終わりを間違えなければ
しばらくして、千津ははらはらと落ちる涙を拭きながら、ぽつりぽつりと事情を話し始めた。
正臣は口を挟むことなく、スツールに腰を下ろして静かに聞き入っている。
気がつけば千津はすべてを打ち明けていた。告発文や退職、恋人との別れだけではなく、根無し草のような過去と中川とのことまで話してしまっていた。正臣にはそうさせてしまう不思議な魅力があった。
友人にも話せないような後ろめたいことだ。本当なら見ず知らずの男に話すようなことではない。そう思いながらも、するすると口から言葉が出て行くのを止められずにいた。正臣の目が、すがってもいいよと言っている気がしたのだ。
本当は誰かに話したくて仕方なかったのかもしれない。話しながら、千津は頭のどこかで他人事のように考えていた。打ち明けたところで何の解決にもならないし、自分の薄汚れた姿をさらけ出すだけなのだが、独りでこの重さを抱えるのに疲れ果てていた。
話を終えた千津は、何も言わない正臣を見て、初めて気まずそうな顔をした。じっと聞いてくれたことがありがたいと思う反面、何を言われるか怖くなる。
「……私、どうしていつも流されちゃうんだろう」
ふっと自嘲し、彼女は俯いた。
「やっぱり始まりを間違えたからでしょうか」
それを聞いていた正臣は「ふぅん」と唸り、自分のマグカップをテーブルに置いた。
「始まりを間違えても終わりを間違えなければいいんだから、君は大丈夫だよ」
思わず顔を上げると、正臣がすっと千津の手からマグカップを取って微笑む。
「熱いのをいれ直してあげよう」
彼がキッチンに消えると、やかんを火にかける音がした。千津は明るい庭に目をやる。煉瓦を敷いた小道が伸び、色とりどりの植木鉢が見えた。冬のせいか花も葉もなく枝ばかりだが、植物があちこちに植えられているようだ。ガーデニングには詳しくないものの、まるでイギリスの片田舎のような雰囲気を感じ取った。きっともう少し温かい季節になれば、色んな花が咲くのだろう。
ガラスを通して当たる日差しは温かく、心地よい。独りで見た光はナイフのように鋭かったのに、今はまるで毛布に包まれているようだ。
「不思議……」
思わず呟き、千津はソファにもたれた。正臣とセルジュのいる空間では、思い切り呼吸ができる気がした。ここにいていいんだと思わせる安堵感が漂っている。心を見透かすような彼の目を見ていると、建前も強がりも意味をなさないようだった。
ここはまるで時間の流れの違う別次元だ。告発文のことも、会社のことも、そして中川とのことも遠い昔のように思えた。
けれど、一歩外に出れば、あの日常に逆戻り。おまけに、アパートに戻ることが憂鬱だった。必ず彼のことを思い出すのだから。
それでも、千津の心は少し軽くなっていた。正臣の言うように眩しい光を浴びて生まれ変わったとまでは思えないが、光を心地よいと感じる自分が少しは健やかに思えて安堵した。
出会ったばかりで、おまけに大迷惑をかけた相手なのに、何故だろう。
そう考えながら、千津はゆっくりと目を閉じた。瞼が重く、意識が次第に遠のく。キッチンから漂ってくるコーヒーの匂いを感じながら、そういえばこの一週間、気力体力ともに疲れていたのだと思い出した。
「永井さん、さっきの話だけど……」
コーヒーを手に戻ってきた正臣はそう話しかけたが、ふっと口をつぐんで苦笑する。千津はソファにもたれて眠っていた。
彼は毛布を千津の華奢な体にかけてやる。そして床にあぐらをかくと、コーヒーをすすりながら、千津の顔をまじまじと見つめた。
細く面長の顔に幾筋かの栗色の髪が垂れ落ちている。とびきりの美人というわけではないが、端正な顔立ちで儚げな魅力を備えていた。今はあどけない寝顔をしているが、起きているときの千津は顔を伏せがちで物憂げに見える。その目許がどこか陰を帯びて彼女をミステリアスに仕上げているように思えた。
「……参ったなぁ。ねぇ、セルジュ。この子はあの人に少し似ていると思わないかい?」
犬は返事の代わりに黙って彼にすりよる。明るい色の被毛の感触に、正臣は目を細めた。
「始まりを間違えた女か。耳が痛いね」
その声はぽつりと漂い、眩しい日差しの中で溶けて消えた。
彼は千津を残し、自分の部屋に戻る。オーディオにヘッドフォンをつないで、再生ボタンを押した。流れてきたのは、ゆったりとしたサティの『グノシエンヌ第一番』だった。
どこかミステリアスで心がわざつく旋律に、彼はため息を漏らす。
「終わりを間違えなければいいか。僕が言えた義理じゃないのに偉そうにね」
そう独り言を漏らすと、彼は何かをぬぐい去るように顔をこすって固く目を閉じたのだった。
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