2. 丑三つ時

 2012年、俺は世田谷区で中古マンションを購入した。丘陵地を削り取った土地に建つ8階建てマンションの3階が俺の住居だった。

 南向きのバルコニーからは小田急線の駅が遠目に見える。駅からマンションまで一直線に伸びた道路の駅側半分には商店街が軒を連ねている。丘陵地に建つマンションの視界を遮るものは何も無い。

 独身寮の退寮年齢まで残るは数年。いずれマンションを買うならばと、清水きよみずの舞台から飛び降りる様な決心をしたのだ。不動産の相場が反転する雰囲気は微塵も無かったが、一方で底割れする雰囲気も無かった。世田谷区であれば資産価値の劣化も大して気にする必要も無い。

 間取りは3LDK。独り身なので、その内の2部屋は使っておらず、物置ものおきと化している。1階にれっきとした倉庫が別にしつらえられているが、荷物を運ぶのも億劫なので、全く使っていない。

 俺の実質的な居住空間はリビング・ダイニングと寝室だけ。

 週末も含めて自炊はしないので、キッチンに備えた調理器具は薬缶やかんだけ。鍋釜なべかまの類は一切無い。電子レンジと冷蔵庫が有れば十分だ。

 出勤日ウィークデイの夜は接待かコンビニ弁当。週末はファミレスか駅前の小洒落た飲食店で食事を摂る。

 30歳を過ぎたばかりで、自分を若者と信じ続けたい年頃。新陳代謝の盛んな身体に甘えて脂濃あぶらっこい食事にも嫌気しないが、偶には駅前の小料理屋で和食を注文する。気侭きままな独身生活だった。

 俺のお気に入りの時間は深夜。微酔ほろよい加減の頭で帰宅し、シャワーを浴びたなら、冷蔵庫から取り出した缶ビールでゴクリと喉を潤す。バルコニーで夜風に当りながら、ぼんやりと住宅街の夜景を眺めるのが好きだった。毎晩こうやって、火照った頭と身体をクールダウンさせてベッドに潜り込む。

 2013年4月16日の深夜。正確には日付が変わって水曜日深夜の夜更けを、俺は普段通りに愉しんでいた。

 居間リビングの灯りはけていない。隣家も既に寝静まり、辺りは真っ暗だ。眼下の街灯だけが弱い光を放ち、時折、タクシーが寂しげに夜道を通り過ぎる。


 フっと視界の右端が明るくなった気がして、俺は頭を巡らせた。

 バルコニーの寝室側、俺の数メートル先の宙空に浮かんだ光のオブジェが朧気おぼろげに光を放っている。

 一見すると、丁の字。縦方向に2メートル弱、横方向は両手を広げた位の幅になりそうだが、右側の一端はマンションの外壁に吸い込まれている。丁の字の奥行きは1メートル強、太さは数センチ。あたかも交差した2枚の敷布団のごとしだ。

 俺は好奇心を抑え切れず、不思議な現象に唖然としながらも、光のオブジェに近寄って行った。

 縦方向に垂れた光の帯は、小さな擦過音をシャっと立てながら、左右に揺れている。間近に光の帯の中を覗いていると、女性の手が一瞬だけ見えた。

「えっ!」

 俺は思わず声を出して、後退あとじさる。同時に光の帯も動きを止める。意を決して、少し前屈みになり、もう一度そうっと光の帯を覗き込む。

 眼が合った!

「げっ!」

 動転して一歩引き下がる。向こうでも「キャっ!」と女性の小さな悲鳴が響いた様な気がする。時刻は午前2時を少し回った頃。丑三つ時だった。

――幽霊か? 未だ4月だぞ。しかも、幽霊がバルコニーに?――

 三度、光の帯に近付いた。自分を見詰める者は居ない。衣服と衣服の隙間が光の帯に見えたようだ。

――女性物のコートか?――

 尚も観察を続けていると、おずおずと覗き込む女性の顔が現れた。彼女は両眼を大きく見開いている。右手で自分の口元を隠していたが、唖然とした表情が一目瞭然だ。

「幽霊?」

 俺は首を横に振った。多分、俺も瞠目して表情を強張らせているだろう。

 それでいて、不思議と恐怖は感じない。まず、彼女の顔には怨念めいた表情が一切浮かんでいない。俺に「幽霊?」と尋ねる点も奇妙だ。

「君こそ、幽霊かい?」

 我ながら間抜けな質問だと思う。しかし、他の質問が思い浮かばない。彼女も首を横に振った。

「俺は、五十嵐健吾。君は?」

 俺は幽霊に自己紹介した初めての人間だろう。

「私の名前は、緒方梨恵」

 しばらくの間、俺達は互いの顔を無言で眺め合った。

 目鼻立ちのすっきり整った顔の造りに、黒目勝ちの瞳。柔らかそうな唇には口紅を控えめに塗っている。有体ありていに言えば、俺好みのタイプだ。

貴方あなた、押入の妖精か何か?」

――押入の妖精か・・・・・・。

 可愛いと言うか、洒落たコメントをする女性だな、と好意的な印象を抱いた俺は、

「いや、普通の人間だよ」と、意識して穏やかに答えた。

 彼女が「ちょっと待って」と、パイプに吊るしたハンガーを左右にサーっとらした。幅を広げた光る回廊の中に彼女の全身像が現れた。深酒して帰宅した途端、まずはコートだけを脱ぎました――と言わんばかりの無防備な立ち姿。

 着衣は薄いパステルカラーのスーツ。ジャケットの丸い襟首とボタンラインは紺色で縁取っている。

 肩の高さで切り揃えた髪の毛先は軽くウェーブしている。逆光で判然としないが、濃い茶色に染めているようだ。

 ほんのりと頬が紅い。こんな時間だから、髪の毛は少々乱れ気味。まぶたがトロンと重たそうだ。怪現象に遭遇した恐怖を酒気が鈍磨させたのだろう。

「やっぱり足が有るのね」

 得心とも懐疑とも区別が付かぬ口調で彼女がポツリと呟いた。

 俺の黒いシルクのパジャマは部屋の光を鈍く反射していた。でも、夜の闇に同化した身体よりも、ズボンの裾口から覗く素足の方が判別し易い筈だ。

「君は今、帰ったばっかりなの?」

 コクリと肯定の頷き。決して鮮明な映像ではない。現実よりも輝度が劣る故、余計に幻想的だ。

其方そっちは今、何時なの? 此方こっちは2時半少し前だけど」

「2時25分」。左腕を裏返し、時刻を確かめた上での短い回答。

「そうか。どうやら同じ時間みたいだね」

 彼女は受け身の反応に終始しており、俺の行動を待っているようだ。男の方がリードせねば――と、焦ってしまう。

「僕の事、怖いかい?」

 首を左右に振った勢いで毛先がフワリと持ち上がる。酔った女性特有の、幼女みたいに少し甘えた仕草だった。

「君の方に手を伸ばしても構わないかい?」

 承諾の頷きを確認した俺は、右のてのひらを上にして、ゆっくりと伸ばす。彼女も俺の掌に自分の指を添えようと伸ばし始める。

 2人の指先が触れそうになる。もう少し前に突き出す。

 でも・・・・・・、2人の右手が重なり合ったのに、何の感触も得られなかった。

 透けて見える彼女の右手の中で、俺は掌を裏返して下に向けた。王子様のキスを待っているように、差し出された右腕は微動だにしない。

「不思議だね」「不思議だわ」

 俺達は素直な感想を言い合った。

「僕の居る場所は世田谷区の住宅街。君の居る場所は?」

「私も世田谷区」

 続いて住所を教え合った。番地は微妙に異なるけれど、同じ場所のようだった。

其方そっちは君の家?」

「ええ」

「僕の方も自宅だ。今、自宅のバルコニーで夜風に当たっていたんだ」

「私は押入の前に立っているわ」

何時いつから、こんな状態だったのかしら?」

何時いつからだろう。僕は今日、初めて気が付いた」

「私も」

「此の光景は左右にもっと広がるんだろうか?

 僕の左手の方は3階の外だけど、右手の方はリビングだよ。君の方は?」

「少し待ってちょうだい」

 彼女はそう言うと、押入の襖を閉めた。バルコニーに普段と変わらぬ暗闇が戻る。直ぐに窓サッシの内側、殺風景な居間リビングに断片的な光の筋が差す。

 俺は部屋の中に戻った。彼女が、山積みの収納ケースを1つ取り除き、隙間から顔を覗かせた。

此方こっちも繋がっているみたいね」

「そうだね。此の現象・・・・・・如何どう思う?」

如何どうって・・・・・・。困っちゃうわ」

「困っちゃうの?」

「いいえ、違うの。困っちゃうけど、全然、困らないわ」

 何だかサッパリ分からない。兎に角、否定的ではないようだ。

「そう。それを聞いて安心したよ。

 僕は君と話せて少し興奮している。君と出会った事は大歓迎さ!」

「まあ、私も・・・・・・かな? ちょっとサプライズ過ぎるけど・・・・・・」

「ねえ、緒方さん。だったっけ?」

 彼女が頷く。

「緒方さんは未だシャワーを浴びてないんだろ? 早く浴びて来なよ。こんな時間だし・・・・・・」

「貴方は?」

「僕は此処で待つよ。直ぐには消えないと思うし・・・・・・」

「分かった。お言葉に甘えて、シャワーを浴びるわ。急いで戻るから」

 言い残した通り、再び彼女が現れたのは約30分後。女性の身繕いとしては超特急だ。

 白地に西瓜すいか柄のパジャマ。頭髪にはバスタオルを巻き、顔にはフェイスパックを貼っている。

「こんな格好で失礼だとは思うけど、初対面の男性に素顔を見せたくないので、許してね」

「別に構わないよ」

 本根では残念だったが、社交辞令で応じた。シャワーを浴びて、彼女も頭がスッキリしたようだ。

「改めて自己紹介するよ。僕は五十嵐健吾、32歳。

 興国商事のサラリーマンだ。毎日、大田区まで電車通勤している」

「私は緒方梨恵。旅行会社に勤めているわ。勤務地は新宿。

 年齢は・・・・・・、言いたくないわね。その替わり、誕生日は教えてあげる。1月25日よ」

「僕は8月27日生まれだ」

「五十嵐さんも明日、と言うか今日、仕事なんでしょ? 私、今夜はクタクタなの。もう寝ないと・・・・・・」

「そうだね。もう3時過ぎだからな」

 俺は彼女と別れたくなかった。怪現象に興奮している所為せいだ――とは思うが、ワクワクする感情は久しぶりだった。

「緒方さん。睡眠時間が短くて辛いけど、明日の朝、と言っても数時間後だけど、また出勤前に会わないか?」

「良いわ。そうしましょう。此の現象が続いていれば嬉しいけど・・・・・・」

「僕もだよ。それを願いつつ、お休み」

 俺は手を振り、サヨナラした。彼女も可愛く手を振り返すと、押入の襖を閉めた。


 体力に自信が有り、徹夜にも慣れている俺は、薄明るい5時半には起きて顔を洗い、髭を剃り、ワイシャツを着て、スーツに身を包んだ。出勤準備は万端だ。

 コーヒー入りのマグカップを片手にバルコニーへ出ると、手摺りに身体を凭れ掛けた。怪現象の生じた一画を眺め続ける。

 6時半を過ぎる頃、彼女が現れた。強い太陽光に掻き消されて、凄く薄い立体映像だ。

 隣家との境界を仕切るバルコニーの戸板が彼女と重なって見える。戸板――彼女の5メートルほど後方――にペイントされた“非常口”の黒い文字に邪魔されて、彼女の瞳が判然としない。

 綺麗に化粧を終えた風貌を十分に観賞できず、肩透かしを食った気分を味わう。

 俺は、屈んだり立ち上がったり、右に回り左に回って、全身像を眺め回した。彼女に接近した時には化粧の微香がほのかに鼻孔をくすぐる感じがしたが、気の所為せいかもしれない。

「嫌だわ、朝から。照れるじゃないの」

 軽く口を尖らせた後、照れ隠しに微笑んだ。昨夜同様、音声は明瞭だ。但し、地上から届く朝の喧騒が少し五月蝿うるさい。

貴方あなた、いつも朝はコーヒーだけ?」

「うん、何も食べない。接待が多いんだ。朝飯まで食べていたら、肥満体になっちゃうよ」

「あら。今でも少し肥満気味だけど。貴方、着膨れしちゃうのかしら?」

 俺はワイシャツ姿の上半身を見降ろした。左手でへその辺りを擦ってみる。

 そんな仕草に満足したのか、「冗談よ。貴方、格好良いわ。自信を持ちなさいよ」と、彼女は笑った。

揶揄からかったな」と、俺は少し怒った振りをする。

「ところで、君の朝食は?」

「そうだわ。コンビニで買ったパンを食べなきゃ。

 でも、もう、此の部屋に戻って来る余裕が無いわ。遅刻しそうだもの」

 彼女は、ジョギングするように足踏みし、自分の腕時計を指差した。

「そうだね。俺も出勤しなくちゃ・・・・・・。今夜も会えるよね?」

「ええ。私は8時頃には帰宅すると思うけど、貴方は?」

「俺は遅くなるよ。君、毎日、何時頃に寝るの?」

「12時頃かしら」

し、じゃあ、11時半に会おう。如何どう?」

「分かったわ。それじゃ、行ってらっしゃい」

「有り難う」


 上司の横で頭を下げ、接待相手を見送る。続いて、上司も別のタクシーを拾って乗り込んだ。道路脇で1人残された俺も大袈裟に両手を振ってタクシーを停めると、家路を急いだ。

 世田谷のマンションに到着すると、エントランスの自動ドアを潜り、エレベーターで3階のボタンを押す。エレベーターの扉が開き切る前に躍り出て、自宅に向かう渡り廊下を大股で歩く。

 俺の身長は約180センチ。今朝の彼女が指摘するまでもなく、大学時代にレスリングで鍛えた筋肉が脂肪に変わった負い目は感じている。

 はやる気持ちが、ドアノブに差し込む鍵を震わせる。ガチャガチャと解錠すると、頑丈な鋼鉄製の玄関ドアを力任せに引き開けた。

 居間リビングまで続く廊下の向こう、壁際からかすかな灯りが洩れている。テーブルの輪郭が薄く暗闇に浮かんで見えた。

――彼女が待っている!――

 俺は、靴を脱ぎ捨て、廊下を渡りながら抵牾もどかに脱いだ靴下を洗濯機に放り込む。

 居間の入口まで来ると、隠れんぼの鬼を警戒するように壁から首だけを出し、おぼろに発光する一画を覗き込んだ。

 西瓜すいか柄のパジャマを着た彼女が、広げた毛布の上に寝転がっていた。身体の輪郭もまた仄かに輝いている。

 俺は足音を忍ばせて進み、雑誌のページを繰る彼女を見下ろす感じで立ち止まる。J-POPの曲が小さく流れている。

 彼女がかたわらに置いたマグカップを口に運んだ。マグカップにも西瓜すいかが描かれている。

 悪戯子いたずらっこになった気持ちに駆られ、俺は小さく「こほん」と咳払いをしてみる。

 雑誌から顔を上げた彼女が俺を見て、「帰ったの?」と小さな声で問う。

 どうやら、俺の姿は未だ見えていないらしい。俺は必死に笑いを噛み殺した。

 俺は、再び雑誌に視線を落とした彼女を大きく迂回して、バルコニーの方に蟹歩きで移動した。

 窓のサッシを静かに開けると、夜風がカーテンを内側に揺らす。

 外の喧騒が部屋の中に入り込んでくる。喧騒と言っても住宅街だ。大した喧騒ではないが、時折、車のクラクションが遠くに聞こえる。それでも、J-POPの音楽に紛れてしまう。

 此方こっちのバルコニーの下から、猫が求愛の鳴き声を上げ始めた。そう、あの赤ん坊の泣き声にそっくりの鳴き声だ。これは彼女の耳にも届いたようだ。

 彼女が頬杖をしたまま、怪訝な表情で顔を上げる。でも、自分のアパートの外なの?――といぶかっているようだ。耳をそばだてているのがく分かる。

 また彼女を遠巻きにして戻り、今度は壁伝いで接近する。俺は、視界に入らないように注意して、左側から近付いた。

 彼女の直ぐ横まで歩み寄ると慎重に腰を降ろし、肘枕を衝いて横たわった。ヘアバンドで前髪を上げた横顔を左から眺める。

 未だ感付かれてはいない。俺は大きく深呼吸した。シャンプーの香りを感じる。今朝、嗅いだつもりになった化粧特有の甘美な微香は錯覚ではなかったのだ。

 光や音と比べると、臭いの伝達は儚く、相手が蜻蛉かげろうごとき異邦人だと再認識せざるを得ない。

 俺は静かに立ち上がり、バルコニー際の窓まで戻った。彼女を正面に見降ろし、今度は「えへん」と大きな咳払いをする。

 眼を凝らし、眉間にしわを寄せる彼女。

「帰って来たの?」

 こらええ切れずに俺は吹き出した。そして、夜風に揺れるカーテンを後ろ手に開けた。背後からの月光が俺のシルエットを浮び上がらせる。

 俺は腹を折って大笑いし、部屋の入口まで戻ると天井照明の電源スイッチを入れた。

如何どう? これで、僕の姿が見えたかい?」

 俺は大きな声――と言っても普通に会話する声――で質問した。

「見えないわ・・・・・・。フローリングの床が見えているだけ」

 彼女は頬杖に乗せた首を左右に振った。俺は「えっ?」と思った。彼女の頭とは1メートル強しか離れていない。俺は右足から1歩踏み出した。

如何どう?」

 首を左右に振って、俺の次なる行動を促す。

 俺は更にもう1歩、また右足から踏み出した。「あっ!」と彼女が驚嘆の小声を上げる。

貴方あなたの脚が見えたわ。両脚のくるぶしより少し上まで見える」

「俺の顔は?」

「全然見えないわ。両脚だけ」

 俺は3歩目を踏み出した。

「今度は胸まで見える」

 俺は膝を折って四つん這いになり、「全身が見える」と言われるまで前進した。

「ちゃんと貴方の顔が見えるわ。お帰りなさい」

「ただいま」

 膝立ちした俺は、てのひらを前に向けると、両手を耳の横まで上げた。学芸会でウサギ役を演じる子供が耳を澄ませる様な格好をする。

 そして、両手を徐々に上げて行く。「あぁ!」と小さな制止の声。

「今、右手の指が消え始めた。左手は未だ指先まで見えているけど・・・・・・」

 俺は両手を伸ばす作業を再開した。10センチ程の上昇で、彼女が再び「あっ!」と息を呑む。

「左手の指先も消え始めた。右手はもう、手首までしか見えないわ」

「どうやら、トンネルがつながっている空間は限られているみたいだな」

「トンネル?」

「ああ、トンネル。僕が考えた呼び名だけど、僕の世界と君の世界を繋いでいるから、トンネル。

 他に良い言葉があれば、其方そっちで構わないけど?」

「ううん。私はノーアイデア。トンネルね・・・・・・」

 彼女は口に出して“トンネル”の響きを吟味した。

「トンネルで良いんじゃない?」

「そのトンネルなんだけど、奥行は短そうだよ」

「じゃあ、私は今、如何どう見えているの?」

「お尻からの上半身が壁から生えている感じ。

 もしかして、太腿ふとももからの下半身は隣の部屋で見えるのかな? ちょっと見てくるよ。奥行を正確に図るから、両脚を伸ばしていてくれるかい?」

 俺は立ち上がると、急いで隣の寝室に向かった。

 寝室のドアを開ける。部屋の照明は点けずとも、廊下からの光が寝室の手前に差し込む。俺の影がベッドに伸びる。

 俺の影の向こう。窓際の壁から20センチ程度、微光を帯びた両脚が見えていた。く見ると、微妙に半透明。本当に妖精が居たら、こんな脚をしているのかもしれない。

 太腿の下半分、膝から先は消えている。彼女のパジャマはショートパンツ型で、裾からは数センチだけ素足の太腿が伸びている。

 俺は幻想的な両脚の脇に座り込み、少しの間、未知なる物の第一発見者が抱くであろう神妙な気持ちで観賞に耽った。

 僅かな素足の部分、膝の裏側に小さなホクロを発見した。大小2つのホクロが二連星の如く重なっており、遠目にはハートマークに見えなくもない。

 俺は生唾を飲み込むと、人差指を伸ばしてみた。西瓜すいかの種みたいなホクロを指先が透き通る。安堵と落胆の混濁した溜息が思わず出てしまう。

 何時いつまでも座視しているわけには行かない。待ち惚けを食っている彼女の元に俺は戻った。

「遅かったじゃない? 一体、何していたの?

 まさか・・・・・・私の脚をジロジロと見ていたんじゃないでしょうね?」

 胡坐を組んで座り込んだ俺に追及の矢を放つ。

「いや、違うよ。壁際に置いた収納箪笥を動かしていたんだよ」

 内心では肝を冷やしていたが、我ながらスラスラと並べた嘘に満足する。

「そうなの。それで、私の脚は見えたの?」

「うん。見えた。でも、太腿だけ。膝から先は消えているよ。その辺がトンネルの末端みたいだ」

 俺は「少し外すよ」と断りを入れ、物置ものおき状態の部屋に移動する。運良く探し当てた巻尺を手にして戻ると、彼女の背丈を測り始める。

「君・・・・・・確か、押入に頭を突っ込んでいるんだよね? 手を前に伸ばして、押入の奥行を教えてくれるかい?」

 彼女は少し匍匐ほふく前進した。両脚の膝までが姿を現す。そして、スーパーマンの様に両手を前に伸ばした。

「壁から1メートル40と言う感じだな。寝室で見えている部分が20センチ位だから・・・・・・、壁の厚さも含めると全部で1メートル70だな」

「ちょうど私の身長より少し長い位ね」

「へえ、君の身長は何センチ?」

「160センチ弱かな」

「それじゃあ、“ちょうど”と言う表現は少し変だね?」

 彼女は「あら、失礼しちゃうわね」と言って立ち上がった。膝立ちになった彼女は、両手を腰に当てると、今度は逆に俺を見下ろす。

 俺も立ち上がった。膝立ちの状態で互いに向き合う。

 身長180センチの俺と比べると、彼女の身長は顔1つ分だけ低い。顎を少し上げた彼女が俺を見詰めている。俺も彼女の瞳を見詰め返した。

 俺は両腕を伸ばし、彼女を包み込もうとしたが、空しく交差するだけだった。俺の顔には落胆の表情が浮かんだと思う。

 そんな俺を慰めるように、彼女が優しく言った。

「お帰りなさい。貴方の帰宅はもっと遅いんだと思っていたわ」

「君に1秒でも早く会いたかったからさ」

 素直に自分の気持ちを伝えた。俺の本音だったが、浮付いた戯言ざれごとだと彼女は解釈したようで、軽い鼻息で受け流した。

「その格好じゃ、未だシャワーを浴びてないんでしょう? 浴びて来なさいよ・・・・・・。待っているから」

 彼女は俺の胸を両手で押そうとしたが、その両腕も空しく宙を彷徨(さまよ)っただけだった。

 彼女の口元がキュっと締まった。ほんの僅かだけど・・・・・・。

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