音楽と朝食と庭のある暮らし
渡りに舟
ふと目を開けたとき、千津はまず自分があたたかい毛布に包まれているのに気がついた。心地よい肌触りに思わず毛布を手繰り寄せたが、我にかえって飛び起きた。
慌てて辺りを見回すと、部屋はすっかり夕暮れに染まっていた。正臣の姿はなく、足下ではセルジュが寝そべっている。
「……津久井さん?」
そっと呼びかけてみても、返事はなかった。その代わり、どこかから微かにピアノの音が聞こえてくる。
起き上がり、音楽のするほうへ向かった。玄関からリビングに伸びる短い廊下には左右に扉がある。左の部屋は、千津が倒れたときに寝かされていた部屋だった。だが、音楽は右手の扉の奥から聞こえてくる。
おそるおそるノックをすると、「どうぞ」という声が返ってきた。扉を開けた途端、音楽が大きくなり、同時に初めて見る光景が目に飛び込んできた。
彼女がまず目を奪われたのは、天井に渡された針金のようなものに引っかけて吊されたバイオリンだった。壁には工具がすぐ手に取れるようにかけられ、作業机の上に無数の瓶、筆記教具、筆が見える。
古びたアップライトピアノが隅に置いてあり、その傍に譜面台が一つ。流れている音楽は彼が演奏しているのではなく、棚の上に置かれたオーディオから流れていた。ソファにはバイオリンケースが無造作に積まれている。八畳ほどはありそうだが、物に溢れて手狭に見えた。正臣は机に向かって腰を下ろし、一挺のバイオリンを手にしている。
「おはよう」
正臣は微笑み、そっとバイオリンを作業机に置いた。
「すみません、寝ちゃったみたいで……」
顔を真っ赤にさせて、千津は項垂れた。正臣には失態ばかり見せている。だが、彼は快活に笑い飛ばした。
「いいんですよ。少し顔色も良くなりましたね」
「ありがとうございます。あの……それ、バイオリンですか?」
口にしてから、馬鹿なことを訊いたと悔いた。訊くまでもなく、目の前にあるのは艶やかなバイオリン以外の何ものでもない。
「えぇ。これは教室の生徒さんが使っている楽器なんですけどね、駒の調整をしていたところなんですよ。簡単なメンテナンスです」
「すごいですね。あのぶら下がってるのは?」
「あぁ、あれは作ったんです」
「すごい! バイオリンって作れるんですか」
「まぁ、いいバイオリンかどうかはおいて、作れますよ」
思わず感嘆した千津に、彼は頬を染めてバイオリンをケースにしまい出した。
「副業でバイオリン職人をしてるんです。出来のいいものはレッスンを始めたばかりの方にお試しでレンタルするんです。売れることもたまにはありますが、これで生活できるほどの腕前にはほど遠いですね」
「へぇ……私、初めてバイオリンをこんな間近で見ましたけど、綺麗ですね。教室もここなんですか?」
千津はうっとりとバイオリンを見上げた。ニスの美しい艶をまとい、柔らかい曲線を帯びた楽器は光り輝いて見えた。
「ええ。工房も兼ねているんで狭いんですけどね」
そう答えると、正臣は立ち上がって音楽を消し、部屋を出るように千津を促した。
「夕食ができてますよ。どうぞ」
「いえ、そこまでお世話になるわけにはいきません。もう帰ります」
慌ててそう言った千津に、彼はにっと唇をつり上げた。
「失礼ですが、帰るところはあるんですか?」
「へっ?」
「いえね、君が倒れたとき、賃貸情報の冊子がそばに落ちていたものですから」
きょとんとして、一気に記憶が蘇った。
「あぁ、えっと、あれは……」
口を開きかけたとき、ぽんぽんと背中を優しく叩かれる。それはまるで勇気づけるような仕草だった。
「これも何かの縁でしょうし、たまには誰かと食べるご飯もいいものですから、おつきあいください」
そう言うと、彼は千津をリビングのソファに座らせ、手際よく配膳し始めた。ランチョンマットにスプーンとフォークが並び、あらかじめ作っておいたらしいドライカレーにポテトサラダ、そしてスープが運ばれた。
「では、いただきます」
頭を垂れて手を合わせる正臣に、慌てて同じように「いただきます」と囁く。スパイスのきいたドライカレーは、千津の作るものより美味しかった。
なるほど、彼が言うように独り暮らしが長そうだと思いながら正臣を盗み見る。すると、彼が口を開いた。
「そうそう、これは慰めにはならないとは思うんですが」
「はい?」
「君は会社を辞めて正解だったかもしれませんね」
「どういう意味でしょう?」
「永井さんは告発文を送ったのは誰だと思います?」
「……わかりません。係長の奥さんが探偵でも雇ったんじゃないかとは思いましたけど」
「そうでしょうか。僕は社内の人間の仕業だと思います」
「どうしてそう思うんですか?」
千津の怪訝そうな顔を見た正臣は「僕は探偵じゃありませんし、証拠もないので確信はありませんが」と前置きしてからこう話し出した。
「告発文の文章なんですけれどね、『大野係長と永井千津』って言い方がひっかかります。外部の人間なら、大野係長も役職で呼ばずにフルネームで書くんじゃないかな」
正臣は静かに続ける。
「それに送付先も上司だったんでしょう? 部外者に君たちの上司が誰かなんてわかるわけありませんよ。人事部とか社長宛にするんじゃないかなぁ」
「社内の人間関係がわかっているってことですか?」
「恐らく。第一、掲示板に社員でもない人間が簡単に何かを貼れますか? すぐ噂になります。それに、奥さんなら大事にせず、夫にだけ写真を見せて問い詰めるんじゃないかな」
何故気付かなかったのか。ぽかんとしている千津をよそに、正臣が話を続ける。
「それに、問題はどうして君だったか、です」
「それは私も知りたいです」
思わず口を尖らせると、彼は首を横に振る。
「考えられるのは、あなたに執着に似た好意を寄せる人がいるか、逆に妬みや恨みを持っている人間がいるってことです」
「でも、どうして私一人が標的じゃなくて、大野係長まで?」
「新年会のとき、係長とのやりとりを見られた可能性が高いでしょうね。後ろ暗いところがあるのを利用されたんじゃないでしょうか。だって、まったく根も葉もない噂をたてられても、痛くもかゆくもないでしょう?」
「そうですね」
「君を好きなのに、係長に言い寄られているのを見てカッとなった。もしくは、大野係長を好きなのに、君に手を出すもんで嫉妬した。色々考えられますね」
「な、なるほど」
正臣は淡々とした口調で、「あくまで可能性ですけれど」と、念を押した。どうも、いたって慎重な性格らしい。
「それに、新年会でしか二人で会ってないというのに、うまいタイミングで写真を撮られてると思いませんか? 手を出したことをあとから知ったとしても、噂の種になるような写真を撮れた機会は新年会しかなかったんです。係長と君がいたところを見ていなかったら、係長との写真なんか撮ろうと思わないでしょう? それまでは何にもなかったんだから」
そして、ふっと一息ついてこう言った。
「まぁ、憶測ですがね、君を陥れたくて虎視眈々と機会を窺っていたならちょっと話は別だけど、係長を巻き添えにしているあたり、彼を好いている人がいるんじゃないかな」
「でも、もし係長を好きなら、こんな騒ぎにします? だってクビになるかもしれないのに」
「クビになるとしたら役職のない君のほうだと思ったんじゃないですか? 左遷くらいはあっても、実際に不倫関係じゃないんだから、彼は辞めないでしょう」
もっともだ。千津はむすっとしてポテトサラダに添えられたトマトにフォークを突き刺す。
「どのみち、そんな相手が社内にいて誰かわからないなら、離れて正解ですね。それに、君の退職を一度も引き止めないなんて、上司も会社も事なかれ主義というか、いまいち部下思いとは言えません」
「もし誰かが私を恨んでいるなら、まんまと思惑通りになったってわけですね。彼氏とも別れ、また後ろめたい過去が増え、散々です。浮気はお互い様だけど、アパートでされたらたまったもんじゃないわ」
すると、正臣が「あぁ」と声を漏らした。
「だから、賃貸情報を見てたんだ」
千津は苦笑し、頷く。
「仲は冷め切っていたけど、それでも思い出はいくらかあるから居られません」
ふっと沈黙が訪れ、千津は思わず俯いた。和哉の出て行く背中を思い出した途端、涙があふれ出た。
浮気相手の女性は自分とはまるで違う可愛らしいタイプだった。背も小さく、素直そうな子だった。ああいうものを求めていたのだと、見せつけられたような気がした。
正臣は何事かじっと考え込んでいたが、不意に千津を見据えた。
「ねぇ、永井さん、うちの隣に、この家と同じ間取りの平屋がもう一軒あるの知ってます?」
「いえ、気付かなかったです」
「生け垣で仕切られているんですが、両方とも親が残してくれた物件でして、隣はずっと空き家なんです」
「はぁ」
「それでね、もしよかったら、その物件を見てみませんか?」
「へっ?」
思いがけない言葉に口をぽかんと開けていると、彼はにっこり微笑む。
「いつまでも無人だと家も傷むのでね、そろそろ貸しだそうと思っていたんですよ。それに家賃収入は魅力的ですから」
「あの、ちなみにおいくらですか?」
「2LDK、庭付き、駐車場付き、ペット可、管理費込みでこの辺の相場だと五万二千円かな」
ペットを飼う予定はないし、一人には広すぎる気もする。だが、平屋で物音を気にする必要がないのは魅力だし、庭と駐車場付きというのもありがたい。そう迷ったのを見透かすように、正臣が口角をつり上げた。
「失業中は、セルジュの散歩と家事を手伝ってくれたら家賃タダでいいですよ」
「本当に?」
思わず千津の目が輝いた。渡りに舟とはこのことだ。
「えぇ。収入が落ち着いたら払っていただければ結構です。それに、実は僕、バイオリン作りに没頭しちゃうと時間を忘れちゃうんで、セルジュの散歩や餌の時間まで忘れちゃうときがあるんですよ」
正臣が申し訳なさそうにセルジュを見ると、彼は「くぅん」と小さく鳴いて前脚に顎を乗せた。
「自分のご飯は抜いてもいいけど、セルジュは可哀想ですから。それにボランティアの演奏が入ったりするので、しばらく忙しいんですよ。もっとも、君の仕事が見つかるまでということで」
「すごく魅力的な話なんですけど、どうしてそこまでしてくださるんですか?」
千津はすっかり小さくなりながら、彼を見つめた。
「ご迷惑をおかけしっぱなしなのに」
すると、正臣がふっと笑う。
「……いえね、これも何かの縁だと思って。なんだか放っておけなくてね」
千津が膝の上で両手をもみ合わせた。
「あの、じゃあ是非そうさせてください。それで、あの、もう充分図々しいとは思うんですけど、あつかましいお願いがあって……」
「はい?」
千津は顔を真っ赤にさせて、頭を下げた。
「今夜はこのソファで寝させてください! 私、布団がないんです」
「え、布団?」
きょとんとした正臣に、彼女はぼそぼそと答えた。
「彼氏が浮気したときに使った布団も枕も、カッとなって、全部捨ててきたんです。昨日は床に服を敷いて寝たんですけど、殆ど寝付けなくて……明日には新しい布団を買ってきますから!」
すると、正臣が声を上げて笑った。
「思い切りがいいことしますね! でも、その意気があれば君は大丈夫だな」
その言葉は千津の胸にすっと染みいった。もし他の誰かに『大丈夫』などと言われても反抗したかもしれない。だが、彼に言われると本当に大丈夫な気がしてくるのが不思議だった。
「永井さん、さっき寝たベッドを使ってください。僕は作業場のソファで寝ますから大丈夫ですよ」
「いえ、ソファで充分です」
「いいんですよ。それに寝室には鍵がかかりますから、そのほうが安心でしょう」
そう言われて、千津はつい苦笑した。無防備にも身の危険を感じていなかった自分に今更になって気がついたのだ。
若白髪と落ち着いた物腰のせいで、正臣がずいぶん年上に思えたからか、それとも態度が紳士的なせいか。油断していたが、彼も男だということなのだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
千津はおずおずと、彼の申し出通り寝室で鍵をかけて寝ることにした。そうしたほうが、正臣の気が楽になるように見受けられたのだ。
その後、千津はいったんアパートに戻ってシャワーを浴び、身の回りのものだけ抱えて平屋に戻った。ベッドに横になって、思わず小さく笑う。
なんて奇妙な縁だろう。出会って二日だが、不思議とずっと昔からここにいたような気がする。
同じ屋根の下に正臣とセルジュがいると思うと、独りではない安心感が心を軽くさせる。同棲していたときは彼氏と同じベッドに入っていても孤独を感じることすらあったことを思い出し、千津はぐっと目を閉じる。『別れるべくして別れたのだ』と、思おうとした。冷めていながら別れを切り出せなかったのは、独りになるのが怖かったからだ。だが、一緒にいても余計寂しかったのに、どうしてしがみついていたのか。今となっては自分でもわからなかった。
そのとき、正臣とセルジュの足音が作業場に向かい、静かに扉が閉まった。
沈黙の闇が訪れる。だが、その暗がりは怖くも重苦しくもなく、柔らかい毛布のように千津を包むのだった。
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