新しい呼び名
その日から数日、千津は慌ただしい日々を過ごした。
空き家には正臣の手配で清掃業者が入り、その間に千津はアパートを引き払う手続きに追われた。
新しいベッドと布団を購入し、運送業者を手配する。和哉と使っていたベッドと箪笥は見るのも辛く、迷わず大型ゴミに出した。住所変更の手続きで市役所や警察署に出向き、ライフラインを整えると、引っ越し作業は管理会社との立ち会いを控えるだけとなった。
そうして、正臣と出会って五日後には、空き家での新しい暮らしが始まったのだった。
千津の借りた平屋は正臣の家とまったく同じ間取りではあったが、庭の植物が少し違っていた。正臣の庭には花々が多く、芝生が敷き詰められている。一方、千津の庭は蝋梅やざくろといった樹木が多いようで、地面には小さな玉砂利が広がっていた。お互いの敷地は生け垣で仕切られているものの、一カ所だけ途切れ、煉瓦の小道で繋がっていた。
荷物を運び込んだ日、運送屋が帰って一息ついた千津は、庭に咲く蝋梅の花に気付いて、思わず微笑んだ。夏がくれば草むしりや水やりで大変だろうが、それでも庭で季節を感じ取るのは新鮮で嬉しかった。
千津の一日は劇的に変わった。
今までは仕事と家の往復で、休みの日もだらだらと寝るだけで終わっていたが、ここではまったく対極の生活が待っていた。
毎朝七時に起きると、身支度を調えて煉瓦の小道を辿る。
「セルジュ、おはよう」
正臣から預かっている合い鍵で中に入ると、セルジュは毎朝きちんと玄関で座って待っている。彼の主人は朝食を用意しているとみえて、食器の重なり合う音が聞こえてくるのだ。
「さぁ、行こうか」
千津はそっと玄関の扉を閉め、セルジュの朝の散歩に出かける。
この数日でわかったことだが、正臣の生活はまるで軍隊かと思うほど規則正しいものだ。彼は七時半に朝食を済ませると、作業場にこもってバイオリン製作に励む。そして九時から教室の生徒たちがやって来るのだが、レッスンはそれぞれきっちり一時間と決まっていた。
十二時になると正臣は昼食と読書のために一時間休憩し、一時から夜の七時までまたレッスンが入るのだ。
しかし、常に家にいるとは限らなかった。ときにはボランティアで演奏に出かけることもあるし、生徒の家に出張レッスンに行くこともあったが、基本的にはその生活パターンが保たれていた。レッスンがないときには、静かに音楽を聴きながら本を読んでいることが多かった。
千津はというと、朝の散歩を終えるとセルジュの脚を拭き、ブラッシングをして、餌を与える。扉の向こうから響く生徒たちの調子外れなバイオリンの音を聴きながら、リビングと庭、水回りの清掃をして、昼になるといったん家に戻るのだった。
午後は自分の時間を過ごすことになっていたが、夕方の六時になると、また正臣のところへ出向き、セルジュの夕方の散歩に行って餌をやる。
そして七時には彼のレッスンも終わり、お互いが仕事を終えるというサイクルだった。
「なんだか、津久井さんの生活って金太郎飴みたいですね」
ある日、千津がセルジュを撫でながら笑う。正臣もつられて笑いながら、目を細めた。
「スタンプみたいだって言われたことがあります」
彼の顔に何かを懐かしむような陰がよぎったのを、千津は見逃さなかった。
だが、誰に言われたのかは訊けなかった。正臣はすぐにその陰を追い払うように、目を背けてしまっていたのだ。
そんな日々が一週間も続くと、少しずつ正臣のことがわかってきた。
彼は四十五歳の独身で、一度も結婚したことがないらしい。顔立ちが上品なせいか、紳士的で若く見えた。自分より十九歳年上には見えないと繰り返す千津に、彼は照れくさそうにはにかんでいた。
普段は裸眼だが、読書のときだけは銀縁眼鏡をかけることも、昼食後に一本だけ煙草を吸う習慣があるのも、生徒の前では見せない姿のようだった。
正臣といると、まるで家族といるような安心感に包まれるのが不思議だった。だが、時々すべて見透かすような目が怖くなることもある。
自分のごたごたした過去を話してあるとはいえ、ねっとりと黒いものがへばりついた心のひだまで覗かれるような錯覚に陥るのだった。
だが、正臣は千津に対して必要以上に干渉しなかった。千津が来たからといって、自分の暮らしを変えることもなく、ただただ「そこにいてもいいよ」という雰囲気を醸し出しているのだ。それが千津にとっては楽なのだった。
金太郎飴のような毎日に初めて変化が訪れたのは、二週間が過ぎた頃だった。
正臣が作業場にこもっている間に、リビングの電話が鳴った。
何度もコールされるが、正臣は出る気配がない。どうしようかと迷ったが、仕方なく千津が受話器を手に取った。
「もしもし、津久井でございます」
ぎこちなくそう言うと、電話の向こうで女性の戸惑う声がした。
「……あ、あの、津久井バイオリン教室ですよね?」
バイオリン教室の生徒だろうか。千津はおずおずと「はい。先生は今、作業場にこもってるんです」と、答える。咄嗟に津久井を『先生』と呼んだのは、生徒に変な誤解されたくなかったからだった。電話の相手もその言葉で警戒を解いたらしく、一気に打ち解けた声になった。
「あぁ、それでは先生に伝言をお願いしてもいいですか?」
「えぇ、どうぞ」
千津は電話のそばにペンとメモ用紙があるのを見つけ、即座に手に取った。
すると、相手がこう名乗る。
「私、ナガイと申しますが、レッスンをちょっと延期したいんです。のちほどまたお電話しますとお伝えください」
「わかりました」
自分と同じ苗字に思わず笑みを浮かべ、千津は電話を切った。
その後、正臣と顔を合わせたのは、お昼になってからだった。
「あの、津久井さん」
千津が恐る恐る口を開いた。
「伝言があるんですけど」
「なんでしょう?」
きょとんとした正臣に、千津は電話の内容を話す。すると、彼は「うぅん」と小さく唸って、苦笑した。
「実は僕の生徒さんにはナガイさんが二人いるんですよ。どちらも主婦の方なんですけどね」
「え? そうなんですか?」
思わず目を丸くした千津に、彼はメモ用紙に三つの苗字を書いた。
「長居さん、長井さん、それに君も永井さんですね」
「うわ、じゃあ、どっちのナガイさんかわからないですね。ごめんなさい」
しゅんとなった千津に、慌てて正臣が「いえいえ」と首を振る。
「大丈夫ですよ、どちらのナガイさんにもすぐに連絡とれますから。それより……」
ふと、彼が少しはにかみながらこう言う。
「ナガイさんが多くて混乱するのは確かなんで、君のことは千津さんとお呼びしてもいいですか? 生徒さんはさすがに名前では呼べないんで」
「えっ、あ、はい」
千津が何度も頷くと、彼は少年のように、無邪気に微笑んだ。
「僕のことも名前で呼んでいいですよ」
「えっと……正臣さん、ですか?」
千津は口に出したものの、すぐにふっと笑った。
「私は『先生』って呼ぶことにします。もし生徒さんたちに会っても、生徒の一人って思ってもらえますもんね。女性が家に出入りしてるなんて噂になったら困るでしょう?」
「噂になってもここでは告発文はきませんよ。お互い独身ですしね」
悪戯っぽく笑う正臣に、千津は口を尖らせた。
「もう、冗談はやめてくださいよ。噂はこりごりなんです!」
そして、二人で声を上げて笑う。千津は笑いながら、こんな風に告発文のことを冗談にできる自分に驚いてもいた。
「……えっと、先生」
「なんでしょう?」
まだ少し笑っている正臣に、千津は微笑んだ。
「ありがとう」
彼は何も答えなかった。ただ、そっと目を細めて穏やかに微笑むだけだった。
翌朝、千津がいつものように七時にセルジュのところへ行くと、ちょうど正臣が部屋から出てくるところだった。
「おはようございます、千津さん」
「おはようございます。……先生」
はにかみながら応えると、千津は「じゃあ、いってきます」とセルジュを連れて散歩へ出ていく。
朝の空気の中、頬が火照っているのが自分でもわかった。呼び方が変わっただけで、彼との距離が近づいた気がして、照れくさかった。
「お前の主人は人なつっこいね」
思わずセルジュに話しかけるが、彼は舌を出しながら歩き続けるだけだった。
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