出会い

 目を覚ますと、時計は翌朝の九時を指すところだった。ひどい二日酔いで頭が重く、胸がむかむかする。ほんの数時間とはいえ、床の上で寝たせいか体中が軋んでたまらなかった。疲れはちっともとれてないし、おまけに瞼が重い。


 よろよろと立ち上がり、水を飲むと、熱いシャワーを浴びた。念入りにマッサージしても腫れ上がった瞼が元に戻るのはしばらくかかりそうだった。

 ぼうっとした頭が冴えてくるにつれ、心が重くなる。まるで酸素不足の金魚が喘ぐように、彼女は天井を見上げた。ゆっくりと口が開き、言葉が漏れそうになる。


 誰か……助けて。


 だが、その一言は声にならなかった。四方の壁が迫ってくるような圧迫感に耐えきれず、千津はアパートを飛び出して、あてもなく歩き出した。


 思い出が多すぎるアパートにはいられない。でも、どこに行けばいいのかわからない。いや、ここでないのなら、どこでもいい。そう考え、千津は駅に向かって歩き出した。駅前に不動産屋があるのを思い出したのだ。


 不動産屋に着くと、ガラス窓に貼られた物件をしばらく眺める。引っ越したい衝動にかられたが、連帯保証人のことを考えると、両親に会うのが躊躇われた。

 心配性の両親に無職になった上に引っ越したいなどと言ったら、何事かと騒がれるに違いない。彼女は置いてあった無料の賃貸情報冊子を手にして踵を返した。


 高架沿いに五分ほど歩くと、平屋の一軒家の前を通りがかった。生け垣の向こうには小さいながらも趣味のいい庭がある。入り口には『津久井バイオリン教室』と書かれた看板があった。


「へぇ、知らなかった。こんなところにバイオリン教室があったんだ」


 千津が思わず立ち止まったときだった。突然の目眩が襲い、血の気が引いていった。

 貧血だ。そう思った途端、視界はブラックアウトした。


 それからしばらくして、千津の目に飛び込んできたのは、白い枕とシーツだった。

 思わず起き上がって辺りを見回す。ベッドに横になっていたが、衣服はそのままだ。六畳ほどの部屋で、壁には立派な本棚があった。落ち着いた黒檀色の机の上に自分の荷物が置いてあった。机のそばにある小さな窓から眩しい光が射し込んでいる。


「ここ、どこ?」


 思わず呟いて、顔をしかめた。後頭部に鈍い痛みがある。


「あぁ、倒れたのか……」


 バッグの中からスマートフォンを取りだして時間を見ると、十時を過ぎたところだった。思ったほど時間はたっていなかった。


 おそるおそる扉を開けて部屋を出ると、小さな廊下があった。左側には玄関があり、正面には別の扉があるのを見つけた。右側を見ると、そちらは扉ではなく焦げ茶色のフリンジカーテンが掛けられてあり、奥に続いているらしい。


 そのときだった。パタパタと足音がしたかと思うと、フリンジカーテンの向こうから大きな犬が尻尾を振って駆け寄ってきた。人なつこい顔をしたゴールデン・レトリバーで、大きな舌を出して忙しなく千津の前をうろうろし始める。


「……可愛い」


 思わず微笑んで、そっと滑らかな額を撫でたときだった。


「セルジュ、驚かせちゃいけないよ」


 低い、穏やかな声が響いた。顔を上げると、一人の男が立っていた。

 彼は温和そうな顔立ちに静かな笑みを浮かべていた。体つきは痩せていて、どこか学者のような落ち着きを持っている。こめかみの辺りに白いものがあり、四十代後半かと思われる顔つきだった。


「具合はどう? 君、うちの前で倒れていたんだよ」


 それを聞いた千津は咄嗟に頭を下げた。


「すみません! ご迷惑をおかけしたみたいで……」


 恥ずかしさがこみあげ、顔が赤くなった。それを見た男がふっと目を細める。


「リビングでお茶でもどうぞ」


「え、あの、でも……」


 戸惑う千津に、ゴールデン・レトリバーが擦り寄っている。


「セルジュも『君さえよければ、ゆっくりしろ』って言っているよ。それに、まだ少し顔色が悪い。どのみち、タクシーを呼んでも少し時間がかかるだろうからね」


「はぁ……」


 首をすぼめてカーテンをくぐると、すぐに明るいリビングに出た。右手にテレビとテーブル、二人掛けのソファがある。突き当たりの壁には大きなガラス戸があり、そこから庭に出られるようになっているようだった。


「お茶は何が好き?」


 そう言いながら、男は対面キッチンに向かう。


「あの、じゃあコーヒーを……」


「ミルクと砂糖は?」


「いえ、ブラックで」


「了解。ソファに座っててください」


 言われるままに腰を下ろすと、セルジュと呼ばれていた犬が足下にぺたりと座り込んだ。優しく撫でていると、すぐに男がコーヒーをテーブルにそっと置く。


「ありがとうございます。あの、自己紹介が遅れましたが、私、永井千津といいます。このたびは本当にすみませんでした」


 深く頭を下げた千津に、男は「いえいえ」と目を細めた。


「僕は津久井正臣つくいまさおみです。音楽教室でバイオリンを教えています」


 言われてみれば音楽家のようだと、千津が頷く。彼はどこか繊細な雰囲気を漂わせていた。


「傷がなかったのが不幸中の幸いだね。救急車を呼ぼうか焦っちゃったけど、ぐっすり寝ていたようだからそっとしておいたんだ」


「すみません……」


 すっかり縮み上がる千津に、彼は静かに笑った。


「もう気にしないで。それに、今日はレッスンをキャンセルされて手持ち無沙汰だったんだ。一緒にお茶を飲む相手がいてよかったよ」


 正臣のいれてくれたコーヒーはコクがあり、味わい深かった。いつも会社の給湯室で用意するものとは香りの立ち方が雲泥の差だ。

 いつも噂話で盛り上がっていた給湯室は、会社にいる間は苦手だった。なのに、今となっては懐かしく思えるのだから、不思議なものだ。もう会社に行かなくていいんだと気づくと、自分が糸の切れた凧のように心許なく思えた。

 正臣がそんな千津の顔をのぞき込むようにして訊ねる。


「君、ちゃんとご飯食べてる?」


「えっ?」


 思わず顔を上げた千津に、彼は肩をすくめる。


「血色が悪いし、少しやつれて見えるから」


「実は……ここのところ、食欲がなくて」


 告発文のことを思い出し、項垂れる。すると、正臣が静かに口を開いた。


「じゃあ、いい機会だ。ここで朝日を浴びて、ゆっくり味わっていくといいよ。とはいっても、もう朝日というには日が高いけど」


「いえ、そんなわけには!」


 慌てて腰を浮かせた千津に、彼は微笑む。


「今日は作り過ぎちゃってね。食べていってくれるとこちらも助かるんだよ」


 正臣は座るように手で示すと、キッチンに戻って手早く料理の支度を始めた。


「男の一人暮らしも長くなると料理の腕だってなかなかのものになるんですよ」


 そう冗談めいた声とともに、卵がじゅわっとフライパンで踊る音がした。

 やがて目の前にこんがりキツネ色に焼けたトースト、ジャムとバター、小さなオムレツとミニトマト、千切りにしたニンジンのサラダが並ぶ。


「いたってありふれた朝食ですが、どうぞ」


「……いただきます」


 千津はゆっくりとバターに手を伸ばし、トーストに塗り始めた。正臣はキッチンからスツールを持ってくると、千津の傍らでのんびりコーヒーを飲み始めた。

 トーストは厚めで、中はふんわりしていた。オムレツの中にはチーズが入っている。白い湯気が日光に浮かんで光っているのが綺麗だった。


「朝ご飯、久しぶりです。すごく美味しい」


 思わず言うと、正臣が嬉しそうににっこりした。


「朝日は栄養満点だからね」


「どういう意味ですか?」


「眩しい光を浴びると、生まれ変わった気にならない? 朝日は心の栄養になるんだよ」


 そう言う正臣こそ朝日よりも眩しく見えて、千津は思わず目を細めて笑ってしまった。


「……前向きなんですね」


「あ、初めて笑ったね。よかった。もう朝日が効いたかな」


 ふと、足下にいたセルジュが千津の膝に前脚をぽんと乗せる。


「セルジュはずいぶんあなたを気に入ったらしいですね。永井さんさえよければ遊んでやってください。彼は僕以外の人間とあまり接する機会もないので嬉しいんでしょう」


 その瞬間だった。ぽたりと、千津の目から涙がこぼれ落ち、堰を切ったように、はらはらと流れ出て頬を伝う。正臣の静かな声、膝に感じるセルジュのあたたかい重み、口の中で余韻を残すオムレツの味、そういったものが、どこかで張り詰めていたものをするすると緩めてしまった。


「あんまり口に出すべきじゃないかなとは思っていたんですけれど」


 正臣はそう切り出すと、遠慮がちに千津の顔を見つめた。


「……永井さん、もしかしてずっと泣いていたんじゃないですか?」


 瞼が腫れて人相が変わっていることを思い出し、千津が赤面する。


「何かあったんですね」


 それは同情でも好奇心でもない、ただただすとんと落ちるような声だった。それを聞いた途端、千津の中で何かが弾けた。彼女はまるで子どものように声を上げて泣きじゃくったのだった。

 セルジュは心配そうな顔で千津の足下に寄り添った。その温もりが、かえって千津の涙を誘ってたまらなかった。

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