう。長くて1泊2日。自ずと行き先は伊豆半島か山梨辺りに絞られる。「だったら、海を見よう」と即決で伊豆半島に決めた。
休日のネット・サーフィンである。そう言えば・・・・・・と、彼女の出張報告に登場した場所を調べようと思い立った。今夜の話題仕込みにもなる。
調べている内に、1つ奇妙な事実を発見した。ホテル・クローバーを名乗る宿泊施設が存在しないのだ。富山県南砺市には、小原ダムに堰き止められた湖が有り、湖畔には“くろば温泉”が有る。でも、1軒の日帰り施設が有るだけで、宿泊施設は皆無だ。
――
俺は腕組みをして暫く考え込んだ。
話題に挙がった2軒目と3軒目のホテルは有るようだ。ホテル・クローバーだけが無かった。
陽が翳り、部屋の中が薄暗くなる頃。彼女の買った卓袱台の像が色濃くなってくる。
ピンク色の
俺は、部屋の中を移動し、卓袱台の前に座り込む。彼女の顔を見上げる感じになる。
「もう御飯、食べたの?」
「いいや。未だ少し早いしね」
「私、これから作るの? 少し待ってくれる?」
「勿論だよ」
「料理しないの?」
「しないよ。弁当を買ってる」
俺はキッチンカウンターを指差した。彼女には見えないのだが。
「また弁当なの? 呆れた!」
彼女が両手を腰に当てて仁王立ちになった途端、胸の辺りから上が見えなくなる。頬を膨らませているに違いない。
「弁当ばかりじゃなくて、少しは
「俺が自炊するより余程、弁当の方が真面だと思うけど・・・・・・。
まあ、言い争っても仕方無いから、料理を作っておいでよ」
「そうね。じゃあ、待っていてね」
彼女は視界から消えた。
更に小一時間。彼女が料理を盆に載せて戻って来た。ブリ大根、野菜炒め、白米に味噌汁。味噌汁が零れぬよう、慎重に盆を卓袱台に置いた。食膳代わりの盆は卓袱台の中央線を少々侵蝕している。
俺は顔を近付け、彼女が「
「盛り付けも丁寧だし、見た目はバッチリだよ」と褒めた後、「味見できると最高なんだけどなあ」と叶わぬ願望を口にした。残念がる俺に彼女も「そうよねえ」と消沈した声音で同調する。
「さあ、食べましょう。貴方も弁当を出したら
自分達を鼓舞するように発した彼女の提案に、俺も「そうだな」と気持ちを入れ替えた。スーパーで買った弁当と総菜を卓袱台に並べ、2人で膳を囲む。俺達は箸を動かしながら、
他にも色んな話をしたが、話題の提供役は
彼女が
「ねえ、緒方さん」
彼女の顔が上がる。俺は、
「
怪訝に感じたらしく、モグモグしながら黙って俺を見ている彼女。
「昨日の夜、富山県のホテル・クローバーの事を話していたよね?」
話の展開が読めない彼女は、箸を咥えた
「実は、そのホテル・クローバー。存在しないみたいなんだ」
「
「インターネットに拠ると、南砺市のくろば温泉には日帰り施設だけで、宿泊施設は無いんだ。
その日帰り施設の名前も、ホテル・クローバーとは違う。多分、自治体が運営しているんだと思う」
「何だか、狐に
「他のホテルは2つとも存在したよ」
彼女は胸を撫で下ろした。俺が事実を発見した時に抱いた不安と似た気持ちを、彼女も感じたのだろう。
2つの世界が微妙に異なる事は既に理解しているが、改めて「存在しない」と宣告されると、落ち着かない気分になる。
「そう考えると、これもなんだが、君の賃貸アパートは何階建て? まさか、3階建てじゃないよね?」
「ええ。2階建て。私の部屋は、2階建ての2階。」
「そうだろうね。此処は3階だよ。8階建てマンションの3階。
元々は小高い丘だったんだろうけど、その上半分を切り取って造成した広い土地に此のマンションは建てられているんだ。
「確かに小高い丘の斜面に建っているわ。丘の斜面を階段状に切り崩していて、その1つの段にアパートが建っているわ」
「やっぱりね。地面の高さが違うんだ。だから、3階に住んでいる俺と、2階に住んでいる君とが、こうして知り合う事が出来たんだね」
「神様の巡り合わせだわ」
確か2日前にも、彼女は同じ様な
――もしかして、運命論者? まあ、大概の女の子は占い好きだし、誰でも似たり寄ったりなんだろう――
「折角の週末なのに、気味の悪い話をして、御免よ」
「ううん。でも、違う発想をすれば、2つの世界の間違い探しを楽しめるって事よね?
何だか、ワクワクしちゃうわ。探検しているみたいで」
「君って、前向きだなあ」
その後、彼女は自身が
俺が唯一利用する店舗は、食品と日用品に特化したスーパーマーケットのチェーン店で、
食事の後片付けと入浴の為に中断した会話を再開してからも、俺達の間違い探しは続いた。
入浴中の彼女を待つ間、彼女の卒業した中学校と高校の存在をインターネットで確かめたが、俺の世界にも存在した。流石に公立校なのでホームページの記載内容も限られ、大した情報は得られなかった。それでも、彼女は「良かった」と安堵した。
映画や音楽の類は、2人の趣味が異なっていたので、両世界の相違点は
視点を変えて世界情勢を比較すると、2008年のリーマン・ショックは
日本の政治については大きな違いが有って、
多少の相違は有っても、運命と言うか、大きな時代の流れは同じ方向を歩んでいると感じる。
俺達は、間違い探しに飽くと、修学旅行の夜みたいに初恋経験を打ち明け合った。
大学時代をレスリングに捧げた俺には無縁だったが、軟派サークルで女の子と合宿に行ったら、きっと今夜の様に楽しい時を過ごしたんだろうと思う。
3畳間には時計が無いみたいだが、俺の座る
――もっと話していたい・・・・・・。
俺は、会話が途切れた途端に彼女が「寝ましょう」と言い出す事を恐れ、次に繰り出す話題の弾籠めに忙しなく頭を働かせ続けた。
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