3. 自己紹介

「お待たせ!」

 ビール缶を片手に、彼女の50センチほど手前の位置に座り込む。プシュリと開けた缶ビールを傾け、プハーっと鯨の潮吹きの如き盛大な息を吐く。

「風呂上がりのビールは美味しいわよね」

「うん。君もビールをく飲むの?」

「週末、お風呂にゆっくり浸かった後だったらね。シャワーで済ます平日は飲まないかなあ」

「俺もシャワーだったけど、ビールは飲むな」

 リクライニング式の座椅子に腰を据えた彼女は、足裏を合わせた両足の甲を手で掴んでカエルのポーズを取り、柔軟体操にいそしんでいる。

「今日は宴会じゃなかったの?」

「いや、宴会。接待で飲む酒と自宅で飲む酒とは全く違うしね」

「それはそうだわ。でも、総合商社に勤務しているんだったら、毎日が接待なんでしょ?」

「ああ、それそれ。正確に言うと、今の勤務先は興国食糧なんだ。興国商事の子会社で、俺は出向の身分だよ」

 彼女は「そうなの?」と確認し、俺も「そうだよ」と復唱した。

「興国商事って、丸の内じゃなくて、大田区に在るんだなあって、昨日は“目から鱗”だったわ」

「御免、御免。でも、昨夜の状況で、クドクド説明したって理解できなかっただろ?」

「そりゃあ、そうね。それで、やっぱり接待は多いの?」

「毎日じゃないけど、まあ多いかなあ。君だって、昨夜は午前様だったし、接待が多いのかい?」

「滅多に無いわ。昨日はプライベートの宴会」

「彼氏と?」

「違うわよ。深夜まで飲み歩く彼氏が居るんだったら、今夜、貴方あなたと向かい合っていないわよ」

「確かに。じゃあ、彼氏は居ないの?」

「友達でもない貴方に答える義理は有りません」

 彼女はわざと仏頂面を浮かべた。

「そう言う貴方は、如何どうなのよ?」

「俺だって、友達でもない君に答える義理は無い筈だぜ」

 俺がニヤリとすると、彼女も悪戯子いたずらっこみたいな笑みを浮かべた。

「真面目な話、昨日は誰と飲んでいたの?」

「学生時代の女友達2人と。その内の1人が彼氏と別れたとかで、そのの愚痴をずっと聞いていたのね。その挙句、終電を逃してしまったの」

「そう。それは可哀そうだったね」

 誰が可哀そうなのか?、ハッキリしない相槌を打った。

「その彼氏とは長く付き合っていたのかな?」

 彼女は「学生時代からの交際だから・・・・・・」と、左手の指を折り始めた。

「もう、7、8年って言う処かしら?」

「そう。それじゃ、君達。30歳を目前にしたキャリアウーマンだ!」

 彼女は口に手を当て、不用心な発言を後悔した。そして、眉尻を上げて俺を睨む。

「嫌な人ね。誘導尋問が御上手な事。どうやら、貴方、油断できない男性ひとみたいね」

「もし、本当に油断ならない男だったら、君に悟らせないよ」

 俺は軽く笑いながら、彼女の先入観を打ち消した。

「それに、俺は君に触れる事も出来ないんだぜ。悪さの仕様が無いよ」

 上半身を前傾させた俺は、彼女の左脚に手を伸ばした。彼女の足を透過した俺の右手がペタリと床に着く。

「確かに・・・・・・。或る意味、貴方は世界で最も人畜無害な男性だわ」

「そうそう。理解してくれて嬉しいよ」

 彼女の警戒心を刺激せぬようり気無く、とぼけた声で俺は質問を重ねた。

「それで、君は29歳位なの?」

「貴方って、本当に執拗しつこいわね。年齢は秘密だって、昨日も言ったでしょ!」

 彼女は両頬をプーっと膨らませた。わざと怒った顔が可愛い。

「そう言う貴方。確か30歳を過ぎた頃だって言ったわよね?」

「ああ、32歳だよ。今年の8月で33歳になる」

「32歳って言えば、サラリーマンとしては中堅よね。興国商事の子会社でんな御仕事をしているの?」

「興国食糧は輸入した小麦を製粉会社に卸して、製粉会社の小麦粉を中小の食品メーカーに納入している。パン屋とか製麺所とか、色々な個人企業が取引先さ」

「大変そうねえ」

「もう慣れたよ。そう言う君の方は?」

「私? 私の仕事は旅行ツアーの企画。

 そうそう、明日から北陸に2泊3日の出張だわ。だから、明日の晩は会えないわよ。それを伝えなきゃいけないから、早くから貴方の帰りを待っていたの」

「俺と早く会いたかったって、素直に白状しなよ」

自惚うぬぼれの強い人ねえ。昨日会ったばかりなのよ。無我夢中になる筈が無いでしょ!」

 俺の冷やかしを笑いながらなす。

「それで、北陸出張じゃあ、んな仕事をするんだい?」

「宿泊ホテルとの料金交渉よ。

 ツアー料金が安くないと御客が集まらないでしょ。でも、北陸って、新幹線が2年後に開通しちゃうから、長距離バスでの移動が許されないエリアになっちゃうのよ。如何どうしても見劣りしちゃうから。

 ところが、JRって中々、値引きしないのよねえ」

 彼女は、如何にも気が重いと言う風に、深い溜息を吐いた。

「だから、ツアー成立には宿泊ホテルの協力が不可欠なのよ」

「それはそれで大変そうだね」

 彼女は「まあね」と軽く応じ、上半身だけでウ~ンと背伸びをした。

「仕事の話は止めましょう。楽しくならないから。

 それより、五十嵐さん。貴方は何県の出身なの? 私は熊本県の出身」

「福島県だよ」

「それじゃ、地震で苦労したんじゃない? 其方そっちでも地震が起きていれば・・・・・・の話だけど」

「東日本大震災だろ? 此方こっちでも大きな津波被害が出たよ。3月11日は大変な一日だった」

「あらっ? 3月11日に地震が発生したの?」

「そうだよ」

此方こっちは3月15日だよ。微妙に違うのね」

「そうらしいね」

「福島第一原発も?」

 上目使いになった彼女が恐る恐る尋ねた。俺は「ああ」と頷いた。

「やっぱり止まっているの? 放射能も問題になっているの?」

「ああ。多分、君の世界と同じ影響が出ているよ」

「それじゃあ、御家族は避難されているの?」

「いいや。幸い、実家は危険地域から離れているから。それに、田圃たんぼを放棄するのもね。でも、風評被害で苦労しているよ」

「そう。それは御気の毒ね・・・・・・」

 小さな音量ながら流れていた音楽が場にそぐわないと感じたみたいで、彼女はラジカセの電源スイッチを切った。居間リビングに寂寞とした空気が淀んだ。

「貴方、長男なの? 実家の農業を継がなくて構わないの?」

「何だか御見合いみたいな会話だなあ」

「そうね」と同意した彼女は、ウフフと笑った。

「俺は次男だよ。だから、東京生活さ。

 替わりに兄貴が親父の田圃を手伝っている。でも、兄貴も農業を続けるか如何どうか、悩んでいるよ」

「止めるなんて考えちゃ、駄目よ! 御兄さんを応援して上げて」

 強く主張する彼女に俺は少し面食らった。

何故どうして、そんなに強く言うんだい?」

「御免なさい。他所よその話に他人が口を出しちゃ、駄目よね」

 彼女を責めるつもりは毛頭無い。素朴な疑問を口にしただけの俺は、悄気しょげ返る彼女に慌てた。

「いや、別に構わないよ。でも、何か、君は農業に特別な思い入れを持っているの?」

「私の実家も農家なの。いいえ、正確には、農家だった・・・・・・」

 意味深な言い回しに俺は少し身構え、続く言葉を待った。

「私の実家では梨と西瓜すいかを栽培していたの。でも、御父おとうさんが亡くなってね。

 熊本に残っている母親1人じゃ手が回らないから、畑は全部売っちゃったの」

「そうなのか。君んも苦労したんだなあ・・・・・・」

「私が早く結婚していれば、旦那さんが御父さんの跡を継いだかもしれないけど、今更そんな事を考えても・・・・・・。手遅れよねえ・・・・・・」

 俺は黙り込んでしまった。家族以外の人間が軽々しくコメント出来る内容ではない。

「御父さん、農業に誇りを持っていたの。私が男なら話は簡単だったんだけど。今も農業とは無関係な仕事をしているし、親不孝な娘だわ」

「だから、君は西瓜すいかが好きなんだね? パジャマやマグカップの絵柄が西瓜一色だもんね」

「そうなのかしらねえ」

 彼女はマグカップを繁々と眺め、口に運んだ。俺もビール缶を一気に煽った。

「君、何を飲んでいるの?」

「これ? ハーブティーよ。朝までグッスリ眠れるように」

「もう冷めたんじゃないか?」

「貴方の言う通り・・・・・・。もう冷たい」

「紅茶を淹れ直さないか? 俺も他の酒を持ってくる」

「そうね。そうしましょう! じゃあ、ちょっと部屋を出るわよ」


 彼女を見送った俺は、居間リビングをキッチンまで移動する。グラスに氷を入れ、カウンターに並んだ酒瓶の列からジンを選ぶ。

 彼女は未だ戻って来ない。お湯でも沸かし直しているんだろう。

 グラスの中を指で掻き回しながら先刻さっきの場所に戻ると、腰を下ろして胡坐を掻く。今度は俺が待つ番だ。

「お待たせえ~」

 彼女の脚が戻って来た。直ぐにストンと全身が濃いピンク色の座椅子に落ちて来た。

 両手でマグカップを抱え、フウフウと湯気を吹いていたが、流石さすがに湯気までは識別できない。

「君のマンションはんな間取りなんだい?」

「マンション? マンションじゃないわ。賃貸アパートよ。2Kの狭い賃貸アパートよ」

「そうなの?」

「ええ。此の押入の向こう側。つまり、貴方の座っている方ね。其方そっちの8畳間で殆ど生活しているの。此方こっちは台所とユニットバスなんかの水回り」

 左手を横に広げ、水回り設備の方向を指差す彼女。

「此の部屋は3畳と狭いので、殆ど遣わないの。収納スペースって感じかなあ。

 着替えも此の小部屋でするのよ。此方こっちにしか押入は無いから」

 彼女の説明を聞いた俺は、「あれっ?」と素頓狂すっとんきょうな声を上げた。

「今朝、君は出勤の支度を整えて現れたよね? 3畳間で着替える姿は見なかったけどなあ」

「やっぱり、早い時間から待ち伏せしてたのね。寝る前に洋服一式をベッド脇に移しておいて、正解だったわ」

 彼女は、左手で胸の前を軽く押さえ、安堵の仕草をした。

如何どう言う事?」

「昨夜の段階で、押入前のスペースが貴方に筒抜けだと私は認識していたのよ。

 私だって年頃の女なんだから、貴方に覗かれるかもしれない場所で着替える筈ないじゃない?」

「確かに。しかし、男としては残念だなあ~」

「貴方って、本当にスケベねえ。恋人になら喜んで下着姿も見せて上げるけど、貴方は恋人じゃないしね」と、立てた左手の人差指を車のワイパーみたいに振りながら、忌憚の無いコメントを寄越す。

「明日の洋服も隣の部屋に持って行くのかい?」

 推察を込めた俺の質問は、首を左右に振って否定する。

「だって、トンネルの範囲を確認したもの。明日から安心して、部屋の此方《こっち)側で着替えるわ」

 上半身を捩じり、マグカップを持った右手で自分の後ろを差した。

「昨日の夜は、此のスペースに収納ケースが積み上がっていたでしょ?」

 昨夜は確か、最上段の収納ケースを抜き去り、自分の頭だけを覗かせたのだった。

「今日、会社から帰った後、押入の収納ケースを全て部屋の反対側に移動したの。だから、こんなスッキリしたスペースが出来たのよ」

 彼女は、伸ばした両手で大きな円弧を描き、自分の座っている空間を誇示した。少し自慢気である。

「押入の此方こっち側は?」

 俺は左手を上げてバルコニーを指差した。

「昨日と同じ状態。コートなんかを吊り下げているわ」

「君。押入、押入って言うけど、普通、上下に仕切られているよね? 仕切り棚が見えないけど?」

「無いわ。以前の住人が改造したみたいで、仕切り棚が無いの。

 布団で寝ないひとにとって、仕切り棚は遣い勝手を悪くするだけですからね」

「でも、ハンガーを掛けるパイプみたいなものは如何どうなっているの? 押入の右半分と左半分を仕切る壁も無いみたいだけど」

「無いわよ。天井の中央から垂れている金属製の支柱がパイプを支えているの。パイプの反対側は押入の壁に固定されているけど」

「ふ~ん。じゃあ、こうやって会話し易いレイアウトになっているんだ!」

「本当にねえ。偶然にしろ、私達の出会いを神様が応援しているみたい」

 俺が感嘆の声を上げ、彼女がクスリと笑った。

「逆に、貴方のマンションはんな間取りなの?」

「俺の方は3LDK。君の背中の方が寝室だとは分かっているよね。

 渡り廊下を挟んで、寝室と居間リビングとは反対側にも2部屋ある。物置ものおき替りにしか遣っていないけどね」

「広いのねえ。それだけ広いと家賃も高いんでしょ? 幾らなの?」

「いや、賃貸じゃないんだ。持家だよ、中古だけど」

 彼女は「持家なの?」と大きな声で驚いた後、「総合商社なら子会社に勤めている人だって違うわねえ」と嘆息した。

「いや、今は出向中だから、興国商事の社員と同じ給料をもらっているんだ。

 それでも30年の住宅ローンを組んで、やっと購入したんだ。どうせ直ぐに独身寮を追い出されるし、ね」

「定年まで子会社勤務なの? 折角、総合商社に就職したのに・・・・・・」

「親会社に戻るかもしれないし、興国食糧に骨を埋めるのかもしれない。別の子会社に移る可能性だって有るよ」

「その時、給料は如何どうなるの?」

「また、御見合いみたいな会話に戻っているぞ」

 俺の指摘に手を口に当て、「御免なさい」と謝った。

「まあ、構わないけどね。子会社に転籍すれば、給料が下がる代わりに、退職金が手に入る。

 退職金で足りなきゃ、此のマンションを貸した家賃で返済するさ」

「貴方って、第一印象とは違って、堅実なんだ。

 でも、立派な持家を持っているなら、早く結婚しなくちゃ! 結婚したがる女性は多いでしょうに。選り取り見取りじゃなくって?」

「そう上手くは行かないよ。君なら結婚してくれるかい?」

「ええ、喜んで!」

 彼女は右手を高く挙げて花嫁に立候補し、童女の様に破顔した。

「まあ、尻軽女と勘違いされては困るから、もう少し焦らすけど・・・・・・」

 2人とも空想に過ぎない事は承知している。気の利いた冗句に満足し、「アハハ」「ウフフ」と笑い合った。


 翌朝早く、緒方梨恵は東海道新幹線に飛び乗った。

 白のチノパンを、桜色のブラウスとパンプスで、上下からサンドイッチする配色のコーディネートだ。首にはスカーフを巻いている。悔しいけれど、彼の言う通り、自分は三十路を目前にした女。桜色のブラウスを着るには後ろめたい気もするが、季節柄、大目に見てもらえるだろう。

 今回の出張目的は、秋の旅行ツアーに組み込む宿泊旅館の候補を増やす事だ。

 定番の北陸観光スポットの金沢、富山、黒部辺りから少しだけ離れた辺鄙な温泉地。交通の便が悪くて集客に悩んでいる温泉旅館が狙い目だ。

 でも、客不足でサービス精神を忘れた旅館をツアーに組み込めば、却って旅行客の反感を招くので、バランスの取り方が難しかった。まあ、旅行会社の目利きが問われる真骨頂だと言える。

 名古屋駅で降りてレンタカーを借り、高速道路を飛ばして富山に抜ける。道中、幾つかの温泉街を回る工程だ。

 宿泊代を浮かせる為に、富山から東京への戻りは深夜バスを使う。旅行ツアーの料金を抑えるには、経費節減の地道な積み上げが欠かせない。

 会社の理屈は理解しているが、最近は肉体的疲労で挫けそうになる。早朝に池袋のバスターミナルに到着して、世田谷の自宅のベッドに倒れ込んだら夕方まで寝てしまう。もう若くはないのだ――と、嫌でも自覚してしまう。

 緒方梨恵は、なんとか約束通りの時刻に1軒目の温泉旅館に到着できて、ホッと安堵した。

 正午前後から宿泊客が到着し始まるまでの数時間。旅館としても相対的に暇な時間帯なら、宿の女将おかみが相手をしてくれる。

 もし遅刻したならば、高い確率で商談が上手く進まない。得てして殆どの女将の人柄は温和だが、結論を急げば気忙しくなって、腰を据えた相談にならない。

 フロントエリアの応接ソファーに案内された緒方梨恵は、名刺を差し出し、女将に自己紹介した。エンジョイ・ジャパン社の社名の下に、商品企画部マネジャーの肩書が印字してある。

「本日は、こんな富山の奥地まで足を運んで頂き、有り難う御座います」

 和服を上品に着熟きこなした女将が、両手でうやうやしく戴いた梨恵の名刺をテーブルに置いた。刺繍を施した名刺入れを帯の内側から取り出した女将は、自分の名刺を物腰の柔らかい仕草で差し出す。

「ホテル・クローバーの女将をしております、富園美鈴で御座います」

 女将は40歳代半ばに見える。ソファーに半分だけ腰を掛け、背筋をピンと伸ばして座っている。これだけ姿勢の良い女性なら、体型を隠す和服に甘えず、日頃から健康と体力維持に励んでいる筈だ。

 近隣にフィットネスクラブとも思えず、(如何どうやってエキササイズを続けているのだろう?)と、梨恵は詰らない事を考えた。

「お宿の名前は、くろば温泉にちなんだのですか?」

 女将は「そうなの」と微笑んだ。

「でも、くろば温泉をもじってクローバーに転じるなんて、女性らしいセンスですよね。

 ホテルのロゴマークも四つ葉のクローバーですし、やっぱり、女性客が多いんですか?」

 女将は含羞はにかんだだけで何も言わなかった。

――どうやら若い女性客の取込みに失敗しているらしい。であれば、横文字の名前は寧ろ逆効果なのかも・・・・・・。

「私は初めて此処に伺いましたが、目の前に湖が広がっていますし、自然に癒される素敵な場所ですね。宿泊の御客様にも評判が宜しいんでしょうね?」

 会話を勢い付かせる糸口が欲しい処だ。別の視点で、無難な面を褒めてみる。

「お褒め頂いて、有り難う御座います。

 湖と言っても、小原ダムに堰き止められたダム湖なんです。けれども、湖には変わりがありませんからね。今の時期は新緑が映えて、向こうに見える山並みが瑞々しいでしょう? 水面みなもに映る山の姿が映し鏡の様ですし・・・・・・」

――女将さんが話に乗って来たわ――

「秋に山々が紅葉しますとね、辺り一帯が赤と黄色に染まって、本当に綺麗な景色になるんですよ。冬には雪が積もって、一面の銀世界になりますしね。今日とは違う趣きを四季折々に楽しめるんですよ」

「想像するだけで心が躍りますね。長期滞在して静かな環境で静養したい御客様には人気なんでしょうね」

――女将さんの気分を高揚させる為に、ヨイショ話をもう1つ――

「そう言えば、世界遺産に登録された五箇山の合掌作りの集落が近くですよね? 確か、菅沼集落と相倉集落でしたか」

 梨恵は顎に人差指を突けて記憶を呼び覚ます。

「やっぱり、世界遺産を見学にいらした御客様が多いんですか?」

「そうだと有り難いんですけどねえ・・・・・・」

 梨恵の思惑に反して、女将は表情を曇らせた。

「世界遺産としては、岐阜県の白川村の方が有名でしょ? 観光目的の御客様は、白川村を見学した後、高速道路を使って名古屋に向かうか、それとも富山に戻るか。富山に戻るとしても、此の南砺なんと市は素通りしちゃうのよ」

 梨恵も沈んだ声で「残念ですね」と相槌を打つ。

「そうなの。ホテル・クローバーの女将としては、少し悔しいわ」

「旅行会社の人間なのに勉強不足で申し訳ありません。

 その白川村と五箇山とは、如何どう違うのでしょうか? 同じ様に合掌作りの家屋を見学できるのでしょう?」

「それはね、家屋の数なの。

 白川村が最も大きな集落で、相倉、菅沼と家屋数は少なくなってしまうの。御客様としては、最も迫力のある白川村に足を運ぶわよねえ」

 確かに不利な条件である。これだけ寸足らずな条件が重なれば、旅行ツアーに組み込む交渉は遣り易い。梨恵は、質問の目的を軌道修正し、セールスポイントの仕入れに取り掛かった。

「ところで、女将さん。

 南砺市の自慢って、何をアピールすれば良いでしょうか? パンフレットに掲載する様なセールストークですけれど」

「歴史好きの方には平家の落ち武者伝説かしら。石川県との県境には、平維盛これもりと木曾義仲が合戦したと言い伝わる峠が有ります。

 加えて、加賀藩の時代、此の辺は火縄銃の火薬を生産していたそうです。山々に囲まれた辺鄙へんぴな場所ですから、軍事的な秘密を守るには好都合だったのでしょうね」

「分かりました。

 今度はホテルについて、お伺いします。料理で何かアピールする材料が有りますか?」

「此の狭い地域に限れば五箇山豆腐と山菜料理しか有りませんけれど、富山湾が近いですからね。富山と同じ新鮮な食材を御提供できますよ」

「くろば温泉は如何いかがですか?」

「私は良い温泉だと自負していますけれど・・・・・・女将の私が言うよりも、如何どうでしょう。貴女あなたが実際に確かめるって言うのは? 勿論、タオルは御貸しします。

 各地の温泉に詳しい緒方さんの方が、私よりずっと素敵なキャッチフレーズを考えて頂けるんじゃないかしら?」

「有り難う御座います。お言葉に甘えまして、此の後で、お風呂を体験させて頂きます」

 梨恵は軽く頭を下げた。

 そろそろ本題である。梨恵は薄茶色のショルダーバックの中から電卓を取り出した。

「事前にホームページを拝見した処では、2人1部屋の場合、此の料金だと理解しています」

 梨恵は電卓をパチパチと叩いた。液晶の数字を確認した女将が頷く。

「空き室の有るシーズン限定と言う条件で構わないんですけれど、此の程度の金額で如何でしょうか?」

 梨恵は最初の数字に40%の数字を掛け合わせた。女将の柳眉が軽く寄る。金銭勘定となれば、互いに真剣勝負だ。何度か電卓をトントン叩いて、相手に液晶を見せ合う応酬が続いた。


 一方の俺は――と言えば、興国食糧に出社すると、まずは顧客からのメールをチェックして小麦粉の発注量を確認する。製麺所や個人経営のパン屋、お好み焼き屋。取引先は色々だ。

 ピザ屋のチェーン店やスーパーの場合、本部が傘下の店の注文を集約して製粉会社に一括発注するのだが、中小企業の場合は、食品卸が注文を取りまとめる。

 顧客の大半は個人商店なので、俺が発注内容を一々確認して、間違いや漏れが無いように万全を期す。

 俺は興国商事から出向した身なので肩書も部長代行だし、確認作業は俺の本来業務ではないのだが、末端業務を通じて興国食糧の業務を勉強している最中だった。

 インターネットで注文を受け付ければ効率的なのだが、肝腎の顧客が面倒臭がるのだ。職人気質の彼らの殆どはパソコンに慣れておらず、ようやく電子メールを使えるレベルだ。小麦粉の銘柄と数量を記しただけの素気そっけ無い電子メール。ファックスでの注文も多い。

 此の発注数量を拾っては受注集計システムに打ち込み、集計結果を過去のトレンドと比較して間違いや漏れに目を光らせる。非常に地道な作業だ。

 製粉会社に発注する際は、製粉会社のインターネット発注システムに興国食糧が入力する。不慣れな俺が発注ミスを起こせば大問題になるので、その作業はベテラン女性が遣っている。

 午後は顧客訪問の時間だ。商品メニューの改変を考える顧客の要望を聞き、製粉会社に相談して、相応しい配合の小麦粉を試してもらう。

 興国商事で働いていた20歳代は、数字だけで現実世界を把握できると驕っていた。ビジネスには地道な試行錯誤が大切なんだな、と出向してから初めて理解した。

 接待相手の多くは、複数店舗を営む個人経営者だ。新規出店を検討中の場合は、興国商事も巻き込んで相談に乗る。新規出店には、小麦粉だけでなく、貸店舗や調理設備に什器。色々と手配すべき事が噴出するからだ。

 俺の担当する顧客は数百社にのぼる。大票田の東京都に埼玉県と神奈川県加えたエリアが担当だ。その数百社に対して同様の業務を回すのだ。

 お陰で、麺類やパン類の隠れた名店に詳しくなった。腕の良い店主のレストランがグルメサイトに載っていないと、俺が第1号のくちコミ評価を投稿する。結構、これが顧客に喜ばれる。

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