裏切り
スマートフォンを取り出し、画面を見る。
恋人の和哉から連絡はなかった。彼も仕事が遅かったのだろうか。もしかして、中川とのことを勘づいていたらどうしようか。そう思ったものの、思わず首を横に振った。最近の彼は、普段から千津のことなど見ていない。会社での揉め事で落ち込んでいることすら、ちっとも気付いていないのだ。
アパートに着くと、駐車場に彼の車が停まっているのが見えた。和哉を起こさないように、そっと鍵を開けて中に入る。
「え?」
思わず声が漏れた。玄関に自分のものではないヒールの靴があったのだ。
心臓が大きな音をたて、頭に血が上る。まさかと思いながらも、恐る恐るリビングに入る。テーブルの上には食べかけのお菓子や缶ビール、ジュースのボトルがそのまま置かれていた。
ゆっくりと寝室をのぞいた瞬間、息が出来なかった。
一つしかないベッドの布団から四本の足がはみ出ている。寄り添うように横たわっているのは和哉と見知らぬ女性で、二人とも裸だった。
「何してんのよ!」
悲痛な叫び声に、ベッドの二人が飛び起きた。寝起きの彼は目を丸くし、言葉を失っている。女は「やだ!」と小さく漏らし、慌てて服を身につけ始めた。
千津の唇がわなわなと震えた。言いたいことは山ほどあった。だが、頭が真っ白で言葉が喉でつかえて出てこない。
冷たい態度から、浮気しているかもしれないと思ったことはある。だがよりにもよって、自分のベッドに他の女を連れ込むなんて、あまりにひどすぎる。
その一方で、自分自身の後ろめたさから、思い切りなじることもできなかった。自分だって、中川と一夜限りとはいえセックスをしてきたのだ。
「千津、あのな……」
弁解しかけた彼を睨めつけ、千津は震える声で言った。
「……出て行って」
それ以上、言葉にならなかった。いや、何か口にすれば止められなくなる気がする。
彼は黙ってそんな千津を見ていたが、申し訳なさそうな顔はすぐに怒りに満ちていき、開き直った表情に変わった。
「わかったよ。ちょうどよかった。いつ別れようかって思ってたんだ。手間が省けた」
彼は荒々しく箪笥の引き出しを開け、中身をバッグに丸ごと突っ込みだした。その引き出しは、彼の私物を入れていくスペースで、服や貴重品が入っていた。
彼はバッグを肩にさげると、うろたえる浮気相手の手を引いて玄関へ向かった。そして扉を閉める間際、千津に冷たい一声を放った。
「他の荷物は捨てていいから」
派手な音をたてて、扉は閉ざされた。車のエンジン音が鳴り、やがて遠ざかる。
千津は乱れたベッドに駆け寄ると、布団をビニール紐で縛り上げ、まとめあげた。取り乱しながら、彼のひげ剃り道具、歯ブラシ、干したままの服、そしてシーツと枕を乱暴にゴミ袋に突っ込んだ。
テーブルに置かれた灰皿には千津の吸わない煙草の吸い殻が山盛りになっている。それも捨てようとして、思わず手が止まる。彼の吸っている煙草の吸い殻の他に、見知らぬ細い煙草も混ざっていて、フィルターには口紅がべったりついていた。千津はきつく唇を噛み、灰皿ごとゴミ袋に詰めてしまった。
ゴミ捨て場にすべてのゴミ袋を乱暴に放り出すと、部屋に戻った彼女はその場に崩れ落ちた。がらんとした部屋が朝の空気で寒々しい。けれど、心はもっと冷たく、そして氷のように砕け散っていた。
窓からの朝日が惨めな自分を射す。いつもだったら心地よいはずの爽やかさが、今はただただ痛かった。
それから彼女はリビングの床にへたりこんだまま、しばらく声を上げて泣いた。呼吸が苦しくなって咳き込む。そしてまたぼたぼたと涙をこぼし、嗚咽を漏らす。
涙はするすると流れ出るが、泣き叫ぶほどの体力がもうない。しばらくしてから鏡を覗き込むと、すっかり人相の変わった自分がいた。会社に行かなくて済むことだけが、不幸中の幸いだった。
身も心もぐったりとし、横になりたかった。だが、二人が寝ていたベッドで眠る気にはなれなかった。部屋が狭くなるからと、ソファを買わずにいたことを恨めしく思いながら、彼女はありったけの衣類をリビングに広げ、そこに身を横たえた。床が固くて痛いものの、汚らわしく思えて仕方ないベッドよりはマシだった。
「せめて車があればそこで寝れたのに」
思わず独り言を漏らす。アパートの駐車場は和哉が使っていたため、彼女の車は実家に置きっぱなしなのだ。実家まで徒歩二十分。歩いて取りに行ってもいいが、両親に泣き腫らした目を見られるのが嫌だった。
「あぁ、もう」
彼女は顔を両手で覆い、呻いた。あのとき、彼を思いきりなじることが出来たなら、少しはすっきりしたのだろうか。
けれど、自分だって同じ穴の狢だと思うと、何も言えなかった。愛情が冷めていたのも裏切りもお互い様なのに、彼女の心は打ちのめされていた。
狭いアパートの空間だけが、この世のすべてのような気がした。職も失い、恋人も失った。中川にすがることは許されない。友人に洗いざらい打ち明けてしまえば心が軽くなるのかとも思ったが、誰がこんな重い話を聞きたがるだろう。第一、自分も悪いことは自分が一番承知しているのだ。
千津はその日、泣いては咳き込み、呆然としてまた泣き出すのを繰り返した。いてもたってもいられず、戸棚からウイスキーのボトルを取り出すと、氷も入れずにマグカップで飲み出した。ちっとも酔えず、そのくせ飲まずにはいられなかった。
だが、とうとう限界に達し、トイレでえんえん吐いた。ぐったりと床に寝転んだときには、外で新聞配達の音が聞こえていた。そうして彼女は、ようやく浅い眠りについたのだった。
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